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第二章:楠恭子の日記(サイドB)
20**/10/31(金)報復
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◆20**年10月31日 (金曜日)
十月の最終日。放課後。
「図書館で、自習してから帰るよ」と告げた律に手を振って別れると、あたしは一人、昇降口を目指して歩き始めた。
警察官になりたい、という明白な目標を掲げた律は、ここ最近、採用試験に向け熱心に勉学に勤しんでいる。頑張っている親友の姿を間近で見るたび、自分との差、みたいなものを感じ取り、焦燥にかられてしまう。
生徒用玄関を出て校門まで至る道すがら、校庭の隅を彩る銀杏の木々に視線を向けた。つい先日まで、鮮やかな黄色に包まれていたはずのそれは、所々が茶褐色に変色しまるで虫食い状態。
落としかけた溜め息をかき消すように、校庭の向こう側から耳に馴染んだ金属音が聞こえてくると、あたしは耳をそばだて足を止めた。
金属音に混ざって聞こえてくるのは、栃木訛りの強い掛け声だ。野球部が、放課後の練習をしている音、音、音。けれど、三年生が引退して去った今、当たり前の話だがグラウンドに晃君の姿など無い。
季節は移ろっていく。
吹奏楽部で毎日抱えていたサクソフォンを後輩の二年生に託し、あたしは部活動を引退した。毎日足繁く通いつめていた音楽室とも、すっかり疎遠になっていた。
放課後の予定がなくなると、次第に帰宅してからの時間を持て余すようになる。次第に、大した目的もなく、ただ漠然と大学進学を目指している自分の浅慮が浮き彫りになると、昔から変わることのない主体性の無さに嫌気が差した。それでも、遅れていた受験勉強に没入していく。それがきっと、受験生にとして本来あるべき姿なのだと信じて。
小学生時代。時間の流れはもっと緩やかに感じられていた。夏休みも。夏休みが終わった後の二学期も。それこそ、未来永劫終わらないのではないかと思えたものだ。
それなのに、今年で最後なのだから、と気合いを入れ始まったはずの一年は足早に過ぎ去り、気付けばもう数ヶ月を残すのみ。
日々が充実していたから、そう感じられるだけ?
いや、違うな。
ただ単に、自分が時間を浪費していただけのこと。
どんなに泣いても笑っても、喜びの感情も後悔の念も全てを置き去りにして、季節は移り変わっていく。もう巻き戻すなど出来ない。季節と共に変わってしまった世界の姿。相変わらず告白すらできていない自分を認識すると、胸の辺りがちくりと痛んだ。
……ダメだ。ダメだ。
まだ十月が終わったばかりだというのに、何を感傷に浸っているのか。これが自分のダメなところ。
悴んだ手を温めるように息を吐きかけると、マフラーを巻き直して歩き始める。
校門を出ると、自宅の方角に向けて足を踏み出す。その直後のことだった。
「楠さん。少しだけ、時間ありますか?」
あたしを呼び止める声。立ち止まって振り向くと、校門の脇に佇む一人の男子生徒がいた。
二年生だろうか? 見たことのない顔だと思った。身長は然程高くなく、中性的で可愛らしい顔立ちをしている。酷く緊張しているのだろうか。唇は真一文字に結ばれており、視線はあっちを向いたりこっちを向いたり、忙しなく泳いで定まらない。
「大丈夫です。時間ならありますよ」
肩の力が抜けるようにと努めて笑顔で応えると、彼の表情からも、緊張の色が溶け出した。
「ここでは恥ずかしいので、場所を変えてもいいでしょうか?」と、彼が問い掛けてくる。
薄く笑みを浮かべながらも、いまだに震えてる声音。告白だろうか、という自惚れた考えが脳裏を過る。どうしてこんな時期になって、と疑問を抱いたところで、自分だって告白できていないじゃん、と自嘲した。
まあ、話を聞くだけならいいだろう。
そう考えてあたしは「いいですよ」と頷いた。
