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第一章:楠恭子の日記(サイドA)
20**/04/07(月)始まりの季節
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◆20**年4月7日 (月曜日)
学校へと続く坂道の両脇には、咲き始めの桜の木が等間隔に並んでいた。淡いピンク色に変化し始めている蕾が、新しい季節の訪れを、伝えようとしているかのようだ。
誰が好んで、あんな場所に校門を備えたのだろうか。長い坂道を登りきると、ようやく真新しい校舎の姿が目に飛び込んでくる。二階建ての、白い壁に覆われた綺麗な建物。それはあたしが通う、私立照葉学園の校舎だった。
ふと、二階の窓から顔を出している三年生の男子生徒が目に留まる。名前を思い出そうと数秒思案し、思い出せないことに気がつき諦めた。確か一年生のとき、同じクラスだったはずなのに。相変わらず他人には無関心だよね、と自分の淡泊さに辟易してしまう。
ミディアムボブの重たい黒髪。飾り気のない校則通りの着こなしと青っちろい顔。三年間、変えられなかった冴えない容姿と同様に、なんの代り映えもない自分の日常。
高校生活の三年目が、始まったというだけの事。そんな鬱々とした感情に捉われたまま、昇降口をくぐって校舎の中に入った。
「おっはよー恭子」
上履きに踵を通しているとき、横から声を掛けられる。顔を上げると、二人の女子生徒が立っていた。
そのうちの一人。栗色のショートカットで、あたしより頭半分ほど背が高い彼女の名前は渡辺美也。女子バレー部が強いことで有名な照葉学園で、エースアタッカーを務めるスポーツ少女である。
もう一人の名前は上田律。
そばかすと、好奇心が強そうな瞳。微かに茶髪がかったポニーテールが、楽しげに揺れる。律はあたしにとっては数少ない、小学生時代から続く親友の一人だった。
「おはよ~律、美也。クラス発表、もう見てきた?」
「もちろん見てきたよ! んー確か恭子はA組だったかな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、別に見に行かなくていいかな。で、律は何組?」
「私はね……残念ながらC組。つ、い、に、別れちゃったね」
「うわ~……そっか、残念」
あたしと律は、一年生の時からずっと同じクラスだった。最後の年になってから別れてしまうなんて皮肉だな、と軽く落胆してしまう。
「え、マジで? 私はB組だから、見事にみんなバラバラになったじゃん」
あたしと律の会話に美也が割り込んでくると、新学期早々先行き明るくない話だね、と思わず三人顔を見合わせて苦笑い。
ローファーを片付け上履きに替えると、三階にある三年生の教室をみんなで目指した。
「春休みの課題、全部終わらせた?」
階段を登りながら、隣の律が訊いてくる。あたし達の立ち位置は、律を真ん中にして左右にあたしと美也になりがちだ。律を中心にして成り立っている関係っていうのが、こんなところからもよく分かる。
「……まあ、一応はね」
「そっか~。さすがだな恭子は。私はね、ちょっとヤバいかも……」
「そこで感心してどうする。宿題ってのはやるのが当たり前なんだ」
律が項垂れると、即座に美也の突っ込みが飛んできた。美也は文武両道を体現する女の子で、なんでもそつなくこなす。スポーツ一辺倒だと思われがちだが、その実、試験の成績も常に中の上辺りをキープする。
「そんな調子で大丈夫? 律」
あたしがうかがいを立てると、「提出日は明日だから、今晩中に追い込む。マークシートみたいにちゃちゃっとね」と律が宣言した。
「書き物の宿題が大半なのに、どうやってマークシートみたいにいくのよ」
相変わらずだね、とあたしが笑うと「まあね。私らしいじゃん?」と律が自慢げに胸を張る。そこ、威張るところじゃないと思うんだけど、実際彼女は要領がいいので、どうにかこうにか終わらせてしまうんだろう。
「そういえばさ」と思い出したように律が明るい声を出した。現実逃避始めたな。「A組の担任、小園だったよ」
