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第三章「恋の駆け引き」

【木田勇】

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 執筆は順調に進んでいた。
 生活費はなるべく抑えていたのだがどうしても不足が出てくる。アパートの郵便受けに届く公共料金の通知を睨みつつ、腕組みをしていた。
 携帯料金を可能な限り削ったがすでに限界で、「サークル活動を始めてお金が必要になった」と親に嘘をついて仕送りの額を増やしてもらった。
 すまん、母よ。受賞できたら必ずお金は返す。
 八月の下旬。
 暦の上では立秋を迎えながらもまだまだ猛暑が続くある夏の日。その事件は起こった。
 大学のキャンパスを歩いていたとき、「君、長濱君だよね?」と見知らぬ男に声をかけられたのだ。直感で嫌な感じがして、反射的に身構えた。
 逆立てた短髪。こちらを値踏みするような目つき。スポーツマンらしいバランスの良い肩幅。なかなかイケメンだしファッションセンスもいい。
 絶対スペック高いだろこいつ。
 その分、性格に難がありそうだ。見るからにパリピって感じだし。
 唐揚げに勝手にレモンをかけるタイプに違いない。

「唐揚げに、無断でレモンをかける男は許容できないんだ」
「なんの話?」
「いや、なんでもない」

 しまった。心の声がそのままもれた。

「君、長濱君だよね?」
「何度も言わなくたって聞こえてますよ。そうだけど、なんか用?」

 不快感が思いきり声に出てしまう。もしかしたら年上かもしれない、と言ったあとで後悔したがまあいいか、と流しておく。完璧そうな人間というのは、存在そのものがなんとなくムカつく。

「ぶっちゃけた話、君と瀬野朝香ってどういう関係?」

 朝香と仮初めの交際を始めてから約二週間が過ぎていた。積極的に彼氏役をしている、ということはなく、朝香とはこれまでと同じように友人としての付き合いしかしていない。
 なので、僕と朝香の事情を知っている人間からでなければ、僕らの交際を疑う質問など出てくるはずはないのだ。
 必然的にピンとくる。そうか、こいつが朝香に付きまとっている男なのかと。
 イケメンじゃないか。四の五の言わずに付き合ってしまえばいいのに朝香の奴。それともやはり性格に難があるのか――などと無責任なことをつらつらと考えながら、その裏でちょっと苛ついていた。
 朝香、と呼び捨てか。プライド高そうでなんか鼻につく。

「一応、彼氏ってことになってますが。それが何かあんたに関係あります?」

 つい、刃物のように鋭利な口調になってしまう。

「関係あるから話しかけているんだよなあ……。ここじゃちょっと話しにくい内容もあるから、場所を変えようか? 今時間ある?」

 気がつくと、遠巻きにこっちを見ている女の姿がいくつかあった。大学のキャンパスだ。嫌でも目につく。険悪な空気だからというのもあるだろうが、憧れのあの人が変な男と揉めている、そんな感じにひそひそ話でもしているのだろうか。
 もちろん、僕が変な男の側だ。
 ああ、めんどくせえ。

「いいぜ。場所を変えようか」

 ここで話すのは、正直こっちから願い下げだ。

 その男に連れられてきたのは、ベンチが置かれている中庭の一角だ。大学のどの建物からも遠く、人はほとんど通らない。木立の影になっていて涼しいし、話をするにはもってこいの場所だった。
 ベンチにどっかりと腰を下ろし、その男が言った。「まわりくどい話は嫌いだろう?」と。
 どんな人間だと思われているのかは知らないが、その通りなので「ああ」と頷いた。さっさと話を済ませたかった。チャラそうな男は苦手なんだよね。
 結論から言うと、彼は一個上の先輩だった。誕生日は二月十日で今三年生だそうだ。知らねえよ。名前は木田勇きだいさむで、テニスサークル所属。見るからに女好きそうだしさもありなんだった。
 誕生日が三ヵ月しか違わないのに先輩風を吹かされるのはなんだかしゃくにさわる。