* * *
彼の後に着き従い辿り着いたのは、校舎裏にある体育用具室の前。扉を少し過ぎたあたりで彼は足を止めると、ゆっくりとした動作で振り返る。少し距離を置き、丁度扉の前で立ち止まった。
次第に、西日が強くなり始める時間帯。周辺に人の姿はなく、遠く聞こえる運動部員の掛け声以外に鼓膜を叩く音もない。二人の息遣いの音すらも鮮明に拾えるほど、辺りは静寂に満ちていた。
告白だったとしても、受け入れるつもりはなかった。
それでも、直ぐに拒絶することなくこうして着いてきた理由。それは、彼の気持ちを無下にしたくなかったから。一途に誰かを想い続けることの辛さも苦しさも、あたしは知っているのだから。なるべく彼を傷つけずに断る方法を、頭の中で模索し始める。
――気持ちは嬉しいけれど、ほかに好きな人がいます。
こんな感じだろうか。
――今は、誰とも付き合うつもりがないので。
嘘になってしまうけど、こっちの方がいいかな。告白なんて、したこともされたこともないあたしが、上手い断り方を考えている時点でなんだか滑稽だ。
……それにしても、少々様子がおかしい。彼は先ほどからずっと黙りこくったままで、何も話そうとしない。緊張しているから、という事情を差し引いたとしても、やはり何かがおかしいのではないか。
そう感じ始めたあたしが、自分から口を開こうとした矢先の出来事だった。
体育用具室の扉が突然開くと、身構える暇もなく中から出てきた手に腕を掴まれる。悲鳴を上げようとするも一瞬遅く、あっと言う間に中に引きずりこまれた。
しまった、と慄き辺りをうかがうと、腕を掴んでいた主と目が合う。「琉衣……」と彼女の名前を呼んだ直後、背後から口を塞がれ、羽交い絞めにされた。
男がいる……!
口を塞いでいる武骨な手の感触に怯えながら背後に目を向けると、知っている顔が見えた。他クラスの三年生で、瑠衣の交際相手。そして同時に悟る。どうやらこの二人に、嵌められたんだという事を。
背筋が一気に冷え込むと、体の震えが止まらなくなった。振りほどこうと抵抗するも適わず更に奥まで引き摺られると、ガシャンという無慈悲な音が響いて扉が閉まる。小さな明かり取りの窓しかない空間は、とたんに闇の色を深めた。
男は一旦、あたしを解放した。
「私ちゃんと警告したよね」と低い声で瑠衣が言った。「晃にちょっかいを出したらどうなるかって。花火大会の日、楽しそうに回ってたアンタたちを見て、早百合はずっと泣いてたんだよ。それとも何? 早百合はフラれたんだから、関係ないとでも思っていたのかしら?」
彼女は腰に手をあてながら、侮蔑するような眼差しを向けてくる。
「違う、そんなこと思ってない。それに、あたし達は友達として回ってただけ」
口を塞がれていた息苦しさから、軽く咳き込んだ。
「友達。……ふうん。宇都宮の花火大会に二人で出掛けるってのがどういう意味か、知らないわけじゃないんでしょ?」
「それはまあ……。でも、あたしは何もしてないじゃない? 晃君と付き合ってる訳でもないし。あの日だって数人で回る予定だったけど、律が用事あるって言うから……」
失言だったと即座に気が付き口を塞いだ。だがやはり、瑠衣は聞き流してくれなかった。
「へえ、用事。そのわりに律の奴、別の友達と歩いていたようだったけど?」
馬脚を露したなと言わんばかりに、瑠衣の目が細められる。
「ごめん違う……。本当にそんなんじゃないんだってば。あたしは晃君とは何にもない」
「別にさ、楠が晃と何かあったかどうか、なんて、そんなこと問題にしてるわけじゃないんだよ」
じゃあ、何が問題なの? どう返答するべきか、頭を働かせる。
「……でも、嘘じゃないんだって。あたしと福浦君は付き合ってないし、本当に友達として回ってただけで他意はない──」
「だ・か・ら!」と瑠衣が声を荒げた。「そもそも、そういう弁解がましいものの言い方が、気に入らないのよ!」
