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前編

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「ママ。今日から一人でいく」
 幼稚園の送迎バスから息子と共に帰宅した佳代は、自宅に帰るなり息子の翔が言い出した事に困惑した。

「え? 一人でって、なんの事?」
「だから、今日から公文に一人でいく」
 昨年、4歳になってから週に二日通っている教室の事だと分かったが、佳代はまだ要領が得ない顔つきで尋ね返す。

「え? だって行きと帰りは、ママが一緒じゃない」
「だって、ゆきちゃんとこうくんは、一人で来て一人で帰ってるよ! しょうもできる!」
 ムキになって翔は力説してきたが、同じ教室に通っている同い年の子供たちを知っていた佳代は、ため息混じりに言い聞かせた。

「あのね……、有紀ちゃんと浩くんは、教室がある所と同じマンションに住んでいるじゃない。幼稚園児だって、一人で行き来できるわよ。だけど翔は、ここを出てもっと歩いて行かないといけないのよ?」
「もう道わかるし、しょうも行けるよ!」
「あのね、翔」
「一人でいくからね!」
 最近、妙に我が強くなってきた息子に少々手を焼いている時期でもあり、佳代はこれ以上の説得を諦めた。

「……分かった。好きにしなさい」
(誰に似たのか、変なところで頑固なんだから。それに、有紀ちゃんと浩君が一人で行き来しているから、触発された? 自立心が芽生えるのは良いけど、いきなりで極端すぎるわよ。もう少し、段階を踏んでくれないかしら?)
 一応、単独行動を許してはみたものの、さすがにいきなり一人で外に出すのは不安だった佳代は、こっそり後をつけて様子を見る事にした。

「いってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
 翔が自分で宿題と筆記用具を揃え、鞄に入れて背中に背負う。佳代はそんな息子に、常日頃言い聞かせている注意事項を改めて言って聞かせ、防犯ブザーの使い方もチェックしてから、玄関で見送った。しかし佳代は、すぐにスマホと家の鍵だけを持って靴を履く。

(取り敢えず好きにさせてみるけど、昨今はなにかと物騒だし。やっぱり最初のうちは、様子を見ておかないと)
 そんな事を考えて一度閉めたドアを再び開けようとした佳代だったが、虫の知らせと言うかなんと言うか、なんとなく魚眼レンズから廊下を覗いてみた。

「…………っ!」
 するとなぜかドアの前に、仁王立ちでこちらを凝視している翔がいた。佳代は驚いたものの、なんとか言葉を飲み込む。すると翔は微動だにしないドアに満足したのか、スタスタとエレベーターに向かって歩いて行った。

(び、びっくりした! まさか私が出てこないか確認しているだなんて! 先にドアを解錠しなくて良かった!)
 予想外の展開でかなり肝を潰したものの、佳代は静かにドアから出て廊下を進んだ。そして曲がり角の向こうを覗き込むと、ちょうど翔がやって来たエレベーターに乗り込むところだった。
 それを確認した佳代は、微塵も躊躇わず目の前の階段を6階分駆け下りる。   

「上りよりはマシだけど、下りも結構キツい……」
 既にエレベーターを下りた翔はマンションのエントランスから外に出たらしく、影も形も見えなかった。しかし佳代は息を整えてから、ゆっくり歩き出す。

(うん、順調。というか、さすがに片道2分の道のりだし、幾らなんでも少し神経質かしら?)
 マンションを出ると、教室までは前の道をしばらくそのまま歩く為、翔が振り返った時に発見されないよう、佳代はわざと距離を取って歩き始めた。遠目に確認できる息子は特に問題無さそうで、佳代も段々落ち着いてくる。

(教室の先生には、終わりそうになったらこっそり連絡を貰えるように予めお願いしておいたし、今日の行き来が問題なかったら、これ以降は後をつけなくても良いかもね)
 佳代が余裕でそんな事を考えている間に、翔が曲がり角を右折した。その先を進んですぐに左折すれば、教室が入っているマンション併設の商業ビルは、目と鼻の先である。
 佳代は翔から少し遅れて同じ角を右折したが、予想外の展開に困惑した。

「あら? もう見えなくなってる。随分歩くのが早いのね」
 次に曲がるまで距離が短いから、もう最後の左折をしたのかと思いながら佳代は足を進めた。

「え? もういない? じゃあビルに入ったの?」
 左折してもその角からビルまでの間の道に翔の姿は見えず、佳代は嫌な予感を覚えながら駆け出す。そのまま商業ビルに突入し、一階に入っている公文教室の自動ドアの前に到達した。
 勢いで来てしまったものの、佳代がなんとなく入るのを躊躇っていると、ドアが開いて中から顔見知りの先生が出てくる。

「あら、翔君のお母さん。翔君はまだ来ていませんけど。何かご用ですか?」
「あ、そ、そうですか。失礼しました。なんでもありません、失礼します」
 翔の不在を聞いた瞬間、佳代の全身から血の気が引いた。そして挨拶もそこそこに踵を返す。相手が怪訝な顔で自分を見送っているのは分かったが、佳代はそれどころではなかった。
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