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第四章「あたしが過去と向き合う日」
【あたしの翼が折れた日】
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風が冷たく感じられる。
カラスが鋭い声で一度鳴いた。
「紬のお母さんが死んだのって、ちょうど一年くらい前だっけ?」
「そうだね。今でもあの日のことは忘れられない」
余命わずかと言われても、今ひとつ信じられずにいた。病院にお見舞いに行けば、母はなんでもない顔で、いつも笑って迎えてくれたから。
『今日はどんな練習をしたんだい』
『今日の試合はどんな感じだったんだい?』
『そうか。よく頑張ったね。紬なら絶対できるよ』
母に、自分が全国大会の頂点に立つ姿を見せるのだけが、あたしの生きがいになっていた。
あと少し。初夏に行われる大会で北海道の頂点に立てば、全国に行く姿を見せられる。
だが、動き始めたカウントダウンが止まることは絶対にない。
母の病は、静かに、そして確実に、母の体を弱らせていった。
五月。あたしが病院に行くと、母の体には得体の知れない点滴の管が何本も刺さっていた。それでも、存外に元気そうな顔で母はあたしを迎えた。
『寝たままでいいかな?』と母が言った。『最近なんだか眠くなるの』と。
『地区予選会。優勝したよ』
あたしが報告すると、母は嬉しそうな顔をして、それから痛みに耐えるみたいに眉間にしわを寄せた。
どうしたらいい? と思った。どうしたら、母の病を治すことができる?
勝利の報告を届けることが、母にとって一番の薬になるのだとそう思っていた。あたしが全国の頂点に立つその日まで、母は元気でいてくれるのだとそう思っていた。
なんの根拠もなく、ただ、漠然と。
母がもし健康であったなら、あたしは何か他の言葉をかけたのかもしれない。
早く元気になってね、とか。
退院したら、一緒に美味しい物でも食べに行こうね、とか。
全国大会への出場が決まったら、応援に来てくれる? とか。
けれど、それらすべてが気休めにすらならないことに気がつくと、言葉のすべては紡がれることなく、澱んでいる心の奥底へと沈んでいったのだ。
――まだ生きていてね、と迂闊にも言いそうになって、なんとか喉元で留めた。
短い面会時間を終えて、『じゃあ、帰るね』と腰を上げかけたそのとき、母があたしの手を握る。
『母さん?』
『……もう少しだけ、いてくれる?』
『でも、面会時間が』
『いいから、あと少しだけ』
浮かしかけていた腰を落ち着けて、それからしばらく病室にいた。
十分だったのか、二十分だったのかはわからない。
その間会話はほとんどなかった。
それでも居心地は悪くなかった。
それから数日がすぎた頃、母は昏睡状態に陥った。
あたしと話ができるのは今日が最後だと、なんとなく母は悟っていたのかもしれない。
母が昏睡状態に陥ると、一人でアパートにいるわけにもいかなくなった。あたしは母の実家に身を寄せることになる。
二週間が過ぎて、暦が六月に移る。雨の降る日が多くなった。
その日も冷たい雨の降る日だった。北海道中学校バドミントン大会に出場するため、あたしは地元である旭川の体育館を訪れていた。
『来たよ。仁藤紬だ』
『私、あいつと同じブロックなんだよね。最悪』
嫌味が四方八方から飛んでくる。中学一年のときから北海道の頂点に立っていたあたしは、この頃にはすでに、畏怖と嫌悪の念を向けられる存在だった。
それでも手加減はしない。当たり前のように、トーナメントを勝ち上がっていった。ベスト八入りを決めたところでトーナメント表を見に行く。
第一シード、仁藤紬。
第二シード、神宮寺姫子。
第三シード、歳桃心。
予想通りの面々が、それぞれの山から勝ち上がってきていた。
準決勝の相手をゲームカウント二対〇であっさり退け、三年連続の決勝進出を決める。握手を求めてきた相手の手は取らなかった。
決勝の相手は、チームメイトであり最大のライバルでもある姫子だ。強敵だ。けど、負けるつもりはさらさらなかった。