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
結局、彼女は自尊心を傷つけられたと思っているのかもしれない。この場をどう切り抜けるべきかと思案していると、瑠衣は私の表情を見て、途端にそぐわない優しい声を出した。
「何もしなくてもいいわ。そう、なんにも。ただ、『晃に二度と近づけなくなるような弱みが欲しい』それだけなのよ」
瑠衣がポケットからスマホを取り出す仕草に、何を言わんとしているのか想像がついて、背筋に悪寒が駆け抜ける。
彼女がカメラを起動しながら一歩下がると、入れ違いになって男の方が近づいてくる。彼は自分のベルトに手をかけカチャカチャと鳴らしつつ、首だけを回して彼女に確認を取った。
「もう、話はお終いか? ぶっちゃけ、どこまでやっちゃっていいの?」
「アンタの気が済むまででいいよ。なんなら、最後まで」
「へへ、そいつはいいや。でも、本当に大丈夫なんだろうな? 万が一にもこんな現場を見付かったら、俺もお前もただじゃ済まないぞ」
「大丈夫だって。入口なら私が抑えておくから、なるべく手短に済ませちゃってよ。それに、あんたどうせ早いでしょ?」
「失礼だなお前」
用具室の扉を押さえる瑠衣と、近づいてくる男の顔を交互に見ながら、背中を流れる汗の冷たさを意識した。退路を意識しながら後ずさるが、そこは所詮狭い用具室の中。たちまちのうちに、あたしは角まで追い詰められてしまう。
「いや……。お願いだから、やめて……!」
「ふへへっ! 怯える顔はたまんねえなあ!」
興奮した男はガバっとあたしを抱きすくめると、容赦なく床の上に押し倒される。背中を打ちつける固い感触に、一瞬息ができなくなる。
抱きつかれると、男の体格の良さがはっきりと感じられて全身を悪寒が駆け巡った。抗う事の出来ない膂力の差を見せつけられているようで、恐ろしくなってくる。
「いやっ」
叫び声を上げたいのに、すっかり乾いてカラカラになった喉からは殆ど声が出てこない。こんな時ですらも言葉が出ない自分のことが、心底忌々しい。
「そうだ。無駄な抵抗はやめておけ。そのまま抵抗せず大人しくしていれば、ちゃんと気持ちよくさせてやっから」
息を弾ませながら紡がれる男の声。
震えるだけで抵抗しないあたしに何か思うところがあったのか、彼は満足気に口元を歪めると、次第に手を動かし始めた。男の手が制服の裾から滑り込んでくると体がびくっと震えた。ブラウスのボタンが弾け飛んで、胸元が露わになった。
あまりの恥かしさから首だけを動かすと、瑠衣と視線がぶつかる。彼女はあたしの姿をカメラにおさめるため、楽し気な表情でスマホをこちらに向けていた。
太い腕に手をかけるも到底引き剥がせるはずもない。男はあたしの手を引き剥がして頭の上で拘束すると、首筋に舌を這わせてきた。
いや……。
いやだ……やめて……。
否定の言葉は相変わらず心中でだけ空回り。全身を襲う恐怖から普段以上に声がだせない。
次第に男の一方の手が、スカートの中にも忍び込んでくる。
両足をばたばたさせて逃れようとするも、男の全体重で抑えられていては、身じろぎすることもままならない。
膝を動かし、腰の位置をずらし、なんとか抵抗を試みるも、男の手を止めることは叶わない。這い上がってきた手が膝の上まで到達したとき、ようやく大きな声が漏れた。
「いやあ……!!」
それは、あたしが叫んだ直後のことだった。「晃、なんで!」という琉衣の狼狽えた声と一緒に扉が乱暴に開かれると、視界にも僅かに明るさが戻る。
異常を感じ取った男が「何だ?」と間抜けな声を上げて振り返った瞬間、踏み込んできた晃君のパンチが男の顔面を真横から捉えた。男の体はたまらず一瞬浮き上がると、そのまま用具室の床に転がった。
「晃君!」
あたしが身体を起こして声を掛けると、
「すまん、遅くなった」
とこちらに目を向けることなく、彼が答えた。
