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第1章 世界の理
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東の地で龍が荒れ狂う中、西の地は至って平穏であった。東国との戦いに勝利した祝いムードは落ち着きを取り戻した。西王が、議会で演説をするのが一週間後。聖都は緩やかな空気に包まれている。ある種の小康状態であった。
何とも言葉で表現できぬ状況下に心を悩ます若き女性がいた。聖女・希和子である。
「何も、どうすればいいのかしら?」
湯あみ後、希和子は侍女により髪をとかしてもらっていた。
侍女にぼやく。
「はあ……」
唐突な問い、なのか分からず侍女の顔はポカンとしていた。
「お相手のことよ」
希和子は少々反応に、プチッと頭の中で音がするのを感じる。少しだけ腹が立った。
「陛下ほどのお方なら良き殿方が見つかりますでしょう」
侍女は、ホッとした表情になる。突然何を言い出すのかと思いきや、他愛もない話と安堵した。素振りを希和子は
勘ぐる。
「そうかしら?」
「ええきっと」
ろくに男子と交わっていない希和子だ。ときに従者より男子の素顔を写した写真が送られてくるが、希和子の心を
つかんだ者はいない。
かといって誰かと交際しようという気持ちもわかずに二十三歳になってしまった。ぼんやりと意識せずに生きてし
まった。いや、今年で二十四だ。
恋なんて、分からない。だが展望台の塔で見てしまった。あの男女の交わりを。口が絡み合う瞬間を。あのシーン
が希和子の頭に焼き付いて離れない。
見てはいけなかった。なのに、なぜだろうか?
当てつけだ。考えもしない、もしくは心のうちに隠していた色恋についてかき立てるものがあった。接吻が互いに許された者同士がする行為であり、展望台の塔で見てしまったのは赤の他人が見ていいものではない。
ただ、日々の日常を外から、聖都の眺めを確かめるだけなのに。
希和子の心は揺れていた。
自身もやがては子を宿し育て聖なる腕輪を譲ることにある。自分の宿命だ。いや、聖女しての宿命である。
人々の拠り所になるため、平和と希望の象徴として世に君臨する聖女は、やがて老いて死ぬ。そうなる前に子孫を
残し聖なる腕輪とその灯を引き継いでもらう必要があると、言われていた。
西王・萌希の一字を頂き、聖女として見出されたのが十五年前だ。聖女は歴史から遠ざかった存在だった。歴史書
によれば、はるか昔聖女の血統は途絶え、腕輪だけが残っていた。聖女が不在の中、諸国を治め神聖な地位を保持し
ていたのは王だ。
王は実質な統治者にして、神格化されていた。自身を絶対な存在として存在していたが、現在より多く存在してい
たので絶えず争いが絶えなかった。
皆、自分以外に絶対なる者がいることを許さなかった。
やがて国は七つ集約された。しかし国は疲弊し、人々は心から平和を希望した。
当時の壱ノ国も都は荒れ果てていた。そんな中でも、西王は戦いをすれば必ず勝ったし、彼女の帰還は盛大な凱旋
式が行われていた。
ある日の凱旋式の途上である。馬車に乗った西王は、大通りから宮殿に向けて、集う多くの人民に手を振ってい
た。
本来なら、ゆっくりと宮殿に向かって西王が乗る馬車とそれを守る軍が宮殿へ向けて進んでいくが、進軍が一時止
まった。
ぴたっと流れが止まった凱旋式は初めてである。皆に動揺が走る。
だが西王の指示だ。王は馬車を降りた。王の姿に全員がおおっという声に包まれた。
希和子は西の低地に住む貧民街の住人だった。四人の家族で、内職をしてかろうじて生計を立てていた。父と
母、自分とかつての弟……
凱旋式の日、希和子の家族は王の行軍を見に行った。
これほどの身分や所得、年齢、性別が違う人が集まる所を見たのは初めてだ。その頃の希和子は子どもで、大人たちの間をすり抜け、王を間近で見られる列の最前線まで進めた。
馬車から降りた王は周囲を見渡す。彼女は四角い白い箱を持っていた。
何だろうと思った。希和子は箱の中にある物が気になった。
初めて見た西王は背が高く、すらりとしていた。顔立ちは整い、美しく力強い存在だった。彼女の瞳がきらりと光り、希和子を捉えた。
ゆっくりと歩を進む王は明らかに自分を見ていた。やがて王と自分は柵を隔てて向かい合う。彼女は親衛隊を後ろに下がらせ、しゃがみ込む。
こんにちは、と希和子に声をかける。優しかった。まるで自分の母に愛撫されているように感じた。
幼少の希和子は、ニッコリと笑う。あどけなかった。
「こんにちは、殿下」
西王は絶対的な統治者だった。しかし、生来ならば王は聖女の信託を得て王となる。だが聖女はずいぶんと前に姿を消した。聖女の信託を得た王を旧王と呼び、信託のない王は新王と呼ぶ。
旧王である西王はどの王よりも位が高く、ましては市井の民など歯牙にもかからない。なのに、西王は一介の貧民街にいる小娘に声をかけた。
「いい子ね。お名前教えてもらってもいい?」
「希和子」
「あら可愛い名前。あなた一人なの?」
桃という少女はきょろきょろと辺りを見渡したが、両親はどこへ行ったのだろうか?
