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王都
しおりを挟むシャルマイノス王国王都の空を珍しく暗い雲が覆っていた。湿った風が頬を撫でる。
「降るぞ」
「ふふ、だからボーマはついてこなかったのね」
日差しが遮られた花園をクレアと並び歩いている。
「辺境は遠くて鳥は運べないのよね」
「ああ、レディント辺境ならばゾルダーク領を経由できるがな」
クレアは色を変えていく花垣をぼんやりと見ながら歩いている。レオを想っていると俺にはわかる。
「心配するな。ゾルダークの騎士は強いと知っているだろ」
「ええ…でも…会えないのは寂しいの」
クレアは閉ざされたゾルダーク邸でいつものように過ごしていた。笑顔を絶やさず穏やかにしていたが、俺と二人だけのときは本音が出る。レオがゾルダーク邸を発ちすでに八日を過ぎた。何も起きていなければ今は辺境にいる。
「クレア…」
そのとき、俺の頬に滴が落ちた。クレアを片腕で抱き上げ、羽織った薄いコートの中に仕舞い四阿へ足早に向かう。予定されていなかった花園の散歩に四阿にはソーマもノアも待機せず、飲み物の用意もなかった。コートを開きクレアを椅子に座らせる。
「驚くわ」
「濡れたら風邪を引くだろ」
「ふふ…テオが濡れてる。きて」
クレアの前に跪き、懐から出されたハンカチで大人しく拭かれる。
「ハンカチ…できたか?」
「家紋はできたの。深緑の糸でニックの名を入れておしまいよ。喜ぶ?」
「ああ、寒くないか?」
雨が土や花園を濡らし、温度を下げた。俺はコートを脱ぎクレアを持ち上げ包み、膝の上に乗せる。
「辺境も雨かしら」
「さあな…遠いからな…違うだろ」
「そうね…テオ…学園にも行かないの?」
「ああ、もともと毎日通ってないしな。門は開けない…が…ルーカスに手紙でも書くか?」
腕の中でクレアが顔を上げて見つめる。
「いいの?」
「ああ、外に王国騎士団の騎士がいる。それに頼む」
それでクレアの気が紛れるといい。レオがいないと心がこんなにも落ち着かなくなる。
「嬉しい!オリヴィアと陛下にも……ふふ…騎士団の人をそんなに使えないわよね、ふふっ」
「陛下へ渡す手紙はルーカスに託せばいい」
「そうね!貴族院で会ったら渡してとお願いするわ…ふふっ」
ルーカスの話になると途端に雰囲気を変えたな。
「ルーカス……好きか?」
笑んでいた顔は弧を消した。黒と空色の瞳が真剣な様子で見上げている。
「好き…だって嫁ぐのよ?嫌いな人に嫁がない…私…嫌いな人っていないわ」
「ははっ一人もいないか」
クレアは四阿から見える景色に視線を移して考える。
「…いないわ…苦手な人もいない…引きこもりの弊害だわ」
「くく…弊害なんて言葉をどこで学ぶ。これから…こいつは嫌だと思うこともある」
「そうかしら?アダム王太子さえ嫌いとか苦手って感じなかったのよ?テオはアダム王太子が嫌い?」
お前は奴に対してなんの感情も湧かないんだろ。どうでもいい存在だということだ。エゼキエルはどうだと聞くことは止めるか。
「ああ。奴は死んでいい」
「ふふふ…酷い」
「お前が嫌いだと思うような人間はどんな奴だろうな」
大切に囲い育てられたクレアは、他人の悪意や敵意に直接触れたことはなかった。
「気に食わない奴もいないか?」
「気に食わない?……ディーゼル伯父様」
「ははっもうお前を小さいとからかわんぞ。レオが注意したからな。クレア、お前が可愛くて言ってただけだ…背丈のことは気にするな…エレノアに越されても…」
クレアは俺の胸を叩く。
「もう!まだこれくらいは勝ってるの!…この前オリヴィアが教えてくれたの」
親指と人差し指でエレノアとの差を見せ、目尻を上げて伝えるクレアの額に口を落とす。
「勝負なのか?ははっ……クレア、ルーカスはお前の背丈を気にしてない」
「わかってるわよ…ルーカス様は優しいし…私を想ってくれてるわ」
クレアは俺の胸に耳をつける。
「…高鳴って喜びが溢れる…私を想って軋むってルーカス様は言っていたの」
「そうか」
「テオの鼓動は穏やかで安心するわ。ふふ…眠くなってしまうのよね…テオ…ゾルダークを離れることは不安よ…ハインス邸は…ハインス邸には私を嫌う人がいるかもしれない」
「サラ・ハインスか?その伯母はハインス領だ。ルーカスは戻さんだろ」
「会うことはあるでしょう?テオ…誰かが私を嫌ったとしても…攻撃しては駄目よ?」
「お前を傷つける奴は許さん」