男は頭を振って立ち上がると、怒りの形相で晃君を睨みつける。体格では柔道部所属の男の方が遥かに勝っている。晃君は油断なく腰を落とすと、相手の出方をうかがった。
瑠衣は罪の呵責に苛まれたのか、怯えた表情を浮かべて逃げようと試みたが、直後に聞こえた「先生、こっちです!」という玲の声に続いて踏み込んできた二人の男性教師によって阻まれた。
こうなると最早、観念するしかないと悟ったのだろう。二人は途端に大人しくなると、そのまま教師に連れられて出て行った。
ここまでの顛末を見届けてからようやく、あたしの目から涙が零れ落ちた。それはきっと十数分程度の短い時間だったのだろうが、それこそ無限に終わらないのではないかと思える程に、長くて恐ろしい時間だった。
「恭子──」
と言いかけて、あたしの制服がかなり乱れてる事に気付いた晃君が、慌てて背中を向けた。
入れ替わりに玲がやって来て「ほら、取り敢えずこれに着替えて」とあたしにジャージを差し出すと、彼から見えないように背中で庇った。
「着替え終わるまで、こっち見ないでよね。えっち、へんたい」
玲が振り返って舌を出した。
「酷いな玲、流石に不可抗力だよ……。でも、ごめん。見るつもりは無かったんだ」
と彼は頭を掻きながら、恥ずかしそうに言った。
「二人ともありがとう……。でもどうして、この場所にあたしが居るってわかったの?」
「玲のやつが、校舎の裏に向かって行く恭子と男子生徒を見てたんだ。それで、しばらく戻って来ないから、おかしいんじゃないかって。気のせいじゃないのかって疑いながら見に来たんだけど、恭子の叫び声が聞こえてきたから、ここだと分かって踏み込んだんだ」
「……怖かったね、恭子。よく我慢した。それと、本当に間に合って良かった」
玲が、あたしを両手で抱きしめた。二人の声を聞いているうちに、強く脈打っていた鼓動も治まり、気持ちがすっと落ち着いてくる。安堵から心に緩みが入った瞬間、涙が止まらなくなってしまう。
そのまま玲に抱き着いて、しばらく泣き続けた。ごめんね……ごめんね……と何度も繰り返し泣き続けた。
十月の最終日。放課後。
「図書館で、自習してから帰るよ」と告げた律に手を振って別れると、あたしは一人、昇降口を目指して歩き始めた。
警察官になりたい、という明白な目標を掲げた律は、ここ最近、採用試験に向け熱心に勉学に勤しんでいる。頑張っている親友の姿を間近で見るたび、自分との差、みたいなものを感じ取り、焦燥にかられてしまう。
生徒用玄関を出て校門まで至る道すがら、校庭の隅を彩る銀杏の木々に視線を向けた。つい先日まで、鮮やかな黄色に包まれていたはずのそれは、所々が茶褐色に変色しまるで虫食い状態。
落としかけた溜め息をかき消すように、校庭の向こう側から耳に馴染んだ金属音が聞こえてくると、あたしは耳をそばだて足を止めた。
金属音に混ざって聞こえてくるのは、栃木訛りの強い掛け声だ。野球部が、放課後の練習をしている音、音、音。けれど、三年生が引退して去った今、当たり前の話だがグラウンドに晃君の姿など無い。
季節は移ろっていく。
吹奏楽部で毎日抱えていたサクソフォンを後輩の二年生に託し、あたしは部活動を引退した。毎日足繁く通いつめていた音楽室とも、すっかり疎遠になっていた。
放課後の予定がなくなると、次第に帰宅してからの時間を持て余すようになる。次第に、大した目的もなく、ただ漠然と大学進学を目指している自分の浅慮が浮き彫りになると、昔から変わることのない主体性の無さに嫌気が差した。それでも、遅れていた受験勉強に没入していく。それがきっと、受験生にとして本来あるべき姿なのだと信じて。
小学生時代。時間の流れはもっと緩やかに感じられていた。夏休みも。夏休みが終わった後の二学期も。それこそ、未来永劫終わらないのではないかと思えたものだ。
それなのに、今年で最後なのだから、と気合いを入れ始まったはずの一年は足早に過ぎ去り、気付けばもう数ヶ月を残すのみ。
日々が充実していたから、そう感じられるだけ?