「で、なんの用ですか?」

 早く本題に入ってほしい。
 木田は気取った仕草で髪を軽く撫でながら、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「なにって……わかっているだろう? 君と朝香のことだよ。君は、ちゃんと彼女のことが好きなんだよね?」

 なるほど。やっぱりこいつが、と確信を深めた。僕と朝香が付き合っていることをどこかから聞きつけて、しかし、付き合っているようにはとても見えないと疑っているわけだ。
 実際その通りなのだから無理はない。所詮はただの彼氏役だ。
 だからと言って、ここで朝香に不義理をするつもりはない。もとはと言えば自分でまいた種だ。「もちろんです」と一応答えておく。
「そうなんだ」と驚いたように木田が目を瞠る。

「じゃあ君は、二股ができる器用な人間なのか、あるいは、とんでもないクズ野郎なのかどっちかなんだね」
「どういう意味ですか……?」

 思わず低い声が出た。二股? クズ野郎? どうして初対面の人間にそこまで言われなくちゃならんのか。
 木田がどれだけ朝香に気があるのかは知らない。というか知りたくもない。
 先輩と後輩という上下関係ははっきりしている状況だと、年長者というだけで立場の強い側が弱い側に圧力をかけられる。こういう、年上アピールをしたあとで偉そうにする人間は嫌いだ。

「そのまんまの意味だよ。朝香は君のことが好きなんだろ? それなのに君は別の女と付き合っているなんて、ずいぶんといい身分だよなあ、と思ってね」
「なんのことですか?」

 本気で意味がわからなかった。

「目撃しているんだよ。君が別の女と喫茶店で密会をしているのを。その女の子を連れて、自宅アパートに入っていったのもね」

 ギクリとした。心臓に杭でも打ち込まれたみたいに。
 心当たりはあった。だが同時に、それはありえないことだった。
 だって、それなら――。

「お前! 乃蒼の姿が見えているのか!」
「仮にも年上に対して『お前』呼ばわりはひどいんじゃないかなあ? へえ? あの娘の名前は乃蒼っていうのか。……去年バス事故で死んだ哘乃蒼と外見がよく似ていると思っていたが、名前まで一緒だなんてね。……どういうことなんだい?」

 こいつ……乃蒼のことを知っていたのか。だから、こいつの目に乃蒼の姿が見えていたのか? それはともかくとして完全に失言だ。どうやってごまかす?

「……あ、いや。乃蒼のことを考えていたから思わず。あいつは確かに乃蒼と似ているんですが、似ているだけで別人なんですよ」

 これで誤魔化せるだろうか? しかし木田は、「ふーん? まあ、そうなんだろうけどね」と呟いたきり追及してこなかった。浅慮な奴で助かった。

「それはわかった。それで? 君は哘乃蒼と当時から懇意にしていただろ?」
「だとしたら、なんだって言うんですか?」

 こいつまで、僕と乃蒼のことをそう思っていたのか。

「昔好きだった女の子とよく似ている女を代替品にして、付き合っていると。そういうことじゃないのかい?」
「違う、そんなんじゃない」

 言質取ったとばかりに、そこで木田が瞳を細めた。

「じゃあ、どっちが本命なんだい? その、哘乃蒼似の女と朝香と」
「……それは」
「そこで口ごもるなんて、怪しいなあ。それじゃ二股だよね?」

 木田の追及は容赦がない。僕は何も言えずただ押し黙るしかなかった。
 木田が勝ち誇ったように笑った。

「やっぱりね。そんな奴に朝香は渡せないな」

 いっそのこと、『すべて朝香に頼まれてやったことだ』と暴露してしまうおうかと考えた。しかし、それでは朝香だけが悪者になってしまう。罪をすべてなすりつけるのは気が引けた。

「それで、ここからが本題なんだけどさ。俺、朝香を今度デートに誘おうと思っているんだよね。構わないよね? 君は卑怯な二股男なのだし?」

 慇懃無礼な物言いが鼻につく。やっぱりこいつのことは嫌いだと改めて思った。

「勝手にしろ」

 そうとしか言えない自分が惨めだった。

   *
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