アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

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第10話 真相

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「さて……、湯村さん。直接の面識は有りませんが、私はあなたのお名前を存じ上げておりましてね」
「へぇ? 大銀行の支店長さんとやらが、何でまた?」
 明らかに皮肉げな口調で返されたにも係わらず、さすがの貫禄で植原は話を続けた。

「そこの君島君が、一年ほど前あなたの担当を引き継いで以降、前任者の尻拭いを必死でやってたのを知っていましてね。彼が直属の上司に頭を下げて、あなたの借入金の返済期限を二回延ばしたのも、その間に事業立て直し計画を立案し、それを認めて貰うために行内で苦労して根回ししてたのを知っています。それでお宅の名前も知っていました」
 皮肉っぽい笑みを返した植原から、湯村は視線を逸らしながら吐き捨てる。

「はっ、……そんな事、俺は知らん。頼んでもいない」
「何ですって!?」
 尊大な湯村の態度に幸恵は再び切れかけたが、すかさず和臣がその腕を捕まえて小声で宥める。

「良いから、放っておいて」
「でもっ!」
 そんな揉めている二人を視界の隅に入れてから、植原は冷徹に湯村に言い放った。

「あなたが聞いていないのは当然だ。彼はあなたの為にした訳じゃないし、わざわざ口に出して、ひけらかす様な真似はしない。単にあなたの所の従業員が、路頭に迷わない為に過ぎない」
「…………」
 ぐうの音も出ず黙り込んだ湯村を、植原が更に追い詰めた。

「それで再建計画を纏めたものの資金が足りない。焦げ付いている企業にこれ以上無駄金をつぎ込めるかと叱責されながら、何人もの上司に頭を下げて承認印を押して貰い、最後に私の所に来たのでね。最終的には、私が責任を取る形で金を出した。しかし彼がそんな苦労をして引き出した事業資金を、あなたはどうしたのだったかな?」
「え? 会社の再建に使ったんじゃないんですか?」
 思わず不思議そうに口を挟んだ幸恵に向き直り、植原は如何にも腹立たしげに告げた。

「よりにもよって『上場間近の未公開株を購入すれば、上場後に数倍になる』などと言う山師の話に乗って、全額つぎ込んだですよ」
「何ですって!? ちょっと、それ本当なの?」
「…………」
 あまりの内容に幸恵は一瞬怒りを露わにして湯村を睨んでから、和臣に問い質した。興味津々で事の成り行きを見守っていた周囲の客も、唖然とした表情で黙り込んでいる当事者二人に視線を向ける。植原はそんな事には構わずに、些か厳しい視線を湯村の同席者達に向けた。

「当然、金は殆ど持ち逃げされて事業は行き詰まり、不渡りを出して呆気なく倒産。こちらの皆さんは湯村さんと懇意の様ですが、まさかそのお話を持ちかけた方では無いでしょうな? それなら当行としてもそちらに対して、損害賠償の訴訟を起こす構えはありますが」
「いっ、いや、俺達は全然無関係です! 今の話も初めて聞いたし、なあ?」
「ええ。俺達は『酷い貸し剥がしにあって、洗いざらい銀行に取られた』って聞いただけで……」
「そんな事だと知っていれば、幾ら何でもそちらに絡ませませんよ」
 どうやら本当に聞いていなかったらしい三人は、居心地悪そうに植原に弁解し、揃って非難がましい視線を湯村に向けた。それを受けて僅かに顔色を変えた湯村に、植原が再度苦言を呈する。

「結果、君島君の経歴に汚点が付き、口さがない連中はこぞって陰口を叩いていたが、上司の前ではいっさい弁解も恨み言は言わずに頭を下げていましてね。解雇された従業員の再就職の世話もしましたし」
「は? そんなのはあんたの責任じゃ無いでしょう?」
 さすがに驚き呆れて幸恵は和臣に詰め寄ったが、彼は小さく溜め息を吐いてから、彼なりの主張を繰り出した。

「何とか実現可能な再建計画を提示して、余計な希望を持たせてしまったんだ。倒産するにしても予め何ヶ月か先に工場を閉めるのが分かっていれば、身の振り方を考える事も出来たが、寝耳に水の倒産で皆呆然としていたからね。それ位はしないと寝覚めが悪い」
「どこまで人が良いわけ?」
 呆れた口調で幸恵が応じると、そこで笑いを含んだ声で植原が二人の会話に割り込んだ。