「パパとママとはぐれちゃった」
「それは心配ね」
西王は途端に桃を案じた表情をする。親衛隊長が耳打ちをした。表情は驚愕に満ちていた。
「いいわ。これは大事なことなの」
声は屈強な親衛隊長を従わせるものだ。
「ねえパパとママは私が探してあげる」
「ほんとっ?」
「ええ。私あなたともう少しゆっくり話をしたいの」
「なーにそれ?」
「これ?」
希和子にとってさっきから気にしていたのは、王が持つ白い箱だ。
「これを?」
「うん!」
桃は何も臆することなく、気になったことを率直に聞く子だった。
「これは……」
箱がパカッと開いた。中には灰色がかった乳白色の腕輪が入っていた。
決して華美なものではないが、何か高貴で神聖なものに希和子の純真な目に映った。
「きれい!」
王は微かに笑う。些細な表情の変化にも王の威厳がある。
希和子は笑顔を見て、欲しいなとぼやくように言う。小娘の言葉に王は答えた。
「いいわよ、だってこれはあなたの物」
とたんに親衛隊長が話しかける。声は驚きに満ち溢れている。
「見つけたわ。腕輪がそう告げている。間違いない。あなたよ――お待ち申し上げておりました」
凛とした口調だ。親衛隊、近くにいた者にとって驚愕の事実だった。数百年もの間、聖なる腕輪が主を見つけた。現に光を帯びることのなかった腕輪がかすかに光っていた。継承者が現れたとき光を発する。腕輪は本来聖女とともにある。
聖女の到来という異変は遠くにいた者に伝播していった。
「希和子!」
母の呼ぶ声がした。希和子の聖女としての成り立ちの記憶はそこまでだ。意識は、呼びかけにより現実に引き戻される。
思い出せない。あの後、自分と家族は宮殿に連れてかれ、戴冠式が急きょ催され気づけば希和子は町はずれの貧乏
娘からこの世で最も貴い存在へと変貌していた。聖女として即位したあと、彼女は、この世で最も貴い人になった。
覚えているのは西王の屈託のない笑みと白い箱の開示の記憶である。
「陛下、こちらでよろしゅうございますか?」
今でも誰もが希和子を陛下と呼ぶ。侍女は整った髪を見て、確認をしてもらう。
あ、と空返事をした。
「いいわ。いつもありがとう」
「とんでもございませんわ」
鏡に映った希和子の長髪はきれいに整われていた。冬場の乾燥で髪はほつれ傷みがちだった。
「ありがとう――これを」
希和子はそっと懐からチップを出す。
「まあ、そんな私は当然の務めを果たしたまでのこと」
侍女は戸惑いを隠せなかった。これまでチップをもらったことなど一度もなかった。そもそも従者が、聖女か
ら俸禄を受けるわけではなく、驚くのは当たり前だった。
「いいの、ほら受取って」
「で、では、ありがたく……」
侍女の目は泳いでいた。明らかに困っているようだ。なぜ善行を施したのか不思議だった。
お礼がしたくなった。多分そうであった。
「私はこれで」
侍女は道具を片付けると、寝所を足早に立ち去った。
希和子は一人きりになった。床に就くまで少し時間があった。今日は新月、夜空を照らす光はなく、一層薄暗い。
夜空は漆黒に包まれている。全てを呑み込んでしまうほど暗く、冷たい闇が幅広く聖都を覆っている。自分が持つ
腕輪の光だけでは、照らせそうになかった。
恋路も、婚儀も、受胎も、闇は何もかも悪しき方向へと持って行ってしまいそうだ。
少し場所を変えてみたい。一時、宮殿を離れ聖都の外にある別邸に行く。いろいろそこで色恋のついて考えてみた
くなった。
緑の別荘――緑白荘と呼ばれる。春夏は周りを豊かな緑に包まれ、秋冬は雪におおわれるからだ。何もない単なる
別荘だが、堅苦しい宮殿とは違い、自然に包まれ気を落ち着かせられる。
そこで考えよう。
宮殿は、いつも重い……重いのだ。空気が、気分が、人が、ぎすぎすして気持ちが悪い。
何とも言葉で表現できぬ状況下に心を悩ます若き女性がいた。聖女・希和子である。
「何も、どうすればいいのかしら?」
湯あみ後、希和子は侍女により髪をとかしてもらっていた。
侍女にぼやく。
「はあ……」
唐突な問い、なのか分からず侍女の顔はポカンとしていた。
「お相手のことよ」
希和子は少々反応に、プチッと頭の中で音がするのを感じる。少しだけ腹が立った。
