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第三章 9歳

8 不夜城

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 ネオデシバル帝国の皇女ネルズィエンは、占拠したブランタージュ伯爵邸の執務室で、何事もなく次の朝を迎えていた。

 最初は伏兵でもいるのではと警戒していたネルズィエンだが、ランペジネはものの見事にもぬけの殻になっていた。
 赤装歩兵を貴族街に、ザスターシャ兵を平民街に入れさせ、いつでも動き出せるよう身軽にしておけ――つまり、物を盗るのは大概にしておけと命じ、ネルズィエン自身は伯爵の屋敷を本陣とした。

 屋敷にも伏兵はいなかった。
 罠のたぐいも見当たらない。
 もしや、井戸水や食糧に毒でも入っているのではないか?
 そう疑ったネルズィエンは、ザスターシャ兵に毒見をさせたが、とくに異常はないようだった。

 うちの国のメシより美味いです、と余計な感想を漏らすザスターシャ兵を、毒見の報酬をやって追い返し、ネルズィエンは幕僚とともに今後の方針を相談した。

 ――順調すぎてかえって不気味ですな。

 そう漏らす疑い深い将軍に苦笑しつつ、ひとまずは自分たちも休み、兵たちも休ませようということになった。
 甲冑をまとっての峠越えは、ザスターシャ兵のみならず、赤装歩兵にとっても骨の折れる仕事だったのだ。

 そうして、夜が明けた。

「昨晩のうちは、結局何事も起きなかったか……。
 ブランタージュ伯とその兵は、尻尾を巻いて逃げ出した、ということでよかろう。緒戦は戦わずして勝てたということだ。
 いささか拍子抜けだが、兵を温存できたのは幸運だった。これならば問題なく、王都ラングレイまで迫れよう」

 楽観的な見通しを口にしながらも、ネルズィエンの表情はお世辞にも明るいとは言いがたい。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、しきりに目頭を揉んでいる。

「ふー……いかん。切り替えねばな。敵に動きがあるとしたら、明け方がもっとも危険なのだ」

 ネルズィエンはそう言って、執務室の厚いカーテンを引き開けた。

 そこから差し込んできたのは、清々しい朝の陽光だ。
 小高い丘の上にある屋敷の執務室からは、ランペジネの街並みが一望できる。独特の風合いの同じ色の煉瓦が、朝日にまぶしく輝いている。砂漠の多いザスターシャでは、あまり見ない光景だろう。

 だが、まぶしく輝く朝の街並みを目にしたネルズィエンは、顔をしかめると、朝日を片手で遮った。

「くそっ……じいの言う通りだったのか? 昨夜はまるで眠れなかった。いくさが近づいて、知らず知らずのうちに気が昂ぶっていると?
 いや、それにしたってこんなことは初めてだ……さながら、まぶたの裏に太陽が出ているかのような、ありえぬまぶしさを感じる……目が冴えてしかたがない……」

 昨晩一睡もできなかったネルズィエンは、動きの鈍い脳髄を刺激しようと、濃く淹れさせた紅茶を口にしている。

 だが、ネルズィエンは気づいていない。
 さっき紅茶を持って来させた赤装歩兵もまた、しょぼくれた目をしていたことを。

 執務室をノックし、昨日の将軍が入ってくる。

「ふむ……あまりに思い通りに行ったからでしょうかな。兵たちがどこかたるんでおるように見えますな」

 将軍はかくしゃくとそう言ったが、よく見ると目に隈ができている。
 将軍も、昨夜ゆうべは眠れなかったのだろう。
 だが、歴戦の軍人らしい彼は、そのことは口にしなかった。
 戦場ではよくあることと思ったのか、あるいは、皇女様に弱音は吐けぬと思ったのか。

 部下の前だからだろう、ネルズィエンも、平常通りの顔を取り繕った。

「ランペジネの穀倉にはずいぶん麦があったのだろう? 昨日はザスターシャ兵も含め、まともな食事にありつけたはずだ」

「ですな。気力体力ともに十分となるはずなのですが……」

「峠越えを急がせたせいか? 疲れが一晩では抜け切らなかったのかもしれんな」

「ランペジネを陥すにはもっと時間を要する計算でしたからな。緑装騎兵と動きを合わせる都合上、いずれにせよ時間は余っておりまする。いましばし兵どもに休みを取らせるべきでしょうな」

