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学院編 12 悪役令嬢は時空を超える
346 未練
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「入れ」
ノックの音に応え、オードファン公爵はドアに向かって呼びかけた。
「失礼いたします」
若い男が一歩進み出て、慇懃無礼に見えるほど深々とお辞儀をした。
「旦那様、お呼びと伺いましたが」
顔を上げ、少し大きな良く通る声で言った。公爵に呼ばれた若い男は、執事の服装をしてはいるが襟元はだらしなく開いている。
「ああ。来たな、エイブラハム。お前に頼みがある。お前でなければ務まらない。レイモンドの護衛を頼みたい」
「坊ちゃん……ですか?今、王立学院に行っていらっしゃる」
「先日の銀雪祭の日に、レイモンドが騒動に巻き込まれた。知っているだろう?」
「はい。とある伯爵令嬢が、坊ちゃんを罠にはめて公爵夫人の座を狙ったとか」
「まあ、平たく言えばそうだな。私には他に息子はいない。今回は正体不明の媚薬を飲まされただけで済んだが、場合によっては命の危険がある。王立学院内に連れて行ける従者や侍女には限りがあるから、護衛だけではなく何でもこなせる人材が必要なのだ」
エイブラハムは「いやあ」と頭を掻いた。にやにや嬉しそうに笑っている。
「旦那様にそこまで認めていただいてると思うと、私も執事冥利につきます」
「身の回りの物を持って、今日の夜までに寮に入れ。いいな?」
「って、ええ?き、今日ですか?寮は泊まりこみですよね?親しい人に別れを……」
言葉を続ける余裕も与えず、公爵は厳しい視線を向けた。
「お前に別れを告げる家族などおらんだろう。自由に外出ができなくなる前に娼館に行こうとしても無駄だぞ」
「言ってません。つーか、旦那様。俺が娼館に行ってるってどうして……」
「ほう、やはり行っていたのだな。カマをかけただけだったが、ほほぅ」
「行って楽しくおしゃべりしてただけですよ!あそこのレディ達は、とってもいい情報をくれるんです」
「そういうことにしておこう。お前が彼女を忘れられたのなら、使用人仲間の誰かと娶せてやらんこともないが」
娶せると聞いて、エイブラハムの表情が硬くなった。
「謹んでお断りしますよ、旦那様。前にお話しした通り、俺はれっきとした既婚者なんですよ?」
「結婚許可証を持たずに結婚したのにか?」
「書類がどうであれ、俺はマギーの夫で、俺の妻はマギーだけなんです。……では、ご指示の通りに今日中に寮に入ります」
「頼んだぞ」
一礼して部屋を出ようとしたエイブラハムは、ドアの陰に消えかけて再びこちらに顔を覗かせた。
「いいですか、旦那様。俺は適当な相手と結婚なんかしませんからね?」
オードファン公爵は降参したポーズで両手を挙げた。
「分かった分かった。……護衛以外の指示は追って手紙を出す。いいな」
「承知いたしました。必ずや坊ちゃんをお守りします。命に代えましても!」
◆◆◆
ギーノ伯爵邸の東側、フローラの居室は、昼間だというのに分厚いカーテンが引かれて真っ暗だった。部屋には内側から鍵がかけられていたが、使用人に合鍵で開けさせ伯爵夫人が中に入った。伯爵夫妻には七人の子がおり、フローラは下から二番目だ。じき上の姉や妹と歳が近く、あまり手をかけてやれなかったと伯爵夫人は反省した。
「フローラ」
天蓋付きのベッドに呼びかけると、ベッドの上の黒い塊がもぞもぞと動いた。黒く見えたのは深い緑色の毛布だ。端からフローラのオレンジ色の髪が覗く。
「……出て行って」
「侍女から、あなたが何も食べていないと聞いたのよ。学院をやめたと言っても、部屋に籠っていることはないのよ?普段通りの生活を……」
窓辺に寄って手近なカーテンを開けた。冬の太陽が低い位置から室内を照らした。ベッドサイドのテーブルには、人物画を得意とする画家が描いたレイモンドの小さな肖像画がある。公爵が息子の肖像画を描かせたと聞き、同じ画家にフローラが依頼したものだ。
