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第19話 痛恨の極み
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幸恵が目を開けた時、確かにそこは見慣れた寝室だったが、何故自分がこの場所に居るのか、その理由が全く分からなかった。
「……ええと」
辺りを見回しながらゆっくりと起き上がり、スーツの上着を脱いだだけの状態で寝ていた事を確認した幸恵は、本気で首を捻った。
「どうして、帰って来てるわけ? 確か……、警察からの帰りに、あいつとまたあの店に、焼き鳥を食べに行った筈なんだけど」
そして真剣に考え込んだが、すぐにここで悩んでいても仕方無いと思い直し、現実的な行動に出る。
「うわ……、完全に遅刻だわ。もう慌てても仕方ないか。焦らずにシャワーだけ浴びて、着替えて出社しよう」
確認した枕時計は九時近くを示しており、幸恵はうんざりしながらも自業自得と割り切って寝室を出ると、ドアの向こうの続き部屋にワイシャツとスラックス姿の和臣が居た。
「ああ、幸恵さん、おはよう」
「……は?」
「二日酔いになっているかもしれないと思って、お粥にしてみたんだけど、食べてみる?」
にっこり笑いながら立ち上がって台所に向かって歩き出した和臣に、幸恵は一瞬固まってから呻くように問い質した。
「……どうしてあんたが、ここに居るのよ?」
「やっぱり覚えてないのか……」
「さっさと質問に答えなさいよ!」
疲れた様に溜め息を吐きつつ応じた和臣に、幸恵が苛立たしげに叫ぶ。それを受けて、和臣はなるべく分かり易く、順序立てて話し始めた。
「幸恵さんは最初あまりお酒は飲んでなかった筈なんだけど、色々あって緊張の糸が一気に切れたらしくて、店で錯乱したんだ。それで俺のマンションに連れて行くのは言語道断だろうし、ここの住所は知っていたから、タクシーで連れて来たんだけど」
「当たり前でしょうが!!」
鋭く幸恵が叫んだが、和臣は淡々と話を続けた。
「それで、バッグの中から鍵を探して玄関を開けたけど、俺がここの鍵を持ち帰るわけにいかないし、玄関はオートロックじゃないから、俺が出た後に中から閉めて貰う必要があるけど、幸恵さんがそのままベッドで熟睡してしまって。かといって女性の一人暮らしの部屋の鍵を、一階の郵便受けに入れて帰るなんて不用心極まりないし」
「まあ、それはそうでしょうね……。それで? 家主である私の許可無く、ここに泊まったと?」
一応和臣の主張を認めながらも、幸恵が多少皮肉っぽく確認を入れると、和臣は素直に頭を下げた。
「事後承諾だけどごめん。幸恵さんの体調も急変しないかと心配だったし。勿論、疚しい事は何一つしてないから。勝手に台所は漁らせて貰ったけど」
(なんかもう、どこをどう突っ込んだら良いのか……。それ以前に迂闊過ぎるでしょう、私!!)
和臣の話を聞いて、額を押さえて項垂れた幸恵だったが、そのままの姿勢で了承する旨を告げた。
「分かったわ。殆ど私の落ち度だし、面倒をかけたみたいだし、それに関してはもう良いから」
「そう? それなら、あまり食欲が無いかもしれないけど、少し食べておいた方が良いよ。揃えておくから、その間に着替えて来て」
「分かったわ」
自分から頼みはしなかったものの、朝食まで準備して貰った手前、のんびりとシャワーを浴びる訳にもいかず、幸恵は着替えた上で手早く洗顔と化粧だけ済ませてリビングに戻った。
(なし崩しに、こいつのペースに嵌っている気がするのは、気のせいかしら?)
