見つめる未来

木立 花音

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野球の道を諦めた、現在の俺(2)

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 俺が帰宅してリビングに入ると、絨毯じゅうたんの上に寝そべっていた母親が顔を上げた。まだ夕飯の準備もしていないのか、と少々呆れる。

「おや、お帰りなさい新。今日はいつもより少し遅いのね」
「講義は午前中で終わったけど、その後で図書委員会の仕事があったからね。なあ、麦茶ないの? 外むっちゃ暑いんだけど、もう喉がカラカラ」
「冷蔵庫開けてみなよ。入ってるだろ?」とテレビの真ん前で横になったまま告げた母親を跨いで、台所に向かう。

 冷蔵庫を開けてみると、はたしてそこに、目的の物はあった。我が家にとって夏の風物詩ともいえる麦茶だ。
 小学三年生のころから野球を始めた俺だったが、練習中の水分補給といえば、スポーツドリンクよりも麦茶派だった。チームメイトが、お前って変わってるよな、とか、なんか爺臭くね? などと失礼な言葉を投げてきた過去を思い出した。
 古びた茶棚からコップを取り出すと、麦茶を注いでからリビングに戻る。
 相変わらず寝そべっている母親を跨ぐと、親を跨ぐなんて失礼だよ、ととがめられた。「へいへい」と横柄に謝罪の言葉を残して二階に上がり、自室の扉を開けた。

 部屋に入って左手の壁に並んでいるのは、綺麗な額縁に入れられた賞状。その下にある棚の上に置かれているのは、幾つもの優勝カップやトロフィーだ。
 賞状に書かれてある内容が伝えてくるのは、地区予選会優勝、全県大会優勝などの、中学時代の野球部で掴んだ栄光の数々。
 床の上に、無造作に転がされているのは、マイボールとグローブ。
 胡坐あぐらかいて座ると、真新しいグローブを手に取ってみる。高校入学後に購入したそれは、いまだ革が固くていまひとつ手に馴染んでいない。
 今でもグローブが綺麗なままで残されている理由。それは、買って直ぐのタイミングで、事故に遭ってしまったからだ。
 一方で、中学時代に買ってもらったボールは、だいぶ年季が入っている。グローブを絨毯の上に置きボールを拾うと、ベッドの上に仰向けで寝転がった。
 軟式球の規格が変更される以前のものなので、現状のM号ではなくB号の規格球だ。そういったくだらない雑学だけは持っていることを自覚すると、虚しさとやるせなさとが、暗雲となって胸中にたちこめてくる。
 B号規格球の表面には、どんなに磨いても落ちない茶色い汚れが付着していた。土か。それとも汗による汚れか。
 かつては、これと同じボールを何球も持っていた。なんとなく捨てたり無くしたり。そうして数を減らしながらも、結局は捨てられずに残ってる最後の一球。
 その茶色い染みが、頑張れなくなった今の自分を責め立ててくるようで、無性に居心地が悪くなる。

 家の中には、自分が野球選手を志していた頃の名残りが幾つも残されている。
 夏を迎えると、欠かすことなく冷蔵庫に入ってる麦茶。
 過去の栄光を伝えてくるカップと賞状。
 どんなに拭いても取れない汚れが付着したボールと綺麗なままのグローブ。
 そして何よりも──いまだに忘れることのできない、事故の記憶だ。
 もちろん、事故のことは今でもショックだ。それでも、ここ最近ようやく心の傷が癒えてきたのか、当時のことを思い出して心を痛めることも減った。それなのに、こうしてまた気持ちが沈んでしまうのは、先日行われた同窓会で、『彼女』と交わした会話が原因だった。



「新君ってさー、今も野球続けているの?」

 小学校時代の同級生霧島七瀬きりしまななせにこんな話題を振られたのは、港北小卒業生で行われた、同窓会の二次会会場だった居酒屋だ。
 その時点で俺は中ジョッキを一つ空けており、すでに頭がぽわーんとしていたのだが、彼女の言葉で一気に酔いが醒めてしまう。
 俺が酒の味を覚えたのは、高校を卒業してから直ぐのことだった。自分が酒に強くないことには間もなく気がつく。
 ビールのジョッキ一杯で顔が赤くなり、二杯目で呂律が怪しくなってくる。三杯目以降は何杯飲んだのか基本的に覚えていない。烏龍茶に切り替えるか、ペース配分を考えるかしないと、文字通り記憶ごと消えてしまうのだから。
 ついでに嫌な過去の記憶まで消し去ってくれるのならば、何杯だろうと喜んで飲むんだがな。そう上手くいかないのが、人生ってもんだ。