ボフッ。
枕が伯爵夫人の肩に命中した。
「無理……無理よ!お母様に何が分かるっていうの?レイモンド様には嫌われてしまったのに、生きていても仕方がないわ!」
「フローラ、落ち着いて!」
ベッドに駆け寄り、痩せた娘の肩を抱きしめる。人の温もりに触れたフローラの心の箍が外れ、緑の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
「……っ、く、だ、だって、好きだった、んだもの。ずっと、ずっとよ?」
「ええ、ええ。あなたは彼に会いたくて図書館に通っていたのですものね。今回のことも、お父様が必ず、公爵様にかけあって何とかしますからね」
よしよしと頭を撫で、伯爵夫人は夫との会話を思い出した。事件を起こしたのは娘だが、醜聞は片方だけが悪いとは言えない。公爵は息子の婚約を考え直そうとしていると聞くし、不名誉な噂を消すためにもフローラとの婚約は悪い話ではないのではないかと、ギーノ伯爵は考えているのだ。近いうちに娘にはいい報告ができると思っている。
「王立学院で、毎日、あ、会えると思ってっ……」
「そうね。入学が決まった時のあなたの嬉しそうな顔ったら」
「でも、私、新入生代表になれなくて」
「……?」
「だから、レイモンド様は、私を見てくれない、の」
声に怒気が籠った。伯爵夫人は娘の声が恐ろしいものに変わったと気づき、身体を離して瞳を見つめた。
「フローラ?」
呼びかけても視線は合わない。フローラは低い声でブツブツと何か呟き、時折口の端に引き攣った笑いを浮かべるだけだ。
「侯爵令嬢……だから、代表に……」
「フローラ、どうしたの?」
「姑息な手段を……悪役令嬢……」
二の腕を掴んで揺する。頭がガクガクと前後に揺れ、乱れたままのオレンジ色の髪がバサバサと広がった。
「……悪は……死ねばいい……フッ」
緑の瞳が一瞬赤く輝き、フローラは楽しそうにケタケタと笑った。
ノックの音に応え、オードファン公爵はドアに向かって呼びかけた。
「失礼いたします」
若い男が一歩進み出て、慇懃無礼に見えるほど深々とお辞儀をした。
「旦那様、お呼びと伺いましたが」
顔を上げ、少し大きな良く通る声で言った。公爵に呼ばれた若い男は、執事の服装をしてはいるが襟元はだらしなく開いている。
「ああ。来たな、エイブラハム。お前に頼みがある。お前でなければ務まらない。レイモンドの護衛を頼みたい」
「坊ちゃん……ですか?今、王立学院に行っていらっしゃる」
「先日の銀雪祭の日に、レイモンドが騒動に巻き込まれた。知っているだろう?」
「はい。とある伯爵令嬢が、坊ちゃんを罠にはめて公爵夫人の座を狙ったとか」
「まあ、平たく言えばそうだな。私には他に息子はいない。今回は正体不明の媚薬を飲まされただけで済んだが、場合によっては命の危険がある。王立学院内に連れて行ける従者や侍女には限りがあるから、護衛だけではなく何でもこなせる人材が必要なのだ」
エイブラハムは「いやあ」と頭を掻いた。にやにや嬉しそうに笑っている。
「旦那様にそこまで認めていただいてると思うと、私も執事冥利につきます」
「身の回りの物を持って、今日の夜までに寮に入れ。いいな?」
「って、ええ?き、今日ですか?寮は泊まりこみですよね?親しい人に別れを……」
言葉を続ける余裕も与えず、公爵は厳しい視線を向けた。
「お前に別れを告げる家族などおらんだろう。自由に外出ができなくなる前に娼館に行こうとしても無駄だぞ」
「言ってません。つーか、旦那様。俺が娼館に行ってるってどうして……」
「ほう、やはり行っていたのだな。カマをかけただけだったが、ほほぅ」
「行って楽しくおしゃべりしてただけですよ!あそこのレディ達は、とってもいい情報をくれるんです」