何となく釈然としない気持ちを抱えながらガラステーブルの前に正座すると、トレーでお椀や小皿を運んできた和臣が、怪訝な顔をした。
「あれ? 幸恵さん、まさかこれから出社する気?」
「平日なんだから、遅刻しても出社するわよ。当然でしょう?」
ブラウスにタイトスカート姿の幸恵が、スーツの上着を適当に椅子にかけて座ったのを見て和臣が判断したのだと分かったが、どうして休むと思ったのかと幸恵は不思議に思った。すると和臣が幸恵の目の前に皿を並べながら、幾分困った様に言い出す。
「いや、その……。幸恵さんがなかなか起きないし、昨日色々あって疲れてるだろうから、今日は休むかなと思って。始業時間直前に、遠藤さんの携帯電話に、君が休むからと俺から連絡を入れ」
「何ですって!? 何、勝手な事をしてるのよ!」
「やっぱり無理しないで、今日は休んだ方が良くないかな?」
「余計なお世話よ、ほっといて! 第一、あんたが私の休みの連絡を入れたりしたら、どんな邪推されるか分からないでしょうが!?」
盛大に和臣を叱りつけた幸恵は慌てて携帯に手を伸ばし、弘樹の携帯電話に直接電話をかけた。
「もしもし、係長ですか? 荒川ですが」
「おう、荒川どうした。ちゃんと今日は休みにしておいたぞ?」
「いえ、それはですね」
挨拶もそこそこに弁解しようとした幸恵だったが、弘樹が呆れ気味の声が返ってくる。
「しかし荒川。君島さんと部屋で二人仲良くまったりしてるって時に、上司に電話してくるなよ。幾ら仕事が気になるからって、相変わらず無粋な鉄の女だな。君島さんの男の機敏ってものを、少しは汲んでやれよ。いい加減捨てられるぞ?」
そこで溜め息の気配まで伝わってきた為、幸恵の忍耐力は呆気なく尽きた。
「誰と誰が『仲良くまったり』なんですかっ!? 遅刻ですが午前中には出社しますので! それでは失礼しますっ!!」
そして力一杯ボタンを押して通話を終わらせてから、幸恵は引き攣った顔を和臣に向けた。
「……一体、係長に何を言ったの」
「一応、現状説明として『今、幸恵さんのマンションに居ますが、彼女が起きそうにないし起こすのも可哀相なので、今日は有休にさせてあげて下さい』と連絡を入れたけど」
それを聞いた幸恵は、思わず呻き声を上げた。
「……絶対わざとよね?」
幸恵が恨みがましい視線を向けると、和臣はそれに困惑気味に応じる。
「誓って、真面目に対応したつもりだっただが……。結果的に誤解が生じたのなら、悪かった」
「勝手に他人の職場に連絡しないで! それ以前に起こしなさいよ!」
「今度はそうするよ。冷めるから取り敢えず食べて」
「食べるけど、二度目は無いから!!」
泣き叫びたいのを必死に堪えつつ、幸恵はおとなしくレンゲを取り上げた。そして時折付け合わせのおかずに手を伸ばし、絶妙な淹れ加減のお茶を飲みながら、黙々とお粥を食べ続ける。
(全く……、お粥の味付けと塩加減が絶妙で美味しいのが、余計しゃくに障るわ。このセロリと人参の浅漬けもなかなか……)
既に食べ終えていたのか、自分が食べる姿を向かい側から微笑んで見守っている和臣の姿に何となく落ち着かない気分になった幸恵は、半ば無理やり話題を探して話しかけた。
「普段、料理はするの?」
「え? ああ、大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めたから、それなりに。高三の時、『身の回りの事を一通りできる様にならなければ、一人暮らしはさせません』と母から厳命が下って、受験勉強そっちのけで家事一般を叩き込まれたんだ。『余所は余所、うちはうち』って事は十分理解していたけど、勉強だけさせて貰える家が、もの凄く羨ましかったな……」
思わず遠い目をして当時を思い返しているらしい和臣を見て、幸恵は半ば呆れながら感想を述べた。
「まともに家事が出来なかったら、地元の大学しか受験させてもらえなかったわけ?」
「そういう事。大学からは東京に出るつもりだったから、結構必死だったよ」
「本当に、相当頑固で確固たる信念の持ち主みたいね。あなたのお母さん」
「君の叔母でもあるんだけどね……」
「…………」
些か皮肉っぽく和臣が口にした途端、室内に沈黙が漂った。失言を悟った和臣が若干気まずそうに視線を逸らした為、幸恵は気を取り直して慌てて話題を変えてみる。