しかし、あたしは決勝を前にして会場から忽然と姿を消す。対戦相手がボイコットしたことで、不戦勝により優勝は姫子のものになった。
「覚えてる。どうしてそんなことになったのかと、私の周囲でも大騒ぎだったから。このときすでに、肩を痛めていたの?」
「いや、そうじゃない。肩を痛めたのはもう少し先の話だね。……準決勝の試合をしている最中に、母親が亡くなったんだ」
心が再び絶句した。
人はいつか必ず死ぬ。そんなことはわかりきっている。
けれど、そんな実感はなかったし、覚悟しているようで、実は覚悟できていなかった。その日がくるのは明日かもしれないし、明後日かもしれない。もしかしたら、もっとずっと先の話かもしれないし。そんな風に、どこか現実味のある話に感じられていなかった。
もう、口を利いてくれなくても、病院に行けばそこに母がいたから。
準決勝を終えてベンチに引き上げたとき、荷物の中にあったスマホが着信を知らせる点滅をしていて、電話の主は祖母だった。
かけ直したあたしに、祖母がこう告げたのだ。
『薫が亡くなった』と。
そこから先のことはよく覚えていない。
事情を監督に伝え、転げるようにして会場を出て、母が入院していた病院へと辿り着いて。数日の間に、葬儀、火葬、初七日と、慌ただしく日々が過ぎていった。遺影になった母を見て、さすがにあたしも現実を受け入れるほかなくなった。
母の死後、お世話になった病院に挨拶に行った。母を担当してくれていた看護師さんが、こんなことを話してくれた。
あたしが病院に来るのを、母がとても楽しみにしていたのだと。
自慢の娘だと、嬉しそうに話していたのだと。
そんなの、一言も聞いたことがなかった。もっと会いにいけばよかったと、最期を看取ってやれば良かったと、後悔がこみ上げてきた。
葬儀が終わってから、一週間学校を休んだ。心と体を休めても、喪失感は少しも癒えることはなかった。
――冷たい雨が降っていた。
世界は残酷だと思った。
なぜあたしだけがこんな目に合わなくちゃならないのか。
なんで、なんでお母さんなの?
なんで、なんであたしなの?
なんでお母さんが。なんであたしが。頭の中で、ずっと呪詛の言葉が渦巻いていた。
みんな死んでしまえばいい。みんな死んで、死んで、そうしてあたしも死んでしまえば、こんなに苦しまなくて済むのにと。母を、自分を、世界のすべてを呪うみたいに心が泣いていた。
ぼんやりとした思考のまま、冷たい雨が降る夜の街をふらふらと歩いていた。
目的地はない。なんのために歩いているのかもわからない。
周りの人たちが立ち止まったのに合わせて足を止める。見上げた先の歩行者用信号は赤だった。いつの間にか、うつむいて歩く癖がついていた。
なんとなく体に力が入らなくて。まばらに通り過ぎていく往来の車を見つめていた。
そぼ降る雨の粒が、車のヘッドライトを浴びてきらきらと煌めいている。
どん、という鈍い衝撃音がして、気がつけば雨で濡れたアスファルトの上にうつ伏せになって倒れていた。
激しい痛みが左腕の辺りに遅れて走って、口の中に鉄みたいに苦い味が充満していった。
『――紬!!』
車のドアが開く音と、誰かの悲鳴とが重なって響いて、ようやくあたしは理解した。
信号無視をして路上に飛び出して、車に撥ねられたのだと。
「このとき、あたしを跳ねたのが姫子の父親が運転していた車だったんだよ。この日の事故の後遺症で、あたしの左肩は上がらなくなった」
事故に関する記憶はほとんどが飛んでしまっていて、それでも辛うじて覚えているのがこの場面の記憶だ。
「待って。じゃあ」
「うん。あたし、もしかしたら車の前に飛び出したのかもしれないね。この頃、いつ死んでもいいと思っていたのは確かだから」
本当は、そこまでの覚悟はなかったのかもしれないが、結果は同じようなものだった。
事故が起きる原因を作ったのは、紛れもなくあたしだ。それでも、あたしはさして大きな罪に問われることはなかった。車対人の事故の場合、過失割合は基本的に車側が百パーセントとなる。このときはあたしに信号無視があったのでそこまでではなかったが、それでも、過失の大半はあたしを避けきれなかった姫子の父の側にあると結論がでた。
