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最終章「蘇る、風をまとう者の伝説」
【大丈夫。そこで待っていて】
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バス停で時間を確かめて、次のバスが四十分後なのを知って駆けだした。
とても待ってはいられない。いや、他にも問題がいくつもあった。
ラケットは、二本だけとはいえ幸いにもある。だが。
シューズがない。ユニフォームだってない。
そして何より、会場まで向かう足がない。
会場になっている体育館は、ここから十キロほど先だ。寮に戻っている時間だってない。
どうする――!?
今何時だろう、と思ってスマホを取り出して、電源を切ったままなのに気がついた。
電源を入れたとたんにけたたましく着信音がなる。電話の相手は紗枝ちゃんだ。
『良かった。ようやく繋がった』
「試合、どこまで進んでる?」
あたしがすぐ本題に入ったので、紗枝ちゃんが何かを言いかけて口を噤んだ。
時計を見ると、もう十二時だった。
『今、準決勝の試合中。決勝の相手なら一足先に決まったよ』
「修栄だよね?」
『もち』
だよね。そうじゃなくちゃ困る。あたしは、姫子と決着をつけなくちゃならないのだから。それなのに――どうしてあたしはこんな所にいるんだ。
「永青。勝ってる?」
『負けてるって言ったら、この電話切るつもりなの?』
「まさか」
『紬っち。体調不良って話、嘘なんだよね?』
子どもに言い聞かせるみたいな声で問われた。その呼ばれ方、久しぶりだな、なんて思う。
「……うん。一度熱が出たのは本当だけど、今は全然問題ない。熱なら昨日の夜に下がったから」
『そっか、良かった。私のせいで紬っちが体調崩していたらと思っていたから、本当に良かった……。決勝、来るよね?』
「もちろん、って言いたいんだけど、今会場から結構離れた場所にいて、悪いことにバスが四十分後までないんだ」
『タクシーは?』
「それが、あいにくそんなに手持ちなくて……。それに、シューズもユニフォームもないし」
『どうしてそんなことになっているのよ……。いいや、タクシー代もシューズもどうにかするから、まずタクシー拾って来なさい』
「わかった。とりあえず走る」
空車のタクシーがいないか、視線を配りながら走る。
ナイスショット夏美ー!! という歓声が電話口の向こうから聞こえた。おそらく第一ダブルス(D1)で出場したであろう小春と夏美が、今ちょうど試合中のようだ。
「いろいろと、心配をかけてごめんね」
自然に、謝罪が口をついて出た。しばらくの間、沈黙が流れる。乱れたあたしの息づいだけが耳に響いた。
『謝らないでよ』と紗枝ちゃんが言った。『私から何度も謝ったのに全部無視しておいて、今さらそっちから謝らないでよ』
次第に語尾が震え始める。紗枝ちゃんが泣いているのだとわかった。
「ごめん……」
『私が練習しようなんて言い出さなければ、こんなことになんかならなかった。だから、紬っちは何も悪くなんかない。悪いのは全部私なんだよ』
違う、といいかけて、言葉を飲み込んだ。私が許されたいように、紗枝ちゃんだって許されたいのだ。だから。
「うん、ありがとう」
ただ、そう伝えることにした。紗枝ちゃんの嗚咽が静まるまで、黙って待っていることにした。
とはいえ、これからどうしよう。こんなときに限ってタクシーが全然走っていない。もう間に合わないかもしれないと、絶望が静かに心中を満たしていく。
『あ、はい。えッ……すいません、ちょっと待ってください』
電話口の紗枝ちゃんが、取り乱した声になった。
『ねえ、紬っち。今、どこにいる?』
「え、今? えっと、白石地区の、セブンイレブンがあるところかな?」
『わかった。いい? そこを絶対動かないで。これから車で迎えに行くから』
「車でって。いったい誰が」
考えられるとしたらコーチか監督だけど、今は試合中だ。いくらなんでも来られるはずがない。
『いいから。私を信じてそこで待ってて。紬っちのよく知っている人が、必ずそこまで迎えにいくから』
何がなんだかわからないまま、あたしは「うん」と頷いた。
◇ ◇ ◇
「まさか、北海道に来ているなんて思わなかった」
車の助手席からあたしが問いかけると、「まあ、そうだろうな」と父は苦笑して答えた。
「電話をもらったあのとき、行けるとは一言も口にしなかったしな」
「中国から飛んできたって話、本当なの?」
「ああ。文字通り、飛行機で飛んできたよ」
レンタカーと思しき車がコンビニの前に横づけされて、開いた窓からスーツ姿の中年男性が顔を出して、それが父だった。呆気にとられる、という表現は、きっとこんなときに使うのだろう。