でもその情報。あたしにとっては全然嬉しくなかった。
「ええ~マジで~? ヤダな~ホームルーム長そうじゃん……。それに、吹部のことで、なんやかんやと小言を言われそう」
「確かにね……ご愁傷様だね、恭子」
美也が肩を竦めて同意した。小園先生というのは、あたしが所属している吹奏楽部の顧問であり三十代の男性教師。優しくて実直だけど、少々頭の固いところがある。一年生の頃から音が出せずに難儀していたあたしは、結構心配を掛けたり怒られたりしたもんだ。
「で、美也は最近どうよ? 愛しの広瀬君と話できた?」
律がニヤけ顔で話題を変えると、美也は盛大に狼狽えてみせた。
「な!? 何言ってんだよ、アイツとは只の幼馴染! 会話とか……狙ってするもんじゃないし……」
百七十を超える長身に似合わぬしょんぼりした声で、美也は語尾を濁した。
男勝りの口調とは裏腹に、美也は案外とシャイだ。だからこんな風に、積極的で明るい律にたびたびからかわれる羽目に陥る。
「ああ~」と律はこめかみに指をあて嘆息した。「それでもう分かったわ。進展なしね。むしろ会話は狙ってするもんじゃんよ、美也。時と相手によってはだけど」
「その使い方、文法的におかしくない……?」
二人の恋愛話に横槍を入れながら、あたしはぼんやりと思う。それこそ自分は、どうするつもりなんだろう──と。
新学期によく見かける平凡な会話を続けながら階段を登りきると、やがて三階までたどり着く。三Aと書かれた表札を見上げて、あたし達は足を止めた。
「じゃあ、あたしのクラスここだから。また放課後にね」
「おう、またな」
「じゃあね~恭子。愛してるよ~」
律と美也が口々に言葉を返してくる。
「もう……律ったら」
嘆息しながら奥の教室を目指した背中を見送り、A組の教室へと入った。
知ってる顔と知らない顔が半々位の面々。そのうちの何人かが好奇の眼差しを向けてきたが、すぐに感心のある対象でないと気づいたのだろう、やがて元の会話へと戻っていった。
──あたしが抱える問題、その一。はっきり言って友達が多くない。前述の律と美也を含めても、友人と呼べるのはきっと三人だけだ。
小さく息を吐き出すと、誰とも目を合わせることなく、真っすぐに座席表が貼られている黒板を目指した。
──え~と。あたしの席はどこかな。
クラスメイトの名前は特に気にも留めず、自分の名前だけを探して視線を走らせる。
……『楠恭子』あった。
窓際の後ろから三番目。結構イイかも。授業の声を聞き流しながら、ぼんやりと窓の外を眺められる絶好の位置。予想外のところから降ってわいたささやかな幸せに胸を弾ませながら、新しい自分の席へと着いた。
「あれ……楠さんと一緒のクラスになるの、初めてだよね。俺のこと知ってるかな?」
鞄を机の上に置いた瞬間に聞こえた声に、心臓がトクンと小さく跳ねる。
恐る恐る顔を上げてみると、斜め前の席から首だけをこちらに向けて、左手を差し出してくる男子生徒の姿が目に映る。
坊主でこそ無いものの、短く刈り揃えた茶髪。整った輪郭線に収まるのは、くりっとした大きめの丸い瞳。中肉中背って言うのかな? 高校に入学してからずっと、追い掛け続けていた背中が其処にあった。
──問題、その二。あたしは彼に片想いをしている。名前を福浦晃君といい、野球部に所属している男の子だ。そして、福浦君と一緒に過ごせる時間は、高校卒業までの一年弱しか残っていない。
なんの進展もないまま、あれからもう二年が経つ。
初めて彼を見かけた入学式の日も、今日と同じように笑ってた。その人懐っこい笑みに、一瞬で恋に堕ちた。辞書で一目惚れという単語を引いたなら、あの日の感情を上手く言葉にしてくれるだろうか。
「福浦……君」
……触ってもいいのかな。自分でも驚くほど震える手で、そっと彼の指先を握った。
「なんでそんなに怯えてるの?」
びくついたあたしの反応を楽しむように、ぎゅっと手のひらご彼がと握り返してくる。意想外の力の強さに、小さく悲鳴が漏れた。
「……なんか面白いね、楠さんって。これから一年間、宜しくね」
そう言って彼は少し歯を見せると、いつものようにあどけなく笑った。
