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第一章:幼馴染たち

『広瀬慎吾③』

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 翌日の朝。昇降口で上履きに替えていると、ばったり渡辺美也と出くわした。
 僕は顔を伏せながら、手短に「おはよう」と伝えた。向こうも淡白に、「おう」とだけ答えた。終始一度も目を合わせることなく擦れ違うと、各々の教室を目指した。

 女なら、もうちょっと可愛げのあるリアクションしろよ。

 変わり果ててしまった幼馴染の姿に、なんとなく苛々を募らせながら一日をスタートさせることになった。自分だって、彼女と自分の境遇を比較して勝手に不貞腐れているくせに。それがわかっているだけに、よけいに苛々する。
 わだかまりを抱えたまま授業を受け、放課後を迎える。
 昨日の放課後に起こった、僕が桐原悠里を自宅まで送り届けるという偶発的イベント。こんな巡り合わせも一度限りでお終いだろうと、この時の僕は高を括っていた。
 ところが、である。
 今日も部活動の片付けを終え音楽室を出ると、昨日と同じように、桐原さんは暗い廊下に一人で佇んでいた。筆談で、『今日も一緒に帰る?』と一応尋ねてみると、小動物のように首をこくこくと傾けた。なんか、首もげそう……
 桐原さんが暗い夜道を怖がっていること。両親の帰宅が遅いことを知っている僕は、当然放っておけるはずもない。結局この日も一緒に下校した。

 上手いこと利用されている気がしないでもないが、二人で下校する放課後は、次第に日課のように繰り返されていく。
 日が落ちる前に学校を出られる部活動休養日を除けば、週に約二日。そして週に三日と増え、気がつけばほぼ毎日のように、通学路を一緒に歩くようになっていった。

 コミュニケーションの取り方にも、そのうちパターンが生まれる。
 最初に交わす会話は、僕が胸に手を当てて『僕と』と表現し、次に指先を廊下の先に向けることで、『一緒に帰る?』という質問だ。そんな感じの身振り手振りで伝えると、彼女は小動物のように首を縦にこくこく揺らした。
 ちょっとだけ可愛い。相変わらず、髪の色凄いけど。
 これだけ目立った行動をしていると、次第に、僕たち二人の関係を詮索するような噂も立ち始める。いわゆる『桐原悠里と、広瀬慎吾は付き合っている』こんな噂だ。
 別にその噂を迷惑だ、とまでは思わない。多少煩わしく感じていたのも事実だが、僕の意見を述べさせて貰えば、好意を抱いてそうしているわけじゃない。保護者的な感覚で行っているだけのこと。だから訊かれるたびに否定はしておいた。僕たち二人は、決して男女の関係なんかじゃない、とね。

 さて、問題だらけだった吹奏楽部の方にも、次第に変化の兆しが見え始める。
 金管ほどではないにしろ、音割れが酷く一年生の構え方がめちゃくちゃだった木管パートも、音が長く強く出せるようになっていたし、金管にしても、トランペットの律が以前にも増して音に安定感が出てきたのが、部員全体に良い刺激をもたらしていた。
 なんだかんだ言っても、コンクールで良い成績を収めるために一番影響するのは金管楽器。中でもとりわけトランペットやサクソフォンだ。これらのパートが安定した音を出していれば、全体がレベルの高い演奏に聞こえる。
 安定してきた律と、愚直な練習の甲斐あって、強く、長く、音を出せるようになってきた恭子のサクソフォンが部員全体をけん引し、ここ最近は、全体練習でも非常に締まった音が出るようになっていた。

「よし、じゃあ今日はここまでにしましょう」
『お疲れ様でした!』

 全体練習を終えて、後片付けも一通り済んだ音楽室。部員がみな退室しいなくなったころ。帰り支度を既に終えていた律が、柄にもなく気後れするような口調で話しかけてきた。

「慎吾ってさ、小学校時代は野球上手かったんでしょ? なんで辞めてしまったの?」

 窓から射し込んでいるオレンジ色の光が、そばかすの浮いた律の横顔を仄かに朱に染めている。
 一方で、僕は思わず頭を抱えてしまった。この間、訊かれなくて良かったと胸を撫で下ろしていたのに、結局は詮索してくるのかと。

「そうだなあ。簡単に言うと、限界を感じてしまったんだよ」
「……限界? そう感じてしまう切っ掛けでもあったの?」
「まあ、そうだね」と前置きをした上で、僕は語り始める。

