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第2章 前夜
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見慣れた光景だった。あぜ道が続いていた。日は高く上り、木々の間から地を照らしている。草木は青々と生い茂り、自然の豊かさを象徴していた。
右に曲がれば、森があり山菜が取れる。
左に曲げれば、小川があり鮎が釣れる。
亮梅。場所は伍の国にあった。海洋国である伍の国には珍しい、内陸の町だった。
領民は皆つつましく、温和で外の世界は戦いに明け暮れているというのに、ここは平和だった。流星も、この牧羊的でのどかなこの町で暮らし続けるのだと思っていた。
ただ、この世界はおかしい。妙に色彩があせているというのか、その存在が弱弱しい。日の光を見た。なんだか視界がぼやけている。これは夢なのだろうか?
不思議な面持ちで歩いていたが、そんな感触がない。
ぼんやりとした感覚の中で、流星は子供の声をきいた。楽しそうな、無邪気にはしゃいでいるようだ。ふと前を見た。ちょうどなだらかな坂道になっていて、道の向こう側が見えず、子供たちの声だけが聞こえた。
やがて視界に三人の子供たちが映る。彼らは手に風車を持っていて、何やら愉快に笑いながら駆け足でこちらにやってきた。互いの距離は縮まり、彼の目の前まで子供たちがやってきた。だが、彼らは流星のことに気づいていた。
子供の一人が彼の膝にぶつかりそうになる。そのとき、おかしなことが起きた。子供の体がスッと流星の体を通り抜ける。
やがて子供たちは流星のことなど知らず、道を過ぎ去っていく。
なんというほのぼのとした世界だ。ここが幻でも構わない。ずっといたかった。
この傾斜の先を進めば、自分の家がある。彼は、懐かしい山菜の味噌汁の味を頭に思い浮かべながら、歩を進ませた。その先には穢れを知らない。美しい……
坂を上る。だが目の前に移る光景は、地獄だった。
本来そこにあるはずの家々は火炎に包み込まれ、原形をとどめていない。逃げ惑う人々を赤い馬の乗り手が追いかける。逃げる丸腰の民を彼らは何のためらいもなく、槍で突き刺した。彼らの進軍の先には、死体の山が転がっている。
火だ。あいつが、あいつが近くまでやってきている!
いけない、逃げなければ!
だが猛火が街を、領民を、囲んでいる。もはや逃げられない。
「は、は、は」
その声に聞き覚えがある。絶対に忘れてはならない声だ。あの独特口ぶり。獲物を周りからなぶり、最後にとどめを刺そうという非道の者がやってきていた。
弱き人々は、震えているだけ……
悪夢だ。それは起こってはならないこと。
男は長い髪をなびかせていた。白い服が、ところどころ血で塗り染められていた。烈王だ。口元は不気味なぐらいひん曲がり、虐げることを快楽としている表情で、人をいたぶることを生きがいとしている。彼は片手に持った鉾が高く振り上げた。
やめろ、やめてくれ!
流星は、つんのめりになりながらも走りだした。居ても立っても居られなかった。
この世に慈悲があるならば、こんな非道な状況は起こらないだろう。
突然、視界がぐらついた。
思い出したくもない胸糞の悪い記憶だが、それでも忘れ去ることなど到底できないメモリーだ。
『それだけか?』
影がまた言い寄ってきた。
『どんな嫌な体験をしていても、歳月は人を忘れさせる』
「忘れたことなどない」
『いや、お前は忘れたかった。復讐の旅と言いながらお前は家族やよき隣人を無残に殺されて、何もしてやれなかった自分から逃げていたのさ』
「逃げていない」
影はいちいち流星の心の細部をつついていた。また場面が変わる。
部屋に、希和子がやってきた。善意の塊のような女なのだ。わざわざ召使に化けて風呂まで、沸かしに来るなんて……
彼女は、彼が果たそうとしている使命や、いろいろ引き出そうとした。希和子は外の人間と接点がない。宮廷という庭での生活しか知らない彼女にとって流星は、興味をそそる対象だった。
あの夜……
鮮明に蘇ってきた。あの黄昏の日を。
『そうだろうとも。いくらきれいごとを並べようとも、お前も男だろう? 目の前にこれほど機会はない!』
影は叫ぶ。
そうだ。自分は聖女を部屋からただで出させなかった。固く手を握り締め、捕まえた。
何を恐れることがあっただろう? 向こうが求めてきたのだ。