いや、違うな。
ただ単に、自分が時間を浪費していただけのこと。
どんなに泣いても笑っても、喜びの感情も後悔の念も全てを置き去りにして、季節は移り変わっていく。もう巻き戻すなど出来ない。季節と共に変わってしまった世界の姿。相変わらず告白すらできていない自分を認識すると、胸の辺りがちくりと痛んだ。
……ダメだ。ダメだ。
まだ十月が終わったばかりだというのに、何を感傷に浸っているのか。これが自分のダメなところ。
悴んだ手を温めるように息を吐きかけると、マフラーを巻き直して歩き始める。
校門を出ると、自宅の方角に向けて足を踏み出す。その直後のことだった。
「楠さん。少しだけ、時間ありますか?」
あたしを呼び止める声。立ち止まって振り向くと、校門の脇に佇む一人の男子生徒がいた。
二年生だろうか? 見たことのない顔だと思った。身長は然程高くなく、中性的で可愛らしい顔立ちをしている。酷く緊張しているのだろうか。唇は真一文字に結ばれており、視線はあっちを向いたりこっちを向いたり、忙しなく泳いで定まらない。
「大丈夫です。時間ならありますよ」
肩の力が抜けるようにと努めて笑顔で応えると、彼の表情からも、緊張の色が溶け出した。
「ここでは恥ずかしいので、場所を変えてもいいでしょうか?」と、彼が問い掛けてくる。
薄く笑みを浮かべながらも、いまだに震えてる声音。告白だろうか、という自惚れた考えが脳裏を過る。どうしてこんな時期になって、と疑問を抱いたところで、自分だって告白できていないじゃん、と自嘲した。
まあ、話を聞くだけならいいだろう。
そう考えてあたしは「いいですよ」と頷いた。
* * *
彼の後に着き従い辿り着いたのは、校舎裏にある体育用具室の前。扉を少し過ぎたあたりで彼は足を止めると、ゆっくりとした動作で振り返る。少し距離を置き、丁度扉の前で立ち止まった。
次第に、西日が強くなり始める時間帯。周辺に人の姿はなく、遠く聞こえる運動部員の掛け声以外に鼓膜を叩く音もない。二人の息遣いの音すらも鮮明に拾えるほど、辺りは静寂に満ちていた。
告白だったとしても、受け入れるつもりはなかった。
それでも、直ぐに拒絶することなくこうして着いてきた理由。それは、彼の気持ちを無下にしたくなかったから。一途に誰かを想い続けることの辛さも苦しさも、あたしは知っているのだから。なるべく彼を傷つけずに断る方法を、頭の中で模索し始める。
――気持ちは嬉しいけれど、ほかに好きな人がいます。
こんな感じだろうか。
――今は、誰とも付き合うつもりがないので。
嘘になってしまうけど、こっちの方がいいかな。告白なんて、したこともされたこともないあたしが、上手い断り方を考えている時点でなんだか滑稽だ。
……それにしても、少々様子がおかしい。彼は先ほどからずっと黙りこくったままで、何も話そうとしない。緊張しているから、という事情を差し引いたとしても、やはり何かがおかしいのではないか。
そう感じ始めたあたしが、自分から口を開こうとした矢先の出来事だった。
体育用具室の扉が突然開くと、身構える暇もなく中から出てきた手に腕を掴まれる。悲鳴を上げようとするも一瞬遅く、あっと言う間に中に引きずりこまれた。
しまった、と慄き辺りをうかがうと、腕を掴んでいた主と目が合う。「琉衣……」と彼女の名前を呼んだ直後、背後から口を塞がれ、羽交い絞めにされた。
男がいる……!
