ハリネズミのジレンマ

篠原 皐月

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第65話 変遷 

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「ただいま」
 帰宅して、リビングに入りながら軽く声をかけた芳文だったが、予想に反して答える声は無かった。

「……で、……える…………、……は、…………いから、………」
 珍しくこの時間に出かけているのかと思いきや、貴子がソファーに座って自分の膝の上のヨッシーを撫でながら、何やら小声でブツブツと呟いているのを目にした芳文は、無言で顔を顰めてから先程より幾分声を大きくして呼びかける。

「貴子、戻ったぞ?」
「あ、お帰りなさい。すぐご飯を出すから」
 それで漸く気が付いたらしい貴子は弾かれた様に顔を上げ、慌てて立ち上がった。そして彼が着替えている間に食事の準備を済ませ、二人で食べ始める。その日もいつも通り他愛の無い話をしながら食べ進めていたが、半分ほど食べた所で、貴子が控え目に言い出した。

「その……、芳文?」
「どうした?」
「この料理、美味しい?」
 幾分心配そうにそう問われた瞬間、芳文の眉根が軽く寄せられたが、すぐにいつもの表情で答えた。

「いつも通り美味いが?」
「そう? ありがとう」
 それを聞いた貴子は如何にも安堵した表情になって食事を再開したが、それを見た芳文は少ししてから小さく溜め息を吐いて箸を置き、真顔で口を開いた。

「この際だ。ちょっと言わせて貰う」
「何?」
 不思議そうに箸の動きを止めた貴子に向かって、芳文が断言する。
「前から思ってたが……、お前、外側だけ無駄に頑丈で、中身は豆腐だな」
「はぁ?」
「そんなに自分の味覚に、自信が無くなってるのか?」
 そこで怪訝な表情から一転、貴子は気分を害した様に言い返した。

「いきなり何を言い出すのよ。単に美味しいかどうか聞いただけで」
「違うな。以前のお前だったら『美味しいか』なんてお伺いを立てたりしない。『美味しいでしょう?』と自分の腕に対する自信を持って、相手が賛同するのを確信している物言いをする筈だ」
 そう言い切られた貴子は、思い当る節があった為言葉を濁す。

「そんな事は……。偶々そういう言い方になっただけで」
「もっと言えば、今現在お前の料理を食ってるのが、俺とお前だけって異常事態に、頭が付いていって無いんだ」
「何よ、それ?」
 予想外の方向に話が流れた為、貴子は戸惑ったが、芳文はこの間考えていた事を理路整然と告げた。

「お前が宇田川家を出た時の、人生における生きがいは大きく分けて二つ。いけ好かない父親への報復と、美味い物を作って食べる事。違うか?」
「……悪い?」
 軽く睨みつけてきた貴子に、芳文は軽く肩を竦めて見せた。

「悪くはない。親父の方は随分時間がかかったが、今回のあれこれで棚ボタ式に自滅気味で問題なし。ただ料理の方はな……。この間美味い料理を味わう以上に、作る事自体や他の人間に教えたり食わせて喜んで貰う方が、生きがいになってきてただろ?」
「だから?」
「タレント業の方はともかく、講師の職まで辞める事になって、お前は自分で思っている以上に気落ちしてるんだ」
「そんな事は……」
「それにお前、今年に入ってから隆也に対して、一生料理を作ってやっても良いなとかなんとか、うっかり思っちまっただろ?」
「いきなり何言い出すのよ!? そんな事思って無いから!」
 そこで血相を変えてテーブルを叩きつつ、力一杯否定してきた貴子だったが、芳文は少々呆れ気味に話を続けた。

「お前、複雑そうに見えて根は単純と言うか、変な所でくそ真面目と言うか……。そう思った瞬間、無意識に美味い不味いの判断基準を、あいつの味覚に合わせた筈だ」
「そんな事、何を根拠に」
「あいつがお前の料理の腕にケチをつける筈も無いし、毎回満足して食ってただろうから無自覚だっんだな。あいつが来なくなってからも、お前仕事で忙しくしてたから意識してなかっただろうが、仕事が無くなって自分と俺が食べる分だけ作る様になって、段々自信が無くなってきたんだろう? 自分が本当に美味い物を作っているのか」
「…………」
 これまで弁解や否定の言葉を口にしようとしていた貴子は、事ここに至って黙り込んだ。そして俯いたまま微動だにしない彼女に、芳文が静かに問いかける。

「なあ、貴子?」
「何?」
「隆也を呼んで、飯を食わせるか?」
 その提案に貴子が若干動揺を見せたが、すぐに無言のまま首を小さく横に振った為、芳文は質問を続けた。

