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マチルダ2
しおりを挟む青い空の下、溜まった洗濯物を洗い干し、料理場で煮込んだ野菜のスープを混ぜて、離宮に残る者の世話にマチルダは動く。
昼が過ぎ明るくなった室内で見るモルトの顔は紫の斑が濃くなっていた。熱い体を支えてスープを匙で掬い少しずつ口に流す。水を含んだ布を固く絞りモルトの額に置き、朝見かけた女の使用人の部屋へ向かう。女は寝台に横たわり苦しんでいたが斑はまだ現れていなかった。額に手をあてるとかなりの熱を感じマチルダは懐にある丸薬を飲ませるかと悩んだ。たとえ偽物でも毒ではなさそうだった。飲んだ二人の父とモルトは息をしている。
「辛いか?」
女は薄く目を開き頷いた。
「家に帰るか?」
使用人はモルト以外この女だけが離宮に残っていた。
「…孤児で…家は無くて…モルトさ…ま」
「そうか、モルトの元で働いていたのか」
「モルトさ…まは?」
モルトは熱を隠して父上の世話をしていたのだろう。衰弱している。
「無理をしたようだ」
女は高熱のため目蓋を落とし再び眠った。薬をどうするか悩みながら父上達の眠る部屋へ入る。新しい水差しを置き、スープを飲ませるため寝台に近づく。腹違いの弟の方を覗くと濃い斑が顔を色づけていた。
「ギデオン父上…聞こえますか?」
変わらず呼吸は熱く荒いがまだ生きている。
「マ…チ…」
「はい。ここに」
熱冷ましの効果が切れ、話しをすることも辛そうに見える。
「モル…見に…」
「先ほど見ました。匙でスープを少し飲みましたよ」
「…マチ…モル…死ん…」
ギデオンの言葉に屈んだ体を起こし部屋を飛び出す。廊下を走りモルトの部屋の扉を勢いのまま開けて寝台に近寄りモルトの頬に触れる。まだ温かい頬だったが呼吸を止めていた。
「モ…モルト…モル…ト」
マチルダは掛け布の上からモルトの痩せた体を抱きしめ涙を流す。
「すまない…モルト、すまない」
何に対しての謝罪かマチルダ自身がわからなかった。寝ずに駆けた。苦しむ民にも目をくれず駆けた。自身の全力を尽くして駆けたが救えなかった命にマチルダの心は暗く悲しみ、紺碧の瞳からは涙が止まらなかった。
「モルト、父上達から離れずよく仕えてくれた…感謝する…モルト」
罹患してからも働いただろう老体を撫で、懐の丸薬に疑問が湧いた。ただ間に合わなかったのか偽物なのか。もし、偽物ならばどうなるのか。想像しただけで体が震え恐怖が襲う。マチルダは掛け布をモルトの頭まで覆い部屋を出て、主の部屋へ駆けた。大きな寝台に走り寄り、屈んでギデオンの呼吸を確かめる。手に熱い息が吐かれ、安堵する。
「父上…モルトは逝きました」
床に膝を突き、寝台に突っ伏しながら伝える。
「あ…あ、知って…る」
小さな声にマチルダが顔を上げると、ギデオンの瞳は閉ざされたままだった。
「何故?知って…貴方にそんな感覚が伝わりましたか?」
「ああ…」
息苦しくも返事をしたギデオンの顔を見つめ、その横で高熱に魘されるガブリエルに視線を移す。
「う…う…ベン…泣く…な…俺じゃ…ない…ブラ…コを壊し…たのは…う…うぅ…」
意味のわからない譫言を呟き、まだ斑の色が現れていないガブリエルをマチルダは見つめる。不思議な力だった。それに気づいたのは遅かったが、旅をするなか思い出せば過去のあれらもそうだったかと納得できた。父の発言から自身の感情察知力、マイラの変な勘。血筋か何かわからないが何かあると思わせる力。けれど小さいその力は幼いマチルダに悪意を伝え怯えさせた。今では感じる感情を受け流す術を身に付けたが、昔は悩んだ。父の腹違いの弟にも、説明のつかない力があってもおかしくはなかった。
「モル…トは焼…く…海に」
「そんな話をしましたか?」