 あれは小学校六年生の、最後の大会での話。僕たちのチームは、七回裏の土壇場でサヨナラ負けのピンチを迎えていた。点差は六対五で僕たちが一点リード。しかし、初戦から連投続きで疲れがピークに達していたピッチャーの斗哉は、四球絡みでランナーを溜めてしまい、ツーアウトながら一、三塁の場面だった。
 ここで相手打者の放った打球が、僕の守っているセンターとライトの真ん中に高々と舞い上がる。僕は俊足を飛ばして必死に落下点を目指した。頑張って飛びつけばダイレクトで捕球できるかどうか、という瀬戸際。捕れば試合終了。だが万が一後逸でもしたら、一気にランナーが返って一打サヨナラという場面だ。

「さて……。律ならこの場面、どうする?」

 状況説明から一転質問を投げてみると、鞄を両手で持ち立っていた律が、椅子を引いて座り直した。腕組みをして、う~ん……と思案顔になる。

「まあ。私だったら、一か八か突っ込んじゃうだろうね。だって私だぜ? それで結果が悪かったらさ、後で『ゴメンね』と舌でも出して謝るわ。もし私が恭子みたいな性格だとしたら、無難にワンバウンドで捕球して延長戦を覚悟するだろうけどね」

 今日は用事があると先に帰った親友のぶんまで代弁しながら、律はふんぞり返って見せた。
 けど、確かに恭子ならそうするだろうな。石橋を叩いてなお渡らないタイプ。熟考に熟考を重ねてから行動するのが恭子の流儀だ。

「そうだね。僕も今になって思うと、あの場面は無難にいくべきだったと後悔しているよ。ところがあの日、僕は何を思ったのか、律と同じ選択をしたんだ」

 律がごくりと喉を鳴らした。

「……で。結局、どうなったん?」
「結論から言うと追いつけなかった。飛びついたグラブの先端を掠めたボールは悪いことに体で止めることも叶わず、転々と右中間を転がっていった。その間にランナーが二人返って逆転サヨナラ」

 すると律の奴、「あちゃ~」と大きな声を上げ、まるで自分のことのように落胆し天井を仰いだ。

「応援席に、想いを寄せている女の子がいたんだよ。だから彼女にカッコいいところを見せようとするあまり、無茶をしでかしたんだろうね。それで、チームメイトに申し訳ないと強く感じてしまい、野球から次第に離れた。もうスポーツは懲り懲りだと思ったんだ」
「なるほどね」と律は、納得したように頷いた。

 本来の僕の性格であれば、恭子と同じように無難な選択をしたはずだった。
 冷静な状況判断ができなくなり、無謀なプレーに走ってしまった元凶が、スタンドで試合を見守っていた美也の存在。あの日僕は転々と遠ざかっていくボールを見ながら、『ああ、この先僕は、野球では決して斗哉に勝てない』と悟ってしまったんだ。
 阿久津斗哉と渡辺美也。二人と自分の間に開き始めた力の差と越えられない壁。思えば、美也と上手く話せなくなったのもこの頃からだ。
 もっとも、美也の名前は出さずにおくが。美也と親友である律の耳にもし入ったら、情報が漏れ伝わってしまうのも時間の問題。
 ──コイツ案外と口が軽いからな。

「じゃあさ? その娘のこと、今でも好きなのけ?」

 心でも読んだのかよ、と思わんばかりにタイミングの良い質問に噴き出しそうになる。
 まさか、と笑って誤魔化した。

「僕は彼女にとって、相応しい男じゃないからね。もう忘れた恋だよ」

 もちろん嘘なのだが、美也の存在を隠すためにこう答える他ない。

「ふ~ん。まあ、それはいいわ」と独りごちた後で、満を持したように彼女はこう言った。「でも今は、新しい恋をみつけたわけだ」
「ぶはっ」
 今度こそ噴き出した。
「お前なに言ってんの?」
「ええ? だって違うの? 慎吾と悠里は付き合っているんじゃないの? 散々艶っぽい噂が耳に入ってくるんだけど」

 律の真剣な眼差しに、瞳を逸らそうとして逸らせなくなる。そうか、それが本題だったのか。というか、艶っぽい噂ってなに?

「そんなんじゃねえって。彼女、暗い夜道を一人で歩くのが怖いんだってさ。母親は仕事の関係で帰りが遅いらしいし一緒に帰る相手がいないから、代わりに僕が……」

 言いながら気が付いた。それだったら、家が比較的近所で、桐原さんの友人でもある律か恭子に頼んだ方がいいに決まっているのに、と。どうして僕に頼むんだろう?
 初日から既にそう感じていたはずなのに、いつの間にか、僕は失念していたようだ。

