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五月

3.意趣返し

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 一方、食堂から姿を消した美幸は、近隣のドラッグストアに飛び込み、首尾良く目的の物を購入して社屋ビルにとって返した。しかし自分の職場には向かわずに、営業部が入っているフロアに直行する。

「失礼しま~す!」
 営業一課の部屋に入り、明るく挨拶した美幸は、迷わずに窓際にある課長席へと足を向けた。

「うん?」
「あれ?」
「君は……」
 昼時ではあったが室内に残っていた何人かが怪訝な顔をする中、美幸は残って仕事をしていたらしい浩一の元に歩み寄り、改めて声をかけた。

「浩一課長でいらっしゃいますね。申し訳ありません、今お仕事中でしょうか?」
「いや、今ちょうど一区切り付いて、これから休憩に入ろうかと思ってた所で大丈夫だけど、君は?」
 椅子に座ったまま、不思議そうに自分を見上げてきた浩一に、美幸は愛想良く笑いながら挨拶した。

「申し遅れました。私、今年企画推進部第二課に配属になりました、藤宮美幸と申します。お見知りおき下さい」
 そう言って頭を下げた美幸に浩一は顔を綻ばせ、立ち上がりながら右手を差し出した。

「ああ、噂は色々聞いています。優秀な人が姉の下に入ってくれたと聞いて、嬉しく思っていました」
「ありがとうございます。光栄です。先程も社員食堂で浩一課長の部下の方に、丁寧なご挨拶をして頂きました」
 差し出された右手を握り返しつつ美幸が笑顔で告げると、浩一の笑顔が僅かに強張った。

「ご挨拶……、君に?」
「はい!」
「因みに、どんな《ご挨拶》だったのかな?」
 そこで手を離した美幸は、考え込む素振りをしながら話し出した。

「えっとですね、何でも『正真正銘のサラブレッドな浩一課長とは違って、柏木課長は血も涙もない暴れ熊で、下の人間を馬車馬並みにこき使うから、擦り切れ無いうちに異動した方が良いよ?』とか」
「え?」
「『問題ありまくりでも、能力が有るかどうかで部下を選んでいるから、普通の俺達を使っている浩一課長の方が、業績を上げられないのは当然だ』とか」
「あの……」
「『恥知らず課員は周囲を不快にさせない様に、食堂でも隅で食べるのが礼儀だ』とか」
「ちょっと待って」
「『柏木課長は女じゃないから、弟に花を持たせる位の心配りが出来ないんだよな。女の君が入ったんだから、ここは一つ女の嗜みとして言ってみてくれない? そうすれば社内でも居心地良くなるよ?』とか、色々とご親切に教えて頂きまして」
「……へぇ? ……それはそれは」
 美幸の話を聞いている間に、顔は笑顔のままの浩一のこめかみに、青筋が浮かんできた。美幸はそれに気付かないふりで、平然と話を続ける。

「その折りに、『浩一課長が柏木課長に負け続けて、最近元気が無くて疲れ気味だ』との話も聞きまして。柏木課長を応援するのは二課の一員としては当然ですが、浩一課長は柏木課長の弟さんですし、課長のライバルとして頑張って頂きたいので、これを持って来ました!」
 そう言って美幸は手に持ってきたビニール袋を、浩一の机の上にドンっと置いた。その質量に、流石に浩一が怪訝な顔をする。

「これって」
「はい! ドラッグストアのおじさん一押しの【一発逆転、特選ロイヤルパワー】1ダースですっ!」
「…………」
 ビニール袋の中から一つの細長い箱を取り出しながら美幸が説明すると、浩一を始めとして室内に居た全員が無言で美幸を凝視した。それを無視しながら、美幸がにこやかに説明を続ける。

「お店のおじさんに、『最近疲れ気味で自信喪失している男の人を、元気にさせたいんです』と相談しましたら、『それなら絶対コレ! 一本三千円するけど、スッポンとマムシとローヤルゼリー、その他諸々の滋養強壮の成分がたっぷり詰まってるから、飲んだ途端に体中あちこちが元気になること請け合いだよっ!』と太鼓判を押してくれました! 是非、お試し下さい!」
「あの、藤宮さん?」
 盛大に顔を引き攣らせながら浩一が話し掛けようとしたが、美幸は浩一の手に黒を背景に赤と金字が踊る、派手派手しい上、如何にも怪しげなその箱を、浩一に押し付けて頭を下げた。