「聖女を、希和子を抱いた……」
この世で一番尊い存在を。地べたの土塊に過ぎない自分が、この手で確かにものにしたのだ。
『それで? どうだ、どうだった?』
影は流星から答えを引き出そうとした。ここは欲望が渦巻く影の世界。
『お前は、触れたのであろう? けがれない聖女の肉塊を!』
「今でも覚えている」
故郷を失った彼は、現を抜かしながら遊女と戯れていた。剣の腕を磨き、雇われ兵として働いた。そのなけなしの銭を酒や女に浪費し、次の町に向かう。そんな大義だ、なんだとは裏腹に荒んだ日々を送っていた。いつになるかわからない復讐の日を信じて……
当てもない日々の中で希和子に出会ったのだ。
聖女は遊び目的の女たちとは違った。華奢であったが、芯のある体つき。ふくよかな豊胸。なめらかな黒髪。丸い瞳。彼女はまさに聖女だった。
すべてが終わったとき、2人は後悔をしていなかった。
『そうだ。お前は手に入れたのだ。一度奪われた幸せを。今度は地位も併せて、手に入れたのだ!』
「違う」
『なんだ? 何か不満か?」
「あの男が、烈王がまた……」
『そうさ、そうだったなあ! またあの男だ! 怒りの火を振りかざして、お前の欲望をまた阻もうと!』影はわめき散らした。
「いや違う」
『何が違う? ええ、何が違う! 手にしたものは取られ、お前はむざむざと地にへばりつき、誰かの助けを求めていた! それでも自分のものは取り返せない! お前は、どうしようもないやつだ!』
「違う!」
『ならば言ってみろ』
「俺は!」
いつの間に周りは深淵に包まれている。誰もいない。ここには自分しかいない。
「力が……力が!」
流星は崩れ落ちそうになる。だが、彼の中にある欲に飢えた感情が、そうはさせない。
「俺に力を寄越せ! すべてを手にする。この上ない力を!」
暗闇の中に響いた咆哮。流星はこの時気が付いた。自身の空っぽだと思っていた器に、これほどの感情が渦巻いていること。もはや感情が器からあふれ出し、濁流となって彼の全身を駆け巡っていることを知った。
影は答えない。自分をこの闇の中にとらえておくつもりなのか?ここが人生の終着点なのか?
そんなはずはない。自分は何としてもここから抜け出さないといけない。誓ったのだ。仇を取ると。そして守り切ると誓った。主である聖女を。だが守れなかった。なら残された彼女の後継者を、自分の子を決死の覚悟で守り抜く。
彼の体は闇に沈んでいく。やがて体と共に魂もまたそこに沈んだ。
右に曲がれば、森があり山菜が取れる。
左に曲げれば、小川があり鮎が釣れる。
亮梅。場所は伍の国にあった。海洋国である伍の国には珍しい、内陸の町だった。
領民は皆つつましく、温和で外の世界は戦いに明け暮れているというのに、ここは平和だった。流星も、この牧羊的でのどかなこの町で暮らし続けるのだと思っていた。
ただ、この世界はおかしい。妙に色彩があせているというのか、その存在が弱弱しい。日の光を見た。なんだか視界がぼやけている。これは夢なのだろうか?
不思議な面持ちで歩いていたが、そんな感触がない。
ぼんやりとした感覚の中で、流星は子供の声をきいた。楽しそうな、無邪気にはしゃいでいるようだ。ふと前を見た。ちょうどなだらかな坂道になっていて、道の向こう側が見えず、子供たちの声だけが聞こえた。
やがて視界に三人の子供たちが映る。彼らは手に風車を持っていて、何やら愉快に笑いながら駆け足でこちらにやってきた。互いの距離は縮まり、彼の目の前まで子供たちがやってきた。だが、彼らは流星のことに気づいていた。
子供の一人が彼の膝にぶつかりそうになる。そのとき、おかしなことが起きた。子供の体がスッと流星の体を通り抜ける。
やがて子供たちは流星のことなど知らず、道を過ぎ去っていく。
なんというほのぼのとした世界だ。ここが幻でも構わない。ずっといたかった。
この傾斜の先を進めば、自分の家がある。彼は、懐かしい山菜の味噌汁の味を頭に思い浮かべながら、歩を進ませた。その先には穢れを知らない。美しい……
坂を上る。だが目の前に移る光景は、地獄だった。
本来そこにあるはずの家々は火炎に包み込まれ、原形をとどめていない。逃げ惑う人々を赤い馬の乗り手が追いかける。逃げる丸腰の民を彼らは何のためらいもなく、槍で突き刺した。彼らの進軍の先には、死体の山が転がっている。
火だ。あいつが、あいつが近くまでやってきている!
いけない、逃げなければ!
