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エイヴァ・レグルス

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辺境の日が暮れるのは早い。速度を落として進む馬車の中を小さな燭台が照らしている。俺は腕に抱いている目覚めた婚約者の背を撫でながら宥める。

「カルヴァ様は必ず君に会うと言っていたよ。約束する。ちゃんと会えるよ」

しゃくりあげながら泣く幼子は俺の服を掴み、ぐしぐしと泣いている。

「カル…カル…さよならをいえなかったの…カル」

「カルヴァ殿下と仲がいいんだね、とても愛しそうに君を撫でていたよ」

カルヴァ・レグルスが去ってから、ゾルダークの騎士と共にリード辺境を発った。日は傾きすぐに暮れるとわかっていても、レグルスの近くに留まる選択はしなかった。

「今夜は夜営をするんだ。したことはあるかな?」

「やえい?おいしい?」

赤く張らした目元から涙を流し俺を見上げる紅眼に微笑む。

「おいし…くはないよ。建物で眠らずに森の中で眠るんだ。君は俺と馬車の中で眠る…ここ…足を下ろしている場所には工夫がしてあってね、板を上げて平らにして敷き綿を広げて…寝台の出来上がり」

「ここでねるの?」

「そうだよ」

「カルはいないのに?」

「うん。俺はレオン・ゾルダーク。君の…エイヴァの婚約者だよ」

大きな紅眼が涙に濡れて俺を見つめる。

「こんやくしゃ…わたしとこんいんするレオン・ゾルダーク」

教えられていたか。

「くろいひとみとこんいろのかみ」

「ははっそうだよ。シーヴァ様から聞いたのかな?」

顔を振って違うと言った。

「カル」

「そうか。エイヴァ、俺は君を守る。ゾルダークが君を守る」

「かあさまたちには…もうあえないの…」

たち…シーヴァ様の後宮は穏やかな場所と聞いている。その通りのようだ。

「うん。難しいね…でも、字を覚えれば手紙は送れるよ?紙でお話はできる」

「かみで?いいの?」

いいの?か…もう連絡すらできないと言い含められていたのかもしれないな。

「いいよ。母様に話したいこともあるだろう?ここに留めておいて…エイヴァが字を覚えたら一緒に書くよ」

俺は亜麻色の頭を撫でながら伝える。

「やくそく」

「ああ、約束」

そのとき馬車の動きが止まった。森に入り夜営をする場に着いたんだろう。

「お腹空いた?」

さっきから小さな腹が可愛い音を鳴らしている。

「うん」

「すぐに食事の用意が始まる。俺とここで待つんだ」

「レオンと」

「そう、レオンと」

カルヴァ・レグルスは隠すように後宮からエイヴァを出しただろう。国境までの道程はどれ程のものだったか…この子に疲れは見えないが、興奮していてわからないだけかもしれない。涙に濡れた頬を手のひらで包む。少し体温が高いが、幼子とはそういうものか。

「寒い?」

「ううん」

「食事の後は体を拭いて新しい服に着替えよう」

念のためクレアが三つから五つの年の服を持ってきた。四つの年の服で合いそうだ。
懐からハンカチを出しエイヴァの頬を優しく押さえて涙を吸わせていると、誰かが馬車の扉を叩いた。エイヴァは驚き小さな体を跳ねさせる。

「驚いたね。怖いなら俺の体で顔を隠していて」

亜麻色の頭を撫でると頷き、俺の言う通りに顔を隠した。

「なんだ?」

「レオン様、準備が整いました」

ザックの声にわかったと返事をする。

「エイヴァ、食事にしよう。俺とここで食べるかい?それとも外へ出てみる?」

「そと?」

「そう、ここは森の中だよ。木がたくさんある」

紅眼を隠すために後宮の、それも世話をする使用人もごく僅かな中で暮らしていただろう。庭ぐらいは出ただろうが、森には驚くかもしれない。

「エイヴァ、怖かったらそう言って。俺には感じたままを言っていいんだ」

「レオン…だっこしてて」

「いいよ。じゃあ行こうか」

俺はエイヴァを抱え直し、開かれた扉から外へ出る。焚き火が数か所作られ、荷馬車に積んでいた机と椅子が出されて炎に照らされている。腕の中のエイヴァは興味を引かれたように周りを見回している。

