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ハロルド
しおりを挟む「必要ない。カイラン、ジュノを返してくれ」
は?危ない…盆を落とすところだった。気持ちの清算をしていなかったのか。事情を知らないカイラン様の顔がおかしくなっている。
「ジュ…ノ?」
「ああ、ディーターからゾルダークに来たメイドだ。もうキャスはいない…ここには必要はないだろ。俺には必要なんだ。謝罪は受けとるからジュノを返せ」
俺は首を横に振る。カイラン様は視界に俺を入れているはずだ、理解するだろう。
「いきなりだな。彼女はキャスリンが雇っていたんだ、彼女の意志でゾルダークに残ると聞いてる。無理強いはしたくない」
「公爵が何言ってる?お前の言葉一つでジュノは去れる」
ディーゼル様の言うことは間違っていない。ジュノの存在はそんなものだ。謝罪の気持ちに答えるならジュノなど笑顔で送り出すのが普通だが。
「キャスリンの願いなんだ。ジュノに選ぶ権利をと」
ディーゼル様が体を弾ませ机を叩き音を出した。体は震えている。
「キャスは事故死だろ!何故あの若さでそんなことを願う?カイラン、俺に疑わせるな!うんざりだ!俺はお前にキャスを返せと言っていないぞ!言っていいのか!?」
驚いた。ここまで感情的なディーゼル様を見るのは初めてだ。
「そろそろ俺は限界だぞ。お前は…ゾルダークは全てを話せないだろうと理解はしている。キャスに何が起こったか、お前が一体何をしたのかっ!俺はお前達のことを誰にも話していない!テレンスにもだ!婚姻当初のお前の話を聞いたのは俺だぞ…疑問を押しやったのも俺だ…俺は追及すべきだったのか?」
随分憔悴している…ディーゼル様は過去を悔やんでいたのか。だが今さらだ。二人の婚姻当初にカイラン様は悩みを話している…あれを持ち出されると厄介だが過去の話だ。ああ…キャスリン様を返せという言葉はカイラン様には耐えられない…泣いてしまう。ただでさえキャスリン様の死に負い目を感じているのに。俺はカイラン様を見つめて頷く。指を動かしジュノの意向を聞くと伝える。
「ディーゼル…もう何も言わないでくれ…」
ああ…泣いてしまった。
「ジュノに聞く。彼女に戻る意志があるのなら僕は止めない」
「カイラン、ジュノがここに残った理由はレオン達だろ?キャスが残した子供達だ。だがクレアはデビューを終えた。俺は…我慢をした。ジュノを…返してくれ…もう…耐えられん!」
やはりディーター侯爵家にキャスリン様の死は酷だった。両親の嘆きを間近で慰めたのはディーゼル様だ。癒され始めたのにユアン夫人の奇行だ…さぞ辛かったろう。旦那様の懸念の一つがキャスリン様の生家だっだ。連れて逝く意志は変わらずとも娘を愛する父親を知ってはいたからな。だがレオン様達のように話すことはできない。ディーター侯爵家は突然の悲しみに襲われたんだ。ディーゼル様の願いをレオン様はどうするか。
この面会でディーゼル様はジュノに会わせろとは言わなかった。カイラン様の見送りを断り、険しい顔のままゾルダーク邸を辞した。
馬に乗り上げるディーゼル様の表情は溜めた胸の内を聞いた後では同情するほど哀しげだ。目尻はつり上がり固く結ばれた唇は、怒りではなく哀しみが作る顔に愛する妹を失った傷を未だ癒せてはいないように見えた。