「付き合ってないの? ホントに? 私は……いや、恭子ももちろん同様だけど、悠里のことずっと気に掛けているんだよね。だから慎吾にもしその気があるのなら、悠里の背中を押してあげようかな、慎吾と悠里はお似合いだしなあ、なんて、そんな妄想していたんだ。でも……なんだあ。肝心の慎吾がそんな風に軽く考えているんじゃ、なんだか悠里がかわいそう」
「かわいそうって……そりゃこっちの台詞だろ。一緒に帰ったって会話が弾むわけでもないし、彼女は中途半端に悪目立ちするから変な噂も立っちゃうし……」

 告白されたわけでもないし──とは、流石に言えなかった。そんな可能性が浮上してくるのが、少しだけ怖かった。言いながら、胸の辺りがズキズキと痛むのを意識する。酷いことを口走っている、という自覚が確かにあった。

「つまり、余計なお世話だよ」

 自分でも情けない台詞で締めくくった。
 まあ、それはね、と納得したうえで、なおも律が続ける。

「会話が無いんだったらさ、切っ掛け作ればいいじゃん?」
「切っ掛け? どうやって? 僕は桐原さんのこと全然知らないし、むしろお前らの方が……」

 すると律は、バカだなあ、と言わんばかりに肩を竦めてみせた。

「慎吾が悠里のことを知らないのは、『知ろうとしない』からでしょーが。さっきから言ってんじゃん、切っ掛け作れって。会話ができないのであれば、できるようにすればいいじゃん」
「どうやって──」

 そう言いかけた僕の疑問は、律が差し出してきた一冊の本で解決する。視線を落とした本のタイトルは、『今日から始める簡単な手話』。

「手話……か」
「そうだよ、簡単な奴からでいいからさ、ちょっとずつ覚えてみたら? 私と恭子も、今、覚え始めているところなんだ」

 律の奴め。最初からこの話題を促すために話しかけてきやがったんだな。でも、手話か。なるほどな、と思った。
 桐原悠里の存在を心のどこかで疎ましく感じていた僕は、積極的にコミュニケーションを取ろうとしていなかった。この点については、まさに律の指摘通り。僕が手話を覚えたら、桐原さんの目の前で披露して見せたら、今よりももっと、笑ってくれるんだろうか?
 そう考え始めたら、無性に桐原さんを笑わせてみたくなった。感情を表にだすこともなく、なにかをしているような彼女の本心を、暴いてみたくなった。

「覚えたら、桐原さん笑ってくれるかな」

 いや、何を言ってるんだろうな僕は。

「笑うんじゃね? たぶんだけど。悠里ってさ……中学の時から、あんまり笑わなくなったんだよ。小学生のときは、たとえ筆談しか出来なかったとしても、会話の端々でちゃんと笑顔を見せる女の子だったんだ。確実に今よりは友達もいたし」
「何か、あったのか?」
「イジメだよ」と言いながら、律の表情が沈んだ。「やっぱり悠里は悪目立ちするじゃん? それはさっき慎吾も指摘した通り。物事を言葉で伝えることが出来ないから、笑ってるうちは良いんだけど、少しでも不満気な様子を悠里が見せると、それが物凄く悪いイメージで相手に伝わってしまう」
「……そうかもしんないね。会話でコミュニケーションが取れないぶん、どの程度怒ってるのか、どんな不満を抱いてるのか、相手に正しく伝わらないだろうな」
「そう、そういうこと。結構、酷いことされてたんだ。無視されるだけならまだしも、机とか黒板に酷い言葉を落書きされたり、聞こえないのをいいことに、卑猥な言葉を投げかけられたり。挙句の果てには、教科書を隠されたり破られたり」

 良くない記憶が脳裏を過っているのか。律は沈痛な面持ちで話し続ける。

「それに反論しようにも、筆談でやり合うのも気が引けるじゃん? だから言いたいことも言えなくなって、悠里は次第に自分の殻の中に閉じこもるようになっていった」

 なんか、桐原さんには友達が殆どいないって考えていた自分が恥ずかしい。健常者である僕には及びも付かない悩み事が、彼女にはあるのかもしれない。

「なるほどね……それで僕に手話を覚えて、彼女とコミュニケーションを図れって言ってんのか」
「まあ、そんな感じ。悠里が慎吾に近づく本心がどこにあるのかは知らないけどさ、彼女が積極的に何かをしようと考えているのなら、私も恭子も、応援してあげたいんだよね」
「覚えられるかな」

 本のページをめくって眺めていると、「その本、しばらく貸してやるよ」と律が言う。ぴんと一回背筋を伸ばすと、身振り手振りを交えて、覚えたての手話を律が披露した。「これ、マネして悠里にやってみな?」と言い、悪戯をする直前の子供のように瞳を細めた。