「怖くない?」

「うん」

エイヴァを抱いたまま椅子に腰を下ろし食事を待つ。足音を消して近づいたギィが現れ、空いた椅子に座った。突然現れた大きな男にエイヴァは驚き、俺の胸に顔を隠した。

「ギィ、驚くよ。エイヴァが怖がってる」

「ははっすまんすまん。おい子供、紅眼を見せてくれ」

四つの子になんて言い方を…俺はエイヴァの背を優しく叩き怖くないと伝える。

「エイヴァ、驚いたね。この男は俺達を守る男だよ。とても大きくて強いんだ」

そう言っても俺の服を掴み顔は隠したままだ。

「ギィ、警戒は?」

俺は指を回し、周囲に敵がいなかったのかと尋ねる。

「上と下、騎士を配置してる。誰もいないが獣はいる」

「何か捕ったの?」

「ああ、兎をいくつかな」

ギィの言葉にエイヴァが反応する。顔を動かし紅眼が俺を見上げる。

「うさぎ?」

「…そうだよ。大きなおじさんは兎と遊んだらしい」

兎を知っていたか。今から食べると聞いては怖がってしまうかもしれない。

「きっとうま…」

ギィに向かって手を伸ばし、余計なことを言う口を覆う。

「兎を知っているんだね?物語かな?本物を見たの?」

「おはなしなの。かあさまがおはなししてくれたの」

「そうか、他にはどんな動物を知っているの?」

「んーはねのあるうま…こわいくま…」

「邸に着いたら俺がエイヴァにお話を読むよ。エイヴァ、ゆっくり後ろを見てごらん。おじさんの髪は何色か俺に教えて?」

俺はギィから手を離し、指でエイヴァの頬をつつく。エイヴァはゆっくりと振り返りギィを見ている。ギィはエイヴァを真面目な顔で見つめている。俺は口角を上げて笑えとギィに伝える。

「ふむ、シーヴァ・レグルスと同じ紅眼だ。ははっ細くないな、つまらん」

俺の願いは伝わらなかったらしい。

「ぎんいろ、めもぎんいろ」

「そうだよ。見たことない色だろ?」

「おかおのきず…たくさん…いたい?」

「はははっもう痛くないがな。ここ、頬の傷は熊にやられた。額は馬車から落ちてな。格好いいだろう?」

ギィは自慢げに傷痕を指差し説明している。エイヴァは再び俺の胸に顔を隠した。

「おじさん…こわくない?」

エイヴァは俺の胸に顔をつけて呟くからくすぐったい。

「怖くないよ。とても強いけど俺には逆らえないからね。心配はいらない」

「レオンのほうがつよい…?」

俺より先にギィが笑いだした。

「はははっそうだな!レオンは怒ると怖いからな!俺の酒を隠すから怒らせることはできん!はははっ」

エイヴァは俺を見上げている。俺は微笑み亜麻色の髪を撫でる。

「声も体も態度も大きなギィだよ」

「ギィ…」

そうだよ、と囁きながら並べられた食事を小さく切り分けていく。柔らかく煮込んだ兎肉を匙に載せエイヴァの口にあてると、小さな赤い唇が匙を咥え、もぐもぐと食べている。昔見た懐かしい光景に胸の奥が掴まれたように痛むが、すぐに消えていく。

「おいしい」

「だろ!うまいよな、うさ……うまいな!」



食事を終えて馬車の中でエイヴァの体を拭い、夜着に着替えさせる。俺も自分の体を拭い、敷き綿を広げる。

「寝台ができた。エイヴァ、眠れるかな?」

カルヴァ・レグルスはエイヴァを眠らせてから体に縛りつけたろう。昼間に寝た子は眠れるか。

「レオンと」

「そう、レオンと」

「はじめて」

はじめて…?誰かと共に眠ることは初めてなのか。

「エイヴァは馬車で寝るのははじめてだね。おいで」

俺は敷き綿の上に寝転び、座るエイヴァを手招く。隣に眠るかと思っていたが、俺の上に乗った。俺の胸に頭を乗せて楽しそうに足をばたつかせる。

「レオン」

「なんだい?」

「もうこわいひと…つかまえにこない?」

追われていたことは理解しているようだ。

「捕まえに来るかもしれない。でもエイヴァを怖い人には渡さない。エイヴァは俺の側で生きていく」

「やくそく」

三つ編みをほどいた亜麻色の髪が動き、俺を見つめる紅眼が笑んだ。

「ああ、約束。エイヴァ、これから向かうゾルダーク邸は君の家になる。邸内は自由に動いていい。遊び学び…成長して…俺の側でね」

「うさぎもいる?」

「ははっ兎か。ゾルダーク邸にはいないけどいつか探しに行こう」

ゾルダーク領には兎がいる。皆で行きたい。狭い、とても狭い後宮の一部がエイヴァの全てだったろう。テオとクレアも共に行けばきっと楽しい。あの邸の庭を燭台で照らしてエイヴァに俺の好きな景色を見せよう。俺は燭台の蝋燭を消して掛け布を手探りで探し、エイヴァごと覆う。

「おやすみ、エイヴァ」

「おやすみ、レオン」


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