「あ、もし万が一効果が無かったら、返品に応じてくれるそうなので、レシートも一緒に置いて置きますから。それじゃあ失礼します。これからも柏木課長の次に、浩一課長の事を応援してますね? お邪魔しました!」
「ちょっと、藤宮さん!」
 言うだけ言って踵を返して立ち去ろうとした美幸だったが、ドアの付近で、食事を済ませて戻って来た例の三人組と隆に遭遇した。

「あ?」
「げっ」
「何でお前がここに?」
 顔色を変えたのは男達のみで、美幸は笑顔を浮かべつつ余裕綽々で挨拶をする。

「先程はご挨拶とご助言を、色々とありがとうございました。青木先輩、山崎先輩、早川先輩、今後とも宜しくお願いします。それでは失礼しま~す!」
 そうして元気に立ち去って行った美幸を見た早川達は「何しに来たんだ?」「やっぱりあそこの人間は分からん」などとブツブツ呟いていたが、そんな余裕はそれまでだった。

「青木、早川、山崎、田村、ちょっとこっちに来てくれ」
 幾分固い声で浩一に呼ばれた四人が課長の机の前に立つと、浩一は立ったまま、皮肉っぽく口元を歪めて問い掛けた。

「お前達……、よりにもよって人の姉を社員食堂で『血も涙もない暴れ熊』呼ばわりした上、『サラブレッドの課長がそんな暴れ熊に勝てないのは道理だから、手心を加えてくれ』とか言ったのは本当か? 他にも色々と、興味深い話を聞いたが」
「はあぁっ!?」
「いや、まさか!」
「俺達、誓ってそんな事は!?」
「あのっ! 俺は本当に無関係で!」
 予想外の事を言われ、美幸に因縁を付けた三人は勿論、巻き添えを食った形の隆も必死に弁解しようとしたが、四人の目の前で浩一は先程美幸が持って来た代物を突き出しながら、薄笑いで再度尋ねた。

「じゃあ何を言ったんだ? 俺はさっき来た新人に、深く同情された挙げ句、『部下の方がお疲れと言っていたので、これで疲れを癒やして下さい』と、これを差し入れて貰ったんだが?」
「…………」
 そこで差し出された微妙過ぎるそれを見た男達が、全員揃って顔を引き攣らせて黙り込むと、浩一は力任せに自分の机を叩きながら一喝した。

「黙っていないで、洗いざらい吐け!! 言っておくがこの期に及んで、適当に誤魔化しておこうなどとは考えるなよ!? どうせ今頃は、社内中に噂が広がっているだろうからな。分かったかっ!!」
「わ、分かりましたっ!」
 そうしてその日、普段温厚で滅多に怒りを露わにしないと言われている営業一課長の雷が、四人の部下に対して派手に落とされる事になった。

 同日夜、柏木邸での姉弟の会話。
「姉さん、お疲れ。ちょっと良いかな?」
「浩一? どうかしたの?」
 真澄が自室で机に向かっていると、浩一が声をかけてきた為、背後に向き直った。すると浩一が微妙な表情で、真澄にある事を告げる。

「その……、姉さんの所に入った新人の子、昼に俺の所に来たんだ」
「え? 藤宮さんが、浩一に何か言ったの?」
 途端に嫌な予感に襲われた真澄は浩一に詰め寄ったが、彼は姉から視線を逸らしつつ、質問の答えをはぐらかした。

「その……、どうやらきっかけは、俺の部下が彼女に食堂で絡んだ事らしくて……。彼女も悪気は無いから、……多分」
「だから何を言ったのかと、聞いているのよ!?」
「……姉さん」
「な、何?」
 急に真顔になり、両肩を掴んで自分の顔を見詰めてきた弟に、真澄はなんとなくたじろいだ。すると浩一が、しみじみと告げてくる。

「色々大変そうだけど、頑張って」
「……もう何も言わないで。お願いだから」
 浩一の懸念と真澄の悲哀を深めながら、その夜は静かに更けていった。
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