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学院編 14

502 悪役令嬢は講師を務める

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「ふわあ……ねむ」
顎が外れそうなほど大口を開け、金色の瞳から涙が零れる。
「アレックス君、さっきから欠伸ばっかり」
「ごめんごめん。だって、俺、アスタシフォン語はさっぱりで」
「知ってる。ジュリアちゃんから聞いたもん。でも、これから行く場所なんだから、道を尋ねる方法くらい知っておいた方がいいと思うの」
ビルクールを出発して、早三時間。アリッサはやる気のない生徒にアスタシフォン語の講義をしているのである。
「三人で一緒にいれば大丈夫だろ。メイナードさんは何回も行ってるって言ってたし、アリッサは試験で満点だったんだ。俺が話せなくたって……」
「ううん。そういう油断は禁物よ。はぐれたら大変なのに。道を訊けなかったら、どうやって港まで戻って来るつもりなの?」
問い詰められてアレックスは少し後ろに引いた。椅子の背凭れが背中に当たる。
「あー、うーん……勘?」
「……はあ。ジュリアちゃんと気が合う理由がよぉく分かったわ」
「そっか?はははは」
日常会話を覚えさせるのを諦め、アリッサは椅子から立ち上がって船室の窓に近づいた。真っ暗な夜の海が広がっている。曇り空では星も満足に見えない。
「心配だわ。皆……バラバラになるなんて」
窓に指先を触れさせると、冷たい感触が気持ちを落ち着かせた。頼りになるマリナはいない。行動力のあるジュリアも、いざという時に力を発揮するエミリーも、自分の傍にはいないのだ。
――私が、皆の分まで頑張らないと……。
決意して振り返ると、アレックスが椅子の上で転寝をしていた。
「ハーリオン家への評価を大逆転させるためだもの。知らない人が怖いだなんて言っていられないわ」
ベイルズ商会から、取引先であるロディス港の商人へ、例の腕輪が届くと連絡が行っているはずだ。自分達は先回りして、ロディス港に普段と違う動きがないか調べる。アリッサがベイルズ商会の船より先に出発したいと言うと、メイナードは目を丸くしていた。姉のマリナ同様に行動力があると褒めてくれたが、アリッサは自分に自信が持てなかった。
「風邪引いちゃうよ?」
アレックスを揺り起こし、寝ぼけ眼の彼と船室から出る。廊下で別れてそれぞれに割り当てられた部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。着替えもせずにベッドに倒れ込むと、アリッサはそのまま眠りの淵に落ちていった。

   ◆◆◆

「どういうことですか!母上!」
早朝のグランディア王宮に王太子のヒステリックな声が響いた。王妃は両手で耳を塞ぎながら王と顔を見合わせて苦笑いをしている。
「静かにしなさい。食事中だぞ、セドリック」
「父上は黙っていてください。僕は母上に訊いているんです!」
セドリックが立ち上がってテーブルを叩くと、国王は一瞬彼を睨んだ。
「お兄様、うるさい。お兄様がうるさいからサラダが美味しくなくなっちゃった。もう食べられないわ」
妹のブリジット王女がフォークで生野菜を除ける。兄の騒ぎにかこつけて、嫌いな野菜を残そうとしているのだ。
「何のことかしら?」
「しらを切っても無駄です。昨日の夕方、僕は王宮であいつに……アイリーン・シェリンズに挨拶されたんですよ?『王妃様にご招待されたの』とそこかしこで言いふらしながら、大きな顔で王宮をうろうろしていました」
「まあ……」
王妃は口元を手で覆い、斜め上を見て溜息をついた。
「予想通りすぎて呆れるわねえ」
「母上が招待したというのは本当ですか?」
「本当よ。シェリンズ男爵令嬢に、王宮へ来るように命じたの」
「命じた?あの者は招待と……」
「招待なんてしていないわ。舞踏会であなたが恥をかかないように、ここ数日みっちりと礼儀作法の勉強をさせていたのよ。指導を担当したレセルバン公爵夫人が言うには……」
セドリックの顔色が変わった。
「レセルバン侯爵夫人だって?あの、社交界の重鎮が……」
「先代公爵に先立たれてから、あの方はどんどん活発になられるようね。きっと今頃……」
母の話を聞かず、王太子は椅子を引いて立ち上がった。
「王妃である母上からそんな方を紹介されて、あのアイリーンがどれほど自慢するか、母上は考えてもいないんです。……僕は……!」
ナプキンを放り投げてドアへ向かう。追いかけるように国王の声がした。
「セドリック!待ちなさい!」
「父上、母上。僕は舞踏会には出ません。アイリーンが話題の中心になるところを見たくないんです!」
ドアを半開きにしたまま走り去ると、ブリジット王女はまた兄にかこつけて人参のグラッセを皿の向こう側へ押しやったのだった。

   ◆◆◆

リリーが青いリボンを結び、鏡に向かってにっこりと微笑む。
「できましたわ」
「……ありがとう。素晴らしいわ」
化粧台に座ったマリナは、鏡に映った自分を見て気合が入った。一張羅の青いドレスは、控えめでいて地味すぎず、細かい織模様が気品を感じさせる。セドリックが選ぶと、この青地に金糸を織り込んで、自分の色を纏わせようとするのだろうが、マリナは青一色の濃淡が美しいこのドレスを気に入っていた。
「お嬢様は、本当に青がお好きですね」
「ええ。小さなころから好きだったけれど、この頃はもっと好きになったわ」
「殿下のお色ですからね」
「……そうね」
妃候補から外れた今は、彼の色を身に着けるのも未練があるかのようで気が引ける。他のドレスと迷い、マリナはあえて青を着ることにしたのだ。諦めていないという意思表示でもある。

「馬車の用意ができております」
執事のジョンが顔を出した。隣に立つロイドが布製の袋に入れた書類の束を抱えている。
「書類はロイドに持たせます。彼は王宮の中には入れませんので、車寄せから先はマリナ様ご自身で運んでいただくことになりますが」
「構わないわ」
門前払いになる可能性もなくはない。直接国王に会うのは難しいとしても、オードファン宰相に話を聞いてもらえれば、きっと活路は見いだせる。
「船を手放せば、もうこの家にも住めないでしょう。おばあ様が遺してくださったお邸へ移る準備をしておいて頂戴」
「お嬢様……!」
老執事の目に涙が浮かぶ。皺だらけの目元をハンカチで擦り、ジョンは唇を噛んだ。
「行ってくるわね。……お父様の代理として、ハーリオン侯爵家の長女として、グランディアにできる限りの貢献をすると示してくるわ」
玄関へ出て、すっと背筋を伸ばし、大きく深呼吸をする。
冷たく澄んだ冬の空気が胸を満たし、靴のかかとが大理石の床を打ち鳴らすと、マリナは振り返って慣れ親しんだ我が家を見つめた。
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