代わり映えしなかった毎日は、この瞬間に終わりを告げる。そして……楽しかったけれど、同時に辛かった高校生活最後の一年が、ここから──始まったんだ。
学校へと続く坂道の両脇には、咲き始めの桜の木が等間隔に並んでいた。淡いピンク色に変化し始めている蕾が、新しい季節の訪れを、伝えようとしているかのようだ。
誰が好んで、あんな場所に校門を備えたのだろうか。長い坂道を登りきると、ようやく真新しい校舎の姿が目に飛び込んでくる。二階建ての、白い壁に覆われた綺麗な建物。それはあたしが通う、私立照葉学園の校舎だった。
ふと、二階の窓から顔を出している三年生の男子生徒が目に留まる。名前を思い出そうと数秒思案し、思い出せないことに気がつき諦めた。確か一年生のとき、同じクラスだったはずなのに。相変わらず他人には無関心だよね、と自分の淡泊さに辟易してしまう。
ミディアムボブの重たい黒髪。飾り気のない校則通りの着こなしと青っちろい顔。三年間、変えられなかった冴えない容姿と同様に、なんの代り映えもない自分の日常。
高校生活の三年目が、始まったというだけの事。そんな鬱々とした感情に捉われたまま、昇降口をくぐって校舎の中に入った。
「おっはよー恭子」
上履きに踵を通しているとき、横から声を掛けられる。顔を上げると、二人の女子生徒が立っていた。
そのうちの一人。栗色のショートカットで、あたしより頭半分ほど背が高い彼女の名前は渡辺美也。女子バレー部が強いことで有名な照葉学園で、エースアタッカーを務めるスポーツ少女である。
もう一人の名前は上田律。
そばかすと、好奇心が強そうな瞳。微かに茶髪がかったポニーテールが、楽しげに揺れる。律はあたしにとっては数少ない、小学生時代から続く親友の一人だった。
「おはよ~律、美也。クラス発表、もう見てきた?」
「もちろん見てきたよ! んー確か恭子はA組だったかな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、別に見に行かなくていいかな。で、律は何組?」
「私はね……残念ながらC組。つ、い、に、別れちゃったね」
「うわ~……そっか、残念」
あたしと律は、一年生の時からずっと同じクラスだった。最後の年になってから別れてしまうなんて皮肉だな、と軽く落胆してしまう。
「え、マジで? 私はB組だから、見事にみんなバラバラになったじゃん」
あたしと律の会話に美也が割り込んでくると、新学期早々先行き明るくない話だね、と思わず三人顔を見合わせて苦笑い。
ローファーを片付け上履きに替えると、三階にある三年生の教室をみんなで目指した。
「春休みの課題、全部終わらせた?」
階段を登りながら、隣の律が訊いてくる。あたし達の立ち位置は、律を真ん中にして左右にあたしと美也になりがちだ。律を中心にして成り立っている関係っていうのが、こんなところからもよく分かる。
「……まあ、一応はね」
「そっか~。さすがだな恭子は。私はね、ちょっとヤバいかも……」
「そこで感心してどうする。宿題ってのはやるのが当たり前なんだ」
律が項垂れると、即座に美也の突っ込みが飛んできた。美也は文武両道を体現する女の子で、なんでもそつなくこなす。スポーツ一辺倒だと思われがちだが、その実、試験の成績も常に中の上辺りをキープする。
「そんな調子で大丈夫? 律」
あたしがうかがいを立てると、「提出日は明日だから、今晩中に追い込む。マークシートみたいにちゃちゃっとね」と律が宣言した。
「書き物の宿題が大半なのに、どうやってマークシートみたいにいくのよ」
相変わらずだね、とあたしが笑うと「まあね。私らしいじゃん?」と律が自慢げに胸を張る。そこ、威張るところじゃないと思うんだけど、実際彼女は要領がいいので、どうにかこうにか終わらせてしまうんだろう。
「そういえばさ」と思い出したように律が明るい声を出した。現実逃避始めたな。「A組の担任、小園だったよ」
でもその情報。あたしにとっては全然嬉しくなかった。
「ええ~マジで~? ヤダな~ホームルーム長そうじゃん……。それに、吹部のことで、なんやかんやと小言を言われそう」
「確かにね……ご愁傷様だね、恭子」