「そういうことにしておこう。お前が彼女を忘れられたのなら、使用人仲間の誰かと娶せてやらんこともないが」
娶せると聞いて、エイブラハムの表情が硬くなった。
「謹んでお断りしますよ、旦那様。前にお話しした通り、俺はれっきとした既婚者なんですよ?」
「結婚許可証を持たずに結婚したのにか?」
「書類がどうであれ、俺はマギーの夫で、俺の妻はマギーだけなんです。……では、ご指示の通りに今日中に寮に入ります」
「頼んだぞ」
一礼して部屋を出ようとしたエイブラハムは、ドアの陰に消えかけて再びこちらに顔を覗かせた。
「いいですか、旦那様。俺は適当な相手と結婚なんかしませんからね?」
オードファン公爵は降参したポーズで両手を挙げた。
「分かった分かった。……護衛以外の指示は追って手紙を出す。いいな」
「承知いたしました。必ずや坊ちゃんをお守りします。命に代えましても!」
◆◆◆
ギーノ伯爵邸の東側、フローラの居室は、昼間だというのに分厚いカーテンが引かれて真っ暗だった。部屋には内側から鍵がかけられていたが、使用人に合鍵で開けさせ伯爵夫人が中に入った。伯爵夫妻には七人の子がおり、フローラは下から二番目だ。じき上の姉や妹と歳が近く、あまり手をかけてやれなかったと伯爵夫人は反省した。
「フローラ」
天蓋付きのベッドに呼びかけると、ベッドの上の黒い塊がもぞもぞと動いた。黒く見えたのは深い緑色の毛布だ。端からフローラのオレンジ色の髪が覗く。
「……出て行って」
「侍女から、あなたが何も食べていないと聞いたのよ。学院をやめたと言っても、部屋に籠っていることはないのよ?普段通りの生活を……」
窓辺に寄って手近なカーテンを開けた。冬の太陽が低い位置から室内を照らした。ベッドサイドのテーブルには、人物画を得意とする画家が描いたレイモンドの小さな肖像画がある。公爵が息子の肖像画を描かせたと聞き、同じ画家にフローラが依頼したものだ。
ボフッ。
枕が伯爵夫人の肩に命中した。
「無理……無理よ!お母様に何が分かるっていうの?レイモンド様には嫌われてしまったのに、生きていても仕方がないわ!」
「フローラ、落ち着いて!」
ベッドに駆け寄り、痩せた娘の肩を抱きしめる。人の温もりに触れたフローラの心の箍が外れ、緑の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
「……っ、く、だ、だって、好きだった、んだもの。ずっと、ずっとよ?」
「ええ、ええ。あなたは彼に会いたくて図書館に通っていたのですものね。今回のことも、お父様が必ず、公爵様にかけあって何とかしますからね」
よしよしと頭を撫で、伯爵夫人は夫との会話を思い出した。事件を起こしたのは娘だが、醜聞は片方だけが悪いとは言えない。公爵は息子の婚約を考え直そうとしていると聞くし、不名誉な噂を消すためにもフローラとの婚約は悪い話ではないのではないかと、ギーノ伯爵は考えているのだ。近いうちに娘にはいい報告ができると思っている。
「王立学院で、毎日、あ、会えると思ってっ……」
「そうね。入学が決まった時のあなたの嬉しそうな顔ったら」
「でも、私、新入生代表になれなくて」
「……?」
「だから、レイモンド様は、私を見てくれない、の」
声に怒気が籠った。伯爵夫人は娘の声が恐ろしいものに変わったと気づき、身体を離して瞳を見つめた。
「フローラ?」
呼びかけても視線は合わない。フローラは低い声でブツブツと何か呟き、時折口の端に引き攣った笑いを浮かべるだけだ。
「侯爵令嬢……だから、代表に……」
「フローラ、どうしたの?」
「姑息な手段を……悪役令嬢……」
二の腕を掴んで揺する。頭がガクガクと前後に揺れ、乱れたままのオレンジ色の髪がバサバサと広がった。
「……悪は……死ねばいい……フッ」
緑の瞳が一瞬赤く輝き、フローラは楽しそうにケタケタと笑った。
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