そして、この事故が元で、警察官だった姫子の父親は懲戒免職処分となったのだ。
ある意味、これはあたしのせい。だからこの日から――もしかすると、これが本当の理由ではなかったかもしれないが――あたしと姫子との間はぎくしゃくするようになった。
当然の、話だ――。
「そっか。それで肩が上がらなくなって、紬はバドミントンをやめたのね」
「そうだね」
勝つ姿を見せる相手がいなくなった。
姫子の家庭をぐちゃぐちゃにした。
バドミントンを続けるのが困難になるだけの怪我をした。
全国、どころの話ではなかった。
だからあたしはバドミントンをやめた。
話し終えるのと同時に、学生寮に着いた。辺りは薄暗闇に閉ざされていた。
「ダブルスやろうと誘ったのは私だったね。ダブルスを始めたこと、後悔している?」
まさか、とあたしは答えた。
すべてを失ったそのあとで、あたしの中に唯一残っていたのが母とした『約束』だ。一度諦めていたその夢を、つなげられると教えてくれたのが心だ。
感謝こそすれ、恨むなんてありえない。
今の自分でできうる最高のプレーをして全国で勝つ。それが――仁藤薫の娘としてのあたしの使命。母が生きているうちに果たせなかった約束を、果たすために今あたしはここにいる。
「だって今、こんなに楽しい」
心のおかげで。そう、心のおかげで。心がいなかったなら、あたしはいったいどうなっていたのだろう。
「なら、いいんだけど」
安堵したみたいに、心が笑顔になった。ふと、その表情が真剣なものになる。
「もしかして、今日負けたこと気にしてる?」
「…………」
急に図星を刺され、沈黙してしまう。他人にまったく興味がないようでいて、心は人の心の機微に聡い部分がある。あたしの、いや、二人のこれからのことでもある。ここで有耶無耶にしても意味がない。
「正直、今のままじゃ勝てないよね、ってそう思ってしまっている」
今日の試合を思い返してみると、頭と心が痛くなる。こちらのやりたいことを妨害されて、動きが窮屈になったところを得点される。あたしの動きの悪さからきた負けだ。
姫子と大越さんは確かに強い。とはいえ、あのぐらいの選手は全国に行けばごろごろいる。ここでつまづいているようでは、全国の頂どころの話ではない。
「今のままじゃ、そうかもね。なら、今のままじゃなくなればいい。私は、毎年あなたや姫子に負けるたびに、どうしなくちゃいけないのかと、考えたものだったよ。負けた試合のことをいっぱい考えて、自分の弱点を見つけてそこを潰していくの。でも、それは案外難しい。……難しいと思っているでしょ?」
「そうかも」
やっぱり鋭い。どんなに考えても打開策がないのを見透かされている。
「だから、行き詰まったときは長所を伸ばした。自分の強みとか持ち味がなんであるかを理解して、試合の中でそれをちゃんと出せるようにしていったの」
持ち味、か。読みの早さとか、スピードとか、そういうことだろうか。
四月から今日までのことを振り返る。もう、お世辞抜きで言おう。一年ぶりに再会した心は、見違えるように強くなっていた。空間の使い方がうまくなっていたし、持ち味だったシャトルコントロールにはいっそうの磨きがかかっていた。
姫子にしてもそうだ。姫子のスマッシュが強いのは元からだが、今日レシーブしてより球威が上がっていると感じた。それも、長所を伸ばしたからなのか。
なら、自分はどうか。
再起を目指してダブルスプレイヤーとなって、課題だったローテーションの拙さは克服できたと思う。だが、それだけだ。
穴を埋めただけ。何かが強くなったという気はしない。なら、姫子たちに負けるのは当然か。
人は成長していく。あたしが成長しないなら、それまで勝てていた相手に抜かされるのは必然だ。あたしが一年間サボっている間に、負けた相手は新たな目標を掲げて日々練習してきたのだから。
「勝とう」
心が向けてきた言葉は、ひどくシンプルなもので。
「ある意味、ここがどん底だよ。あとは這い上がっていくだけ。大丈夫、あたしたちと姫子たちの差なんてほとんどないよ。二人でがんばろう」
紬は紬でしょ? そう言って心は話を締めくくった。
