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26 悪堕ち

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 破滅の塔は、勇者ルシアスの絶望を食ったことで、さらにその力を増していた。
 塔は、以前とは比較にならない量の瘴気を、周辺へと撒き散らしている。
 塔の屋上に設置したジェネレーターから噴き出すどす黒い泥水のような瘴気が、屋上から外壁を伝って流れ落ちていく。
 瘴気は流れ落ちるうちに細かい粒子となり、塔周辺の森の樹冠に、黒い霧となって覆いかぶさる。
 霧は塔の周辺を、ゆっくりと、だが着実に侵食していく。
 霧は既に、塔の上から見渡せる範囲を、覆い尽くしそうな勢いだ。

 破滅の塔の攻略依頼を出したギエンナの街も、トロール洞の攻略依頼を出したネスカの街も、ともに瘴気に呑まれ、人の住める土地ではなくなりつつあった。

 瘴気は、人を狂わせる。
 瘴気に当てられた人間たちは、互いにいがみあい、憎みあい、奪いあい、最後には殺しあう。

 破滅の塔には教団から幾組もの勇者パーティが間断なく送り込まれてきた。
 だが、そのひとつとして塔から生きて出られたものはない。
 Aランク三組とBランク五組のパーティは、塔の中で絶望の果てに全滅し、ダンジョンコアの貴重な養分と成り果てた。

 近隣の教団支部は、ついに破滅の塔とその周辺地域の放棄を決定した。

 煌めきの教団が、ギエンナ支部の奥深くに安置された祭壇の核を、安全な街へ引き上げようとしている――そんな情報が俺たちの耳に入った。

 俺はギエンナの街の鐘楼の屋根の上に立って、混乱する街の様子を見下ろしている。

「教団はギエンナの住人を見捨てるつもりか」

「でしょうね。魔族との戦いを有利に進めるためには、この程度の規模の街など、いちいち気にかけてはいられない、ということでしょう」

 俺の隣に立つシルヴィアが言った。

 シルヴィアは以前のぶかっとした僧衣ではない。
 漆黒の絹と紫のメッシュで構成された、パーティドレスと僧衣を足して割ったような格好だ。
 豊かな胸の谷間がメッシュの下に覗き、背中も大きく空いている。
 さらに、脇の下からウエスト、ウエストから太ももにかけての横のラインがぱっくり空いていて、シルヴィアの白くしっとりとした肌が丸見えだ。

 自分の女にエロい格好をさせて喜ぶ趣味は俺にはないのだが、ダーナがこれを着せろというんだからしかたがない。
 男を知ったシルヴィアではあるが、まだその顔立ちはあどけなく、淫蕩で妖艶な魔女にはほど遠い。
 この格好も、どっちかというと、教団の神待節の仮装のようだ。
 まあ、仮装にしちゃエロすぎるんだけど。

「この情報が手に入ったのも、キリク様がアンを密かに蘇生していたおかげですね。さすがです」

 シルヴィアが言ってくる。

 トロール洞でルシアスたちに見殺しにされた女賢者の死体を、俺は密かに回収していた。
 俺の「虚無の波紋」で戦闘不能状態を解除し、事態を説明した上で、「暁の星」を壊滅させるまでのあいだ、破滅の塔の一室に軟禁していた。

 上空から街を見下ろしていたダーナが、鐘楼の上に降りてくる。

「人間側にスパイを送り込みたいとは、かねてから思っていたのだ。アンが魔族の走狗になるかはわからなかったが、もし言うことを聞かないのなら、シルヴィアにやったのと同じことをすればいいだけだ」

