アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

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第37話 狡猾狐の本領発揮

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 連休最終日に、夜まですったもんだした挙句、何とか深夜になる前に自分のマンションに帰り着いた幸恵は、連休明けにも係わらず気合を入れて始業時間に、十分な余裕を持って出社した。何故かと言うと深夜に電話したり、簡潔にメールで済ませたりできない人物が自分の職場に存在していた為、朝のうちに詳細な報告しておこうと思ったからである。

「彼氏の実家に、その母親の見舞いがてら顔を出すだけとか言っておきながら、どうしてお前は、そう他人には予測も付かない事をしでかすんだ?」
「今回の“これ”は、私のせいばかりでは無いと思いますが……」
 この四日間の事を掻い摘んで説明すると、目の前で黙って話を聞いていた弘樹は、呆れ顔で盛大な溜め息を吐いた。さすがに少々弁解したくなった幸恵だったが、ここで弘樹はニヤリと面白がる様に笑いながら告げてくる。

「それで? それから君島さんに引きずられて、婚姻届を出しに行ったのか? それなら社の方にも、色々届け出ないといけないが。各種用紙を、総務から貰ってきてやるか?」
「自分で行って貰って来ます。それに幾ら何でも、そこで市役所に直行しませんよ」
「何だ。つまらん」
 本当につまらなさそうに言われて、幸恵は舌打ちしたいのを必死に堪えた。

「人の結婚を、娯楽みたいに言わないで下さい。ですが確かに収拾が付かなくなりそうだったので、あの場で一応届け出用紙に署名はしました。こちらの心の準備もありますので、今度の週末に二人で提出に行く事にしています」
「まあ、とにかくめでたいな。……そうするとお前の結婚時期に関する賭は、誰が勝ったんだ? 俺はもとから、勝つつもりは無かったが」
 ブツブツと相手が何やら言っているのは無視する事にして、幸恵は取り敢えず神妙に頭を下げた。

「その……、遠藤係長には、休日に煩わしい思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」
 その幸恵の謝罪に、弘樹は一瞬戸惑う素振りを見せてから、納得した様に頷く。

「あ? ああ、君島さんが血相変えて『幸恵の仲の良い友人達の連絡先を教えて下さい!』と電話をかけてきた“あれ”の事か? 確かに少し驚いたが、携帯のアドレス帳からピックアップして転送しただけで、大した手間じゃ無かったから気にするな。君島さんにもそう言っておいてくれ」
「……私としては、どうして係長が私の交友関係をご存じなのかと、それ以上に、どうして当然の事の様に彼女達の連絡先をご存じなのかを、問い詰めたいところなのですが」
 ヘラヘラと笑いながら本当にどうでも良い事の様に述べた弘樹に、幸恵が鋭い視線を向ける。しかし弘樹は、堂々と言ってのけた。

「そんな無粋な事は聞くな。単にお前の友人には、綺麗どころが多い。加えて魅力的な女性の連絡先を把握するのが、俺のライフワークだと言うだけの話だ」
「……くたばれ、女の敵」
「うん? 今何か言ったか?」
「いえ、特に何も」
 ボソッと小声で呟いた悪態は、弘樹の耳には届かなかったらしく、幸恵は営業スマイルで誤魔化した。そこで顔付きを改めて、弘樹が思い出した様に言い聞かせてくる。

「ところで、君島さんから問い合わせの電話を貰った彼女達も、お前の事を結構心配してたぞ? 俺に問い合わせの電話をかけてきたのも、何人もいたし」
 そう言われて、幸恵が居心地悪げに頷いた。

「行方不明だなんて聞かされれば、そうでしょうね。和臣から話を聞いて、全員に『誤解だから心配しないで欲しい』とメールで一括送信したんですが、さすがに皆詳細を聞きたがっていると思ったので、時間が合う人とは今日社員食堂で落ち合って、事情を説明する事になっています」
「あ~、食堂でそれをやると周囲も聞き耳を立てるだろうし、お前がもう売約済みって話は、たちまち社内中に広がるよなぁ……」
「そうでしょうね……」
 がっくりと項垂れた幸恵を、弘樹は憐れむ様に見やったが、それはほんの少しの間だけで、すぐに何やら考え込んで、ある疑問を口にした。