久しぶりに会った父は、昔とそんなに変わっていないようでいて、増えた白髪と笑うとできる目尻のしわに、よる年波が現れていた。
父は仕事の関係で、今中国にいるのだという。仕事の都合をなんとかつけて、あたしの応援をするためだけに単身日本に帰ってきた。会場入りして、永青高校の試合を観戦して、あたしが試合に出ていないのに気づく。悩んだ末に、応援席で電話をしていた紗枝ちゃんに声をかけた。
それで事情を知って、車でここまで迎えに来たと、そんな顛末だった。
――本当はもう少しエピソードあるのだが、とりあえず今は割愛しておこうと思う。
「来るなら来るって、一言言ってくれてれば良かったのに。ずっと会っていなかったとはいえ、親子なんだし」
「そうかもな。そうしていたら、こんな事態にはなっていなかったかもしれないしな」
「それを言われると頭が痛い」
元はと言えば、あたしの心の弱さが招いたこと。ここで「うん」と言うのはなんとなくはばかられた。それに、父さんは、こっそりと試合だけを観て帰るつもりだった、なんてことも言っていたので、あれこれ注文を付けるのは違う気もした。
運転をしている父の妨げにならぬよう、こっそりとスマホの画面を見る。紗枝ちゃんからの電話が切れたあとで、心からの長文メールが届いていたのに気がついたのだ。
送信日時は、昨日の二十時。ずっと電源を切っていた自分を今さらながらに呪いたくなる。
――監督に、ダブルスをやりたいと進言したのは確かに私。これはみんなに内緒にしてほしいんだけど、できれば紬と組みたいとも言っていた。でも、それもすべて、紗枝が私の背中を押してくれたからなんだ。前々から、ダブルスをやる気はあるか? と監督から打診はされていたんだよね。なんとしてでも団体で全国に行きたかったし、私もそうするつもりはあった。けど、そうなったらいずれかのペアは解消されてしまうだろうしと、返答に困っていたの。でもさ、そんな私の葛藤なんて、紗枝にはお見通しだったみたい。紬がペアを組む相手は、自分じゃなくて心のほうがいいとそう思っているんだと。紗枝自身が私にそう言ってきたんだよ。紬が羽ばたくところをもう一度見たいから、そのためなら身を引く覚悟はあると。そこまで言われたら彼女の気持ちを無下にはできない。だから私は監督に言った。チームのためになるのなら、ダブルスをする覚悟はありますと。そこから先は、全部監督が決めたこと。……紗枝に口止めされていたから、本当は言わないつもりだったけど。
あたしたちの中で、全国に行きたいと一番強く願っていたのはもしかしたら心だ。そんな彼女の『熱』に、早い段階で紗枝ちゃんは気づいた。だから身を引いたんだ。それなのに、ペアが変わってしまってごめんね、なんて臆面もなくあたしは口にしたのか。
あのときの彼女の気持ちを思うと胸が痛む。
「紬が肩を壊しているのも知らなかったよ。そのことについて、薫はなんて言っていたんだ?」
「いや、肩を壊したのは母さんが亡くなったあとなんだ。だからそのことについては何も。母さんが生前あたしに言っていたのは、紬、あんたは天才だって。それと、あたしには華があるって」
それから、と懐かしい声を追憶しながら返答する。
「全国で、てっぺん取れって」
ふ、と父が小さく笑う。
「あいつらしいな。それで、頂点に立たなくちゃダメなんだって、自分を律して厳しいノルマを課してきたんだろう?」
「うん」
本当は紆余曲折あるのだが、いろいろ端折ってそういうことにしておいた。
だろうな、と父が嘆息した。あたしがどんな性格なのかも、それがそう簡単に変わるはずがないことも、何年も会っていなくても父にはお見通しらしい。
「行かなくたっていいんだよ。行けなくてもいいんだよ。……ただし、うまくいかないからって、簡単に投げ出してしまうのだけはダメだ。お前を信じてくれる仲間がいるうちは。何より、お前が自分のことを信じられるうちはな」
自分のことを信じられるうちは、か。
肩を壊したあの日から、あたしは自分のことが信じられなくなっていた。母がいなくなったあの日から、誰のために勝つのかわからなくなっていた。
心が背中を押してくれたから、とか、紗枝ちゃんが背中を押してくれたから、とか、父が試合を観に来てくれたなら、などと、誰かに後押しされるのばかりを求めていた。
自分で気持ちを決められないから、他責思考にばかりなっていたんだ。
――私とダブルスやろう?
――紬っちがもう一度羽ばたくところ、私は見たいよ?
――紬は、ずっと私の憧れだから。
あたしのことを、みんながこんなに押してくれていたのに、自分で自分を信じられなくてどうするんだ?