姫子との差は小さいと心は言ったが、その根拠はいったいどこにあるのか。考えてはみたけれど、まったく思い浮かばなかった。
カラスが鋭い声で一度鳴いた。
「紬のお母さんが死んだのって、ちょうど一年くらい前だっけ?」
「そうだね。今でもあの日のことは忘れられない」
余命わずかと言われても、今ひとつ信じられずにいた。病院にお見舞いに行けば、母はなんでもない顔で、いつも笑って迎えてくれたから。
『今日はどんな練習をしたんだい』
『今日の試合はどんな感じだったんだい?』
『そうか。よく頑張ったね。紬なら絶対できるよ』
母に、自分が全国大会の頂点に立つ姿を見せるのだけが、あたしの生きがいになっていた。
あと少し。初夏に行われる大会で北海道の頂点に立てば、全国に行く姿を見せられる。
だが、動き始めたカウントダウンが止まることは絶対にない。
母の病は、静かに、そして確実に、母の体を弱らせていった。
五月。あたしが病院に行くと、母の体には得体の知れない点滴の管が何本も刺さっていた。それでも、存外に元気そうな顔で母はあたしを迎えた。
『寝たままでいいかな?』と母が言った。『最近なんだか眠くなるの』と。
『地区予選会。優勝したよ』
あたしが報告すると、母は嬉しそうな顔をして、それから痛みに耐えるみたいに眉間にしわを寄せた。
どうしたらいい? と思った。どうしたら、母の病を治すことができる?
勝利の報告を届けることが、母にとって一番の薬になるのだとそう思っていた。あたしが全国の頂点に立つその日まで、母は元気でいてくれるのだとそう思っていた。
なんの根拠もなく、ただ、漠然と。
母がもし健康であったなら、あたしは何か他の言葉をかけたのかもしれない。
早く元気になってね、とか。
退院したら、一緒に美味しい物でも食べに行こうね、とか。
全国大会への出場が決まったら、応援に来てくれる? とか。
けれど、それらすべてが気休めにすらならないことに気がつくと、言葉のすべては紡がれることなく、澱んでいる心の奥底へと沈んでいったのだ。
――まだ生きていてね、と迂闊にも言いそうになって、なんとか喉元で留めた。
短い面会時間を終えて、『じゃあ、帰るね』と腰を上げかけたそのとき、母があたしの手を握る。
『母さん?』
『……もう少しだけ、いてくれる?』
『でも、面会時間が』
『いいから、あと少しだけ』
浮かしかけていた腰を落ち着けて、それからしばらく病室にいた。
十分だったのか、二十分だったのかはわからない。
その間会話はほとんどなかった。
それでも居心地は悪くなかった。
それから数日がすぎた頃、母は昏睡状態に陥った。
あたしと話ができるのは今日が最後だと、なんとなく母は悟っていたのかもしれない。
母が昏睡状態に陥ると、一人でアパートにいるわけにもいかなくなった。あたしは母の実家に身を寄せることになる。
二週間が過ぎて、暦が六月に移る。雨の降る日が多くなった。
その日も冷たい雨の降る日だった。北海道中学校バドミントン大会に出場するため、あたしは地元である旭川の体育館を訪れていた。
『来たよ。仁藤紬だ』
『私、あいつと同じブロックなんだよね。最悪』
嫌味が四方八方から飛んでくる。中学一年のときから北海道の頂点に立っていたあたしは、この頃にはすでに、畏怖と嫌悪の念を向けられる存在だった。
それでも手加減はしない。当たり前のように、トーナメントを勝ち上がっていった。ベスト八入りを決めたところでトーナメント表を見に行く。
第一シード、仁藤紬。
第二シード、神宮寺姫子。
第三シード、歳桃心。
予想通りの面々が、それぞれの山から勝ち上がってきていた。
準決勝の相手をゲームカウント二対〇であっさり退け、三年連続の決勝進出を決める。握手を求めてきた相手の手は取らなかった。
決勝の相手は、チームメイトであり最大のライバルでもある姫子だ。強敵だ。けど、負けるつもりはさらさらなかった。
しかし、あたしは決勝を前にして会場から忽然と姿を消す。対戦相手がボイコットしたことで、不戦勝により優勝は姫子のものになった。
「覚えてる。どうしてそんなことになったのかと、私の周囲でも大騒ぎだったから。このときすでに、肩を痛めていたの?」