美也が肩を竦めて同意した。小園先生というのは、あたしが所属している吹奏楽部の顧問であり三十代の男性教師。優しくて実直だけど、少々頭の固いところがある。一年生の頃から音が出せずに難儀していたあたしは、結構心配を掛けたり怒られたりしたもんだ。
「で、美也は最近どうよ? 愛しの広瀬君と話できた?」
律がニヤけ顔で話題を変えると、美也は盛大に狼狽えてみせた。
「な!? 何言ってんだよ、アイツとは只の幼馴染! 会話とか……狙ってするもんじゃないし……」
百七十を超える長身に似合わぬしょんぼりした声で、美也は語尾を濁した。
男勝りの口調とは裏腹に、美也は案外とシャイだ。だからこんな風に、積極的で明るい律にたびたびからかわれる羽目に陥る。
「ああ~」と律はこめかみに指をあて嘆息した。「それでもう分かったわ。進展なしね。むしろ会話は狙ってするもんじゃんよ、美也。時と相手によってはだけど」
「その使い方、文法的におかしくない……?」
二人の恋愛話に横槍を入れながら、あたしはぼんやりと思う。それこそ自分は、どうするつもりなんだろう──と。
新学期によく見かける平凡な会話を続けながら階段を登りきると、やがて三階までたどり着く。三Aと書かれた表札を見上げて、あたし達は足を止めた。
「じゃあ、あたしのクラスここだから。また放課後にね」
「おう、またな」
「じゃあね~恭子。愛してるよ~」
律と美也が口々に言葉を返してくる。
「もう……律ったら」
嘆息しながら奥の教室を目指した背中を見送り、A組の教室へと入った。
知ってる顔と知らない顔が半々位の面々。そのうちの何人かが好奇の眼差しを向けてきたが、すぐに感心のある対象でないと気づいたのだろう、やがて元の会話へと戻っていった。
──あたしが抱える問題、その一。はっきり言って友達が多くない。前述の律と美也を含めても、友人と呼べるのはきっと三人だけだ。
小さく息を吐き出すと、誰とも目を合わせることなく、真っすぐに座席表が貼られている黒板を目指した。
──え~と。あたしの席はどこかな。
クラスメイトの名前は特に気にも留めず、自分の名前だけを探して視線を走らせる。
……『楠恭子』あった。
窓際の後ろから三番目。結構イイかも。授業の声を聞き流しながら、ぼんやりと窓の外を眺められる絶好の位置。予想外のところから降ってわいたささやかな幸せに胸を弾ませながら、新しい自分の席へと着いた。
「あれ……楠さんと一緒のクラスになるの、初めてだよね。俺のこと知ってるかな?」
鞄を机の上に置いた瞬間に聞こえた声に、心臓がトクンと小さく跳ねる。
恐る恐る顔を上げてみると、斜め前の席から首だけをこちらに向けて、左手を差し出してくる男子生徒の姿が目に映る。
坊主でこそ無いものの、短く刈り揃えた茶髪。整った輪郭線に収まるのは、くりっとした大きめの丸い瞳。中肉中背って言うのかな? 高校に入学してからずっと、追い掛け続けていた背中が其処にあった。
──問題、その二。あたしは彼に片想いをしている。名前を福浦晃君といい、野球部に所属している男の子だ。そして、福浦君と一緒に過ごせる時間は、高校卒業までの一年弱しか残っていない。
なんの進展もないまま、あれからもう二年が経つ。
初めて彼を見かけた入学式の日も、今日と同じように笑ってた。その人懐っこい笑みに、一瞬で恋に堕ちた。辞書で一目惚れという単語を引いたなら、あの日の感情を上手く言葉にしてくれるだろうか。
「福浦……君」
……触ってもいいのかな。自分でも驚くほど震える手で、そっと彼の指先を握った。
「なんでそんなに怯えてるの?」
びくついたあたしの反応を楽しむように、ぎゅっと手のひらご彼がと握り返してくる。意想外の力の強さに、小さく悲鳴が漏れた。
「……なんか面白いね、楠さんって。これから一年間、宜しくね」
そう言って彼は少し歯を見せると、いつものようにあどけなく笑った。
代わり映えしなかった毎日は、この瞬間に終わりを告げる。そして……楽しかったけれど、同時に辛かった高校生活最後の一年が、ここから──始まったんだ。
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