世界が色付くまで

篠原 皐月

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第82話 困惑

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 それから当たり障りの無い会話をしながら食べ終えた二人は、食器を片付けてから恭子が先にリビングに戻った。
 少しして二人分珈琲を淹れた浩一がリビングにやって来て、ローテーブルにカップを二つ向かい合わせに置いてから、何故かリビングボードの方に歩み寄る。そして引き出しを開けながら、徐に話し出した。

「それで、さっきの再就職の話だけど……」
「はい、グラーディンス社の東京支社勤務になるんですね?」
 ソファーの片側に座った恭子が、カップに手を伸ばしながら確認を入れると、浩一が彼女に背中を向けたまま否定した。

「違う。ニューヨークにある本社勤務になる」
「……え?」
 思わずカップを持ち上げようとした手の動きが止まった恭子だったが、何かを手にして振り返った浩一の表情を見て、紛れもない事実だと悟る。

「本当、なんですね?」
「ああ」
 短く答えて頷いた浩一がソファーを回り込み、恭子の向かい側に腰を下ろした。と同時に持ってきた物を自分の横に置いたが、その一番上に乗っていたリングケースと思しき物を取り上げ、テーブル上でそれを恭子の方に押しやりながら告げる。

「だから、これを受け取って欲しい。これまでにも散々言って来たけど、俺と結婚してアメリカに行って欲しいんだ」
「……ちょっと待って下さい。結婚する気は無いと、これまでに何回も言いましたよね?」
 見なくても中身など丸分かりのその状況に、恭子の顔が強張った。しかし彼女のそんな訴えなど聞こえないふりをして、浩一が淡々と話を続ける。

「家を出る事にしたから、祖母の遺産と祖父から生前贈与された財産については、後腐れ無い様に全て姉さんと清人名義に変更したけど、就職してからの給料を貯めた分は、自分への正当な報酬だから殆ど手つかずで残してある。何年かは不安定な生活になるとは思うが、贅沢は出来ないまでも不自由しないだけの蓄えはあるから、心配しないで欲しい」
「問題は、そこじゃなくてですね!」
 思わず声を荒げた恭子だったが、ここで浩一はより一層真剣な顔つきで、ある事を告げた。

「君の家族の遺骨については、今後暫くは帰国できなくなる可能性が大きいから、預かって貰っているお寺の住職に事情を説明して、取り敢えず十年分の保管料と供養料を先払いして、引き続きの管理をお願いしておいた」
「は? 何を勝手に、そんな事をしているんですか!?」
 自分の全く与り知らぬところでの話に、恭子は本気で驚きの声を上げたが、浩一はここで苦笑の表情になった。

「君の清人への借金に関しても、俺が一生かけても全額支払う。あいつは無利子無担保で待ってやると言ってくれたし、その言葉に甘える事にした。あいつには迷惑のかけ通しで、本当に申し訳ないが」
「余計なお世話です! 借金は自分できちんと返します! 浩一さんには係わり合いのない事じゃありませんか!!」
 ばっさり切って捨てた恭子だったが、それ位言われるのは予想していたらしく、浩一は真顔で訴えてくる。

「確かにこれまではそうかもしれないが、俺は君のこれからの人生と係わりたい。俺は家は捨てられても、幸せになる事は諦められない。そして俺がこの先幸福で有る為には、君が必要なんだ」
 しかしその切々とした訴えも、恭子の心には響かなかった。寧ろ歯軋りを堪える様な表情になって、低い声で呻く様に告げる。

「なんですか……、そのどこまでも自分本位な主張は。自分が幸せでいる為に、私が必要って……。私の都合とか気持ちとか、丸無視ですよね? 大体、私にとっては、浩一さんと一緒に居る事が、幸せだとは限らないんですけど?」
「確かにそうだね。残念な事に」
「……喧嘩、売ってるんですか?」
 肩を竦めてあっさり同意した浩一に、恭子の怒りが爆発しそうになったが、ここで浩一が横に置いておいた薄い本の様な物を取り上げ、恭子の前に置いた。

「だから、指輪と一緒にこれもあげるよ」
「何ですか? これは」
 リングケースと同じ素材のビロード張りである、本の様な二つ折りの物を恭子が怪訝な顔で見下ろすと、浩一がそれを指差しながら事も無げに説明を加えた。