「もう…守りすぎよ。ねえ…私が不安なのはね…私を守ろうと余計な人を攻撃するかもしれないテオとレオよ。私はそんなに弱くないわ、多分。遠回しな嫌みは微笑みでかわして、直接的な言葉には笑顔で対応する。格下の人なら非常識を許さないわ。次の夜会が楽しみ…ドレスを踏まれるかも…ふふ」
「呆れるぞ」
「ね?私は案外弱くないわ。力は弱いけど心は簡単に傷つかない…あ…雨が…止んだわ」
見下ろす黒い瞳を四阿の入り口に向ける。色を変えた土に日差しが僅かに当たっていた。
「通り雨だったな、靴が汚れる。もう少しここにいる」
「ん…眠くなっちゃう…あふ…」
当たり前のようにこうして過ごす日々はどのくらい残っているのか。胸が高鳴るか…よくわからんな。俺はこの穏やかな温もりがあればいいがな。腕の中で寝息をたて始めたクレアを抱え直し、俺の体で包むように外界から隠す。
「ルーカスがゾルダーク邸に越せばいいのにな」
こればかりはゾルダークの力を持ってしても無理だと理解しているが…なんとかならないか気晴らしに策があるか考えるか。
「ルーカス様、何故読まないのです?」
執務机に置かれた手紙を見つめる。ゾルダークの印で封をされた手紙にはクレア・ゾルダークと書いてある。
「初めてなんだ」
だから…読むのが勿体ない。読むけども…
手を伸ばし、封蝋を割り中から手紙を引き出す。大切にゆっくりと彼女の文字を追う。僕が思うに、彼女はとても素直で好奇心が溢れ、純粋な人だ。文面からもそれが伝わる。
僕の知る令嬢達は階級に分かれて群れ、格下を見下し、気に入らない者を見つけては粗を探して陰口を囁く。学園に通っているときはそれが普通と思っていた。男爵程度の格下は見下すもの…取るに足らない卑しい出自。貴族家でも貧富の差がある…それを持ち上げ悪辣なことを言う世界。醜い顔をして囁いていたのに、金髪碧眼を前にすると途端に媚びる。そこに優越感を抱いていたのは事実だ。今思い出しても恥ずかしい過去だ。だが、彼女は純粋に育てられた。公爵令嬢は誰からも見下されることはないだろうが、社交を始めれば誰かの陰口を囁く場に身を置くことになる。そのとき彼女はどうなる?どう染まる?
「ルーカス様、難しいお顔ですな。悲しい手紙ですか?」
ブルーノの声に思考が途切れる。
「いや、僕に会える日を楽しみに待っていると…いつかハインス邸にも行きたいと」
婚約を披露したなら互いの家に行くことが通例だ。
「ブルーノ、使用人の様子は?」
騎士団対決の日までハインス邸の者にも秘していた婚約は邸の者に動揺を与えたことは知っている。僕が男色でも潔癖でも不能でもないと認識が変わった邸内で働く年頃のメイドの態度と視線が煩わしい。
「ルーカス様の予想通りでございます。メイド宛てに生家からの手紙が多く届いています」
クレアの年を考えて婚姻まで余裕がある、一度でも抱かれて第二夫人の座を手にしろ…あわよくば子を身籠れ…そんなとこだろう。
「ブルーノ、お前にも話さなかったが僕は…この年まで彼女を…クレアを待ってた。僕はクレアだけを娶る…他はいらない…息子はどうしてる?」
ブルーノは目尻を下げて頷く。
「私の遠縁に使用人として入れました。あの年で下級使用人から始めるのは酷でしょうが…仕方のないことです。味方のいない貴族家では格下相手であれど横柄な態度は取れないでしょう。私の教育が甘かった…私の責任でございます」
クレアの手紙を鍵付きの引き出しに仕舞う。ハインスの紙を広げながらブルーノに伝える。
「使用人を雇う際の一言めは?」
「それは私の下の執事の管轄です…どうしましたか?」
「どこの家の出か聞くそうだ」
ブルーノの垂れた眉が動く。
「それは聞くでしょう。重要なことです」
その通りだ。生家を背にして働くのだから…失態を犯そうものなら生家の評判も下がる。そして生家の信用も雇う上で検討の一つになる。
「お前なら…平民の者が…いや、いい。意識を変えよう。全てのメイドの服をお仕着せにしろ」
何度も訪れているゾルダーク公爵家のメイドは全てが同じお仕着せを着込んでいた。見た目ではそこに階級など感じさせない。ハインス邸の上級メイドは生家からの援助に加え自身の蓄えを使ってまで華美な服を着ている。使用人に必要ないだろう虚飾に溢れている。
「不平を言うものは去れと伝えていい」
「かしこまりました」
「返事を書く、一人にしてくれ」
ブルーノの去る姿を見送り、筆を持つ。目蓋を下ろして間近で見た彼女の可愛い顔を思い出し、素直な想いを書き記す。
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