「そう言えば、さっきから気になっていたんだけど、そのワイシャツの右肩から右胸にかけて、どうしたの? 何か落書きした様に汚れているけど」
何気なく聞いてみた幸恵だったが、それを聞いた和臣は深々と溜め息を吐き、幸恵に情けない表情を見せた。
「これ……、全然覚えてないんだ?」
「え? ええと……」
左手人差し指で問題の箇所を指し示しながら確認を入れてきた和臣に、幸恵は冷や汗が流れ始めるのを感じた。
(あら? そう言えば良く見たら、何だか見覚えが有る様な無い様な……)
そんな幸恵の戸惑いを見透かした様に、和臣が淡々と事情を説明する。
「犬の和臣の話をしながら飲んでる最中、幸恵さんが急に『発明の神様が来た! 和臣が連れて来てくれたわ!』と叫んで、忘れないうちに書き留めようとして、ボールペンを見つけたのは良いものの、適当な紙が見当たらなくて」
「ちょっと待って」
僅かに顔を強張らせて幸恵が一旦話を止めようとしたが、話し出したらさっさと終わらせたかった和臣は、殆ど棒読み調子で続けた。
「紙を見つけられなかった幸恵さんが、いきなり問答無用で俺のジャケットの前を広げて、嬉々としてここにボールペンで」
「分かったわ。思い出したから、それ以上言わないで。お願い。……誠に申し訳ありませんでした」
「うん、覚えていないんだし、不可抗力だから気にしないで」
それ以上平常心でいられなかった幸恵は、思わず手からレンゲを離し、カーペットに両手を付いて和臣に向かって深々と一礼した。そして和臣は、そんな幸恵を困った様に宥める。
(完全に思い出したわ。穴が有ったら入りたい……)
カーペットに両手を付いたまま羞恥心のあまり項垂れていると、和臣が控え目に声をかけてきた。
「その……、幸恵さん」
「何?」
思わず顔を上げた幸恵に、和臣は再度殴り書きされた箇所を指差しながら、真剣な顔で問いを発した。
「ところでこれ、何て書いて有るのかな? 幸恵さんが『大ヒット間違い無し』と言いながら上機嫌で書いていたけど、どうしても読めなくて。ずっと気になっていて」
そう言われて内容を確認した幸恵は、益々落ち込み、今度こそ床に突っ伏したくなった。
「ごめんなさい。自分でも読めないわ。私、何を思い付いたの……」
(恥の上塗り……。それにしたって、酷過ぎる)
余計な事をまた言ってしまったと思った和臣は、何とか無難な事を口にしながら宥めてみる。
「夢の中で大発見したら全然覚えていないとか、結構そういう事は有るよね……。うん、気にしないで。聞いてみただけだから」
それから幸恵は暗い表情のまま何とか食事を食べ終え、心配そうな和臣に星光文具の正面玄関まで送って貰って、定刻より二時間遅れで出社した。しかしその日、幸恵の神聖な職場は、落ち込んだ幸恵の神経を、容赦なく逆撫でする場所でしかなかった。
「あれ? どうして出社して来たんだ? 荒川。係長が、男としけこんでるとか言ってたが?」
「誘拐された翌日なんだし、仕事納めだし、休んでも誰も文句は言わないのに、真面目過ぎるぞ」
「それにしても、係長から昨日の話を一通り聞いたが、男より特許を取ったんだってな」
「いや、天晴れ。男が少々気の毒だが。そもそもお前に並みの男は無理だろうしな」
そんな事を口々に同僚達に言われ、幸恵は周囲の男達と、職場内で余計な事を言いふらしたであろう弘樹を纏めて一喝し、益々怒りのボルテージを上げた。
そして弘樹以外の上司達にも報告に出向き、迷惑をかけた事に対する謝罪や報告書を作成しているうちに、あっと言う間に一日が終わる。
仕事中はまだ他に意識を向けている事ができていたが、帰帰り支度をする段階になって、朝に目の当たりにした和臣の悲惨なワイシャツ姿が、再び幸恵の脳裏に浮かんできた。
(やっぱり幾ら何でも、あれは無いわよね……。別にお礼とかそんなのは抜きで、社会人の一般常識として何とかしないと、寝覚めが悪過ぎるわ)
職場からの帰り道。悶々とその事について考え込みながら歩いていた幸恵は、悩んだ末に自分に言い訳する様にして、とある店に飛び込んだ。しかしそこで重大な事実に気が付いて、愕然とする。
(しまった……。そう言えばワイシャツって……。どうして朝のうちに、さり気なく確認しておかなかったのよ!)