「君の直属の上司の、浜田君も呆れていたな。『仕方が無いから知り合いに声をかけている最中なので、支店長も手伝って下さい』とやけっぱちに従業員のリストを渡されたので、何ヶ所かに声をかけてあげたよ」
「それは存じ上げませんでした。その節はお骨折り頂き、ありがとうございました」
 本気で驚いた表情を見せてから深々とお辞儀をした和臣に、植原が鷹揚に頷く。

「浜田君から先週聞いたが、この不景気に、無事に全員再就職できたそうじゃないか。大したものだ」
「はい、お陰様で三ヶ月でなんとか」
 そのやり取りを耳にした幸恵は、ある事に合点がいった。

「……ああ、だから夏から暫く忙しかったので、昇進祝いがすぐできなかったとか、言っていたのね?」
「まあね」
 苦笑いして肯定した和臣を見て、幸恵は少しだけ彼に対する認識を改めた。

(へぇ? 仕事もちゃんとやっている様だし、律儀に再就職の世話までしてあげるなんて、結構良い所あるんじゃない。それに散々煮え湯を飲まされた相手なのに、最初絡まれても気にせずに接してたし……)
 そんな風に幸恵が密かに感心していると、植原が湯村に対して再度話し掛けた。

「君が債権者から逃れる為に行方をくらましている間に、今言った様な事があってね。酒に酔っているだけなら見逃そうかと思ったが、見当違いの事で絡んで来たので、腹に据えかねたわけだ。そんな暇があったら、頭の一つも下げたらどうだね」
「こいつに頭を下げろってか? 部下を庇うお優しい上司様で」
 湯村は精一杯虚勢を張りつつ憎まれ口を叩いたが、それを植原は一刀両断した。

「彼は今更、そんな事を望んではいない。頭を下げる相手は、あなたが無一文で放り出した、元従業員に対してに決まっている。未だにそんな事すら分からないようなら、会社を潰したのは自明の理だな」
「…………」
 流石の格の違いを見せつけて湯村を黙らせると、植原は用は済んだとばかりにそこから歩き出し、幸恵達の横を通り過ぎて、和臣以外の部下達が占めているテーブルの傍らに立った。

「さて、次は君達かな?」
「……な、何でしょうか?」
 一番年嵩に見える男がビクつきながら応じたが、それに植原が穏やかな笑みで申し出た。

「生憎と私は君達の名前を知らなくてね。名刺を一枚ずつ渡して貰えるかな? この機会に覚えておこう」
「いえっ」
「それは……」
 どう考えても自分の名前を「好意的」に覚えて貰える筈の無い状況で、互いの顔を見合わせながら名刺を差し出すのを躊躇っていると、忽ち植原の声が冷えた。

「私は、二度同じ事を言うのは好かん。君達の容貌を支店内で聞きまくっても良いのだが、余計な手間をかけるのも嫌いでね」
「……お持ち下さい」
「ああ。頂いていくよ」
(ざまぁみなさい。ああ、すっきりしたわ)
 幸恵が心の中で快哉を叫んでいると、四人分の名刺をしまい込んだ植原は、再び幸恵達の元に戻って声をかけてきた。

「うるさくて興が冷めたかもしれないが、普段は落ち着いた雰囲気の良い店なんだ。できればこれからも、贔屓にしてくれると嬉しい」
 笑顔で勧めてきた植原に、幸恵も笑顔で素直に頷く。

「こういうお店はお客を選べませんから、気にしていません。お料理もお酒も満足してますし、また寄らせて貰おうかと思っています」
「それは良かった。ところで……、先程君は君島君の従姉妹と言っていたが、君島議員の姪に当たるのかい?」
「いえ、そうではなく」
「母の実家の伯父の、娘さんに当たります」
 急に話題を変えてきた植原に、幸恵が答え終わる前に嫌な予感を覚えつつ和臣が説明を加えたが、ここで店の隅から予想外の声が上がった。

「え? それならひょっとして、あの伝説の《安芸の虎殺し事件》の当事者の姪ごさんかい!?」
 嬉々として立ち上がった植原の連れの金田の台詞に、幸恵は僅かに顔を引き攣らせ、和臣は真っ青になった。

「……何ですか? それは」
「いや、何でも無いから! すみません、今、その話は!」
 慌てて止めようとした和臣だったが、幸恵達の方に歩み寄りつつ金田が不思議そうに告げてくる。

