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学院編 9 王太子の誕生日

272 悪役令嬢は渾身の褒美を与える

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昼下がりの廊下で、マリナは行き場をなくしていた。
理由は目の前の男、恐ろしいほど美しい微笑を向けてくる義兄ハロルドにある。
「マリナ、どこへ行こうとしていたのです?」
「ふ、ふふ……お兄様の気のせいですわ」
全然気のせいなどではない。マリナは廊下でちらりと義兄を見かける度に、全速力で教室に逃げ帰っていたのだから。

普通科は、一年生の教室の上階に、二年と三年の教室がある。一年の教室にいれば、上級生の方からわざわざやって来ない限り、基本的には遭うことはない……はずだった。
「お兄様、うちのクラスにご用事ですの?」
一年一組の前の廊下でハロルドに捕まったマリナは、白々しく教室のドアに視線を向けた。穴が開きそうなほど見つめられ、彼の顔を見て話すことができない。
「ええ。アリッサの体調はどうです?回復したのですか?峠は越えたとアビーが言っていましたが」
「今朝はまだ微熱がありました。今晩、熱が上がらなければ、明日から登校できると思いますわ」
「それはよかったですね。……ところで、レイモンドの噂を聞きましたか?」
「噂?」
聞き返したマリナの表情を見て、ハロルドは緩く首を振った。
「いいえ。……何でもありません。……ところで、私がここに来たのは、とても大切な……用事があるからなのですが」
――続きは言わなくてもだいだい分かるわ。
アリッサは体調が回復せず欠席していて、いつも邸でしていたように妹に助けを求められない。廊下の柱と壁でできた僅かなくぼみに追い込まれ、マリナは万事休すだった。
「……期末試験の、こと、ですか?」
「約束通り……私は満点を取りましたから、あなたから特別なご褒美をいただきたいのです」
ハロルドの言葉に迷いはなかった。はっきりと言い切った。やる気満々だ。

彼が期待している『特別なご褒美』とは何なのだろう?
学院の廊下で済む話なのだろうか。期待に満ちた眼差しからは……とてもそうは思えない。
「お兄様、ご褒美には何を?」
敢えて兄と呼び、毅然とした態度で目を合わせた。
――まさか、ここでキスとか言わないわよね?
ハロルドは嬉しそうに青緑色の瞳を細めて、ふっと笑った。
「あなたからの、口づけを」
――って、やっぱりそっちなの!?
顔には穏やかな微笑を浮かべつつ、マリナは脳内で激しく葛藤していた。義兄が自分を溺愛、いや、狂愛しているのは知っていたが、生徒が行き交う昼休みの廊下で口づけを強請るとは考えもしなかった。確実に生徒達に見られて噂になる。セドリックとのあれこれも、くだらない尾ひれがついて噂が広まるくらいだ。王太子に溺愛されている王太子妃候補が、白昼堂々義兄と廊下でキスなんて、今年最後のセンセーショナルな話題を提供してしまうこと請け合いだ。
――絶対に、無理!
「お兄様、他のごほう……」
「必要ありません」
マリナの提案を未然に防ぎ、ハロルドはにっこりと笑った。
――怖い……本気だわ!

「あなたから口づけていただけないのでしたら、私からいたしますよ?」
「噂になってしまいますわ」
「構いません。……私は明日から学院を休んで、義父上とビルクールへ行きますから」
噂の渦中にマリナを一人で置いていくつもりなのだ。
――後のことを考えてないわね。どれだけ鬼畜なのよ。
セドリックの嫉妬心を煽るのは間違いない。他の男との不倫を疑って、王妃マリナを幽閉する男だ。ハロルドがしばらく学院に来なくても、嫉妬の炎は消えることはないだろう。
「……」
マリナはそっと周囲の様子を窺った。生徒達は互いに話をしていて、あまりこちらを注目してはいないようだ。何度もこめかみに口づけながら、恋人の腰に手を回して語らう者もいる。
――誰も、見ていませんように!
ぎゅっと一度瞳を閉じると、マリナは意を決して、ハロルドの肩に手をかけると、素早く頬に口づけた。

笑みを深くしたハロルドが俯き、少し堪えるようにして顔を上げた。
「……ご褒美、確かにいただきました」
「お望み通り私から口づけましたわ!」
どうだ、参ったか!とマリナは言ってやりたい気持ちだった。胸を張ってつい腰に手をあててしまう。ハロルドはその様子を目にして、とうとう笑い出した。
「ふっ、くく……ははは。やはりあなたらしい」
「私らしいって、どういう……」
言葉の続きを遮るように、マリナの銀髪が少し乱暴に撫でられる。
「いえ。心から好ましいなと思ったのです。あなたはそのまま、あなたらしくいてほしいと」
乱れた髪を手櫛で梳かすようにして、ハロルドはマリナの髪の手触りを楽しんだ。指先が微かに震えているような気がした。
「……お兄様?」
腕の下から見上げると、ハロルドは視線を逸らして
「間もなく予鈴がなりますね。……戻りましょう」
と囁き、教室へと急ぐ雑踏の中に紛れた。

   ◆◆◆

こくんと喉を鳴らし、アリッサはリリーが淹れたフレーバーティーを一口飲んだ。今朝から起き上がれるようになり、居間まで歩いてきて、長椅子に腰かけている。ネグリジェの上に丸襟のクリーム色のガウンを羽織り、ざっくりと編んだ毛糸でできた肩掛けをしている。
「温かい……身体の中から温まるわ。ありがとう、リリー」
何も言わなくても、アリッサが一番好きな味と香りを選んでくれる。姉のように見守ってくれる侍女の心遣いが嬉しかった。

やがて、廊下ががやがやと騒がしくなり
「ただいまー」
ドアを開けてジュリアが帰ってきた。
「アリッサ、起きてたの?」
「……うん。お昼から、こっちのお部屋で過ごすようにしてたの」
「大丈夫?熱は?」
「微熱だけど、動けるようになったから」
そう言って笑うアリッサは、数日前に比べて確実にやせ細っている。この二日、咳とのどの痛みで、殆ど食べ物を受け付けなかったのだ。
「なーんか、心配だなあ。……明日も無理しないでね」
「うん」
「夜中に編み物するのも禁止だよ?」
「あ……ばれちゃった?銀雪祭までに間に合わせようと思ってたの」
「風邪がぶり返したら意味ないよ?」
正面に回っておどおどと伏せる瞳を覗き込み、肩からずり落ちた肩掛けを直してやると、ジュリアは妹の鼻先をぐっと押した。
「やっ、ブタになっちゃ……」
「夜は早く寝るって約束しないと、毎日ブタになるように押してやるからね!」
「やだ、やめてよ、ジュリアちゃん!」
本気で慌てるアリッサに大爆笑して、ジュリアは椅子に身体を投げ出した。
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