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ルーカスとクレア

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見上げる黒と空色の瞳、少し赤く色づいた頬が愛しい。なぜ頬が赤いのか聞いたら困るだろうか。身上書の断りの返事が僕には届いていない意味は理解したが、それがゾルダーク公爵の意思か君の意思か。聞いてもいいだろうか…待ち続けた僕を哀れに思い、同情心でゾルダーク公爵の意向に頷いたのか。五年前に会ったときは幼すぎて答えられなかった君はこんなに美しく成長した。相変わらず小さいけれど、それも可愛い。君が楽しかったという数多く届いた身上書の姿絵には見目もよく若い男が多かったろう。気に入った男はいなかったのだろうか。やっと君と二人だけで会えたから本心を尋ねてみたい。

「僕は…三十を過ぎ…いや、君の気持ちが聞きたくて…君を待ったのは僕がそうしたかったからなんだ。そこを気にしているかと思ってね。君が僕に対して心苦しい思いをしているのかなと…」

彼女は立ち止まり、微笑んでいた赤い唇が弧を消した。的を射たのかと思う。三十を過ぎた男など嫌だと言われるかもしれないが、見上げる異色の瞳が僕を捉えて見入ってしまう。その唇から何が発せられるか。

「私……ルーカス様、祖父は貴方に私を押し付けたのかと…面倒な…足枷になる存在の私を…祖父なら…」

確かにハンク・ゾルダークが僕を君の相手に考えていたことは事実だ。だけど強要されていたわけではない。黒と空色が悲しげに潤んでいる。僕との顔合わせからそう思っていたのか。

「クレア嬢、触れてもいいかな?」

今にも落ちそうな涙を受け止めたい。許可が欲しい。

「…はい」

僕は日傘を下ろし、陽に照らされた頬に指を近づける。黒と空色が瞬き、滴が指に伝った。

「前公爵から君を押し付けられたなど思っていないよ。僕が君と…いつか君と二人で共に生きていきたいと…僕の未来に君が隣にいて欲しいと願ったんだ。この願いは時を経ても変わらない。君の心が決まるまで…罪悪感など持たずに返事をして」

「…私の心には…五年前から…ルーカス様がいます。ルーカス様が本心から私を望んでくださるなら…こ、…こん…こん」

「婚約?」

心が喜びで溢れそうになる。頬の赤みが増し、僕を見つめる瞳は懸命に伝えようとしている。

「はい…」

手のひらで赤い頬を覆うと黒と空色の瞳が僅かに大きくなり少し驚かせたかと思うが触れたい。嫌がらず、逆に頬を寄せる仕草をする彼女に愛しさが増す。

「クレア・ゾルダーク。ルーカス・ハインスと婚約してくれますか?」

こくこくと数回頷いた彼女は、はいと小さく返事をくれた。額に口を落としては駄目だろうな。ここは外だ。

「ありがとう、嬉しいよ。クレアと呼んでも?」

「はい」

僕は自身を抑えることには長けているが、今は自信がない。近くに見える四阿に向かうため、彼女の頬から手を離し、置いた日傘を差す。

「四阿に行こうか。もっと話したいんだ」

「はい」

頬は赤いまま、異色の瞳が垂れて微笑む顔は、僕の理性を崩そうとしているほど愛らしい。足を進め四阿の壁に畳んだ日傘を立て掛け、共に屋根の下へと入る。人は誰もおらず、机の上には茶器が置かれ、水差しから器に注ぐだけになっている。彼女は自ら水差しを持ち、並べた器に注いでいく。

「はい」

立ったままの僕に氷の入った果実水を渡す彼女の小さな手を器ごと握り、驚く瞳を見つめる。

「抱きしめていいかな?」

性急すぎたとは思う。でも、嬉しすぎて彼女を持ち上げて強く抱きしめたい欲求になんとか耐えてる。小さく頷いた彼女を握った器と小さな手を僕らの間に挟まるように空いた片腕で軽く抱きしめる。背の低い彼女の顔は僕の胸ほどだ。激しく打つ鼓動は彼女に届いているだろうか。気恥ずかしい思いと触れている喜び、やっと腕に閉じ込めることのできた存在に僕の心は満たされる。この瞬間のために嘲りや中傷、侮蔑に耐えてきた。ハインス公爵邸で働く使用人でさえ陰で僕を嘲笑う者がいた。倶楽部で会う貴族など、聞こえるように嘲笑する。それらに傷つくことはなかったが忘れることはない。

「嫌かな?」

黙って僕の腕の中にいる彼女の気持ちが知りたかった。早まっただろうか。頷かれたら少し悲しいが放すしかない。彼女は小さく顔を横に振ってくれた。

「よかった」

僕の言葉に俯いていた小さな顔が上向く。その真っ赤な顔に頬が緩む。この年になるまで誰かと口を合わせたこともない。いつか君が許してくれたら…

「ル、ルーカス様…」

腕に彼女の重みを感じた。気づくと額にかかる紺色の髪に口を落としていた。我に返り、屈んだ体を起こし、彼女を支えながら体を離す。

「ごめん…つい…可愛くて…」

赤い顔を振って、嫌ではないと伝えている。

「座ろうか。ごめんね、器を持ったままだった」

彼女の手から器をもらう。冷えた果実水は彼女の手を冷やしてしまった。空いた手でその手を握り椅子に向かい、隣り合わせに腰を下ろす。

「飲む?」

僕がもらった果実水だけど顔の赤い彼女は喉が乾いているだろう。差し出すと頷いて口に含んだ。

「あっ…これはルーカス様の…新しく…」

彼女は手を伸ばして新しい器に注ごうと動くが、手を握り止める。

「残りを貰うよ」

彼女の手から器を貰い残った果実水を飲み込む。常温になってしまっていても美味しかった。空になった器を机に置き、彼女を見ると俯いていた。同じ器で飲むことが嫌だったのだろうか。