まるで痛恨のミスをしてしまったかの如く、がっくりと肩を落とした幸恵は、落ち込んだ気分が浮上しないまま年末年始休暇に突入する羽目になった。
「……ええと」
辺りを見回しながらゆっくりと起き上がり、スーツの上着を脱いだだけの状態で寝ていた事を確認した幸恵は、本気で首を捻った。
「どうして、帰って来てるわけ? 確か……、警察からの帰りに、あいつとまたあの店に、焼き鳥を食べに行った筈なんだけど」
そして真剣に考え込んだが、すぐにここで悩んでいても仕方無いと思い直し、現実的な行動に出る。
「うわ……、完全に遅刻だわ。もう慌てても仕方ないか。焦らずにシャワーだけ浴びて、着替えて出社しよう」
確認した枕時計は九時近くを示しており、幸恵はうんざりしながらも自業自得と割り切って寝室を出ると、ドアの向こうの続き部屋にワイシャツとスラックス姿の和臣が居た。
「ああ、幸恵さん、おはよう」
「……は?」
「二日酔いになっているかもしれないと思って、お粥にしてみたんだけど、食べてみる?」
にっこり笑いながら立ち上がって台所に向かって歩き出した和臣に、幸恵は一瞬固まってから呻くように問い質した。
「……どうしてあんたが、ここに居るのよ?」
「やっぱり覚えてないのか……」
「さっさと質問に答えなさいよ!」
疲れた様に溜め息を吐きつつ応じた和臣に、幸恵が苛立たしげに叫ぶ。それを受けて、和臣はなるべく分かり易く、順序立てて話し始めた。
「幸恵さんは最初あまりお酒は飲んでなかった筈なんだけど、色々あって緊張の糸が一気に切れたらしくて、店で錯乱したんだ。それで俺のマンションに連れて行くのは言語道断だろうし、ここの住所は知っていたから、タクシーで連れて来たんだけど」
「当たり前でしょうが!!」
鋭く幸恵が叫んだが、和臣は淡々と話を続けた。
「それで、バッグの中から鍵を探して玄関を開けたけど、俺がここの鍵を持ち帰るわけにいかないし、玄関はオートロックじゃないから、俺が出た後に中から閉めて貰う必要があるけど、幸恵さんがそのままベッドで熟睡してしまって。かといって女性の一人暮らしの部屋の鍵を、一階の郵便受けに入れて帰るなんて不用心極まりないし」
「まあ、それはそうでしょうね……。それで? 家主である私の許可無く、ここに泊まったと?」
一応和臣の主張を認めながらも、幸恵が多少皮肉っぽく確認を入れると、和臣は素直に頭を下げた。
「事後承諾だけどごめん。幸恵さんの体調も急変しないかと心配だったし。勿論、疚しい事は何一つしてないから。勝手に台所は漁らせて貰ったけど」
(なんかもう、どこをどう突っ込んだら良いのか……。それ以前に迂闊過ぎるでしょう、私!!)
和臣の話を聞いて、額を押さえて項垂れた幸恵だったが、そのままの姿勢で了承する旨を告げた。
「分かったわ。殆ど私の落ち度だし、面倒をかけたみたいだし、それに関してはもう良いから」
「そう? それなら、あまり食欲が無いかもしれないけど、少し食べておいた方が良いよ。揃えておくから、その間に着替えて来て」
「分かったわ」
自分から頼みはしなかったものの、朝食まで準備して貰った手前、のんびりとシャワーを浴びる訳にもいかず、幸恵は着替えた上で手早く洗顔と化粧だけ済ませてリビングに戻った。
(なし崩しに、こいつのペースに嵌っている気がするのは、気のせいかしら?)