「食わせたく無いか?」
「そうじゃなくて……」
 そして貴子は言い淀んでから、小声で言い始める。
「だって……、怒ってたし、小説の続きも、来なくなっ……」
 彼女の声が、段々涙声になってきているのは分かったが、芳文はわざと止めずに続けさせた。

「未だに……、張り付かれてるしっ……。こんなとこっ……、来るわけ、ない……」
「ああ、うん。完全に、愛想尽かされたっぽいよなぁ~。あいつキャリア街道驀進中だし、経歴に傷一つ付けたく無いよなぁ~」
「…………っ」
 彼女の声が途切れてから、皮肉っぽい口調で芳文がそう述べた途端、貴子は涙が溢れた目で芳文を睨み付け、しかし無言のまま勢い良く立ち上がってリビングから逃げ出していった。それを黙って見送ってから、芳文は疲れた様に溜め息を吐く。

「泣いて逃げ出す前に、俺に文句の一つでも言って、八つ当たりしろよ。本当に馬鹿な奴」
 そう呟いてから仏頂面のまま食事を再開した芳文は、食べ終えてから茶を淹れつつ、戻って来ない貴子が食べ残した物を片付けて困った顔で考え込んだ。

「さてさて、優しいお兄ちゃんとしては、ここはどうしたものか」
 しかし結論を出すのは早く、茶を飲み終わると同時に、最近とみに困り者の友人に、電話をかけた。

「よう、甲斐性無し、ヘタレキャリア」
 電話越しの開口一番のその台詞に、隆也は盛大に顔を顰めた。

「ご挨拶だな。随分機嫌が悪そうだが、どうした?」
「どうもこうも。貴子が泣いちまったのはお前のせいだぞ?」
「どういう事だ?」
 偶々早く帰宅できて自室で本を読んでいた隆也は、座っていた椅子の背凭れを軋ませながら、話を聞く体勢になった。しかし芳文が少し前の一連のやり取りを語り終えると、上半身を起こしつつ低い声で相手に毒突く。

「それはどう考えても、お前の認識が間違っている。あいつが泣き出したのは、お前が無神経な事を口にしたからだろうが。どうしてくれる。このくそヤブ医者」
「そもそもお前が寄り付かない上に俺に口止めして、貴子が無視されてるって思いこんでるのが悪いんだろ? これからどうするつもりだ?」
 芳文が負けず劣らずの不機嫌な声音で言い返してきた為、隆也は少しだけ考えてから口を開いた。

「事件発生から、一ヶ月は経過したからな。そろそろ鬱陶しい蝿は、纏めて駆除する時期だろうとは思っていた」
「それは任せる。それとやはり仕事もしないで、日中一人きりで過ごしてる環境も良くないな。かと言ってすぐにどこかで職を探すとか、俺が仕事をしないで引っ付いているわけにもいかないし」
「それも近日中に、何とかする」
 冷静に請け負った隆也に、芳文は幾分安堵したらしい口調になった。

「お前がそこまで言うなら、心配要らないだろうが。貴子にはお前が色々やってる事、言わなくて良いのか?」
「まだ言う必要は無い」
「本当にお前、何を考えてる?」
「押しても無駄だと思ったから、ちょっと引いてるだけだ」
「え?」
 さらっと言われた内容を聞いた芳文は、一瞬遅れて怒鳴りつけてきた。

「『ちょっと』だと!? お前、引きっぱなしにも程があるぞ!!」
「じゃあ切るぞ。宜しく頼む」
「あのな!?」
 何やら盛大な喚き声が聞こえてきたのを無視して通話を終わらせてから、隆也は時間を無駄にせず電話をかけ始めた。

「さて、あまりのんびり様子見もしていられないか」
 そして応答があった事を確認すると、挨拶もそこそこに用件を切り出す。
「榊だが。祐司君、頼んでいた件、今度の土曜日辺りはどうだろうか?」
 卓上カレンダーで日付を確認しつつ、電話越しに祐司と幾つかの項目について確認する。

「ああ、そろそろ綾乃ちゃんの裏工作の方も、一緒に頼む。時期的にその方が効果的だ。大っぴらに室内に盗聴器とかは付けないとは思うが、ベランダに出れば隣接する部屋のそこからは十分聞こえるし、読唇術ができる人間に外から狙わせる事もできるからな」
 互いに当日の流れを確認してから、隆也は話を終わらせた。

「そういう事だ。顔を合わせたら余計な事は言わないで、打ち合わせ通り頼む」
 最後は満足そうに会話を終わらせた隆也は、さっそくスケジュールに予定を入れ、何事も無かったかの様に中断した読書を再開した。
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