「ごめん、嫌だった?何でも言って…君のことはちゃんと知りたい。君が何を言っても怒らないし問いたいことには答える」

触れてもいい許可を貰えてよかった。流れる紺色の髪を撫でることができる。長く真っ直ぐで艶のある彼女の髪に触れたいと何度も思っていた。

「驚いただけです」

嫌ではないらしい…よかった。

「顔を上げて?」

俯いたままの紺色の頭を撫でながら頼んでみる。その顔は未だ赤い。彼女が僕を意識しているのか、単に家族以外の異性との接触に慣れていないのか。

「ゾルダーク小公爵に君の返事を伝えるよ。婚姻まで何年かけてもいい。急いではいないけど夜会のエスコートは僕にさせて。許される限り君に会いたい。許されるなら君をハインス邸に招待したい…願いばかりだな…はは…ごめん、浮かれているんだよ…信じられなくて」

どこかに触れていなければ夢のように消えてしまいそうで怖い。

「ふふふ…ルーカス様、謝ってばかりです」

「そう?ご…ははっそうだね」

「私…学園には通いません…婚姻は…いつでも…」

意味を理解して言っているのだろうか…

「明日にでもしようか?」

耳まで赤くなった。ああ…僕は幸せだ。

「はははっ冗談だよ…ありがとうクレア。僕のことを考えてくれているんだね」

閉じ込められた君にも僕がどんな噂をされているのか知っているか。

「盛大な式にしようね。その前に婚約を外へ披露するけど。君のことは小公爵と話すことになっているんだ」

ゾルダーク邸を訪れた僕を出迎えたのは小公爵だった。彼女との逢瀬の後も小公爵と話す。違和感を感じる。僕とゾルダーク公爵との関係は悪くない…貴族院で会っても普通に会話をする仲だ。厭われているとは思えない。

「はい。私のことは兄が決めていいと祖父から託されています」

肩の力の抜けた様子の彼女の言葉にも違和感を持つ。祖父から託された、ハンク・ゾルダークがレオン・ゾルダークに四年前に託したならば彼は十二の年だ。なぜカイラン・ゾルダークではなく少年の年の孫に託すのか。
太股に置かれた小さな手に自分の手を重ねると肩が少し跳ねた。僕が触れることに慣れて欲しい。

「ホールの絵は変わっていないね」

亡くなって四年も経つのに飾られたままの絵。濃い紺色の髪に険しい眼差しが僕を見下ろしていた。

「はい。お父様が絵師を呼ばなくて…そのままに」

公爵の意向なのか。その時、背後に感じた何かの気配に体が強ばる。彼女に悟られないよう、自分の口に人差し指を立てる。黒と空色が見開き頷いた。彼女の手を握ったまま、静かに体を捻り四阿の入り口に体を向けると見たことがない生き物が覗いていた。王都には存在しない、僕は書物の挿し絵でしか知らない動物が、外から中を窺うように顔を半分覗かせ一つの赤い瞳で見ている。つい、強く手を握った僕の隣から彼女が声を上げた。

「ボーマ」

赤い瞳を離さず彼女に問う。

「クレア、あの獣を知っているんだね?」

「はい。狼のボーマです。ふふ…覗いているの?あっ…私がなかなか呼ばないから…」

どうやらゾルダーク邸で飼われているらしい。彼女から恐怖は伝わらない…が大きい。

「ルーカス様」

呼びかけに体の向きを変えると、先ほどよりも近くに体が寄せられていて心臓が跳ねる。

「なに?」

「あの子を呼んでも?襲いません、私に敵意を持つ相手しか襲いません」

僕が頷くと彼女は狼を呼ぶ。四阿の入り口に白い体が全て現れる。太い足が跳ねるように机を回り彼女の隣に近づいた。

「ボーマです。リード辺境伯様から貰いました。この色では野生で生きていけないからと私の遊び相手に贈ってくださって…私を守る騎士です、ふふ」

彼女は慣れた手つきで狼の鼻を撫でる。僕はこの狼の存在を知らなかった。王都に狼が存在すること自体が珍しく噂に上がってもおかしくはない。この邸に働く者や外から来る商人から漏れていない事実に、冷たい汗が背を伝う。隠し通せる、それがゾルダークには可能であり、使用人らの忠誠の証のようだ。

「狼は遠吠えをすると読んだけど…この白い騎士はどう?」

「しません。唸ることはありますけど…ふふ、ガイル…リード辺境伯の令息が兄に付いているのですけど、彼と戯れるときは唸ったり、テオに怒られたら悲しそうに鳴いたり…ね…ボーマ」

小さな手で狼の顎を撫で、指で掻く姿は幼く見える。言葉を理解しているかのように彼女の手や腕に鼻先を擦り付ける姿は獰猛な狼には見えない。


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