何となく釈然としない気持ちを抱えながらガラステーブルの前に正座すると、トレーでお椀や小皿を運んできた和臣が、怪訝な顔をした。
「あれ? 幸恵さん、まさかこれから出社する気?」
「平日なんだから、遅刻しても出社するわよ。当然でしょう?」
ブラウスにタイトスカート姿の幸恵が、スーツの上着を適当に椅子にかけて座ったのを見て和臣が判断したのだと分かったが、どうして休むと思ったのかと幸恵は不思議に思った。すると和臣が幸恵の目の前に皿を並べながら、幾分困った様に言い出す。
「いや、その……。幸恵さんがなかなか起きないし、昨日色々あって疲れてるだろうから、今日は休むかなと思って。始業時間直前に、遠藤さんの携帯電話に、君が休むからと俺から連絡を入れ」
「何ですって!? 何、勝手な事をしてるのよ!」
「やっぱり無理しないで、今日は休んだ方が良くないかな?」
「余計なお世話よ、ほっといて! 第一、あんたが私の休みの連絡を入れたりしたら、どんな邪推されるか分からないでしょうが!?」
盛大に和臣を叱りつけた幸恵は慌てて携帯に手を伸ばし、弘樹の携帯電話に直接電話をかけた。
「もしもし、係長ですか? 荒川ですが」
「おう、荒川どうした。ちゃんと今日は休みにしておいたぞ?」
「いえ、それはですね」
挨拶もそこそこに弁解しようとした幸恵だったが、弘樹が呆れ気味の声が返ってくる。
「しかし荒川。君島さんと部屋で二人仲良くまったりしてるって時に、上司に電話してくるなよ。幾ら仕事が気になるからって、相変わらず無粋な鉄の女だな。君島さんの男の機敏ってものを、少しは汲んでやれよ。いい加減捨てられるぞ?」
そこで溜め息の気配まで伝わってきた為、幸恵の忍耐力は呆気なく尽きた。
「誰と誰が『仲良くまったり』なんですかっ!? 遅刻ですが午前中には出社しますので! それでは失礼しますっ!!」
そして力一杯ボタンを押して通話を終わらせてから、幸恵は引き攣った顔を和臣に向けた。
「……一体、係長に何を言ったの」
「一応、現状説明として『今、幸恵さんのマンションに居ますが、彼女が起きそうにないし起こすのも可哀相なので、今日は有休にさせてあげて下さい』と連絡を入れたけど」
それを聞いた幸恵は、思わず呻き声を上げた。
「……絶対わざとよね?」
幸恵が恨みがましい視線を向けると、和臣はそれに困惑気味に応じる。
「誓って、真面目に対応したつもりだっただが……。結果的に誤解が生じたのなら、悪かった」
「勝手に他人の職場に連絡しないで! それ以前に起こしなさいよ!」
「今度はそうするよ。冷めるから取り敢えず食べて」
「食べるけど、二度目は無いから!!」
泣き叫びたいのを必死に堪えつつ、幸恵はおとなしくレンゲを取り上げた。そして時折付け合わせのおかずに手を伸ばし、絶妙な淹れ加減のお茶を飲みながら、黙々とお粥を食べ続ける。
(全く……、お粥の味付けと塩加減が絶妙で美味しいのが、余計しゃくに障るわ。このセロリと人参の浅漬けもなかなか……)
既に食べ終えていたのか、自分が食べる姿を向かい側から微笑んで見守っている和臣の姿に何となく落ち着かない気分になった幸恵は、半ば無理やり話題を探して話しかけた。
「普段、料理はするの?」
「え? ああ、大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めたから、それなりに。高三の時、『身の回りの事を一通りできる様にならなければ、一人暮らしはさせません』と母から厳命が下って、受験勉強そっちのけで家事一般を叩き込まれたんだ。『余所は余所、うちはうち』って事は十分理解していたけど、勉強だけさせて貰える家が、もの凄く羨ましかったな……」
思わず遠い目をして当時を思い返しているらしい和臣を見て、幸恵は半ば呆れながら感想を述べた。
「まともに家事が出来なかったら、地元の大学しか受験させてもらえなかったわけ?」
「そういう事。大学からは東京に出るつもりだったから、結構必死だったよ」
「本当に、相当頑固で確固たる信念の持ち主みたいね。あなたのお母さん」
「君の叔母でもあるんだけどね……」
「…………」
些か皮肉っぽく和臣が口にした途端、室内に沈黙が漂った。失言を悟った和臣が若干気まずそうに視線を逸らした為、幸恵は気を取り直して慌てて話題を変えてみる。
「そう言えば、さっきから気になっていたんだけど、そのワイシャツの右肩から右胸にかけて、どうしたの? 何か落書きした様に汚れているけど」
