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ジュノとディーゼル

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かれこれ半時は真夜中の廊下の壁に凭れている。バックはすでに自室で寝ているだろうし、使用人もほとんどが下がった。そろそろ開くだろう扉を見つめてひたすら待つ。 

「…どうだ?」

 静かに開いた扉からジュノが音を立てずに通り閉める。 

「熟睡されています」 

「そうか」 

「…私も下がらせてもらいます」

 ジュノは母上の部屋に寝台を運び入れて寝ていたが泣くことが少なくなったことで自室を与えた。母上の呼び出しが聞こえる目の前の部屋だが… 静かに自室に戻るジュノの背に続き共に入る。 

「ディーゼル様…?」 

「話せるだろ?」

 無表情のジュノは部屋に入った俺をちらと見てから答えずにソファに腰を下ろした。 隣に座る雰囲気ではなく対面に座る。 

「食事量も増えた…ありがとう…ジュノ」 

「いいえ」

 母上の願いに迷うことなくゾルダークを離れたジュノには少し驚いた。 

「…いいのか…?」

 情けないほど小さい声が出た。ジュノに届いていないかもしれない。母上は落ち着いてきた…クレアの婚姻式がきっかけだったのか笑顔が増えた。 

「…ゾ…ゾルダークに…」

 戻らなくていいのか?レオンからはジュノの意思を尊重しろと言われている。ジュノは昔のように弱くはないと…自由に生きていけるだけの財はあるんだと…行く先のない孤児ではない。王都から出て好きな土地へ行ける…数多の選択肢のなかから選ぶことができる。 

「まだこちらにいます」

 ジュノの言葉にうつむいていた顔を上げる。 

「…そうか」

 ゾルダーク邸の狭間で逢い引きをしていたときのほうが近かった。ジュノだって俺に身を寄せ…狭い空間だったからだが…ディーター邸に戻ったジュノはゾルダークで会っていたときよりも表情がない。母上の前では優しく微笑むが俺の前では過去に戻ったかのように固まる。今だってそうだ。薄暗くてもわかる…唇が固く閉じている。 

「…必要なものはないか?」

 情けない…こんなことしか言えない。もっと気の効いたことが言えないのか…昔からそうだ…キャスやクレアには軽口を叩けるがジュノにはできない。 

「必要なものは十分あります」

 知っているが…会話が…いざ…自邸に戻せてもな…お前の嫌がることはしたくない。なんて考えすぎてなにもできないんだ。情けない。 

「クレア様の婚姻式のドレス…ありがとうございました」 

「ああ…もう少し着飾ってもよかったと俺は思ったがな…遠慮したんだろ?」 

「相応しい衣装…というものがあります。でも首飾りは頂きました」 

ほんの小さな石だが…透明に輝くダイヤを贈った。慎ましいほど存在が薄い石…これなら受け取ってくれるかと随分悩んだ。 

「ああ…似合っていた…お前の顔は地味だが整っているから…なんでも似合う」

 褒めたつもりだが睨んでいるのか?ディーターを離れる前もこうしてよく睨まれたな…懐かしい。 

「昔…俺がお前の頭に花弁を乗せたろ?そのときもそんな顔して俺を睨んでいた」 

「睨んでおりません。感情を隠しているのです」 

「俺に対して隠さなくていいだろ」 

「…ディーゼル様は侯爵家の嫡男…孤児の私が近づくことさえできない人でした」

 ああ…そうだ。今や侯爵家一の有力家門だ。 

「今は…こんなに近いが…な…」

 触れることもできない。 

「私はディーゼル様を知っています。意地悪で小言が多くて…臆病…面倒は避けて見て見ぬふり」 

その通りだからなにも言えん。 

「私が行くと言うまで待ってくれと言ったことも忘れたようですし」 

「忘れてない。この状況だぞ?お前の意思に反してないかと…不安なんだ」

 父上の死は再びディーターを悲しみに落とした。母上の嘆きようがジュノを戻したなら… 

「人生には岐路があります…ソルマノ様に乞われたとき…自分に対して…お嬢様に対して言い訳ができました。心が…体が…ディーターに戻ると…戻ってもいいかと」 

「ジュノ…ゾルダークに戻らないのか…?」 

「ディーゼル様が戻れと言うなら戻ります」 

「そんなことを言うか!」

 思わず立ち上がった俺にジュノは笑う。 

「ふふ、ならばディーターにいます」

 俺は机を回りジュノの前に跪く。姿勢よく座るジュノの膝に置かれた拳を両手で包む。 

「お前を第二夫人にするなんて大胆なことはできない…今はユアンが…意味を成さないが侯爵夫人…いつでも離縁できるが…」 

どんな茶会を催しているのか把握している。ユアンはディーターの名で茶会を開いているんだからな。まだ遊びと言えるものだが麻薬に手を出せば…いつ手を出すかわからんほど危うい。 

「第二夫人など断ります。貴族の生き方など知りませんし世話をしていたほうが楽です」 

「ああ…ジュノ、俺はお前を諦めない」 

「はい。それはもう聞きました」 

「こうして近くにいてくれ」 

「はい。ここで誰かと幸せになります」

 なに…? 