口を塞いでいる武骨な手の感触に怯えながら背後に目を向けると、知っている顔が見えた。他クラスの三年生で、瑠衣の交際相手。そして同時に悟る。どうやらこの二人に、嵌められたんだという事を。
背筋が一気に冷え込むと、体の震えが止まらなくなった。振りほどこうと抵抗するも適わず更に奥まで引き摺られると、ガシャンという無慈悲な音が響いて扉が閉まる。小さな明かり取りの窓しかない空間は、とたんに闇の色を深めた。
男は一旦、あたしを解放した。
「私ちゃんと警告したよね」と低い声で瑠衣が言った。「晃にちょっかいを出したらどうなるかって。花火大会の日、楽しそうに回ってたアンタたちを見て、早百合はずっと泣いてたんだよ。それとも何? 早百合はフラれたんだから、関係ないとでも思っていたのかしら?」
彼女は腰に手をあてながら、侮蔑するような眼差しを向けてくる。
「違う、そんなこと思ってない。それに、あたし達は友達として回ってただけ」
口を塞がれていた息苦しさから、軽く咳き込んだ。
「友達。……ふうん。宇都宮の花火大会に二人で出掛けるってのがどういう意味か、知らないわけじゃないんでしょ?」
「それはまあ……。でも、あたしは何もしてないじゃない? 晃君と付き合ってる訳でもないし。あの日だって数人で回る予定だったけど、律が用事あるって言うから……」
失言だったと即座に気が付き口を塞いだ。だがやはり、瑠衣は聞き流してくれなかった。
「へえ、用事。そのわりに律の奴、別の友達と歩いていたようだったけど?」
馬脚を露したなと言わんばかりに、瑠衣の目が細められる。
「ごめん違う……。本当にそんなんじゃないんだってば。あたしは晃君とは何にもない」
「別にさ、楠が晃と何かあったかどうか、なんて、そんなこと問題にしてるわけじゃないんだよ」
じゃあ、何が問題なの? どう返答するべきか、頭を働かせる。
「……でも、嘘じゃないんだって。あたしと福浦君は付き合ってないし、本当に友達として回ってただけで他意はない──」
「だ・か・ら!」と瑠衣が声を荒げた。「そもそも、そういう弁解がましいものの言い方が、気に入らないのよ!」
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
結局、彼女は自尊心を傷つけられたと思っているのかもしれない。この場をどう切り抜けるべきかと思案していると、瑠衣は私の表情を見て、途端にそぐわない優しい声を出した。
「何もしなくてもいいわ。そう、なんにも。ただ、『晃に二度と近づけなくなるような弱みが欲しい』それだけなのよ」
瑠衣がポケットからスマホを取り出す仕草に、何を言わんとしているのか想像がついて、背筋に悪寒が駆け抜ける。
彼女がカメラを起動しながら一歩下がると、入れ違いになって男の方が近づいてくる。彼は自分のベルトに手をかけカチャカチャと鳴らしつつ、首だけを回して彼女に確認を取った。
「もう、話はお終いか? ぶっちゃけ、どこまでやっちゃっていいの?」
「アンタの気が済むまででいいよ。なんなら、最後まで」
「へへ、そいつはいいや。でも、本当に大丈夫なんだろうな? 万が一にもこんな現場を見付かったら、俺もお前もただじゃ済まないぞ」
「大丈夫だって。入口なら私が抑えておくから、なるべく手短に済ませちゃってよ。それに、あんたどうせ早いでしょ?」
「失礼だなお前」
用具室の扉を押さえる瑠衣と、近づいてくる男の顔を交互に見ながら、背中を流れる汗の冷たさを意識した。退路を意識しながら後ずさるが、そこは所詮狭い用具室の中。たちまちのうちに、あたしは角まで追い詰められてしまう。
「いや……。お願いだから、やめて……!」
「ふへへっ! 怯える顔はたまんねえなあ!」
興奮した男はガバっとあたしを抱きすくめると、容赦なく床の上に押し倒される。背中を打ちつける固い感触に、一瞬息ができなくなる。
抱きつかれると、男の体格の良さがはっきりと感じられて全身を悪寒が駆け巡った。抗う事の出来ない膂力の差を見せつけられているようで、恐ろしくなってくる。
「いやっ」