「えー。アンさんまでキリク様のお手つきにする気だったんですか? そりゃ、アンさんは美人ですけど」

 シルヴィアが頬を膨らませた。

「美人は美人だが、あまり好みのタイプじゃないな」

 よく言えば都会的な、悪く言えば金のかかりそうなタイプの女だ。
 もっとも、金遣いが荒いことは、この場合はいい方に働いた。

「ルシアスたちへの恨みはもちろんだが、もともと金の好きな女だからな。報酬で釣るのは簡単だった」

「逆に言えば、金次第で向こうに転ぶおそれもあるわけだが……」

「教団の金払いは渋いことで有名だ。それも、正規の依頼への報酬ならともかく、魔族に通じてたような女の言うことを、教団が鵜呑みにするわけがない」

 アンが「暁の星」の報告に反して生きていたことは、すこし離れた街の教団支部で確認させた。
 その後、勇者パーティへの斡旋を待たせながら、教団の動きを探らせている。
 今回、教団がギエンナを放棄するという情報も、アンが探り出したものだった。
 アンがこちらを売る気ではないかという懸念もなくはなかったが、結局アンのもたらした情報は正しかった。
 こちらの動きが向こうに漏れてる様子もない。

「アンさんはトラブルメーカーだったみたいですからねー。実力はあるのに、なかなかいいパーティに斡旋してもらえないみたいです。アンさんにとって、わたしたちは格好の金ヅルってわけですね」

「私からすると、理解に苦しむ相手だな。同胞を売って金に換えようなど……。しかもその金の使い道は、豪勢な生活をしたり、己を着飾ったりすることだ」

 なんだかんだで根の真面目なダーナが肩をすくめる。

「情報提供者にするには都合のいい奴ではあるが、あまり羽振りが良すぎるのも問題だな。パーティに属してもいないのに金遣いが荒いなどと言われれば、教団に目をつけられる可能性もある」

「アンさんは、そこは抜かりなくやるって言ってました。まあ、あの人なら実際抜かりなくやるんじゃないでしょうか」

「そうだな。もし問題があるようなら、消してしまえば済む話だ。情報源としては貴重だが、かけがえがないというほどでもない。あの女ならば、そのことも重々承知していよう。
 それより、そろそろのようだぞ?」

 ダーナが鐘楼の上から、街の一画に目を向けた。
 ダーナの視線の先には、広場に面した石造りの大きな建物がある。
 ギエンナの煌めきの教団支部。

「祭壇に核があるって話は初めて聞いたよ」

 俺が言うと、

「教団は勇者パーティにも隠しているのだな。
 教団支部には祭壇があり、その祭壇には核が祀られている。
 その核が生きている限り、街に瘴気は入り込まない」

「わたしの神聖結界や、キリク様の瘴気結界のようなものですね」

「ああ。規模は桁違いに大きいがな。
 ともあれ核は、魔物の多い領域で人間が暮らしていくのに必要不可欠な存在だ。
 核なるものが、いつ、どのようにして生まれたのかはわからないが、現代の人間の技術では――いや、魔族の技術を持ってしても、その正体はまったく解明できていない」

「そんな貴重な核を、むざむざ魔王軍に奪われるわけにはいかないってわけだな」

「でも、核を持ち出せば、ギエンナの街を瘴気から守る結界が消失します。そんなことを、ギエンナの住人が認めるはずもありません。だから……」

 シルヴィアが言葉の後半を呑み込んだ。

 教団は、混乱を避けるためと称して、まだ人の残っている街から、祭壇の核を運び出すことに決めたのだ。

 もし祭壇の核の移動を公表すれば、住人たちは混乱し、身を守るためにも核の移動を妨げようとするだろう。
 核が万が一にも魔王側に渡ることがないよう、移動は秘密裏に行う必要がある。
 だがそれは、街に残された人々を見捨てることと同義だった。

「連中にとって計算外だったのは、核の移動の予定がこちら側に漏れたことだ。いや、連中はまだ漏れたことに気づいてすらいない」

 ダーナはそう言うと、腰の後ろから生えた翼をはためかせ、宙高くに舞い上がる。

「うむ。結界が消えたな。街の周囲から瘴気の霧が雪崩のように流れ込んできている」

 上空から言うダーナに、俺とシルヴィアは鐘楼の上から街の外縁に目を凝らす。
 たしかに、黒い霧のようなものが、外壁を乗り越えて街に侵入を始めていた。
 外縁部から、人々の叫ぶ声が聞こえてくる。

「キリク、シルヴィア! よく見ておけ!」

 ダーナが言うのと同時に、街の外縁から、魔物の叫びが聞こえてきた。
 それに重なる人間の悲鳴。
 戦いの気配。
 街に混乱が伝播していく。

「あ、キリク様! あれを!」

 シルヴィアが街路のひとつを指差した。
 街路の奥から瘴気が押し寄せてくる。
 瘴気の津波が逃げ惑う人々を呑み込んだ。
 その直後、瘴気に呑まれた人々が、喉を、胸を、頭を押さえて苦しみだす。
 そして――

 ――ヴギャアアア゛ア゛ッ!