「君島さん、どこまで本気で怒っていて、どこまで計算したんだろうな?」
 その自問自答っぽい呟きに、幸恵は小さく肩を竦めてから苦笑気味に述べる。

「私も後から考えると、何となくあの剣幕に押し切られた気がしないでもありませんが、もうどうでも良いです」
「おうおう、開き直っちまって。じゃあ盛りだくさんの連休は終わったわけだし意識を切り替えて、独身生活最後の週、バリバリ仕事してくれよ?」
 小さく噴き出してから茶化す様に笑いながら言った弘樹だったが、幸恵は負けず劣らず楽しそうな笑顔で、さり気なく上司にお伺いを立てた。 

「はい、勿論です。……それでは遠藤係長、休み明けに精査の上返却して頂く事になっている、布地用接着剤の新規溶剤考案書の方は、どうなっているでしょうか?」
 ニコニコと返事を待つ体勢の幸恵であるが、これまでの付き合いで(出せるならとっとと出せや、オラ!)的なオーラを醸し出している事に気が付かない弘樹ではなく、朝に似合わない深い溜め息を吐いた。

「今日一日位は、ホンワカ幸せ空気を醸し出しとけよ。大目に見てやるからさ」
「係長、今、返却して頂けるんでしょうか?」
「……今日中に渡すから、少し待ってくれ」
「分かりました。宜しくお願いします」
 しっかり言質を取った幸恵は、すました顔で一礼して自分の机に戻り、二人のやり取りに聞き耳を立てていた同僚達は、揃って笑いを堪えながら、自分の仕事に取り掛かった。

 その週の土曜日の午後、和臣と幸恵は幸恵の本籍がある市役所に出向いて、無事婚姻届を提出した。当初は荒川家に顔を出して一言挨拶をと考えていた二人だったが、その日に君島が是非一席設けたいと申し出て来た為、挨拶は改めてする事にして、とんぼ返りで都心へと戻る。
 指定されたフレンチレストランに、時間ギリギリに到着すると、二人は黒服のフロア係に、恭しく奥の個室に案内された。

「ちぃ兄ちゃん、幸恵さん。入籍おめでとう!」
「わざわざ足を運んで貰って悪かったね、幸恵さん。二人で祝うつもりだろうとは思ったんだが」
 広い室内に一つ置かれたテーブルの向こう側に並んで座っていた君島と綾乃が立ち上がりつつ、満面の笑みで祝福と歓迎の言葉を述べ、それぞれ花束と祝いの品が入っているらしい箱を手渡してきたが、幸恵がそれに礼を述べながら受け取っている横で、如何にも面白く無さそうに和臣が愚痴を零す。

「全くだ。少しは遠慮してくれ」
「ちょっと和臣! せっかく君島さんが席を設けてくれたのに、ブツブツ文句を言わないの!」
 さすがに叱り付けた幸恵を、すかさず君島が苦笑いしながら宥めた。

「いや、和臣が拗ねるのも尤もだが、この前の連休中、篤志達の事で迷惑をかけてしまったお詫びも兼ねて、是非ご馳走したくてね。だから幸恵さんも、そんなに怒らないでくれ」
「はあ……」
「ほら、ちい兄ちゃんも、そんな仏頂面しないで。さあ、座って座って。すぐお料理も来るから」
「分かった」
 そうして取り敢えず全員席に着き、そのタイミングを見計らったかの様にソムリエとセルヴールがやって来て、予め君島が指示していたらしいシャンパンと皿に少しずつ数種類盛られたアミューズを出して恭しく下がって行った。そして君島家の人間だけになった所で、当然の様に君島が乾杯の音頭を取る。