「いや、そうじゃない。肩を痛めたのはもう少し先の話だね。……準決勝の試合をしている最中に、母親が亡くなったんだ」
心が再び絶句した。
人はいつか必ず死ぬ。そんなことはわかりきっている。
けれど、そんな実感はなかったし、覚悟しているようで、実は覚悟できていなかった。その日がくるのは明日かもしれないし、明後日かもしれない。もしかしたら、もっとずっと先の話かもしれないし。そんな風に、どこか現実味のある話に感じられていなかった。
もう、口を利いてくれなくても、病院に行けばそこに母がいたから。
準決勝を終えてベンチに引き上げたとき、荷物の中にあったスマホが着信を知らせる点滅をしていて、電話の主は祖母だった。
かけ直したあたしに、祖母がこう告げたのだ。
『薫が亡くなった』と。
そこから先のことはよく覚えていない。
事情を監督に伝え、転げるようにして会場を出て、母が入院していた病院へと辿り着いて。数日の間に、葬儀、火葬、初七日と、慌ただしく日々が過ぎていった。遺影になった母を見て、さすがにあたしも現実を受け入れるほかなくなった。
母の死後、お世話になった病院に挨拶に行った。母を担当してくれていた看護師さんが、こんなことを話してくれた。
あたしが病院に来るのを、母がとても楽しみにしていたのだと。
自慢の娘だと、嬉しそうに話していたのだと。
そんなの、一言も聞いたことがなかった。もっと会いにいけばよかったと、最期を看取ってやれば良かったと、後悔がこみ上げてきた。
葬儀が終わってから、一週間学校を休んだ。心と体を休めても、喪失感は少しも癒えることはなかった。
――冷たい雨が降っていた。
世界は残酷だと思った。
なぜあたしだけがこんな目に合わなくちゃならないのか。
なんで、なんでお母さんなの?
なんで、なんであたしなの?
なんでお母さんが。なんであたしが。頭の中で、ずっと呪詛の言葉が渦巻いていた。
みんな死んでしまえばいい。みんな死んで、死んで、そうしてあたしも死んでしまえば、こんなに苦しまなくて済むのにと。母を、自分を、世界のすべてを呪うみたいに心が泣いていた。
ぼんやりとした思考のまま、冷たい雨が降る夜の街をふらふらと歩いていた。
目的地はない。なんのために歩いているのかもわからない。
周りの人たちが立ち止まったのに合わせて足を止める。見上げた先の歩行者用信号は赤だった。いつの間にか、うつむいて歩く癖がついていた。
なんとなく体に力が入らなくて。まばらに通り過ぎていく往来の車を見つめていた。
そぼ降る雨の粒が、車のヘッドライトを浴びてきらきらと煌めいている。
どん、という鈍い衝撃音がして、気がつけば雨で濡れたアスファルトの上にうつ伏せになって倒れていた。
激しい痛みが左腕の辺りに遅れて走って、口の中に鉄みたいに苦い味が充満していった。
『――紬!!』
車のドアが開く音と、誰かの悲鳴とが重なって響いて、ようやくあたしは理解した。
信号無視をして路上に飛び出して、車に撥ねられたのだと。
「このとき、あたしを跳ねたのが姫子の父親が運転していた車だったんだよ。この日の事故の後遺症で、あたしの左肩は上がらなくなった」
事故に関する記憶はほとんどが飛んでしまっていて、それでも辛うじて覚えているのがこの場面の記憶だ。
「待って。じゃあ」
「うん。あたし、もしかしたら車の前に飛び出したのかもしれないね。この頃、いつ死んでもいいと思っていたのは確かだから」
本当は、そこまでの覚悟はなかったのかもしれないが、結果は同じようなものだった。
事故が起きる原因を作ったのは、紛れもなくあたしだ。それでも、あたしはさして大きな罪に問われることはなかった。車対人の事故の場合、過失割合は基本的に車側が百パーセントとなる。このときはあたしに信号無視があったのでそこまでではなかったが、それでも、過失の大半はあたしを避けきれなかった姫子の父の側にあると結論がでた。
そして、この事故が元で、警察官だった姫子の父親は懲戒免職処分となったのだ。
ある意味、これはあたしのせい。だからこの日から――もしかすると、これが本当の理由ではなかったかもしれないが――あたしと姫子との間はぎくしゃくするようになった。