「今の手話って、どんな意味だったの?」
「僕と、恋人になってください、だよ」
「……っつ、使うわけないだろ!」
「えー? きっと悠里喜ぶと思うんだけどな」

 気がつくと、すっかり律のペースに乗せられていた。せっかく感心してやったのに、と喉元まででかけた悪態を飲み干して、内心でそっと感謝をのべた。確かに律の提案にも一理ある。

 部活動の片付け物が全部終わると、今日は律と一緒に音楽室を出る。暗い廊下を少し進むと、そこにはやっぱり今日も桐原さんが佇んでいた。
 ホント。毎日こんな暗い廊下で、よく飽きもせず待ってくれてるよな、と他人事のように感心してしまう。
 隣の律に脇腹を小突かれながら、早速、覚えたての手話を披露する。

『僕と一緒に、帰りませんか?』

 あれ? これじゃ僕から誘ってるみたいで、いつもとニュアンスが違うんだけど。そう思って顔が熱を帯びるのを意識すると、桐原さんは驚いたように瞳を瞬かせ、口に手を当て数秒固まった後に、今までで一番良い笑顔を浮かべて頷いた。
 暗い廊下に、ぱあっと花が咲いたようだった。
 彼女こんな風に笑えるんだ、と思うと同時に、その屈託のない笑顔に心臓がどきりと跳ねる。

「んじゃ、私は用事があるので急いで失礼しますねっ」

 妙な気を利かせた律が、手を振りながら走り去っていく。そんな彼女を呆然と見送り、桐原さんが不思議そうな顔をした。

『律、なんか用があって急いでたの?』と、今度は筆談で訊いてくる。
『たぶんね』と、適当に返しておいた。アイツは僕たちに気遣ったんだよ、なんて、言えるはずもない。

 どこか釈然としない表情をしていた桐原さんだったが、一応は納得をしたのだろう。ノートをポケットに仕舞うと、二人並んで歩き始めた。
 どこの部活動も終わってしまった時間帯では、昇降口にも人の姿がまったくない。
 人気のない空間は、どこか寒々しくて空気まで冷たく感じる。
 会話の無い二人の間の空気も、同じように白々しくてぎこちない。
 やっぱりなるべく早く手話を覚えようか、と考えながら靴を履き替え昇降口を出たとき、泥だらけの練習着を着た阿久津斗哉が正面から歩いてきた。

「よお、いま練習終わり?」
「ああ……」とこちらに気づいた斗哉の顔が、瞬時に強張った。唇がわなわなと震えている。「なんなんだよ。お前、ソレ?」

 聞き間違いだろうかと思った。だが、確かに斗哉はそう言った。

「何って……何がだよ?」
「……っ! 何でもねえよ……」

 率直な疑問を述べたつもりだったが、どうやら彼は気に入らなかったらしい。刺々しい声で吐き捨て顔を背けると、無言のまま僕たちと擦れ違い校舎の中に消えていった。

『阿久津君、怒ってる?』不安そうな顔で、桐原さんが再びノートに書き記した。
『いや。別に、そんな怒ってもいないと思うけど』

 そう誤魔化しておいたが、確かに斗哉は、何かに苛立っていた。近頃疎遠になってるとはいえ幼馴染なのだから、彼の表情や口調から読み取れる。原因として考えられるのは、僕が桐原悠里と一緒にいたこと、くらいしかない。
 もっともそれが、どうして斗哉の逆鱗に触れたのか、については、全く想像できなかったが。

「よくわかんねえな」そう、ぼやいて天を仰ぎ見る。

 空気が冷え込んで澄み渡った空には、くっきりとオリオン座の姿が出現し、一筋の星が西の空から流れた。

 この頃の僕には知る由もなかったが、この時ちょうど、オリオン座流星群が極大を迎えていたらしい。オリオン座流星群とは、十月中旬から下旬にかけて活動する流星群で、みずがめ座流星群とともに、母天体がハレー彗星であることが知られている。
 それまで、流星の出現数が一時間あたり二十個を超えることは稀だったらしいが、二〇〇六年に突然一時間あたり六十個以上、観測者によっては百個を超える流星数が観察されるようになる。これは、彗星の軌道に沿って分布するダストの分布。ダストトレイル理論の研究により、およそ三千年前にハレー彗星から放出された塵によって流星数が増加したためだと報告がなされているらしい。
 だが僕は、星空にも天体ショーにもまったく興味を持っていなかったので、そんなことには考えも至らなかったのだが。
 また同じように、三年生になったときのクラス替えで、斗哉、美也、そして桐原悠里らと同じクラスになることにも。桐原さんとの関係が、今よりも深くなっていくことにも。彼女が何故、「私と一緒に夜道を帰ろう」なんて申し出てきたのかも。

 他にも様々なことに、思い至っていなかった、わけで――
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