「もうやってないよ。野球なら、高校時代に辞めたんだ」

 意図的に、やや声のトーンを落として答える。これ以上、野球の話を掘り下げないでくれ、という意思表示。
 だが残念ながら、俺同様、彼女も酒に滅法弱いのだろう。もちまえの、雪のように白い肌を紅潮させた霧島に、俺の意図は届かない。空気を読まずに、なおも話し続ける。

「えー、そうなんだ。なんだかもったいないね? 確か中学のとき、県大会で胴上げ投手になっていたよね?」
「そんな事まで知っていたのか」

 反射的に、肩をすくめてしまう。
 まあ確かにあの当時、地方新聞やらテレビのニュースで、俺の名前はそこそこ報道されていた。同級生である霧島の目に留まっていたとしても、なんら不思議ではない。
 けど……。
「昔の話だよ」と口を濁しておいた。それなのに。

「そうそう、コイツ中学の時はマジ凄かったんだって! 当時既に、百三十キロ台の球を投げてたんじゃね? 中学軟式で百三十キロはスゲーらしいよ?」

 などと、テンション高く会話に参加してきたのは、向かい側に座っていた男子。
 コイツは中学時代俺と同じクラスだったし、高校も一緒だった。つまり、俺の事情を色々と心得ている。「余計なことは言うなよ?」とばかりに視線に圧をこめて睨むと、彼は両手を広げて了解の旨を示した。
 要領よく、『俺が活躍したエピソード』だけを抜き出して披露していくソイツ。「へえ~」と興味深そうに霧島は耳を傾けていた。
 自分の武勇伝であるにもかかわらず、二人の会話に参加する気が起こらない俺は、飲めもしないビールのお代わりを注文した。
 多少は酔いでも回さないと、やってられない気分だった。
 その時不意に、霧島が俺の方に話題を振ってくる。

「新君。もし良かったらなんだけど、港北小こうほくしょうのクラブチームで野球教えてみる気ない?」
「はあ?」

 小学生に野球を教える? 俺が? 頭の中に幾つかの疑問が浮かび、思わず間抜けな声が漏れた。
 彼女いわく、仕事の関係で教えられる父兄が少なくて困っている。地区予選会が近いので、指導力の高い経験者を求めている。大会終了までの期間、平日の夕方だけでもいいので、という条件で、サポートしてくれるコーチを探している、とのことらしい。
「もし、引き受けてくれるならさ、保護者の人に私から連絡しておくから。……どうかな?」
 腰まで伸ばされた艶のある長髪を指で弄びながら、上目遣いで訊ねてくる霧島。海底のように深い紫紺の瞳が、真っすぐに俺をとらえた。
 もちろん彼女に悪気なんてないってことを、頭では理解している。でも──。
 これには嘆息してしまう。正直、もう野球に関わり合いになる気持ちはまったくなかった。
 ──やだよ。やりたくないよ。
 頭に浮かんだ否定の言葉を、無理矢理に喉の奥に流し込んで、俺はこう返事をした。「行けたら、行くよ」と。
 否定でも肯定でもない、曖昧さを具現化したような台詞に、内心で自嘲する。
 だがしかし、俺の本音も事情も知らない霧島は、「じゃあ、一応話を通しておくね」と嬉しそうに笑い、練習のある日時を俺に伝え始めたのだった。
 さっきよりも紅潮した顔で、話題を変えて盛り上がっている霧島の姿を見ながら思う。
 そんな顔でお願いなんてされたら、断れるはずがないだろう、と。

 その整った容姿で人目を引く存在だった霧島七瀬は、小学生当時から男子生徒の間で人気があった。
 教師になりたい、という夢を抱いていた彼女が、小学校教員認定試験に合格し、母校である港北小学校に就任したのが今年の春。その経歴だけでも、直視できぬほど眩しい存在なのだが、小学校卒業から八年の歳月が、彼女の美しさをより一層洗練したものに変えていた。
 いや、この際、そんなことは問題ではない。
 俺は小学生の頃、霧島七瀬のことが好きだった。そして今現在も、彼女のことを忘れられていない。

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