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第5話 常夏の島
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海の中は青い洞口と化し、出口なき迷宮が広がっている。ひとたび入れば、息が持つまで好きなだけ獲物を追いかける。ただ人は気づくべきだ。狩る側が知らぬ間に狙われている危険もあることを知るべきなのだ。
雲の上や大地から見た海は、ただ青い膜のようなもので、何の変哲もない。ただ海に潜れば多様な生物が混在し、人々を魅了する。
新出と蓮子も、海の多様性に惹きつけられていた。黒いダイバースーツに身を包み、手には鋭い銛を握っている。
手に入る獲物はまだ少ない。彼らも必死だ。俊敏に人の気配に気づき、さっと身をひるがえし、視界から消える。何度も空振りになる。それでも何度かトライをして、網袋に晩飯となる魚が入っている。
太陽が傾くにつれて、海中の景色も薄暗くなっていく。そろそろ二人は海を出ることにした。
「取れました?」
「ええ、おかげさまで。あなたの方は、まあまずまずね」
「すごいな、こんなにどっさりと」
「海辺でよく習ったわ。これが今日の夕食よ。小魚は焼いて食べるとして、残りは冷凍で保存して、食材は明日届くからゆっくり考えましょう」
「そうですな。全くいいところに新居を構えましたね」
「親切な老夫婦が譲ってくれたの。個別ビーチだなんて贅沢」
「長年の夢が叶うのは気持ちがいいでしょう」
「そうね、色々想定外なことがあったけど。あ、新出さん、火を焚いて」
海辺にたどり着くと、二人はダイバースーツを脱いだ。蓮子がサバイバルナイフで魚の内臓を取り外し、串刺しにする。一方で新出が火打石を用いて火を起こそうとしていたが、うまくいかない。
すっかり辺りは暗くなった。カンカンと音とかすかな火花が飛び散るが、むなしく時間だけが過ぎていく。
「ははは、だめね」
見かねた蓮子が笑い飛ばした。品のいい声が聞こえて、新出は小難しい顔で彼女を見返した。
「何だってこんな原始人みたいなやり方を?」
「自給自足よ。こうやって全部やってみるものよ。さ、貸して」
蓮子はあっさりと火を起こした。
「やれやれ、手慣れだな」
「新出さん、あなた料理はしないの?」
「しますけど、火おこしなんてしませんよ」
「バナー使わないと、火おこしは大変でしょう」
事前に集めていた近くの枝木を餌にして炎は大きく燃え盛り、二人の男女を映し出す。ゆらゆらと変形する炎は、じっくりと魚を焦がしていく。二人は上着を羽織、焼き上がった魚をむしゃむしゃと食べる。
「こうやって生魚を焼いて食べる生活を続けるわ」
「ずっと?」
「ええ、気のすむまで。そうずっと」
「質素な生活ですね」
「いいのよ、そんな堅苦しい言い方じゃなくて。素直に名前で呼んで」
「あなたは、あなたですよ」
蓮子のことを名前で呼ばない新出を面白そうに見た。
「あなたが胸につけているペンダントは形見なの? 彼女のことが恋しくて私の名前を呼べないの?」
「いや、気にしないでください。もう過去の話ですよ」
「いやよ、そんな。勘ぐってばかりいないで少しはあなたのことを教えて」
「この子のことを?」
「見せて」
蓮子は火に照らされたペンダントの写真を興味深そうに見つめた。
「この子、何だかさみしそうね。可愛いけど」
「有名な女優でしたよ。あんなことがなければ、きっと今でも」
「新出さんは、彼女の心をくみ取れたの?」
「くみ取る? 薬物で蝕まれた心に、水を注いでも零れ落ちていくばかりでしたよ」
「気の毒ね。でも何で彼女は壊れてしまったの?」
「そう詮索しないでください。もう亡くなった人をあれこれ言うのは酷だ」
「だめよ。ちゃんと考えてあげないと。どこかうまくいかないなら、対策をしっかり練らないと。人の心は大事に扱わないといけないわ」
「あなたに薬物なんて無縁ですね」
「人が自然に似せて作ったものは基本まがい物よ。すべては大地の恵みに従えばいいの。人の醜い欲は捨てれば、薬なんて手を出さないでしょ」
「ところが、あなたみたいに彼女の精神は強くなかった」
「なら静かに眠らせてあげることね。新出さんにはそれはできなかった」
「私は無用な殺生をしない。多くの人間に言えることだ。君は異常だ」
「いいえ。あなたの周りには血がべっとり。匂うわ。女たちの涙や死骸があなたの周りには転がっている。酷な男だわ。その異性への無用な優しさが不幸を招くのよ。あなたこそ異常だわ。女の敵ね」
わかる、と言いたげな顔を蓮子は浮かべる。彼女は語らずとも一人で生きていけるだろうし、わざわざ男から財を巻き上げる必要はなかったはずだ。
「酷なのはあなたも同じことでしょう」
「違うわ。血が嫌いなの。人には優しくしたつもりよ」
「事故に見せかけて自分の夫たちを海に突き落とすことがですが?」
「一部だけを取り上げて、判断しないで。メディアと一緒ね」
「じゃ優しいというのは何です? そこがわからない」
「知りたいの?」
「教えてください」
