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第十七章 惨劇
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「何故、その男は慎吾君を知っていたんだ?しかも、慎吾君が殺されただと。いったいどういうことなんだ。」
石田の説明を聞いて、親父が叫ぶ。榊原が考え込んでいたが、吐き出すように言葉を発した。
「うるせえんだよ、親父。ちょっと黙っててくれよ。頭を整理してんだから。」
石田が口を開いた。
「恐らく、あの男は小野寺だ。幸子の旦那の小野寺に違いない。きっとそうだ。あの男は晴美と呼び捨てにした。ごく自然にだ。晴海は父親が自分を嫌っていたと言ったが、違う。俺も最初に会った時、晴美に見出したのは、和代の面影だ。目元がそっくりだった。薄茶色の瞳もよく似ていた。小野寺は、それに耐えられなかったんだ。」
親父が口を開いた。
「そうかもしれん。小野寺は、20年前、和代さんを助けようとしたが、それが出来なかったと言ったんだろう。小野寺の心にあるのは、人間としての良心の疼きだ。」
「ええ、和代が電話するとしたら、晴美を愛している人で、助けだせる可能性のある人だ。和代は小野寺の良心に訴えたんだ。」
それまで黙っていた榊原が叫んだ。
「分かったぞ、てっことは、小野寺がモンスターなんだ。小野寺だからこそ晴美の恋人、慎吾君の携帯の番号だって知っていたんだ。」
榊原は和代が石田に電話してきたという事実を既に認めているようだ。霊的な話を常に避けてきた榊原にしては珍しい。石田は、微笑みながら言った。
「そうだ、その通りだ。榊原、お前の疑問が漸く解けたようだな。いくら探偵でも慎吾君の携帯番号を調べるなんて出来っこない。」
「そうだ、小野寺は、一度、慎吾君の危機を救っている。アパートの部屋に戻るなと警告しているんだからな。それに拉致した組織のことも知っている。そうでなければ、助ける算段なんてあるわけない。しかし、小野寺はその組織とどういう関係なんだろう。」
二人のやり取りを聞いていた親父が重々しく頷きながら口を開いた。
「小野寺は、晴美さんや慎吾君を拉致した男達と同じ世界の人間だ。闇の世界で生きてきたんだ。恐らく、その組織の人間だろう。だから慎吾君は拉致された。慎吾君が裏切り者であるモンスターの声を知っていたからだ。」
二人が親父の顔を見た。榊原がうめくように言った。
「そうか、慎吾君はモンスターの正体を割り出すために拉致されたのか。しかし、裏切り者を探すという目的のためだけで誘拐という犯罪を引き起こすなんて考えられんが。」
親父が蔑むような視線を榊原に向けて言う。
「スパイの世界とはそういうものだ。だからこそ、小野寺は相手の怖さを知っていた。知っているからこそ、死を覚悟せざるを得ない。お前は刑事畑しか知らない。ワシは公安も知っている。スパイの世界は冷酷だ。つまらぬ利害の不一致が死をもたらす。」
榊原がすっとんきょな声をあげた。
「スパイだって、なんてこと言い出すんだ、親父。ヤクザの世界だよ。スパイなんかじゃない。北朝鮮ルートのヤクがらみの事件だ。」
「いや、これは公安事件だ。確かにヤクザやヤクが絡んでるのも事実だ。しかし、もっと冷酷な感じがするし、組織だっている。簡単に考えるのは危ない。小野寺は、恐らくその世界を知っているんだ。最初からそんな匂いがしていた。石田君、覚悟を決めよう。」
「ええ、はなからそのつもりです。」
「よし、やろう。ワシも燃えてきた。死に場所が見つかった。おい、成人。弱虫、成人。お前はどうなんだ。」
「馬鹿にするな、俺だって警官だ。その覚悟なくして警官になったりはしない。」
「よし、明日の13時。小野寺から電話がかかってくるのを待とう。」