握りしめた拳に涙が一滴落ちた。
父はそれ以上何も言わずに、ただ車を走らせてくれた。
とても待ってはいられない。いや、他にも問題がいくつもあった。
ラケットは、二本だけとはいえ幸いにもある。だが。
シューズがない。ユニフォームだってない。
そして何より、会場まで向かう足がない。
会場になっている体育館は、ここから十キロほど先だ。寮に戻っている時間だってない。
どうする――!?
今何時だろう、と思ってスマホを取り出して、電源を切ったままなのに気がついた。
電源を入れたとたんにけたたましく着信音がなる。電話の相手は紗枝ちゃんだ。
『良かった。ようやく繋がった』
「試合、どこまで進んでる?」
あたしがすぐ本題に入ったので、紗枝ちゃんが何かを言いかけて口を噤んだ。
時計を見ると、もう十二時だった。
『今、準決勝の試合中。決勝の相手なら一足先に決まったよ』
「修栄だよね?」
『もち』
だよね。そうじゃなくちゃ困る。あたしは、姫子と決着をつけなくちゃならないのだから。それなのに――どうしてあたしはこんな所にいるんだ。
「永青。勝ってる?」
『負けてるって言ったら、この電話切るつもりなの?』
「まさか」
『紬っち。体調不良って話、嘘なんだよね?』
子どもに言い聞かせるみたいな声で問われた。その呼ばれ方、久しぶりだな、なんて思う。
「……うん。一度熱が出たのは本当だけど、今は全然問題ない。熱なら昨日の夜に下がったから」
『そっか、良かった。私のせいで紬っちが体調崩していたらと思っていたから、本当に良かった……。決勝、来るよね?』
「もちろん、って言いたいんだけど、今会場から結構離れた場所にいて、悪いことにバスが四十分後までないんだ」
『タクシーは?』
「それが、あいにくそんなに手持ちなくて……。それに、シューズもユニフォームもないし」
『どうしてそんなことになっているのよ……。いいや、タクシー代もシューズもどうにかするから、まずタクシー拾って来なさい』
「わかった。とりあえず走る」
空車のタクシーがいないか、視線を配りながら走る。
ナイスショット夏美ー!! という歓声が電話口の向こうから聞こえた。おそらく第一ダブルス(D1)で出場したであろう小春と夏美が、今ちょうど試合中のようだ。
「いろいろと、心配をかけてごめんね」
自然に、謝罪が口をついて出た。しばらくの間、沈黙が流れる。乱れたあたしの息づいだけが耳に響いた。
『謝らないでよ』と紗枝ちゃんが言った。『私から何度も謝ったのに全部無視しておいて、今さらそっちから謝らないでよ』
次第に語尾が震え始める。紗枝ちゃんが泣いているのだとわかった。
「ごめん……」
『私が練習しようなんて言い出さなければ、こんなことになんかならなかった。だから、紬っちは何も悪くなんかない。悪いのは全部私なんだよ』
違う、といいかけて、言葉を飲み込んだ。私が許されたいように、紗枝ちゃんだって許されたいのだ。だから。
「うん、ありがとう」
ただ、そう伝えることにした。紗枝ちゃんの嗚咽が静まるまで、黙って待っていることにした。
とはいえ、これからどうしよう。こんなときに限ってタクシーが全然走っていない。もう間に合わないかもしれないと、絶望が静かに心中を満たしていく。
『あ、はい。えッ……すいません、ちょっと待ってください』
電話口の紗枝ちゃんが、取り乱した声になった。
『ねえ、紬っち。今、どこにいる?』
「え、今? えっと、白石地区の、セブンイレブンがあるところかな?」
『わかった。いい? そこを絶対動かないで。これから車で迎えに行くから』
「車でって。いったい誰が」
考えられるとしたらコーチか監督だけど、今は試合中だ。いくらなんでも来られるはずがない。
『いいから。私を信じてそこで待ってて。紬っちのよく知っている人が、必ずそこまで迎えにいくから』
何がなんだかわからないまま、あたしは「うん」と頷いた。
◇ ◇ ◇
「まさか、北海道に来ているなんて思わなかった」
車の助手席からあたしが問いかけると、「まあ、そうだろうな」と父は苦笑して答えた。
「電話をもらったあのとき、行けるとは一言も口にしなかったしな」
「中国から飛んできたって話、本当なの?」
「ああ。文字通り、飛行機で飛んできたよ」
レンタカーと思しき車がコンビニの前に横づけされて、開いた窓からスーツ姿の中年男性が顔を出して、それが父だった。呆気にとられる、という表現は、きっとこんなときに使うのだろう。
久しぶりに会った父は、昔とそんなに変わっていないようでいて、増えた白髪と笑うとできる目尻のしわに、よる年波が現れていた。