「ジュノ…なんて言った?」 

「誰かと」 

俺は思わずジュノの口を手のひらで覆う。 

「そんなことを考えていたのか…知らなかった…ゾルダークでも相手を見つけなかったのに…ジュノ…」

 ジュノは子供にするように俺の頭を優しく叩く。 

「お前が何を言い出すか怖いぞ」

 離せない。もう一度同じことを言われたら…怒りに呑み込まれそうだ。一方的に想うくせに…その想いを押しつけて…なんて自分勝手なんだと理解しているが…しているが… ジュノが口を覆う俺の手を掴んで離した。 

「私の足の腱を切って閉じ込めますか?」

「なに言ってる?お前の嫌がることなどできない。お前が血を流すところを想像するだけで…」

 手が震える。 

「ふふふ」 

「笑える話じゃないぞ」 

「ディーゼル様は…普通で…人間らしい…」 

「褒めているのか?」

 普通の人間って…褒められていないよな? 

「私の理解できる人だということです」 

「ジュノ、意味がわからん」

 俺を受け入れてくれるのか?くれないのか? 

「お前が…普通の幸せを願うなら俺は…俺は…俺…」

 ジュノを見ていられなくてうつむき座る膝にすがる。いやがる様子は伝わらない。 

「無理だ…お前が他の…もう…無理だ…苦しい…そんなことを想像するだけ…で…胸が痛い」

 視界が歪む…いい年をして涙が溢れる。俺に足の腱を切るほどの覚悟があるのかと聞くのか? 

「ディーゼル様、そう乞われては…離れられません」

 俺は醜いだろう顔を上げる。ジュノの慈悲深い顔を見る。乞えば離れないでくれるか?同情してくれるか?想いが長すぎて…俺は… 

「離れないでくれ…夫婦にはなれないが…お前を全力で守る…浮気もしない…娼館も行かない」

 あ…余計なことを…言った気がするぞ… 

「娼館はな…当主の付き合いでな…」

 表情が消えた…口を閉ざしてしまった…乞わねば! 

「ジュノ…頼む…俺は…つらい時期に多少荒れた…お前は戻らないし…戻す手段もなかった…ジュノ!」

 俺は感極まり再び膝に突っ伏す。沈黙が続くなかジュノの手が優しく俺の頭を撫でる。離してなるものか…この距離までやっと…やっと… 

「私は…怒っていません。男性にはいろいろあると理解しています…ディーゼル様は普通です…そこに安心します」

 ジュノ…なに言ってる?



 お嬢様…お嬢様の指示に背いていますか?

 レオン様は幸せになるほうを選んでいいと、それがお嬢様の指示だと言ってくれました。合っていますか?お嬢様とは長い間…共に過ごしましたが、心からの笑顔は旦那様の隣で初めて見ました。私は…お嬢様の選択になにも言えなかった…少し…旦那様を恨みました…それほど私の記憶にはお嬢様がいます。今も心の中に存在します。若く美しいまま… 

「お嬢様の教師が貴族男性の嗜みの一つに娼館があると…欲を発散させるための場所…そこに心はないと」 

「ああ…そうだ」

 情けない顔をするディーゼル様に愛おしさを感じるのはなぜでしょうか?お嬢様…いつまでもお嬢様に尋ねてしまう…癖のようになっている。 

「私を抱くのですか?」

 困ったような嬉しいような悲しいような…なんともいえない顔をするディーゼル様に頬が緩む。 

「…いいのか?」 

「私は…貴族令嬢のように純潔を重んじていません」

 私の言葉にディーゼル様の顔が歪んだ。貴族家で働く平民は女も男も貞操観念は薄いもの。主の見ていない場所で交わる…ディーターではそんな現場に遭遇したこともある。夫婦でなくても恋人でなくても遊びで交わる。 

「私の年をご存じでしょう?」

 四十も近い年になっている。 

「泣かなくても」

 ディーゼル様はこんなに泣く人なんだと新しい一面を見つけた。涙を払ったら手を掴まれた。 

「…嫉妬はする…が…それは過去だろう?今はそんな相手…いないだろう?」

 不安そうな顔をしている。私がソルマノ様に乞われたからといってもこうしてディーターを選んだのに。 

「残念ながら、仕事が忙しくそんな暇はありませんでした」 

お嬢様はゾルダークへ越すまでディーゼル様を警戒して私を離さなかった… 

「ジュノ…いないのか?過去に…」

「はい。なので面倒です」

 この年で経験がないとは男性は面倒に感じると思っていた。嬉しそうなディーゼル様の顔を見るまでは… 

「面倒なんてことない…そんな…ことない…ジュノ…」 

ディーゼル様は顔を近づけてくる。 

「ソルマノ様は私たちに任せると」

 恩を感じてならディーゼル様を受け入れなくていいと言ってくれた。 

「こうして…暗いなかを会いに来てください」

 再び顔が近づき唇が合う。ディーゼル様は普通の人だ…旦那様のような激しさがなくてよかった。私は最後まで旦那様が怖かった。あの怖い顔は慣れなかった。 

「口づけも初めてか…?」 

「それは孤児院時代にしました」

 自分は娼館で遊んだくせに私の過去の口づけだけで口を曲げるディーゼル様に笑いがこみ上げる。 

「ふふふ」 

そして私が笑うだけで幸せそうな顔をするディーゼル様…それを見て嬉しいと感じるのは幸せですよね?お嬢様。


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