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宿

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ベルザイオ王国の北西に位置する領地の宿に大きな男が現れた。肥満体型で顔の片側を髪で隠した険しい顔の男は食事と一晩の宿代、湯の金を払い部屋に入った。 


「角部屋だが声は抑えろ」

 マントのボタンを外しながら伝えるとエルマリアが頷きながら手を伸ばし俺の膨らんだ頬を押して笑う。 

「ふふ、変な顔」

 侯爵家にいた頃は常に同じ微笑みを張り付けていたエルマリアの顔からその微笑みが見られなくなった。笑うときは少し白い歯を見せて目尻をもっと垂らす。 

「ザザ、下りるわ」

 未だ縛り付けたままのエルマリアの頭を撫でると首を傾げて俺を見る。そんな仕草も子供染みて別人のようだ。 

「先に湯を頼んだ」 

「なら座って。ザザ、ずっと私を抱いたままよ…疲れていない?」

 エルマリアは俺に疲れていないか何度も聞く。山を越える間も、夜中に目覚めて移動中と知ったときも… 

「ああ」 

こう言えば信じられないとエルマリアの顔が言う。 

首都の裏路地を歩いてから抱き上げて、エルマリアを下ろすときは飯や眠るときだけだった。山中では足場の悪さが理由だったが、人がいる場所では二人連れと記憶に残さずに通過するために下ろしていない。 

「…体は痛まないか?」

 半日以上、俺に固定されている。それを二月続けているからかお前は軽くなった。 

「慣れたわ」 

「痛かったのか?」 

「耐えると言ったわ…捕まらないためにこうして一人旅を装っているのでしょう?」

 そうだが、お前に痛みを感じてほしくない。 

「ここから北へ…目的地へ向かう」 

「ええ」

 廊下の足音にマントのボタンを直して寝台に座り、湯が運び終わるまで地図を見てやり過ごす。 扉が閉まり足音が遠ざかるまで耳を澄まして待ち、再びマントのボタンを外して布をほどきエルマリアを床に下ろすとふらついた。また抱き上げて寝台に運ぶと紫の瞳が俺を睨んでいた。その瞳を見ながら頬に詰めた布を出し、マントを脱ぐ。 

「なんだかこのまま歩けなくなりそうよ」 

「そうなったら俺が運ぶ」 

「ふふ、ずっと?」 

「ああ」 

エルマリア、その顔の意味はなんだ?嫌なのか? 黙ったエルマリアのシャツのボタンを外し、トラウザーズの腰紐を緩めて脱がすと身をよじった。 

「一人で脱げるわ」 

ドレスじゃないからな…そんなことはわかっているが… 

「ああ」

 俺がしたいんだ。 俺の手を遮ろうとするか弱い腕を無視して下着を取り払い、抱き上げて浴室へ向かう。何か言いたそうな視線は合わせず湯に入れる。 首都を出てから湯は二回目だ。湯に浸かればほころぶあの顔が見たかったがエルマリアは固く口を結んだまま、何も言わない。 

「…湯は好きだろ」

 簡単に結った髪をほどくと金色の髪が湯に落ちた。 

「…そうね」

 エルマリアは侯爵家でしていたように縁に頭を乗せずに膝を抱えて丸まった。その背が俺を拒絶しているように見えるのは気のせいなのか? 

どんな言葉をかけていいのかわからず、泡を作って髪をずらし肩やうなじに乗せる。 湯の出す音と淡い燭台の灯りが俺の胸を苦しくさせる。侯爵家では浴室でくつろいでいた…こんなに固くはなかった。 