 ついさっきまで人間だったものたちが、魔物と化した。
 魔物どもの邪悪な産声に、人間たちが恐慌に陥った。
 魔物化した人間の身内だろう、中年の女が魔物に駆け寄って取りすがり、その魔物に首を食いちぎられて絶命する。

「……本当に、人間が魔物になるんだな」

「おそろしい光景ですね」

 瘴気に当たり続けた人間は魔物になる――ダーナから聞かされた時には耳を疑った。
 だが、実際に人間が魔物に変貌するところを見せられては、もう信じないわけにはいかなかった。

 浮浪者の子どもたちがゴブリンに。
 腰の曲がった老人がトロールに。
 怪我をして路上に倒れていた兵士がオーガに変わる。

「わかったろう。煌めきの神の呪いを受けていない人間が瘴気にさらされるとああなるのだ」

「だからこそ勇者の出番ってわけか」

「私は上空から魔物どもを煽り立てよう。キリクとシルヴィアは地上から支部へ接近し、核を移送する任を受けた勇者どもを倒すのだ」

 ダーナは外縁を飛び回りながら、魔物となった人間たちを、街の中心部へと煽り立てる。
 見境なく暴れていただけの魔物たちが、外縁から中心部に向かって押し寄せていく。

「やれやれ。簡単に言ってくれるな」

「キリク様にとっては、とくに難しいこととも思えませんが」

「シルヴィアは俺を過大評価しすぎる」

 俺はそう言うと、シルヴィアを抱え、「捕食蔓」を屋根の上の彫像に引っ掛けて、鐘楼から地面へと飛び降りる。
 目立つ降り方だったはずだが、人々は魔物から逃げ惑うのに必死で、俺たちのことになど眼もくれない。

 混乱した群衆に巻き込まれても厄介だが、外縁から押し寄せる魔物の群れに呑まれるのも厄介だ。
 俺とシルヴィアは、裏路地をつたって、街の教団支部へと近づいていく。
 路地の角から顔だけを出し、支部の様子をうかがっていると、

「魔物どもが押し寄せてくる、だと!?」

「悪魔が攻めてきたのか!?」

「くそっ! よりによってこんな時に……!」

 支部の扉が開かれ、中から勇者パーティが現れた。
 男勇者、男戦士、男戦士、女魔術師、男僧侶、女シーフという編成だ。
 支部の核の移送のために、他の街の支部から派遣されたパーティだろう。

「まるでこっちの動きを見透かしたかのようなタイミングだな!」

 勇者がそう毒づいた。
 黒い髪に褐色の肌、年齢は二十歳前後だろうか。
 装備を見る限り、勇者魔法よりは剣技をメインに戦うタイプのようだ。

 その背後にいる男戦士が、腕に大きな水晶のようなものを抱えている。
 ダーナから聞いていた通り、あれが祭壇の核なのだろう。
 っていうか、

「本当に、ダンジョンコアとそっくりなんですね」

「だな」

 そっと囁いてきたシルヴィアにうなずきを返す。

(ダンジョンには、煌めきの神の力はごく一部しか及ばない。だから、煌めきの神とダンジョンは敵対関係にあるとばかり思ってたんだが……)

 ダンジョンコアと、祭壇の核が同じものに見えるってのはどういうことだ?