「その指輪を購入した店が発行した鑑定書。それを持ってその発行店に行けば、他の店で叩き売るより高値で、指輪を買い戻してくれるから。君の気の済む様にしたら良い」
「したら良いって……、浩一さん」
 話を聞いて唖然とした恭子が固まっていると、浩一が続けて航空会社のロゴ入りの、白い封筒を差し出す。

「それからこれは、成田とJFK国際空港間の航空チケット。これの出発日時、搭乗カウンターの前で待ってるから。丁度一週間後の出発だから、それまで考えて結論を出して欲しい。それから、アメリカでも婚姻届は出せるけど、戸籍謄本とか取り寄せるのは色々面倒だから、出発前に一部取っておいてくれると助かるな。それじゃあ、そういう事だから」
「あ、あの……、浩一さん!?」
 恭子の前にその封筒を置き、言うだけ言ってあっさり立ちあがってリビングから出て行った浩一を、恭子は呆然自失状態で見送った。

(何考えてるのよ……、いきなりそんな事言われても)
 不意打ちで色々な事を一気に言われ、頭の中が飽和状態になっていた恭子は、取り敢えず台所を片付けようと、残っていた冷めた珈琲を一気飲みして立ち上がった。そして流しの片付けを始めようとしたところで、廊下の方から何かを引きずるような、聞き慣れない音がするのに気が付く。
 気になった恭子が流しの水を止めて廊下を覗き込むと、まるで旅支度を整えた様な浩一が、特大のトランクを引いて玄関に到達したところだった。

「こんな時間に、何をやってるんですか? 浩一さん」
 その問いかけに、背後を振り返った浩一はさらりと言ってのけた。
「ああ、ここを出るんだ。荷物は纏めておいたから。残した物は、適当に処分してくれるように清人に頼んであるから、心配しなくて良いよ」
 そんな事をあっさり言われて、恭子は流石に目を丸くした。

「は? 出るって、今からですか? フライトは一週間後なんじゃ……」
「搭乗カウンター前で待ってるって言っただろう? いきなり言われて君も困っただろうし、気まずい空気のまま一週間過ごしたくもないだろうしね。俺は出発までホテルで過ごすから。それじゃあ」
「あの、浩一さん!?」
 引き留める言葉を言う暇もなく、浩一は短く告げてさっさと玄関から出て行った。その日何度目か分からない衝撃に思考停止に陥った恭子だったが、すぐに気を取り直して携帯を取り出す。そしてもどかしげに電話をかけ始めた。

「先生! 浩一さんが出て行っちゃったんですけど!?」
 いつもの彼女らしくなく、電話の向こうの相手や都合を確かめる事などせず、邂逅一番勢い良く叫ぶと、そのかけた相手である清人は、不機嫌そうな声を返してきた。

「……いきなり耳元で喚くな」
「すみません! でも、先生は浩一さんが柏木産業を辞めた事も、海外移住する事もご存じだったんですよね!?」
「まあな」
「どうして教えてくれなかったんですか!」
「どうしてわざわざ俺がお前に、知らせる必要がある?」
「え?」
 素っ気なく言い返してきた清人に、怒りに任せて叫んだ恭子は口を閉ざした。そんな彼女に、清人が淡々と言い聞かせる。

「今回のこれは、あくまで浩一のプライベートの範疇で、単なるルームメイトのお前には関係のない事だろうが」
「それは……、確かにそうかもしれませんが」
 口ごもった恭子に、清人は何でもない事の様に告げる。
「あいつから、ちゃんとそこを出る旨の話はあったんだよな? それなら同居生活は解消だ。ご苦労だったな。当分、一人暮らしを満喫していて構わないぞ?」
 あっさりとしすぎるその物言いに、恭子は思わず口を挟んだ。

「先生」
「何だ?」
「……言う事はそれだけですか?」
 しかし清人は微塵も動じずに話を続ける。
「俺の方はな。お前は他に何か、言う事があるとでも?」
 そう言われて、一瞬何かを言いかけた恭子だったが、それが明確な言葉になる事は無かった。

「……いえ、何もありません」
「そうか。じゃあ切るぞ。今夜は子供達をお義母さんに預けて、久々の真澄とのデート中なんだ」
「お邪魔しました。失礼します」
 そう断りを入れて清人との通話を終わらせた恭子は、それから暫く手の中の携帯を見下ろしたまま、無言で佇んでいた。
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