「うむ。そのように取りはからってくれ。わたしも気が昂ぶって昨夜は眠りが浅くてな。すこしばかり横にならせてもらえるか?」

 ネルズィエンの言葉に、将軍は目をしばたたかせた。
 自分と同じ状態であることに驚いたのだろう。
 だがもちろん、そんなのは偶然の一致だと切って捨てる。

「さようですか。この先いつ休めるかわかりませぬからな。休める時に休むのも、武人の務めでありましょう」

「すまぬな。そうさせてもらう」

 将軍が部屋を出て行くと、ネルズィエンはソファに身を横たえた。
 そのまま、おそるおそるまぶたを下ろす。

 だが。

「くっ……!? なんなのだ、これは!? まぶたを下ろすとまぶしくてしかたがない!」

 苛立った声を上げるネルズィエン。
 その後も、休眠を取ろうともがいていたが、結局眠りに落ちることはできなかった。




 とはいえ、この時点ではまだ、これが異常事態だと気づいた者は少なかった。

 ――戦場で気持ちが昂ぶって眠れないなんてよくあることだ。

 ――眠気が増せば、いつかは眠りに入れるだろう。

 多くの者がそう思い、徹夜明けの苦痛を耐え忍んだ。





 そのさらに翌朝になると、さすがに兵たちも、自分たちの異常に気づきはじめた。

 もちろん、ネルズィエンや将軍、ほかの幕僚たちも、異常事態に気づいてる。

 元ブランタージュ伯の屋敷にある執務室に、遠征軍の主だったメンツが、雁首を揃えて集まってる。

 どの顔も眠そうだった。
 眠りたいのに眠れない苛立ちに、いまにも爆発しそうになってる者もいる。

 ネルズィエンもその一人だ。

「どういうことだ! われわれはいったい何をされている!? 魔術師どもはまだ原因を見つけられんのか!」

 つやの悪くなった赤髪を振り乱し、血走った目でネルズィエンが叫んだ。

「はっ……申し訳ございませぬ」

 全員が赤い中、ひとりだけ黒いローブ姿の魔術師が、顔をうつむけてそう言った。

 いつも以上に険しい顔をした将軍が取りなした。

「未知の妖術をかけられておるとしか思えませんな。ブランタージュ伯は夫婦ともに複合魔法を使いこなす高位の魔術師と聞いております。その根城だけに、なんらかの仕掛けが用意されておったのか……」

「だからその『なんらかの仕掛け』とは何なのかと聞いておるのだ! ランペジネに入ったすべての兵が、まぶたの裏に光が浮かんで眠れぬと訴えておる! かように大規模な魔法をかけようとすれば、優秀な魔術師を数百人は揃える必要があろう! あるいは、父皇帝陛下の探しておられる――」

「姫様! それを口に出してはなりませぬ!」

 ネルズィエンがはっとして口をつぐむ。

「しかし……たまりませんな。これでまる二日眠れておらんことになる。いまはまだ、気を張っておれば動けましょうが、これが今晩も明晩も続くとなれば、兵の統率が取れなくなりましょう。すでに、徹夜で激しやすくなった一部の兵がいさかいを起こしておりまする」

 徹夜明けで抑制のきかなくなった兵同士のいさかいでは、剣や魔法を使い出す者まで出てきてる。
 もちろん、平時でも軍事行動中でもご法度だ。
 閉じ込めておく場所がないので、縛り上げて見張らせているのだが、その状態ですら「眠れない! 助けてくれ!」と叫び続けてる兵もいた。

「そうだ! 闇魔法に『睡眠』の術があったな!? あれならば強制的に寝かしつけることができるのでは……」

 ネルズィエンが顔を上げ、魔術師を見た。

「この兵団にはヌルの魔術師は少ないのですが、ザスターシャ兵からも術師を集めて『睡眠』の魔法を試してみました。一瞬眠るかと思われたものの、すぐにまぶたの裏がまぶしいと言ってはね起きるのです」

「くそっ! いまいましい光めぇっ!」

 ネルズィエンが歯ぎしりし、髪をかきむしって机を叩く。

 一応、彼女の名誉のために言っておくと。
 普段のネルズィエンは、皇女と呼ばれるにふさわしい、落ち着きと威厳を兼ね備えた女傑である。
 烈火のごとき気性の持ち主ではあるが、お目付役である将軍のおかげもあってか、部下にあたり散らしたりはしてなかった。昨日までは、だけどな。

(さすがに二徹が効いてるみたいだな)

 ぶつける先のない苛立ちに苦しむネルズィエンを観察しながら、俺は・・ひとりでほくそ笑む。

 えっ? 俺はどこにいるのかって?

 もちろん、この執務室の中にいる。
 重いカーテンの下にできた陰の中にな。

(うまくハマってくれもんだ)

 言うまでもなく、彼ら遠征軍が眠れなくなったのは俺のせいだ。

 母さんとの実験で、魔法の火と自然の火が別物だってことは証明したな?

 その後、俺は自分の属性である光と闇についても、同様の検証を重ねていた。

 中でも興味深かったのは、魔法の闇の性質だ。

(魔法の火や光は、魔力を止めるとすぐに消えてしまう。ところが、陰の中に作った魔法の闇は、光が当たらない限り、その場にとどまり続ける性質がある)

 「陰隠れ」や「陰渡り」に使う「陰」が自然の陰じゃないってことは話したよな。
 自然の陰の中に、魔法の陰を作って、その中に身を潜ませる。
 これが「陰渡り」の仕様である。

 この時、自然の光の当たってる部分、つまり、陰がもともとない場所には、魔法の陰を作ることができない。
 せっかく作った魔法の陰も、光源が動いて自然の陰が消えると、自然の陰と一緒に消えてしまう。

 それだけだと制限が多いように思えるが、詳しく検証してみると、かなり使えそうな性質もあった。

(井戸の中とか、裏路地とか、一日中光の射さない「陰」もあるよな。そういうところに魔法の陰を作ったらどうなるか?)