叫び声を上げたいのに、すっかり乾いてカラカラになった喉からは殆ど声が出てこない。こんな時ですらも言葉が出ない自分のことが、心底忌々しい。
「そうだ。無駄な抵抗はやめておけ。そのまま抵抗せず大人しくしていれば、ちゃんと気持ちよくさせてやっから」
息を弾ませながら紡がれる男の声。
震えるだけで抵抗しないあたしに何か思うところがあったのか、彼は満足気に口元を歪めると、次第に手を動かし始めた。男の手が制服の裾から滑り込んでくると体がびくっと震えた。ブラウスのボタンが弾け飛んで、胸元が露わになった。
あまりの恥かしさから首だけを動かすと、瑠衣と視線がぶつかる。彼女はあたしの姿をカメラにおさめるため、楽し気な表情でスマホをこちらに向けていた。
太い腕に手をかけるも到底引き剥がせるはずもない。男はあたしの手を引き剥がして頭の上で拘束すると、首筋に舌を這わせてきた。
いや……。
いやだ……やめて……。
否定の言葉は相変わらず心中でだけ空回り。全身を襲う恐怖から普段以上に声がだせない。
次第に男の一方の手が、スカートの中にも忍び込んでくる。
両足をばたばたさせて逃れようとするも、男の全体重で抑えられていては、身じろぎすることもままならない。
膝を動かし、腰の位置をずらし、なんとか抵抗を試みるも、男の手を止めることは叶わない。這い上がってきた手が膝の上まで到達したとき、ようやく大きな声が漏れた。
「いやあ……!!」
それは、あたしが叫んだ直後のことだった。「晃、なんで!」という琉衣の狼狽えた声と一緒に扉が乱暴に開かれると、視界にも僅かに明るさが戻る。
異常を感じ取った男が「何だ?」と間抜けな声を上げて振り返った瞬間、踏み込んできた晃君のパンチが男の顔面を真横から捉えた。男の体はたまらず一瞬浮き上がると、そのまま用具室の床に転がった。
「晃君!」
あたしが身体を起こして声を掛けると、
「すまん、遅くなった」
とこちらに目を向けることなく、彼が答えた。
男は頭を振って立ち上がると、怒りの形相で晃君を睨みつける。体格では柔道部所属の男の方が遥かに勝っている。晃君は油断なく腰を落とすと、相手の出方をうかがった。
瑠衣は罪の呵責に苛まれたのか、怯えた表情を浮かべて逃げようと試みたが、直後に聞こえた「先生、こっちです!」という玲の声に続いて踏み込んできた二人の男性教師によって阻まれた。
こうなると最早、観念するしかないと悟ったのだろう。二人は途端に大人しくなると、そのまま教師に連れられて出て行った。
ここまでの顛末を見届けてからようやく、あたしの目から涙が零れ落ちた。それはきっと十数分程度の短い時間だったのだろうが、それこそ無限に終わらないのではないかと思える程に、長くて恐ろしい時間だった。
「恭子──」
と言いかけて、あたしの制服がかなり乱れてる事に気付いた晃君が、慌てて背中を向けた。
入れ替わりに玲がやって来て「ほら、取り敢えずこれに着替えて」とあたしにジャージを差し出すと、彼から見えないように背中で庇った。
「着替え終わるまで、こっち見ないでよね。えっち、へんたい」
玲が振り返って舌を出した。
「酷いな玲、流石に不可抗力だよ……。でも、ごめん。見るつもりは無かったんだ」
と彼は頭を掻きながら、恥ずかしそうに言った。
「二人ともありがとう……。でもどうして、この場所にあたしが居るってわかったの?」
「玲のやつが、校舎の裏に向かって行く恭子と男子生徒を見てたんだ。それで、しばらく戻って来ないから、おかしいんじゃないかって。気のせいじゃないのかって疑いながら見に来たんだけど、恭子の叫び声が聞こえてきたから、ここだと分かって踏み込んだんだ」
「……怖かったね、恭子。よく我慢した。それと、本当に間に合って良かった」
玲が、あたしを両手で抱きしめた。二人の声を聞いているうちに、強く脈打っていた鼓動も治まり、気持ちがすっと落ち着いてくる。安堵から心に緩みが入った瞬間、涙が止まらなくなってしまう。
そのまま玲に抱き着いて、しばらく泣き続けた。ごめんね……ごめんね……と何度も繰り返し泣き続けた。
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