「陛下ほどのお方なら良き殿方が見つかりますでしょう」
侍女は、ホッとした表情になる。突然何を言い出すのかと思いきや、他愛もない話と安堵した。素振りを希和子は
勘ぐる。
「そうかしら?」
「ええきっと」
ろくに男子と交わっていない希和子だ。ときに従者より男子の素顔を写した写真が送られてくるが、希和子の心を
つかんだ者はいない。
かといって誰かと交際しようという気持ちもわかずに二十三歳になってしまった。ぼんやりと意識せずに生きてし
まった。いや、今年で二十四だ。
恋なんて、分からない。だが展望台の塔で見てしまった。あの男女の交わりを。口が絡み合う瞬間を。あのシーン
が希和子の頭に焼き付いて離れない。
見てはいけなかった。なのに、なぜだろうか?
当てつけだ。考えもしない、もしくは心のうちに隠していた色恋についてかき立てるものがあった。接吻が互いに許された者同士がする行為であり、展望台の塔で見てしまったのは赤の他人が見ていいものではない。
ただ、日々の日常を外から、聖都の眺めを確かめるだけなのに。
希和子の心は揺れていた。
自身もやがては子を宿し育て聖なる腕輪を譲ることにある。自分の宿命だ。いや、聖女しての宿命である。
人々の拠り所になるため、平和と希望の象徴として世に君臨する聖女は、やがて老いて死ぬ。そうなる前に子孫を
残し聖なる腕輪とその灯を引き継いでもらう必要があると、言われていた。
西王・萌希の一字を頂き、聖女として見出されたのが十五年前だ。聖女は歴史から遠ざかった存在だった。歴史書
によれば、はるか昔聖女の血統は途絶え、腕輪だけが残っていた。聖女が不在の中、諸国を治め神聖な地位を保持し
ていたのは王だ。
王は実質な統治者にして、神格化されていた。自身を絶対な存在として存在していたが、現在より多く存在してい
たので絶えず争いが絶えなかった。
皆、自分以外に絶対なる者がいることを許さなかった。
やがて国は七つ集約された。しかし国は疲弊し、人々は心から平和を希望した。
当時の壱ノ国も都は荒れ果てていた。そんな中でも、西王は戦いをすれば必ず勝ったし、彼女の帰還は盛大な凱旋
式が行われていた。
ある日の凱旋式の途上である。馬車に乗った西王は、大通りから宮殿に向けて、集う多くの人民に手を振ってい
た。
本来なら、ゆっくりと宮殿に向かって西王が乗る馬車とそれを守る軍が宮殿へ向けて進んでいくが、進軍が一時止
まった。
ぴたっと流れが止まった凱旋式は初めてである。皆に動揺が走る。
だが西王の指示だ。王は馬車を降りた。王の姿に全員がおおっという声に包まれた。
希和子は西の低地に住む貧民街の住人だった。四人の家族で、内職をしてかろうじて生計を立てていた。父と
母、自分とかつての弟……
凱旋式の日、希和子の家族は王の行軍を見に行った。
これほどの身分や所得、年齢、性別が違う人が集まる所を見たのは初めてだ。その頃の希和子は子どもで、大人たちの間をすり抜け、王を間近で見られる列の最前線まで進めた。
馬車から降りた王は周囲を見渡す。彼女は四角い白い箱を持っていた。
何だろうと思った。希和子は箱の中にある物が気になった。
初めて見た西王は背が高く、すらりとしていた。顔立ちは整い、美しく力強い存在だった。彼女の瞳がきらりと光り、希和子を捉えた。
ゆっくりと歩を進む王は明らかに自分を見ていた。やがて王と自分は柵を隔てて向かい合う。彼女は親衛隊を後ろに下がらせ、しゃがみ込む。
こんにちは、と希和子に声をかける。優しかった。まるで自分の母に愛撫されているように感じた。
幼少の希和子は、ニッコリと笑う。あどけなかった。
「こんにちは、殿下」
西王は絶対的な統治者だった。しかし、生来ならば王は聖女の信託を得て王となる。だが聖女はずいぶんと前に姿を消した。聖女の信託を得た王を旧王と呼び、信託のない王は新王と呼ぶ。
旧王である西王はどの王よりも位が高く、ましては市井の民など歯牙にもかからない。なのに、西王は一介の貧民街にいる小娘に声をかけた。
「いい子ね。お名前教えてもらってもいい?」
「希和子」
「あら可愛い名前。あなた一人なの?」
桃という少女はきょろきょろと辺りを見渡したが、両親はどこへ行ったのだろうか?