 答えは、「魔法の陰はずっと消えずに残り続ける」だ。

(前世だったら、日照権の確保のために、陽の当たらない場所は極力作らないようにしてたはずだ。でも、こっちじゃそんなことまで配慮されてない。街中のいたるところに、日光とは無縁の「陰の淀み」があった)

 おもしろいことに、俺が魔法の陰を作るまでもなく、そういう場所には最初から魔力が淀んでることも多かった。

 俺はこの性質を利用して、ランペジネの街のあらゆる淀みに、自分の魔力を溜め込んでいった。

 最初は修行代わりにやってたのだが、そのうち、さらに新しい発見があった。
 淀んだ陰は、魔力が濃くなるにつれて、地中へと潜り込んでいくのだ。
 まるで、太陽から少しでも逃げようとするかのように。

 植物が根を張るのにそっくりだったので、俺はこの現象のことを「陰が根を張る」と呼んでいる。
 「陰渡り」を使えば、この根の中を移動することも可能だった。

(さらに面白いことがある。地下に張った陰の根が、他の根と接触したらどうなるか……ってことだ)

 結論から言えば、根と根は連結されて一体となる。
 街中の陰の淀みに魔力を溜め込み、地中に根を伸ばし、その根同士を連結させていった結果、この街の地下には、地中を網状に覆う陰のネットワークが形成された。

 陰の中に潜れる俺は、このネットワークを通じて、街のありとあらゆる場所に移動することができる。

 え? なんでそんなわけのわからないことをやってたかって?
 他にやることがなかったからな。
 前世の記憶が目覚めて三年、この街はずっと平和だったのだ。

 さて、地中からどこにでも出られるというのも便利だが、この陰のネットワークには他にも大きなメリットがあった。

(この陰のネットワークは、一種の魔法陣だ。俺が体内で魔力を「隔離」する要領で、陰のネットワークのあちこちに魔法回路をセットすることができる。
 たとえば、ネットワークの上で誰かが眠りにつこうとすると、陰にセットしておいた光魔法が発動して、「光を発さないまぶしさ」を感じさせる、というような)

 うまく魔力を「隔離」してやれば、闇魔法である陰のネットワークの中に、光魔法を発動するための魔力と回路を仕込んでおくこともできるのだ。

 なお、まぶしさだけでは最終的には眠気が勝る可能性もあると思って、「睡眠」の闇魔法とは逆の、「眠りを覚ます」光魔法もかけてある。
 この魔法で眠気がなくなることはないが、眠りに落ちたら確実に起こせるという魔法だ。
 比較的簡単な魔法なのだが、朝に弱いやつを無理やり起こすくらいしか使い道がないので、サンの魔術師でもわざわざ覚えるやつは少ないらしい。

 まとめて言うと、まぶたを閉じると光のないまぶしさで眠れないし、なんとか眠れたとしても速攻で叩き起こされる。そんな悪夢的な状態に、遠征軍は置かれてる。
 眠れないから、悪夢すら見られないんだけどな。

(ランペジネの地下は、俺の構築した陰のネットワークに覆われてる。このネットワークは、ランペジネの周囲数キロまで及んでる。この街は、俺の手のひらの上にあるようなもんだ)

 この街に土足で踏み込んだ時点で、こいつらの運命は決していた。

(名付けて、光闇混成魔法《不夜城ブラックカンパニー》。これからおまえらに、眠りたくても眠れない恐怖をたっぷりと味あわせてやる)

 遠征軍は、二徹明けで既にふらふらだ。

(おいおい、この程度でふらついてるようじゃ、この先が思いやられるぜ?)

 三徹以上して始めて一人前。
 その上、合間の時間には飲み会があって、たびたび一気飲みを強いられる。
 酒臭い身体を抱えてデスク下の寝袋にくるまってると、俺はなんのために生まれてきたんだろうと涙が溢れて眠れない。

 そんな環境で生きていた俺にとって、いまの状態はまだ、地獄の入り口にすら立っていない。

(もちろん、俺は寝てるけどな)

 陰の根に隠れ、脳の半球で陰隠れを維持しながら、もう片方の半球を眠らせる。
 しばらくしたら、逆の半球で魔法を維持し、残りの半球を休ませる。
 前世では、イルカがそんなふうに眠ると聞いたことがある。

(さすがに、普通に眠るほどにはすっきりしないが)

 それでも、一週間やそこらは平気だろう。
 いまは監視のためにもここに潜んでるが、いざとなったらネットワーク経由で街の外に出て、農民の納屋でも借りて眠ればいい。

 一方、まったく眠れない遠征軍の兵たちは、一週間もせずに潰れるはずだ。
 キレやすくなって暴れたり、妄想や幻覚に囚われて言動がおかしくなったり。
 もちろん、戦闘力や判断力も大幅に低下するだろう。

(そうなったら、計画は次の段階だ)

 不機嫌と疲労を隠せない将官たちの様子を観察しながら、俺は次の算段を始めていた。
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