マチルダの問いに薄く銀眼を開き視線が交わる。
「父上が回復したらそうしましょう。夕にはわかります。父上が逝ったら私が焼きます。寝てください」
再び閉じた瞳はもう開かなくなった。布を絞り額に載せる。ガブリエルの側に行き、同じように布を絞り額に載せると顔を振って落としてしまう。
「悪…かっ…た…ベン…大…切な酒…飲ん…怒るな…す…ま…泣くな…」
元気そうなガブリエルの口に匙でスープを流すと飲み込んだ。
「飲めるなら飲んで…父上、彼が心配していますよ」
「マチ…?」
「悪い夢を見ていたようですね。魘されていました」
横たわる銀眼から涙か流れ枕に吸われていく。
「ベンが…怒って…殴った」
「少し頭を上げますね」
意味不明な発言を流したマチルダはガブリエルの頭の下に枕を一つ入れる。
「飲みましょう」
匙を口にあてると薄く開き、少しずつ流していく。
「ギィ…は?」
「寝ています…まだ生きています」
マチルダが匙を口にあてるとガブリエルは首を振り、もう要らないと伝えた。
「今は…いつだ?」
「昼を過ぎました…陽が傾き始めた」
ガブリエルは首を傾げギデオンを見る。
「斑が…」
ガブリエルが熱を出す前は顔にまで斑はなかった。消えてしまいそうな弟に銀眼は濡れる。
「はい」
ギデオンの体は全身に紫色の斑模様が覆っていた。
「父上…私はこの混乱をいち早く知る者だった。不確かな噂でも…嘘ではないと感じていたのに…もっと深く探れば…その噂を…アムレにいる傭兵仲間のつてを頼って動いていれば…斑熱の上陸を阻止できたかもしれない。私の身分を証せば船を抑えることができたかもしれない。ここまで…深刻な事態に陥ったのは私のせいだ…民の死もモルトの死も私の甘い判断のせいで…レディントでエゼキエルを待つ間に…何かできたかもしれない…待たずにシャルマイノス王都にいるエゼキエルの元へ会いに行けばよかった…」
レオン・ゾルダークに王族の責を果たせと言われたとき、もう王族ではないと叫びたかった。私は捨てたんだ。なのにレディント辺境でエゼキエルを待った。不穏な噂は私を離さず心が動けと言った。進言だけで後はエゼキエルに任せるなど、中途半端に捨てられないチェスターを私はどうしたかったんだ。
昔を知る者の死を目の当たりにして今になってああしていればと、自身の中に芽吹いた後悔の種が育ち、マチルダを呑み込む。
「マチルダ、お前のせいではないだろ…愚かで非道な阿呆らのせいだぞ…お前の報せのおかげで早く動けた…気に病むな…お前は覚悟を持ってここまで…来たろ?偉いぞ…」
「レオン・ゾルダークに毒を飲まされたんですよ。逃げないように…死ぬ気で父上の元へ駆けろと。本当に好かれていますね、どこをそんなに気に入っているのか」
「はは…レオンは俺が好きだな…本当に毒か…?」
マチルダは軽く口角を上げて微笑む。
「毒を渡されたとき彼の感情からは偽りを感じた…黒い瞳はただ貴方を心配する思いが込められていた」
「レオンはいい子に育った…俺のおかげだ…待ってる…俺を…」
そう言ったガブリエルは薄く開いていた目蓋を下ろし口を閉ざした。マチルダは涙で濡れる父親の頰を拭い、掛け布を捲りガブリエルの体を見る。袖を捲ると腕には紫色の斑があり、薬への疑いが強まる。
「父上…悲しみや恐怖、諦念は昔から私の中に存在したが…もし…薬が偽物ならばと思うと怒りが込み上げて…偽物ならばアムレを壊します。誓います。王宮に忍び私の手で…父上」
捨てたと思っていたチェスターの現状を見てから、遺体を燃やす炎を見てから、レオン・ゾルダークの言葉が頭に木霊する。
「王族の責…」
夕になるまで一刻となる離宮の主の部屋で父親の手を握りながら酷使した体は寝台に沈んでいく。
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