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1 母の死

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昨日、おふくろが死んだ。
早朝、ゲームで徹夜した俺がもう何ヶ月も敷きっぱなしの布団に寝転がったところで、階下からうめき声がするのに気がついた。
ひょっとしたら随分前から声はしてたのかもしれないが、ヘッドフォンをつけていたのでわからない。
声は、いかにも苦しげだった。
いかにも、助けを求めている感じだった。

直毅なおき、直毅……」

声は、くりかえし俺の名前を呼んでいる。

普通なら、慌てて部屋から飛び出して、階下へと駆けつけるところだろう。
だが、俺はドアノブに手をかけたところで硬直する。

いくら俺がひきこもりだと言っても、トイレや風呂の時には部屋から出る。
しかしその時には、確実に母親と顔を合わせずに済むタイミングを見はからっていた。
言葉を交わさず、顔を合わせもしないのに、互いに顔を合わせないようにするということだけは、俺と母親のあいだで暗黙の了解ができている。

率直に言えば、怖かった。

母親と最後に顔を合わせたのはいつだったろう?
今さら、どんな顔をすればいいというのか。

母親は明らかに急病で、一刻も早い助けが必要だというのに、俺はこの期に及んでも動けなかった。
ドアノブにかけた手が、俺の意思とはべつにがたがたと震える。

「う、ぐ……」

ひきこもりの人生は、親が死んだ時点で終わる。
そんなことは、ずっと前からわかってる。
いつかそんな日が来るとも覚悟していた。

いや、覚悟しているつもりだった。

だが、実際にその時が来てみると、とてもその現実が直視できない。

弱くなっていくうめき声。
こみ上げてくる焦燥感。
親と顔を合わせることへの恐怖。

今の状況とは本来関係ないはずの無数のトラウマがフラッシュバックして|、俺の意識を打ちのめす。

よろめいた拍子に、俺はドアノブを倒し、ドアを開いて廊下へと転げ出た。
出ようと思って出たわけではなかったが、一度出てしまえば、かろうじて足を動かせた。

一段一段、トラウマを踏みしめるように階段を降りる。
俺の足元はどこまでもおぼつかない。
幼稚園児だって、もっと上手く降りられる。
無限にも思える時間をかけて、俺は階段を降り切った。
俺は、リビングへと足を踏み入れる。
俺の口からかすれた声が漏れた。

「母、さん……」

自分でも声が震えてるのがわかった。

「直、毅……」

リビングの床に、母親が倒れている。
母親は真っ青な顔で胸を押さえ、荒い息をついていた。

「救っ、急車、を……」

母親に言われ、俺はあわててリビングの電話の受話器を取った。
だがそこで、俺の動きはまたしても止まる。
119。
たった3つのボタンを押すだけだ。
それなのに、俺は受話器の向こうに現れる他人を想像し、パニックに陥った。

「う、あ、あ……」

ボタンが押せない。
ボタンを押したら他人が出る。
他人と話さなければならなくなる。
他人は俺のことを責めなじる。
母親の状態をうまく説明できず、悪戯だと思われ電話を切られる。
万一うまく話が通じたとしても、今度は救急隊員がこの家に乗り込んでくる。
救急隊員は俺がひきこもりであることを一目で見抜き、蔑んだ目を向けてくる。
一緒に救急車に乗りますか? おまえには乗れないだろうけどね! 救急隊員は俺に侮蔑の言葉を投げかけ、ストレッチャーに乗せた母を連れ去っていく。
やがて家に電話がかかってくる。どこどこの救急病院に運び込んだ。すぐに来てほしい。行けるわけがない。俺は電話の受話器に向かって不明瞭な言葉をもごもごつぶやく。
そうこうするうちに、母親は死に、葬儀、親戚、誰もが俺をなじり、おまえのせいで母親が死んだと責め立てる。そんなことをせずともどうせすぐに首を吊るというのに。

とても、そんなことには耐えられない。

でも、救急車を呼ばなければ母親は死ぬかもしれない。
いや、死なないかもしれない。
そうだ、そうに決まってる。
母親はまだ死ぬような歳じゃなかったはずだ。
母親は俺を29の時に産んでいる。だから今母親は……いくつになる? そもそも、俺は今いくつだったろうか? 俺がひきこもりになってから一体何年の時が過ぎ去ったのだろうか? 一瞬だったようでもあり、永劫のようでもあった。

違う、今考えるべきことはそれじゃない!

「う、ううう……!」

俺は震える指を電話機に運ぼうとする。
だが、俺の意思に反してーーあるいは俺の意思の通りに、指はぴくりとも動かない。

そんな俺の様子を、床に倒れた母親が見上げている。

最後の最後まで使えない息子だ。
こんな息子、さっさと放り出しておくんだった。
このクズのためにかけた金と時間と労力をーーわたしの人生を返してほしい。
ああ、最期の最期まで最悪の人生だった!
すべて目の前にいるゴキブリ以下の生命体のせいだ!
おまえが死ね、わたしの代わりにおまえが死ね!

母親は、内心で俺をそう責めたてている。
根拠はないが、間違いない。
母親の視線を意識するほどに、俺の指はますます動かなくなっていく。

「直、毅……」

母親がうめく。
その後に恨み言が続くことを俺は確信していた。
だが、

「もう、いい……こっちに、おいで」

母親は青白い顔に笑みを浮かべ、声を和らげてそう言った。
しかし、俺は動けない。
笑顔を浮かべ、俺が油断したところで傷つける。
人間とはそういう生き物だ。
この母親だって、過去にはそういうことをやってきた。
立ちすくむ俺を見て、母親が淡く微笑んだ。

「それも、無理……? なら、いい……このまま、聞いて……」

俺の口は動かない。
もう長いこと、俺の口は「話す」という機能を使ってない。
だから、声を出すという発想すら浮かばない。
俺はいつもそうだ。話しかけられても、言葉を返すのが遅れてしまう。遅れて返した言葉はいつも必ず的外れだ。相手は失笑する。時には嘲笑する。その日のうちには、教室や職場を「あいつおかしいんじゃねえの?」というささやき声が飛び交っている。

「無理を、言って、ごめん、ね……」

硬直する俺に、母親が言った。

「救急、車……もう、いいよ……わたしは、ここで、死ぬ……」

「死っ……」

「降りてきて……くれて、ありが、とう……。最期に……顔が、見れて、よかった……」

俺の視界が不意にぼやけた。
それが「涙」というものだったことを、俺は十数年ぶりに思い出す。

「わたしは……先に、逝く……。直毅、は……本当は、強くて、優しい、子、だから……好きに……生きて……くだ、さい」

何かを言わなくては。
俺は強くそう思ったが、俺の口は動かなかった。
もごもごと意味のない音を発しただけだ。

母親は、最期にもう一度微笑むと、そのまま力を失って床に伏した。

「……母、さん」

俺の声は、いつもと同じように、出てくるのが遅すぎた。
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