「君島議員と奥方の実家の折り合いが悪かった時、義理の母親の法要に議員がそこに出向いた時、小学生になるかならないかの義理の姪に倒されたという話は、事実とは違うのかい?」
 そう尋ねられて事実無根であるとは言えず、幸恵は控え目に肯定した。

「……いえ、確かにそういう事は有りましたが。一体どこでその話を」
「幸恵さん、やっぱり店を変えて飲み直そう。さあ、行くよ!」
「うるさいわね。一人で行けば!?」
 焦りまくった和臣が手早く自分と幸恵のバッグとコートを手に取り、幸恵の腕を掴んで引っ張った。しかし幸恵が固い表情でそれを振り払っているうちに、金田が過去の記憶を思い返しながら事もなげに告げる。

「ええと……、あれは確か、二十年近く前に業界団体で纏まって議員会館に陳情に行った時だな。君島議員と同期初当選議員の所に出向いた折り、茶飲み話のついでに。前日の衆議院予算委員会で強行採決した時の君島議員の乱闘っぷりをテレビで見たばかりだったから、あの《安芸の虎》との異名を誇る君島議員を倒すなんて、小さい子供なのに大した猛者だと話題になって」
「……そうでしたか」
 思わず頭を抱えた和臣の横で、辛うじて幸恵は笑顔を保った。しかし続く話の内容に、幸恵の顔が盛大に引き攣る。

「いや~、しかし幾ら子供、しかも奥方の身内で下手に抵抗出来なかったと言え、あの武闘派の君島議員を全身墨汁まみれにし、足を蹴りつけて体勢を崩した所に見事な一本背負いを決めて地面に昏倒させるとは」
「は?」
「それで議員は意識不明で病院に救急車で担ぎ込まれて、一生に一度の不覚を取ったと聞いて、凄い子も居るものだと、その場全員唸ったんだ。しかしこんな美人に成長していたとは。伝説の当事者に出会えて嬉しいよ!」
 そう言って満面の笑みで幸恵の右手を握り締め、ぶんぶんと勢いよく上下に振った金田に、和臣は顔色を変えながら弁解を試み、幸恵は低い声で確認を入れた。

「あの! それはちょっとした誤解で!」
「……巷ではそんな風に、広まっているんですか」
「おや? 他にまだ隠された武勇伝が有るのかい?」
 興味津々で尋ね返してきた金田に、幸恵は完全に表情を消して無言になった。そして和臣が恐る恐る声をかける。 

「………………」
「あの、すみません。この辺で……」
「……ああ、そうだな。若い人達が楽しく飲んでいるのを邪魔してすまないね。ほら、席に戻るぞ」
「分かった。失礼します。お会いできて嬉しかったよ」
 目線で和臣が縋った植原は何かを察した様に軽く頷き、上機嫌な金田を促して自分達のテーブルへと戻って行った。そして黙りこくっている幸恵に何と声をかけるか和臣が逡巡していると、二人の背後から囁き声が伝わる。

「……あの君島議員を投げ飛ばした?」
「マジかよ?」
「息子は傍若無人で、姪は怪力女か?」
「ある意味、似合いだが……」
 そこまで耳にした幸恵は勢いよく振り返り、彼らのテーブルに勢い良く片手を付きつつ、怒りの形相で見下ろした。

「さあ、ぶっ飛ばされたいのはどいつ? 根性入れ直してやるから一人ずつ表に出なさい!!」
 謂れのない乱闘話を耳にして、幸恵が八つ当たりではったりをかましているのは分かっていたが、和臣は敢えて傍観を決め込んだ。すると恫喝された方は瞬時に真っ青になって、荷物を掴んで立ち上がる。

「……おっ、親父さん、支払い! ここに置くから!」
「ごちそうさま!」
 その声に驚いた店主が、全員が焦りまくって伝票の上に一万円ずつ重ねて行ったのを見て取って、幸恵の横を駆け抜けた面々に慌てて声をかけた。

「お客さん! お釣りが有りますが!」
「チップにやる!」
「取ってて構わないから!」
 店内の他の客が呆気に取られているうちに、四人はほうほうの体で逃げ帰り、気が付けば湯村達まで姿を消していたのを確認して、幸恵はうんざりした様に溜め息を吐き、元通り椅子に腰かけた。そして手酌で再び酒を飲み始める。

「はぁ……、やっと静かになったわ」
「……その様だね」
 視線を真っ直ぐカウンターの向こうに合わせながら、独り言っぽく呟いた幸恵に、荷物を横に置いて再び自身も椅子に座り直した和臣は、恐る恐る同意の言葉を返した。