当然の、話だ――。
「そっか。それで肩が上がらなくなって、紬はバドミントンをやめたのね」
「そうだね」
勝つ姿を見せる相手がいなくなった。
姫子の家庭をぐちゃぐちゃにした。
バドミントンを続けるのが困難になるだけの怪我をした。
全国、どころの話ではなかった。
だからあたしはバドミントンをやめた。
話し終えるのと同時に、学生寮に着いた。辺りは薄暗闇に閉ざされていた。
「ダブルスやろうと誘ったのは私だったね。ダブルスを始めたこと、後悔している?」
まさか、とあたしは答えた。
すべてを失ったそのあとで、あたしの中に唯一残っていたのが母とした『約束』だ。一度諦めていたその夢を、つなげられると教えてくれたのが心だ。
感謝こそすれ、恨むなんてありえない。
今の自分でできうる最高のプレーをして全国で勝つ。それが――仁藤薫の娘としてのあたしの使命。母が生きているうちに果たせなかった約束を、果たすために今あたしはここにいる。
「だって今、こんなに楽しい」
心のおかげで。そう、心のおかげで。心がいなかったなら、あたしはいったいどうなっていたのだろう。
「なら、いいんだけど」
安堵したみたいに、心が笑顔になった。ふと、その表情が真剣なものになる。
「もしかして、今日負けたこと気にしてる?」
「…………」
急に図星を刺され、沈黙してしまう。他人にまったく興味がないようでいて、心は人の心の機微に聡い部分がある。あたしの、いや、二人のこれからのことでもある。ここで有耶無耶にしても意味がない。
「正直、今のままじゃ勝てないよね、ってそう思ってしまっている」
今日の試合を思い返してみると、頭と心が痛くなる。こちらのやりたいことを妨害されて、動きが窮屈になったところを得点される。あたしの動きの悪さからきた負けだ。
姫子と大越さんは確かに強い。とはいえ、あのぐらいの選手は全国に行けばごろごろいる。ここでつまづいているようでは、全国の頂どころの話ではない。
「今のままじゃ、そうかもね。なら、今のままじゃなくなればいい。私は、毎年あなたや姫子に負けるたびに、どうしなくちゃいけないのかと、考えたものだったよ。負けた試合のことをいっぱい考えて、自分の弱点を見つけてそこを潰していくの。でも、それは案外難しい。……難しいと思っているでしょ?」
「そうかも」
やっぱり鋭い。どんなに考えても打開策がないのを見透かされている。
「だから、行き詰まったときは長所を伸ばした。自分の強みとか持ち味がなんであるかを理解して、試合の中でそれをちゃんと出せるようにしていったの」
持ち味、か。読みの早さとか、スピードとか、そういうことだろうか。
四月から今日までのことを振り返る。もう、お世辞抜きで言おう。一年ぶりに再会した心は、見違えるように強くなっていた。空間の使い方がうまくなっていたし、持ち味だったシャトルコントロールにはいっそうの磨きがかかっていた。
姫子にしてもそうだ。姫子のスマッシュが強いのは元からだが、今日レシーブしてより球威が上がっていると感じた。それも、長所を伸ばしたからなのか。
なら、自分はどうか。
再起を目指してダブルスプレイヤーとなって、課題だったローテーションの拙さは克服できたと思う。だが、それだけだ。
穴を埋めただけ。何かが強くなったという気はしない。なら、姫子たちに負けるのは当然か。
人は成長していく。あたしが成長しないなら、それまで勝てていた相手に抜かされるのは必然だ。あたしが一年間サボっている間に、負けた相手は新たな目標を掲げて日々練習してきたのだから。
「勝とう」
心が向けてきた言葉は、ひどくシンプルなもので。
「ある意味、ここがどん底だよ。あとは這い上がっていくだけ。大丈夫、あたしたちと姫子たちの差なんてほとんどないよ。二人でがんばろう」
紬は紬でしょ? そう言って心は話を締めくくった。
姫子との差は小さいと心は言ったが、その根拠はいったいどこにあるのか。考えてはみたけれど、まったく思い浮かばなかった。
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