父は仕事の関係で、今中国にいるのだという。仕事の都合をなんとかつけて、あたしの応援をするためだけに単身日本に帰ってきた。会場入りして、永青高校の試合を観戦して、あたしが試合に出ていないのに気づく。悩んだ末に、応援席で電話をしていた紗枝ちゃんに声をかけた。
それで事情を知って、車でここまで迎えに来たと、そんな顛末だった。
――本当はもう少しエピソードあるのだが、とりあえず今は割愛しておこうと思う。
「来るなら来るって、一言言ってくれてれば良かったのに。ずっと会っていなかったとはいえ、親子なんだし」
「そうかもな。そうしていたら、こんな事態にはなっていなかったかもしれないしな」
「それを言われると頭が痛い」
元はと言えば、あたしの心の弱さが招いたこと。ここで「うん」と言うのはなんとなくはばかられた。それに、父さんは、こっそりと試合だけを観て帰るつもりだった、なんてことも言っていたので、あれこれ注文を付けるのは違う気もした。
運転をしている父の妨げにならぬよう、こっそりとスマホの画面を見る。紗枝ちゃんからの電話が切れたあとで、心からの長文メールが届いていたのに気がついたのだ。
送信日時は、昨日の二十時。ずっと電源を切っていた自分を今さらながらに呪いたくなる。
――監督に、ダブルスをやりたいと進言したのは確かに私。これはみんなに内緒にしてほしいんだけど、できれば紬と組みたいとも言っていた。でも、それもすべて、紗枝が私の背中を押してくれたからなんだ。前々から、ダブルスをやる気はあるか? と監督から打診はされていたんだよね。なんとしてでも団体で全国に行きたかったし、私もそうするつもりはあった。けど、そうなったらいずれかのペアは解消されてしまうだろうしと、返答に困っていたの。でもさ、そんな私の葛藤なんて、紗枝にはお見通しだったみたい。紬がペアを組む相手は、自分じゃなくて心のほうがいいとそう思っているんだと。紗枝自身が私にそう言ってきたんだよ。紬が羽ばたくところをもう一度見たいから、そのためなら身を引く覚悟はあると。そこまで言われたら彼女の気持ちを無下にはできない。だから私は監督に言った。チームのためになるのなら、ダブルスをする覚悟はありますと。そこから先は、全部監督が決めたこと。……紗枝に口止めされていたから、本当は言わないつもりだったけど。
あたしたちの中で、全国に行きたいと一番強く願っていたのはもしかしたら心だ。そんな彼女の『熱』に、早い段階で紗枝ちゃんは気づいた。だから身を引いたんだ。それなのに、ペアが変わってしまってごめんね、なんて臆面もなくあたしは口にしたのか。
あのときの彼女の気持ちを思うと胸が痛む。
「紬が肩を壊しているのも知らなかったよ。そのことについて、薫はなんて言っていたんだ?」
「いや、肩を壊したのは母さんが亡くなったあとなんだ。だからそのことについては何も。母さんが生前あたしに言っていたのは、紬、あんたは天才だって。それと、あたしには華があるって」
それから、と懐かしい声を追憶しながら返答する。
「全国で、てっぺん取れって」
ふ、と父が小さく笑う。
「あいつらしいな。それで、頂点に立たなくちゃダメなんだって、自分を律して厳しいノルマを課してきたんだろう?」
「うん」
本当は紆余曲折あるのだが、いろいろ端折ってそういうことにしておいた。
だろうな、と父が嘆息した。あたしがどんな性格なのかも、それがそう簡単に変わるはずがないことも、何年も会っていなくても父にはお見通しらしい。
「行かなくたっていいんだよ。行けなくてもいいんだよ。……ただし、うまくいかないからって、簡単に投げ出してしまうのだけはダメだ。お前を信じてくれる仲間がいるうちは。何より、お前が自分のことを信じられるうちはな」
自分のことを信じられるうちは、か。
肩を壊したあの日から、あたしは自分のことが信じられなくなっていた。母がいなくなったあの日から、誰のために勝つのかわからなくなっていた。
心が背中を押してくれたから、とか、紗枝ちゃんが背中を押してくれたから、とか、父が試合を観に来てくれたなら、などと、誰かに後押しされるのばかりを求めていた。
自分で気持ちを決められないから、他責思考にばかりなっていたんだ。
――私とダブルスやろう?
――紬っちがもう一度羽ばたくところ、私は見たいよ?
――紬は、ずっと私の憧れだから。
あたしのことを、みんながこんなに押してくれていたのに、自分で自分を信じられなくてどうするんだ?
握りしめた拳に涙が一滴落ちた。
父はそれ以上何も言わずに、ただ車を走らせてくれた。
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