「…どうした?」

 戻りたいと言われても戻せない。 

「エルマリア」 

「ザザ…疲れていない?」

 また同じことを言うか。 

「…疲れた」

 エルマリアの体が動き湯が波打つ。疲れていないと言ってもお前が何度も聞くならほしい答えはこっちだろ。 

「…髪を切るわ」 

「なぜそうなる?」 

「カインみたいに少年になるの。そうしたらザザと兄弟に見えるでしょう?男と女の二人連れには見えないわ」 

「駄目だ」

 俺の言葉にエルマリアが反応した。振り向いた顔は歪んでいる。 

「カインはもともと少年だ」 

「でも…」 

「エルマリア、お前の乳房は大きい…顔も立派な女だ…少年にはなれない」 

「ふふっ、立派な女ってなに…ザザ…冗談じゃないの」

 冗談など言った覚えはない。 

「お前がどんなに変装しようとわかる」 

「じゃあ!…どうするの…」 

「何を考えている?」

 歪んだり睨んだり笑ったり…今は困ったような顔をする…これがお前なのかと思うと胸が痛んで叫びたくなる。 激情のまま小さな顔を掴んで口を合わせ舌を入れると驚いたように体が跳ねた。 

「ザ…ん…」

 こんな衝動ははじめて感じる…お前が嫌だと言っても止められない。 逃げているのか追っているのか翻弄されているのか…エルマリアの舌は心地よく俺の舌に絡まる。伝わる唾液は甘く、何度も吸っては飲み込んだ。 離した顔は赤くなり紫の瞳は涙を流している。 

「…あ…主に…こんなことしないわ…ハウンドは侯爵にしていないの…ザザ…あの…えっと…」

 意味のわからないことを言うエルマリアのあわてふためく顔が俺の胸を熱くさせる。 

「…しているかもしれないだろ」 

「ザザ!」

 声を抑えろと言った俺の言葉を思い出したように手のひらで口を押さえる姿も… 

「歩きたいのか?」

 この美しい髪を切り落としても変装してやりたいことはそれくらいしか思い付かない。握った金色は柔らかく、輝きを放つように見える。 

「…疲れたって言ったわ…」

 俺が疲れたからってなんだっていうんだ。働く側は倒れるまで働くものだろ。 

「お前が気にすることはない」 

「気にするの…私…何も知らない…火も起こせないしウサギも狩れない…どんな草が食べられるのかも…」 

「お前は貴族令嬢だ、知らなくて当然だろ」 

「もう…違うわ」

 火の起こしかたや狩りを覚えたいと言っているのか?一人で生きていくためか? 

腹から沸き上がる感情が抑えきれずエルマリアの頭を掴んで顔を近づける。 見開かれた紫の瞳が震えている。 

「なんだ?それを覚えて俺からも自由になると言いたいのか?」

 エルマリアに対してこれほど低く冷たい声音で話したことはなかった。 

「違うの…ザザ…」 

「何が違う?」

 鼻が触れるほど近くでエルマリアを睨む。 

「ザザが…倒れてしまうわ…私では抱き上げられないもの…」

 紫の瞳から止めどなく涙が落ちていく。怖がらせたか? 

「俺は倒れない」

 どんなに過酷な労働でも倒れたことなどない。 

「そんなの…わからないじゃない…二月…休んでないのよ?」

 休みなどない日々を生きてきたことをお前は知らないか。 

「私にはザザしか…頼れる人が…いない…誰も…信じられないし…」 

「ああ」

 シモンズが探しているなら誰かを雇っても売られてしまうな。

「心配なの」 

「エルマリア」 

「なに?」 

「エルマリア」

 俺を案じて涙を流したのか?俺は心配などされたことはない。この胸の熱さはなんだ? 

「なに?ザザ」 

「エルマリア」

 頭を放し、ねじれた体勢のエルマリアの体に腕を巻き付け抱き締める。 

「エルマリア」

 つけた泡を頬で拭い白い肩に唇を落とし強く吸えば体が揺れた。 

「…二晩泊まるか」 

「休むの?無理していた?」

 無理はしていない…まだ限界ではないが…お前が安心するんだろう?お前は俺を信じている、そして心配している。 

「エルマリア」

 俺はお前から離れないと決めた…死ぬまでな。 

「私と金貨を持って歩いていたんだもの…疲れていると思ったのよ」 

「…ああ…エルマリア」

 お前の名を口にする度、腰がうずいて腹の底が温かくなる。 

「ザザ」 

ガダードが順繰りに付けたこの名もお前に呼ばれると悪くないと思う。



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