むかし沈んだ船の殺人

戸笠耕一

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ストーリー

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 2014年8月7日。午前0時。山川丸の船長室にて船の最高責任者である本山誠もとやままことは額に汗をにじませながら自身の日記に文字を起こしていた。

 山川丸は今まさに沈もうとしていた。もって数十分といったところか。6階のラウンジフロアにも浸水が始まっている。

 原因は航海士の指令を聞き誤ったことにより浅瀬の岩礁に接触したことによるミス。幸いなことに船が座礁したのは浅瀬であり、電報を直ちに打ったことで対処ができていた。

 1つの失態が死を招くことは航海士として30年近くなるが、今ほど身に染みて感じていた。部下である航海士のミスはもちろん船長のミスである。本山は退船後に厳重に裁きを受けるだろう。

「本山船長、乗客の避難が完了いたしました」

「能勢か。他の連中はどうした?」

「皆、船長が来るのをお待ちしておりますが」

「どうした?」

 いえ、と能勢が言い渋ったとき背後から短い髪形をした若い女パーサーだった。よく知っている顔だ。本山の表情に驚きが満ち溢れた。最後の救命艇に乗るのは船を預かる幹部クラスだけなのに。

「なぜお前がここにいる? 乗客と一緒に行けと言っただろう」

「船長、私にも1人の乗員として船の最後を見届ける責任があります」

 凛々しい黒のまなざしにぶれはなかった。数年前船乗りになるといい、大いに叱ったときの情景がふいに走馬灯のように蘇る。

 お前はどうして愚かな道を進むのかと

「これを持っていきなさい」

 本山は今まで書き記していた日記を手渡した。

「早く来てください。皆、待っています」

「能勢、その子を頼む」

 若い女のパーサーは一言つぶやいた。船の上では船長と呼ぶよう言い含めていたのに。今日は仕方ないだろう。

「すぐに行く」

 本山は1人になり、やり残したことはないか振り返る。

 状況把握、救助要請、避難誘導、足りていないのは何か最後まで考える。そこまで考えて船長は退船できるのだ。さもなければ船長は船とともに最期を迎えなければならない。

 胸が苦しくなった。救助が来るまでに胸に巣食う病魔を落ち着かせなければならない。本山には摘発すべきことがある。船の上でおきた不正は航海日誌に記録されている。最も信頼のおける男に託したから問題はないだろう。日記も同様に信頼する者に託していた。

 2つがそろえば十分だった。不正は告発できる。

 その前に自らの体も気にしなければならない。恐らく長くはない命なのだ。グッと3粒の白い薬を水とともに流し込んだ。

 本山は落ち着くだろうと胸を何度も抑えて立ち上がる。ここが正念場なのだ。人生を清算すべき時が来たのだ。やわにやっている時ではない。

 う、と胸にうねりを感じて、本山はぐらりと倒れ込んだ。

 立ち上がれない。這って動くことすらできないほどの痛み。言葉など発することができないほど胸が苦しい。数千度に燃え上がった鉄を押しつけられているような痛みに本山の体はもんどりうった。

 心身症を患っている本山は3度の薬の服用が欠かせない。行動をよく知っていて、自身を無きものにしたいという人物がまさか。

 おのれ。お前は、私を消してでも地位の保全を図りたいというのか? 痛み以上に感じるのは同じ船乗りとしての責任への欠如に対する怒りと、神聖な船を欲で怪我していることへの憎しみである。

 すべては絶たれたわけではない……

 せめてお前だけは……

 本山が最後に見た光景は船長室の柱時計だった。時刻は0時8分15秒。本山は光を失った時間だった。

 最後の救命艇が出発した。直後、山川丸は轟音とともに引き裂かれ、海上に撒かれた油に引火したことで火に包まれた。パチパチと火を噴きながら船体は沈んでいく。

 山川丸は15分足らずで完全に沈没した。
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