だが猛火が街を、領民を、囲んでいる。もはや逃げられない。
「は、は、は」
その声に聞き覚えがある。絶対に忘れてはならない声だ。あの独特口ぶり。獲物を周りからなぶり、最後にとどめを刺そうという非道の者がやってきていた。
弱き人々は、震えているだけ……
悪夢だ。それは起こってはならないこと。
男は長い髪をなびかせていた。白い服が、ところどころ血で塗り染められていた。烈王だ。口元は不気味なぐらいひん曲がり、虐げることを快楽としている表情で、人をいたぶることを生きがいとしている。彼は片手に持った鉾が高く振り上げた。
やめろ、やめてくれ!
流星は、つんのめりになりながらも走りだした。居ても立っても居られなかった。
この世に慈悲があるならば、こんな非道な状況は起こらないだろう。
突然、視界がぐらついた。
思い出したくもない胸糞の悪い記憶だが、それでも忘れ去ることなど到底できないメモリーだ。
『それだけか?』
影がまた言い寄ってきた。
『どんな嫌な体験をしていても、歳月は人を忘れさせる』
「忘れたことなどない」
『いや、お前は忘れたかった。復讐の旅と言いながらお前は家族やよき隣人を無残に殺されて、何もしてやれなかった自分から逃げていたのさ』
「逃げていない」
影はいちいち流星の心の細部をつついていた。また場面が変わる。
部屋に、希和子がやってきた。善意の塊のような女なのだ。わざわざ召使に化けて風呂まで、沸かしに来るなんて……
彼女は、彼が果たそうとしている使命や、いろいろ引き出そうとした。希和子は外の人間と接点がない。宮廷という庭での生活しか知らない彼女にとって流星は、興味をそそる対象だった。
あの夜……
鮮明に蘇ってきた。あの黄昏の日を。
『そうだろうとも。いくらきれいごとを並べようとも、お前も男だろう? 目の前にこれほど機会はない!』
影は叫ぶ。
そうだ。自分は聖女を部屋からただで出させなかった。固く手を握り締め、捕まえた。
何を恐れることがあっただろう? 向こうが求めてきたのだ。
「聖女を、希和子を抱いた……」
この世で一番尊い存在を。地べたの土塊に過ぎない自分が、この手で確かにものにしたのだ。
『それで? どうだ、どうだった?』
影は流星から答えを引き出そうとした。ここは欲望が渦巻く影の世界。
『お前は、触れたのであろう? けがれない聖女の肉塊を!』
「今でも覚えている」
故郷を失った彼は、現を抜かしながら遊女と戯れていた。剣の腕を磨き、雇われ兵として働いた。そのなけなしの銭を酒や女に浪費し、次の町に向かう。そんな大義だ、なんだとは裏腹に荒んだ日々を送っていた。いつになるかわからない復讐の日を信じて……
当てもない日々の中で希和子に出会ったのだ。
聖女は遊び目的の女たちとは違った。華奢であったが、芯のある体つき。ふくよかな豊胸。なめらかな黒髪。丸い瞳。彼女はまさに聖女だった。
すべてが終わったとき、2人は後悔をしていなかった。
『そうだ。お前は手に入れたのだ。一度奪われた幸せを。今度は地位も併せて、手に入れたのだ!』
「違う」
『なんだ? 何か不満か?」
「あの男が、烈王がまた……」
『そうさ、そうだったなあ! またあの男だ! 怒りの火を振りかざして、お前の欲望をまた阻もうと!』影はわめき散らした。
「いや違う」
『何が違う? ええ、何が違う! 手にしたものは取られ、お前はむざむざと地にへばりつき、誰かの助けを求めていた! それでも自分のものは取り返せない! お前は、どうしようもないやつだ!』
「違う!」
『ならば言ってみろ』
「俺は!」
いつの間に周りは深淵に包まれている。誰もいない。ここには自分しかいない。
「力が……力が!」
流星は崩れ落ちそうになる。だが、彼の中にある欲に飢えた感情が、そうはさせない。
「俺に力を寄越せ! すべてを手にする。この上ない力を!」
暗闇の中に響いた咆哮。流星はこの時気が付いた。自身の空っぽだと思っていた器に、これほどの感情が渦巻いていること。もはや感情が器からあふれ出し、濁流となって彼の全身を駆け巡っていることを知った。
影は答えない。自分をこの闇の中にとらえておくつもりなのか?ここが人生の終着点なのか?
そんなはずはない。自分は何としてもここから抜け出さないといけない。誓ったのだ。仇を取ると。そして守り切ると誓った。主である聖女を。だが守れなかった。なら残された彼女の後継者を、自分の子を決死の覚悟で守り抜く。
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