「何から知りたい?」
「あなたの最初の狩りについて」
揺らめく炎は過去の情景を映し出す走馬灯のようにめまぐるしく現れて消えていく。最初の狩りはこの炎のように不確かだ。
雲の上や大地から見た海は、ただ青い膜のようなもので、何の変哲もない。ただ海に潜れば多様な生物が混在し、人々を魅了する。
新出と蓮子も、海の多様性に惹きつけられていた。黒いダイバースーツに身を包み、手には鋭い銛を握っている。
手に入る獲物はまだ少ない。彼らも必死だ。俊敏に人の気配に気づき、さっと身をひるがえし、視界から消える。何度も空振りになる。それでも何度かトライをして、網袋に晩飯となる魚が入っている。
太陽が傾くにつれて、海中の景色も薄暗くなっていく。そろそろ二人は海を出ることにした。
「取れました?」
「ええ、おかげさまで。あなたの方は、まあまずまずね」
「すごいな、こんなにどっさりと」
「海辺でよく習ったわ。これが今日の夕食よ。小魚は焼いて食べるとして、残りは冷凍で保存して、食材は明日届くからゆっくり考えましょう」
「そうですな。全くいいところに新居を構えましたね」
「親切な老夫婦が譲ってくれたの。個別ビーチだなんて贅沢」
「長年の夢が叶うのは気持ちがいいでしょう」
「そうね、色々想定外なことがあったけど。あ、新出さん、火を焚いて」
海辺にたどり着くと、二人はダイバースーツを脱いだ。蓮子がサバイバルナイフで魚の内臓を取り外し、串刺しにする。一方で新出が火打石を用いて火を起こそうとしていたが、うまくいかない。
すっかり辺りは暗くなった。カンカンと音とかすかな火花が飛び散るが、むなしく時間だけが過ぎていく。
「ははは、だめね」
見かねた蓮子が笑い飛ばした。品のいい声が聞こえて、新出は小難しい顔で彼女を見返した。
「何だってこんな原始人みたいなやり方を?」
「自給自足よ。こうやって全部やってみるものよ。さ、貸して」
蓮子はあっさりと火を起こした。
「やれやれ、手慣れだな」
「新出さん、あなた料理はしないの?」
「しますけど、火おこしなんてしませんよ」
「バナー使わないと、火おこしは大変でしょう」
事前に集めていた近くの枝木を餌にして炎は大きく燃え盛り、二人の男女を映し出す。ゆらゆらと変形する炎は、じっくりと魚を焦がしていく。二人は上着を羽織、焼き上がった魚をむしゃむしゃと食べる。
「こうやって生魚を焼いて食べる生活を続けるわ」
「ずっと?」
「ええ、気のすむまで。そうずっと」
「質素な生活ですね」
「いいのよ、そんな堅苦しい言い方じゃなくて。素直に名前で呼んで」
「あなたは、あなたですよ」
蓮子のことを名前で呼ばない新出を面白そうに見た。
「あなたが胸につけているペンダントは形見なの? 彼女のことが恋しくて私の名前を呼べないの?」
「いや、気にしないでください。もう過去の話ですよ」
「いやよ、そんな。勘ぐってばかりいないで少しはあなたのことを教えて」
「この子のことを?」
「見せて」
蓮子は火に照らされたペンダントの写真を興味深そうに見つめた。
「この子、何だかさみしそうね。可愛いけど」
「有名な女優でしたよ。あんなことがなければ、きっと今でも」
「新出さんは、彼女の心をくみ取れたの?」
「くみ取る? 薬物で蝕まれた心に、水を注いでも零れ落ちていくばかりでしたよ」
「気の毒ね。でも何で彼女は壊れてしまったの?」
「そう詮索しないでください。もう亡くなった人をあれこれ言うのは酷だ」
「だめよ。ちゃんと考えてあげないと。どこかうまくいかないなら、対策をしっかり練らないと。人の心は大事に扱わないといけないわ」
「あなたに薬物なんて無縁ですね」
「人が自然に似せて作ったものは基本まがい物よ。すべては大地の恵みに従えばいいの。人の醜い欲は捨てれば、薬なんて手を出さないでしょ」
「ところが、あなたみたいに彼女の精神は強くなかった」
「なら静かに眠らせてあげることね。新出さんにはそれはできなかった」
「私は無用な殺生をしない。多くの人間に言えることだ。君は異常だ」
「いいえ。あなたの周りには血がべっとり。匂うわ。女たちの涙や死骸があなたの周りには転がっている。酷な男だわ。その異性への無用な優しさが不幸を招くのよ。あなたこそ異常だわ。女の敵ね」
わかる、と言いたげな顔を蓮子は浮かべる。彼女は語らずとも一人で生きていけるだろうし、わざわざ男から財を巻き上げる必要はなかったはずだ。
「酷なのはあなたも同じことでしょう」
「違うわ。血が嫌いなの。人には優しくしたつもりよ」
「事故に見せかけて自分の夫たちを海に突き落とすことがですが?」
「一部だけを取り上げて、判断しないで。メディアと一緒ね」
「じゃ優しいというのは何です? そこがわからない」
「知りたいの?」
「教えてください」
「何から知りたい?」
「あなたの最初の狩りについて」
揺らめく炎は過去の情景を映し出す走馬灯のようにめまぐるしく現れて消えていく。最初の狩りはこの炎のように不確かだ。
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