上 下
85 / 212

哀愁の笛の音

しおりを挟む
 文机に頬杖をつき、サラは口元を緩ませた。
 窓の向こうに広がる夜空を見上げる。
 翳りのない深い藍に彩られた夜空は、澄んだハルの瞳を思わせた。
 そっとため息をつき眼差しを落とす。

 ハルのことを考えるだけで、頬が熱くなり、胸が苦しく締めつけられるように痛んだ。
 生まれて初めて恋というものを知ったサラにとって、この上もない至福の瞬間。と同時に、幸せに満たされた心によぎる不安の翳り。

 サラは頬杖をついたまま、もう一度ため息をつく。
 幸福と不安が交錯する心はまさに張り裂けんばかり。
 愛する男性ひとの一つ一つの動作に、何気ない一言に一喜一憂してしまう。
 それほどまでに、サラの胸のうちにはハルの存在がしめていた。
 だが、果たして相手にとって自分はどうであろうか。

 今の自分がハルにとって、大きな存在であるとは到底思えない。けれど、いつかそうなれる日がくればいいと願わずにはいられない。
 きまぐれで会いに来てくれるのではなく、ハルから自分に会いたいと思わせなければいけない。

 分かっているけれど、やっぱり無理よ。
 だって、私の方がハルに夢中だもの。

「せつないな」

 そして、再び深いため息をつく。
 とにかく、朝からこんな調子ゆえ、明日まで片づけなければならない宿題がまだ半分も残っていたが、気もそぞろで手をつける気がおきない。
 きっとまた家庭教師に小言を言われてしまうだろう。

 すでに時刻は夜更け。
 机の上に置いた蜜蠟の淡い炎に視線を落とす。

 今夜も来てくれるのかな……。
 よくよく考えてみれば、素直に約束を守るような人ではなさそうだし。

 などと、半ばあきらめにも似た思いを抱き始めたサラの耳に、夜の静寂をぬって響くかすかな笛の音が聞こえた。

 笛?
 まさか……!

 咄嗟にサラは顔を上げ、椅子から勢いよく立ち上がった。そして、バルコニーへと向かって駆け出し窓を開け放つ。

 清涼な夜の空気が一気に部屋へと流れ込む。
 涼とした風がサラのほんのりと薔薇色に染まる頬をなで、波打つ髪を揺らした。
 サラは瞳を輝かせた。
 熱のこもったその視線は、目の前の相手に釘づけになったまま離れない。

 露台の手すりに足を組み、腰をかけるハルの姿。
 淡い月の光がハルを照らす。
 まぶたを閉ざし、うつむき加減で首を傾け横笛を吹くその姿は、夜の闇にぼんやりと浮かんで、まるでそこだけが現実と切り離された、幻想的な空間を満たしていた。

 どこか悲哀さを漂わせる笛の旋律が、静かなる夜の虚空へと溶けていく。
 その音色は、耳を傾ける者の心の奥深くまで浸透していった。
 震える笛の音が曲の終わりを告げ、静かな余韻が暗い闇の虚空へとさまよって消えていく。

 笛から唇を離したハルは、ゆっくりと閉ざしていたまぶたを上げた。
 藍色の瞳の奥深くに曖昧な炎を揺らして、サラをじっと見つめる。

 しばしの沈黙が二人を包む。
 声を出すことも身動きをとることもできず、サラはその真っ直ぐな視線に射すくめられ立ちつくしていた。
 やがて、ハルの形のいい唇に微笑が刻まれる。
 緩やかな風が流れ、ハルの片方の肩にだけ羽織られた上着がふわりと揺れる。

 軽やかな動作でハルは手すりから飛び降りた。
 足音すら立てない身軽さであった。

 先ほどまでの不安もどこかへ、サラは満面の笑みでハルに抱きついた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】反逆令嬢

なか
恋愛
「お前が婚約者にふさわしいか、身体を確かめてやる」 婚約者であるライアン王子に言われた言葉に呆れて声も出ない レブル子爵家の令嬢 アビゲイル・レブル 権力をふりかざす王子に当然彼女は行為を断った そして告げられる婚約破棄 更には彼女のレブル家もタダでは済まないと脅す王子だったが アビゲイルは嬉々として出ていった ーこれで心おきなく殺せるー からだった 王子は間違えていた 彼女は、レブル家はただの貴族ではなかった 血の滴るナイフを見て笑う そんな彼女が初めて恋する相手とは

拝啓、大切なあなたへ

茂栖 もす
恋愛
それはある日のこと、絶望の底にいたトゥラウム宛てに一通の手紙が届いた。 差出人はエリア。突然、別れを告げた恋人だった。 そこには、衝撃的な事実が書かれていて─── 手紙を受け取った瞬間から、トゥラウムとエリアの終わってしまったはずの恋が再び動き始めた。 これは、一通の手紙から始まる物語。【再会】をテーマにした短編で、5話で完結です。 ※以前、別PNで、小説家になろう様に投稿したものですが、今回、アルファポリス様用に加筆修正して投稿しています。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

妻のち愛人。

ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。 「ねーねー、ロナぁー」 甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。 そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。

寡黙な貴方は今も彼女を想う

MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。 ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。 シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。 言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。 ※設定はゆるいです。 ※溺愛タグ追加しました。

愛する義兄に憎まれています

ミカン♬
恋愛
自分と婚約予定の義兄が子爵令嬢の恋人を両親に紹介すると聞いたフィーナは、悲しくて辛くて、やがて心は闇に染まっていった。 義兄はフィーナと結婚して侯爵家を継ぐはずだった、なのにフィーナも両親も裏切って真実の愛を貫くと言う。 許せない!そんなフィーナがとった行動は愛する義兄に憎まれるものだった。 2023/12/27 ミモザと義兄の閑話を投稿しました。 ふわっと設定でサクっと終わります。 他サイトにも投稿。

好きな人と友人が付き合い始め、しかも嫌われたのですが

月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
ナターシャは以前から恋の相談をしていた友人が、自分の想い人ディーンと秘かに付き合うようになっていてショックを受ける。しかし諦めて二人の恋を応援しようと決める。だがディーンから「二度と僕達に話しかけないでくれ」とまで言われ、嫌われていたことにまたまたショック。どうしてこんなに嫌われてしまったのか?卒業パーティーのパートナーも決まっていないし、どうしたらいいの?

大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました

柴野
恋愛
「これは白い結婚ということにいたしましょう」  結婚初夜、そうお願いしたジェシカに、夫となる人は眉を顰めて答えた。 「……ああ、お前の好きにしろ」  婚約者だった隣国の王弟に別れを切り出され嫁ぎ先を失った公爵令嬢ジェシカ・スタンナードは、幼馴染でありながら、たいへん仲の悪かった皇太子ヒューパートと王命で婚姻させられた。  ヒューパート皇太子には陰ながら想っていた令嬢がいたのに、彼女は第二王子の婚約者になってしまったので長年婚約者を作っていなかったという噂がある。それだというのに王命で大嫌いなジェシカを娶ることになったのだ。  いくら政略結婚とはいえ、ヒューパートに抱かれるのは嫌だ。子供ができないという理由があれば離縁できると考えたジェシカは白い結婚を望み、ヒューパートもそれを受け入れた。  そのはず、だったのだが……?  離縁を望みながらも徐々に絆されていく公爵令嬢と、実は彼女のことが大好きで仕方ないツンデレ皇太子によるじれじれラブストーリー。 ※こちらの作品は小説家になろうにも重複投稿しています。

処理中です...