「ねぇ、君島さん?」
「……はい」
 そこで僅かに和臣の方に体を捻って顔を向けてきた幸恵は、比較的にこやかに話しかけてきた。
「さっき、随分面白いお話を耳にしたんですけど。事実とだいぶかけ離れている内容が、この国の政治の中枢で広まっているみたいですね?」
「いや、あれに関しては、親父達が意図的に流布させた訳ではなくて、いつの間にか変な風に尾鰭背鰭が付いて噂が一人歩き」
「言い訳しない」
「……申し訳ありません」
 瞬時に表情を消し去って叱責してきた幸恵に、和臣は真顔で頭を下げた。それに苛立たしげに舌打ちしてから、幸恵が吐き捨てる。

「やっぱりあんたとは金輪際関わり合いたくないし、余計な貸し借りも作りたくないから、今日は割り勘ですからね!!」
「ああ、幸恵さんがそうしたいなら……」
反論する気力も無く和臣が項垂れると、幸恵が手元のメニューに視線を走らせながら、勢い良くカウンターの中に向かって注文した。

「おじさん、お酒! それから白レバーにぼんじりにえんがわにさえずり出して!! それから比内鶏コラーゲン鍋に、チーズ揚げもよっ!!」
「はいっ!! 畏まりました!!」
 幸恵の武勇伝を聞いて、恐れおののいた店員がびくつきながら応じると、その反応を見た幸恵は益々不機嫌そうに盃の酒をあおった。

 その翌朝。二日酔いの幸恵は軽い頭痛と闘いながら出社したが、社屋ビルに入った所で背後から元気よく挨拶をしてきた者がいた。

「幸恵さん、おはようございます!」
「……おはよう」
 何とか不機嫌さを抑え込んで挨拶を返したが、悩みの無さそうなその笑顔を見下ろして、幸恵は無意識に苛ついた。そして足を止めて無言で見下ろしてくる幸恵に異常を感じた綾乃が、不思議そうに問いを発する。

「何ですか? 私の顔に何か付いてますか?」
 それに直接答えず、幸恵は小さく溜め息を吐いてから、八つ当たりの言葉を吐いた。

「あなたに責任は無いし、関係が殆ど無いのは分かっているんだけど、顔を見るとどうしてもムカつくの。暫く私の半径十メートル以内に入って来ないで」
「え、えぇ!?」
「それじゃあね」
「あ、あのっ……」
 そう言い捨てて幸恵はさっさと踵を返し、奥のエレベーターに向かって再び歩き始めた。一方の綾乃はいきなり言われた内容に焦り、しかし幸恵が指示した様に近寄る事はせずにその場に立ち尽くしたが、狼狽しながらも自分達の距離が軽く十メートルを越えたと判断した時点で、それなりに広さのある一階ホールの隅々まで響き渡る位の声量で、幸恵の背中に向かって呼びかけた。

「幸恵さん! 昨日のちぃ兄ちゃんとのデートは、どうだったんですかーっ!?」
 途端に出勤途中の社員達は驚きの表情で足を止め、何事かと綾乃と幸恵に視線を向ける。そして叫ばれたと同時に足を止めた幸恵は、憤怒の形相でゆっくりと背後を振り返ると同時に、綾乃を盛大に叱りつけた。

「この……、大馬鹿能天気娘!! 接近禁止令が出たって事で、少しは察しなさい!」
「あの! ゆ、幸恵さん!?」
 綾乃に負けず劣らずの大声で吐き捨て、如何にも腹を立ててます的な素振りでやって来たエレベーターに乗り込んだ幸恵を綾乃は尚も追いかけようとしたが、その肩をがっしり掴んで引き止めた者が居た。その間にエレベーターの扉が閉まり、上昇を始める。

「……うん、今のは誰がどう見ても、綾乃ちゃんが悪いわ。荒川さんは暫くそっとしておこうね」
「香奈先輩……」
 常日頃相談相手になって貰っている先輩の言葉に、思わず綾乃はうるっと涙目になって相手を見上げたが、香奈は真顔で言い聞かせた。

「取り敢えず仕事中や社内での接触は避けて、夜にでも電話かメールで詳しい事情を聞いてみたら? ……着信拒否されてなかったらの話だけど」
「ちぃ兄ちゃん、今度は何をやったの……」
 すっかり呆れ顔の香奈に対して和臣に対する恨み言もどきを口にしてから、綾乃は予想外に迷走しているらしい次兄の恋路の行方を思って、項垂れたのだった。

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