ディーゼル様を見送った俺は足早にレオン様の執務室へ向かう。ザックはクレア様の見張りで不在、ソーマさんはまだ上階から覗いているか。レオン様は共にいるのか。扉を叩いても返事は返らない。とりあえず、レオン様の好む果実水の準備に動き、料理場へ向かう。盆の上に果実水を入れた水差しを置き、器も載せて再び執務室へ足を進める。途中、すれ違った使用人にレオン様の居所を聞くとテオ様と執務室へ入ったと聞き、テオ様にもディーゼル様の叫びを話してもいいのか悩みながら向かう。執務室の扉の前に立ちベルを待つ。レオン様とテオ様ならば俺の気配に気付いているはずだが鳴らしてくれない。息を吐いて扉を叩くと返事が返った。扉を開けると執務机に腰掛けたテオ様とソファに座るレオン様がいる。ベルを鳴らさないレオン様に嫌みを言いながら近づく。紺色の髪に白い花弁を付けながらも険しい顔のテオ様を見るとディーゼル様にもたらされた哀しみが薄くなる。座るレオン様に視線を移すと黒い瞳が垂れて微笑んだ。クレア様がルーカス様に決められた話を果実水を注ぎながら聞き、テオ様の似合わない姿に心和ませ、相変わらず妹に対して過保護な二人の会話に交ざり過ごす。テオ様が執務室から退室するとレオン様がディーゼル様のことを尋ねた。
「それで?伯父上はなんだって?」
「ジュノです。予想通りですが…」
「単純だ。ディーターの気質だな」
ディーターの気質…キャスリン様のような執着心…ディーゼル様も同様に持つ…空色の瞳と薄い茶の長い髪が頭を過り口を閉ざして想いに浸る。
「ハロルド、なんだ?」
俺を呼ぶ声に思考が止まり、見上げる黒い瞳が垂れていない様を見下ろす。二人が四阿を出たならば、花園を歩きルーカス様が執務室へ辿り着くまで話す暇はある。
「ディーゼル様は…限界だそうです」
「なに?」
「我々の認識通りのディーゼル様ではなく…カイラン様に怒りをぶつけ…キャスリン様を…返せと言って…」
あれはそう言っていた。背中を見ているだけだったが、その嘆き様は伝わった。あの叫びを思い出すと胸が重くなる。
「伯父上が…そうか」
レオン様は壁に飾られたキャスリン様の絵に視線を移した。
「ユアン夫人は使用人にまで手を出し、ディーゼル様は後継のバック様の教育によくないと…離縁を口にしました」
「そうか」
「テレンス様同様にキャスリン様の死に疑問を持ってもテレンス様の反応に納得されていたようですが…ディーゼル様は婚姻当初のカイラン様の様子を知っています。長年の疑問が重なり増え、今回のことで抑えていた思いが溢れたのでしょう…随分カイラン様を責め、泣かせていました」
「うん」
黒い瞳は絵を見つめたまま、俺の報告を聞いている。
「ディーターは…辛そうです」
早々にユアン様をアダムから引き離していれば、あそこまでディーゼル様を傷つけなかったのではないかと思うが、アダムと対峙するためには必要な過程だった。真実を話せばディーゼル様は我らを責めることなどできないだろうが…
「エリクタル侯爵からユアン夫人に漏れたことを告げ、エリクタル侯爵家に戻すつもりのようです」
「うん」
「レオン様」
「俺は伯母上を使ったことに後悔はないし、肉欲に溺れた伯母上がどうなっても気にならないが、ディーターは…ディーターには……母上の意志を変えることは間違いじゃないか?ジュノはディーターに戻さないと母上が言ったんだ」
レオン様は変わらずキャスリン様を愛している。ディーゼル様の嘆き様を伝えてもあまり心は動かないか。
「キャスリン様はジュノの幸せを願っていました。ジュノに聞いては?」
「ああ…ジュノはなんて言うかな…たまに来るディーゼル伯父上を避けている意味はどっちだ?」
年に一度、ゾルダーク邸へディーター侯爵家がレオン様達に会いに来る機会を作っている。共に花園を歩き四阿で休みながら談笑する。それにはテオ様も無言で参加している。マイケル・ディーター前侯爵は思い出話によく泣いていた。その場にダントルは顔を出してもジュノは出さなかった。
「聞いたことはありません」
ダントルならば聞いているかもしれないが。
「孤児と侯爵…母上には無理な関係に見えるよな」
「はい」
だが、今なら…ユアン夫人がエリクタル侯爵家に戻されたならば…
「ジュノに決めさせるか。伯父上は無理矢理側には置かないだろ…話があるとジュノに伝えて」
「かしこまりました」
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