「勇者も魔王も……わたしたちはこの世界のことを、上っ面だけしか知らないような……そんな気がしてなりません」

 狭い路地裏で俺に密着したまま、シルヴィアがそうつぶやいた。

 シルヴィアの手には、漆黒の長杖が握られている。
 杖の先には、三日月状の薙刀のような刃がついていて、その刃の回りを、粘着質な闇色の渦が取り巻いている。
 その渦が刃を締め付けるたびに、刃が気持ちよさそうに振動する。
 刃の付け根には、二つの紫色のオーブがついていた。
 このオーブから刃に向かって魔力が流れ、波のような刃紋を浮かび上がらせている。
 なかなかカッコいいデザインだ――「男女の交合を象徴的に表現したものだ」というダーナの解説を聞かなかったことにすれば、な。

 男性器の象徴だという杖を落ち着かなげにしごきながら、シルヴィアが言ってくる。

「彼らの実力をどの程度と見ますか、キリク様?」

「『盟神探湯くかたち』でざっと見た。
 勇者のレベルが80。他は60台前半だ。
 たぶん、普段はソロで活動してる高ランク勇者に、臨時メンバーをくっつけたんだろう」

「80というと、ルシアスよりも高いですね」

「あいつよりは慎重そうでもあるな」

「ふふっ。ルシアスより慎重さに欠ける勇者なんているんですか?」

 せせら笑うようにシルヴィアが言った。
 際どい衣裳のせいか、それとも、ダーナ言うところの「調教」のせいか、最近のシルヴィアはこんなんだ。

「世の中下には下がいるもんさ。
 仮にもAランクだった『暁の星』が全滅してるんだ。当然、教団はそれ以上の勇者を送り込んでくるはずだ。
 とくに、支部の核の移送は、失敗しましたでは済まされない。
 あの勇者はたぶん、レベル以上に戦えるはずだ」

 Sランクってことはないだろうけどな。

「なるほど……。試してみてもいいですか?」

 どこかウキウキしたような顔で、シルヴィアが言った。

「じゃあ、俺が他を相手しよう」

「簡単には殺さないほうがいいですよね?」

「悩ましいな。ここはダンジョン外だ。勇者をあまり追い詰めると……」

「煌めきの神が介入しますか」

「毎回毎回あんなこともないと思うけどな」

「じゃあ、勇者は追い詰めすぎず、上手に狩る方向で」

「最悪、勇者は逃してもいい。今回の目的は祭壇の核の回収だ」

「それじゃつまらないですよ」

「……おまえもだいぶ染まってきたな」

「誰がそうしたと思ってるんです? 何も知らない女の子を自分色に染め上げて、さぞかし楽しかったでしょうね、キリク様? 本当に悪い人なんですから」

「清楚だったシルヴィアを返してくれ」

「この世に清楚な女性なんていませんよ。今のわたしこそ、本当のわたしなんです。これまで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなっちゃいました」

「くれぐれも油断するなよ?」

「もちろんです」

 シルヴィアがそう言って、路地裏を出、真正面から勇者たちに近づいていく。

「はぁい、勇者様」

 気さくに声をかけたシルヴィアへと振り返り、勇者たちが硬直する。
 ひょうきんそうな男戦士が「うひょっ!」と声を漏らし、口笛を吹く。
 堅物そうなもう一人の男戦士は、シルヴィアから目を逸らし、わずかに前屈みになっていた。
 シルヴィアの格好は、お役目大事の真面目系パーティには刺激が強すぎたらしい。
 勇者だけは顔色を変えず、眉をひそめてシルヴィアを見た。

「何用だ? 娼婦に関わっている暇はない。営業ならば他を当たれ」

 勇者が、冷たい口調でそう言った。

「ひどいです、勇者様! 娼婦だなんて! わたし、これでも一途なタイプなんですよ!? そんな侮辱は許しません!!」

 シルヴィアが、刃のついた長杖を構え、勇者に下段から薙ぎ払うように斬りつける。

「むっ!」

 勇者は、抜く手も見せずに剣を抜き、かわしにくいはずの一撃を、剣でとっさに受け止めた。
 シルヴィアは杖を引き、大きく跳びすさって構えを変える。

「やりますねっ!」

「やはり悪魔かっ! 戦闘準備!」

 勇者の背後で、パーティメンバーたちも身構える。

 だが、遅い。

 背後から吹き出した冷凍の旋風が、勇者以外の全員を呑み込んだ。
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