「パパとママとはぐれちゃった」
「それは心配ね」
西王は途端に桃を案じた表情をする。親衛隊長が耳打ちをした。表情は驚愕に満ちていた。
「いいわ。これは大事なことなの」
声は屈強な親衛隊長を従わせるものだ。
「ねえパパとママは私が探してあげる」
「ほんとっ?」
「ええ。私あなたともう少しゆっくり話をしたいの」
「なーにそれ?」
「これ?」
希和子にとってさっきから気にしていたのは、王が持つ白い箱だ。
「これを?」
「うん!」
桃は何も臆することなく、気になったことを率直に聞く子だった。
「これは……」
箱がパカッと開いた。中には灰色がかった乳白色の腕輪が入っていた。
決して華美なものではないが、何か高貴で神聖なものに希和子の純真な目に映った。
「きれい!」
王は微かに笑う。些細な表情の変化にも王の威厳がある。
希和子は笑顔を見て、欲しいなとぼやくように言う。小娘の言葉に王は答えた。
「いいわよ、だってこれはあなたの物」
とたんに親衛隊長が話しかける。声は驚きに満ち溢れている。
「見つけたわ。腕輪がそう告げている。間違いない。あなたよ――お待ち申し上げておりました」
凛とした口調だ。親衛隊、近くにいた者にとって驚愕の事実だった。数百年もの間、聖なる腕輪が主を見つけた。現に光を帯びることのなかった腕輪がかすかに光っていた。継承者が現れたとき光を発する。腕輪は本来聖女とともにある。
聖女の到来という異変は遠くにいた者に伝播していった。
「希和子!」
母の呼ぶ声がした。希和子の聖女としての成り立ちの記憶はそこまでだ。意識は、呼びかけにより現実に引き戻される。
思い出せない。あの後、自分と家族は宮殿に連れてかれ、戴冠式が急きょ催され気づけば希和子は町はずれの貧乏
娘からこの世で最も貴い存在へと変貌していた。聖女として即位したあと、彼女は、この世で最も貴い人になった。
覚えているのは西王の屈託のない笑みと白い箱の開示の記憶である。
「陛下、こちらでよろしゅうございますか?」
今でも誰もが希和子を陛下と呼ぶ。侍女は整った髪を見て、確認をしてもらう。
あ、と空返事をした。
「いいわ。いつもありがとう」
「とんでもございませんわ」
鏡に映った希和子の長髪はきれいに整われていた。冬場の乾燥で髪はほつれ傷みがちだった。
「ありがとう――これを」
希和子はそっと懐からチップを出す。
「まあ、そんな私は当然の務めを果たしたまでのこと」
侍女は戸惑いを隠せなかった。これまでチップをもらったことなど一度もなかった。そもそも従者が、聖女か
ら俸禄を受けるわけではなく、驚くのは当たり前だった。
「いいの、ほら受取って」
「で、では、ありがたく……」
侍女の目は泳いでいた。明らかに困っているようだ。なぜ善行を施したのか不思議だった。
お礼がしたくなった。多分そうであった。
「私はこれで」
侍女は道具を片付けると、寝所を足早に立ち去った。
希和子は一人きりになった。床に就くまで少し時間があった。今日は新月、夜空を照らす光はなく、一層薄暗い。
夜空は漆黒に包まれている。全てを呑み込んでしまうほど暗く、冷たい闇が幅広く聖都を覆っている。自分が持つ
腕輪の光だけでは、照らせそうになかった。
恋路も、婚儀も、受胎も、闇は何もかも悪しき方向へと持って行ってしまいそうだ。
少し場所を変えてみたい。一時、宮殿を離れ聖都の外にある別邸に行く。いろいろそこで色恋のついて考えてみた
くなった。
緑の別荘――緑白荘と呼ばれる。春夏は周りを豊かな緑に包まれ、秋冬は雪におおわれるからだ。何もない単なる
別荘だが、堅苦しい宮殿とは違い、自然に包まれ気を落ち着かせられる。
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