「それでは、和臣と幸恵さんの結婚を祝して乾杯」
「乾杯!」
「乾杯」
「ありがとうございます」
 和臣は苦笑気味に、幸恵は微笑しながら四人でグラスを軽く触れ合わせた。そして一口飲んだところで、好奇心を隠せない様子で綾乃が尋ねてくる。

「ねえねえちぃ兄ちゃん、式とか新居とかどうするの?」
 その問いに、和臣は取り敢えず決定している内容から告げる事にした。
「お互い荷物が結構有るし、当面は互いの部屋を行き来する事になるが、元々幸恵が通いやすい様に、お前のマンションと同様あの路線の駅に近い場所で、広めの物件を探してたんだ。幾つかピックアップしてるから、どこを購入するか幸恵と相談して、来年までには引っ越すつもりだ」
「購入資金は? 結婚祝いに少し出してやるか?」
「見くびるなよ、親父。俺の勤務先、どこだか忘れてないよな? ちゃんと頭金位は貯めてるし、銀行員が勤務先でローンを組めないなんて、笑い話にもならないんだが」
「確かに笑い話にもならんな、すまん」
 思わず心配そうに口を挟んできた父親に和臣は苦笑いで返し、対する君島も豪快に笑った。そこまで話を聞いた綾乃が、嬉々として尋ねてくる。

「じゃあ同じ沿線に住む事になるから、行き来し易いですね。引っ越したら遊びに行って良いですか?」
「ええ、勿論」
「綾乃。新婚なんだから邪魔するな」
 幸恵は快く頷こうとしたが、和臣はあっさり切って捨てた。その言い方に流石に綾乃が抗議の叫びを上げる。

「ええ? そんなにしょっちゅう入り浸ったりしないわよ。ちょっと位良いじゃない! ちい兄ちゃん横暴!」
「何とでも言え」
「和臣、心狭過ぎよ……」
 全く妥協する気配を見せない和臣と、珍しく怒っている綾乃を見て、幸恵は思わず溜め息を吐いた。そんな息子夫婦と娘のやりとりを、君島は笑いを堪える風情で眺めていたが、空になった皿と入れ替わりにオードブルのテリーヌが目の前に出されたのを契機に、顔付きを改めて神妙に幸恵に声をかける。

「それで、実は幸恵さんに、披露宴についてお願いが有るんだが……」
「親父、何も今言わなくても」
「はい、何でしょうか?」
 どうやらこれから父親が言うつもりの内容を察しているらしい和臣が、僅かに渋面になったが、幸恵は何を言われるのかと身構えながらも素直に応じた。すると君島が静かに話し出す。

「その、二人とも東京で勤務しているから、招待客として職場関係の方や交友関係がある方々を招くとなると、都内で挙式及び披露宴を開催するのが妥当だと思う」
「そうですね。それが何か?」
「それとは別に、広島でもやって貰いたい。費用は全てこちら持ちにさせて貰うから。どうだろうか?」
 真顔で言われた内容を頭の中で反芻した幸恵は、ちらりと隣で小さく溜め息を吐いた和臣を見てから、(うん、まあ、ある程度見世物になるのは、仕方ないでしょうね)と自分自身を納得させた。

「…………ええと、君島家は交友関係が幅広いと思いますし、東京に大挙して来て頂くのもなんですから、それが妥当でしょうね」
「宜しく頼みます」
 そして幸恵が比較的あっさりと受け入れてくれた為、安堵した様にテリーヌにナイフとフォークを伸ばした舅と義妹を眺めつつ、和臣に囁く。

「……家を出た次男の披露宴でも、やっぱり必要なの?」
「色々あってな」
 若干口調に苦々しい物が混ざった為、幸恵は慌てて宥めた。

「今更、それ位で文句は付けないわよ」
「安心してくれ。兄貴達程、派手じゃない筈だから」
「比較対象がどんな物が分からないから、コメントできないわ。あ、そうだ」
 そこで、唐突にこの間気になっていた事を思い出した幸恵は、君島に顔を向けて問いかけた。
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