何気なく聞いてみた幸恵だったが、それを聞いた和臣は深々と溜め息を吐き、幸恵に情けない表情を見せた。
「これ……、全然覚えてないんだ?」
「え? ええと……」
左手人差し指で問題の箇所を指し示しながら確認を入れてきた和臣に、幸恵は冷や汗が流れ始めるのを感じた。
(あら? そう言えば良く見たら、何だか見覚えが有る様な無い様な……)
そんな幸恵の戸惑いを見透かした様に、和臣が淡々と事情を説明する。
「犬の和臣の話をしながら飲んでる最中、幸恵さんが急に『発明の神様が来た! 和臣が連れて来てくれたわ!』と叫んで、忘れないうちに書き留めようとして、ボールペンを見つけたのは良いものの、適当な紙が見当たらなくて」
「ちょっと待って」
僅かに顔を強張らせて幸恵が一旦話を止めようとしたが、話し出したらさっさと終わらせたかった和臣は、殆ど棒読み調子で続けた。
「紙を見つけられなかった幸恵さんが、いきなり問答無用で俺のジャケットの前を広げて、嬉々としてここにボールペンで」
「分かったわ。思い出したから、それ以上言わないで。お願い。……誠に申し訳ありませんでした」
「うん、覚えていないんだし、不可抗力だから気にしないで」
それ以上平常心でいられなかった幸恵は、思わず手からレンゲを離し、カーペットに両手を付いて和臣に向かって深々と一礼した。そして和臣は、そんな幸恵を困った様に宥める。
(完全に思い出したわ。穴が有ったら入りたい……)
カーペットに両手を付いたまま羞恥心のあまり項垂れていると、和臣が控え目に声をかけてきた。
「その……、幸恵さん」
「何?」
思わず顔を上げた幸恵に、和臣は再度殴り書きされた箇所を指差しながら、真剣な顔で問いを発した。
「ところでこれ、何て書いて有るのかな? 幸恵さんが『大ヒット間違い無し』と言いながら上機嫌で書いていたけど、どうしても読めなくて。ずっと気になっていて」
そう言われて内容を確認した幸恵は、益々落ち込み、今度こそ床に突っ伏したくなった。
「ごめんなさい。自分でも読めないわ。私、何を思い付いたの……」
(恥の上塗り……。それにしたって、酷過ぎる)
余計な事をまた言ってしまったと思った和臣は、何とか無難な事を口にしながら宥めてみる。
「夢の中で大発見したら全然覚えていないとか、結構そういう事は有るよね……。うん、気にしないで。聞いてみただけだから」
それから幸恵は暗い表情のまま何とか食事を食べ終え、心配そうな和臣に星光文具の正面玄関まで送って貰って、定刻より二時間遅れで出社した。しかしその日、幸恵の神聖な職場は、落ち込んだ幸恵の神経を、容赦なく逆撫でする場所でしかなかった。
「あれ? どうして出社して来たんだ? 荒川。係長が、男としけこんでるとか言ってたが?」
「誘拐された翌日なんだし、仕事納めだし、休んでも誰も文句は言わないのに、真面目過ぎるぞ」
「それにしても、係長から昨日の話を一通り聞いたが、男より特許を取ったんだってな」
「いや、天晴れ。男が少々気の毒だが。そもそもお前に並みの男は無理だろうしな」
そんな事を口々に同僚達に言われ、幸恵は周囲の男達と、職場内で余計な事を言いふらしたであろう弘樹を纏めて一喝し、益々怒りのボルテージを上げた。
そして弘樹以外の上司達にも報告に出向き、迷惑をかけた事に対する謝罪や報告書を作成しているうちに、あっと言う間に一日が終わる。
仕事中はまだ他に意識を向けている事ができていたが、帰帰り支度をする段階になって、朝に目の当たりにした和臣の悲惨なワイシャツ姿が、再び幸恵の脳裏に浮かんできた。
(やっぱり幾ら何でも、あれは無いわよね……。別にお礼とかそんなのは抜きで、社会人の一般常識として何とかしないと、寝覚めが悪過ぎるわ)
職場からの帰り道。悶々とその事について考え込みながら歩いていた幸恵は、悩んだ末に自分に言い訳する様にして、とある店に飛び込んだ。しかしそこで重大な事実に気が付いて、愕然とする。
(しまった……。そう言えばワイシャツって……。どうして朝のうちに、さり気なく確認しておかなかったのよ!)
まるで痛恨のミスをしてしまったかの如く、がっくりと肩を落とした幸恵は、落ち込んだ気分が浮上しないまま年末年始休暇に突入する羽目になった。
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