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第一章 和風カフェあじさい堂

2.失礼な和風イケメン

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 こういう状況で、「ただいまー。ひさしぶりー」なんて明るく帰ろうといっても無理がある。

 悠花はゴロゴロとキャリーを引きずりながら、気がついたら実家の方向とは真逆の、興福寺の方に向かってのろのろと歩き始めていた。

 炎天下を重い荷物を持って歩くのはきつかったが、それでも移動で疲れた体と頭であの母と対峙すると思うと、憂鬱さのあまりその場から動けなくなりそうだった。

 現実逃避なのは分かっている。

 けれど、とりあえず少しそのあたりを歩きまわって、考えを整理してから実家へ向かおうと思ったのだ。
 
 興福寺から猿沢池の方へと下っていくには五十二段の石段がある。

 階段の上から見える猿沢池とそのほとりに立つ柳の木の風景がきれいで憂鬱な気分も一瞬忘れて見惚れているとふいに背中にどんっと何かがぶつかってきた。

「きゃ……っ」

 ぐらっと体が傾く。焦って態勢を立て直そうとしたけれど、7センチのウェッジソールでは踏ん張りがきかない。

  そのまま階段にむかって倒れそうになったのを、

「危なっ!」
 後ろからぐいっと引き戻された。

 かわりに踏ん張ろうとした拍子にぶつかってしまった黒のキャリーが派手な音を立てて階段を転げ落ちていく。

 一番下まで落ちてアスファルトに叩きつけられたキャリーはそのまま勢いあまって車道の方まで滑っていく。

「大丈夫?」
「は、はい……」

「ちょっとここで待っとって」

 腕をつかんで後ろから支えてくれたその男性は、悠花をその場に座らせると飛ぶように石段を駆け下りていった。

 車道に出てしまったキャリーを拾い上げ、落下の拍子に破損したらしい部品も拾ってくれている。

「あ……」

 自分で拾わなきゃ、と立ち上がりかけると
「ええよ! そこで待ってて!」
 と下から制された。

 まだ若い男性だけれど、陶芸家のひとが着るような藍色の作務衣を着ている。

 キャリーを運び上げてくれながら、彼は階段の途中でその様子を見ていた小学校低学年くらいの男の子にた何か声をかけた。
 
 男の子は黙ってぱっと走って行ってしまった。

「大丈夫? 怪我はない?」
 男性が階段をあがってきて訊ねてくれた。

「は、はい。おかげさまで……」
 お礼を言おうとして声が震えているのに気がついた。

 みると、膝も小さく震えている。

 男性が運んできてくれたキャリーは、車輪が四つのうち二つが吹き飛び、側面が大きくへこんでいた。

  この人が助けてくれなかったら自分が、ここから転げ落ちていたんだと思うと今更ながらに恐ろしくなった。

「謝りもせんとひどいなあ。親はどこにおるんや」

 男性が走っていった男の子の方をふり返って言った。

 そこで悠花ははじめて、自分がその子にぶつかられてバランスを崩したことに気がついた。

「立てる?」
 男性が手を差し出した。

「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
 
「ゆっくりでいいよ。まずはここからちょっと下ろうか」

 男性は悠花のキャリーと、ボストンバッグを両手に持って、少し離れた場所に置いた。

「あの子もあの子やけど、そっちも危ないよ。そんな靴で、そんな大荷物で石段おりるなんて自殺行為だ」

「す、すみません」

「このガラガラも皆、平気で階段やエスカレーターでも持ち歩いてるけど怖いんだよな。いつ頭上から降ってくるか、上にいられるとヒヤヒヤする」

「はい……」

「今だって下に誰もいなかったから良いようなものの、誰かおったら大怪我だよ。小さい子やお年寄りだったら命に関わるわ」
「……」

「そもそも、こんなん持って階段の上でぼけ~っとしとること自体が非常識なんだよなー。ちょっと想像すればわかるはずなのに」
 
(た、助けてもらってなんだけど、今はじめて会ったのにずいぶんズケズケした言い方するんだな)
 
 見た目は悠花とそう変わらない、二十代後半くらいに見えるのになんだか職場の口うるさい上司の言い方に似ている。

 男性は、私のキャリーを引っ繰り返しながら底の車輪の破損したところを見ていた。

「あー。ダメだな、これ。留め具のとこが完全に割れとる。だいぶ派手に落ちたしなー」
「すみません。ありがとうございました」

 悠花は深々と頭を下げて、キャリーを受け取ろうと手を伸ばした。
 
 けれど男性は、壊れたキャリーを持ったままもう片方の手で軽々と私のボストンも持ち上げた。

「これじゃこの先困るやろ? 近くに修理屋やってる知り合おるからそこで直してくれるよう頼んであげよか」

「えっ!?」

「い、いいです。そんな」
「いいって、だって困るだろ。一時間くらいで直ると思うから」

「い、いえいえ。ほんとに大丈夫ですから!」

 助けられた感謝の念を押しのけて、今さっき感じた僅かな違和感がみるみるうちに膨らんでくる。

(な、なに、この人。介抱ドロボウっていうのは聞いたことあるけど親切なふりして荷物をまき上げる気!? それとも修理してあげるって言って変なところへ連れ込もうとか……)
 
 いや、そこまで悪質なのじゃなくてもそもそも、こんな平日の昼間に作務衣姿なんかでウロウロしている若い男って時点でちょっと変な人なのかもしれない。

 そこまで考えると、悠花は夢中でボストンバッグを自分の腕のなかに取り返した。

「そ、そっちももういいです。返してください」
「え? だってこれ重いよ。車輪壊れてたら手で持って運ぶの大変だ……」
「いいんです! 本当に大丈夫ですから!!」

 ほとんどひったくるようにしてキャリーを取り返すと、悠花は両手に荷物を抱えてヨタヨタと歩き出した。

  男性が呆気にとられたように見送っているのが分かる。

(お、重い……っ)

 けれどここで荷物を下ろして持ち直したりしていたらまた何か言われるに決まっている。

 悠花は左肩にボストンバッグをかけ、両腕で子供を抱っこするようにしてキャリーを抱えると、男性が何か言ってこないうちに必死でその場をあとにした。

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