石田が、ふと思い付いて榊原に聞いた。
「しかし、モンスターと慎吾君のやり取りを知っているのは限られている。その組織に情報を漏らしたのは誰なんだろう。」
「そう、知っているのはごく限られている。まず、死んだ二人、瀬川と坂本。だが、彼等から情報が漏れたとは考えられない。そして、高嶋本面部長と、その指示で例のCDの中身を調べた公安課長、そして製薬会社を調べている捜査二課長。この三人だ。公安課長は、警察庁のキャリア、捜査二課長は警視庁の生え抜きだ。」
親父が口を挟んだ。
「馬鹿か、お前は。その三人とは限らんだろう。課長だって自分で捜査するわけじゃない。部下を動かす。その三人以外にも何人かに伝わったはずだ。お前が顔の確認を怠った警部にもだ。」
榊原はぷーっと膨れて、何か反論しようとしたが、大きく息を吐いて押し黙った。
しばらくして、突然、榊原は、携帯を指でなぞると耳に当てた。相手はすぐに出たようだ。
「もしもし、犬山か。その後どうなんだ。」
「連絡をお待ちしてました。例の件、高嶋方面本部長に相談して、秘密裏に金庫の指紋を採取しました。そのなかに、ゴム手袋のものと思われる指紋がありました。私も高嶋方面部長も、それがその警部のものだろうと。」
「敵もさるもの、と言うわけだ。」
「ええ、それより、高嶋方面部長に連絡なさったらいかがですか。きっと力になって下さると思います。高嶋方面部長も、連絡がないのを不思議がっていました。」
「ああ、分かっている。いずれそうするつもりだ。」
榊原も何度か電話したいという誘惑にかられた。しかし、父親の言葉に真実があるような気がしたのだ。父親はこう言った。
「お前とそのキャリアが親しいことばれているなら、そのキャリアの電話は盗聴されている。それはそのキャリアも納得ずくだ。キャリアってのは上の命令に逆らうことはない。いいか、頼るのは最後の最後だ。盗聴されてもかまわんというせっぱ詰まった時だ。」
ここはホテルの一室である。小野寺は着信履歴に残された番号を見ながら、もう一台の携帯でその番号を一つ一つ押してゆく。その番号から何度も掛かってきている。それに出れば、凡その位置がばれる。だからもう一台携帯を用意した。真夜中だというのに相手はすぐに出た。
「おい、巌だな。おい、そうだろう、返事をしろ。」
「ああ、そうだ。」
「何処にいる。と言っても答えるつもりはないってことは分かっている。しかし、とんでもないことをしてくれたもんだ。お前が二重スパイに成り下がっていたとは、想像だにしなかった。見下げ果てたやつだ。金かそれとも女か。」
「どっちでもない。それより、叔父さん、早く用件を言ってくれ。」
「本部が動き出した。それは分かっているな。これから携帯の番号を教える。そこに電話すれば本部の幹部が出る。」
ホテルのメモ帳に番号を書きなぐって電話を切った。
この叔父の影響でこの非合法の世界に入った。石田と幸子の仲を裂いたのはこの叔父だ。幸子の高校時代の恋人、杉村マコトと偶然飲み屋で知り合い、二人を再会させ、密かに写真を撮った。どうしても石田の存在がじゃまだったのだ。
そして、幸子の父親が素封家であることに目をつけ、叔父が財産分与の分け前に預かろうと、組織に相談を持ちかけた。当時はまだ本部が機能していなかったから、まさしくあの男が陰で動いたのだ。
あの男は遺産を幸子一人が相続するよう、福岡にいた幸子の父親と義兄を自動車事故に見せかけて殺した。叔父は、まさかそこまでやるとは思ってもみなかったようだ。その知らせがもたらされた時、叔父はがたがたと震えていた。それが今ではいっぱしのスパイ気取りだ。まったくお笑い種だった。
あの男はどんなに冷酷なことでも平然とやってのける。あの時のことを思い出すだけで怒りと屈辱で体が震えてくる。あの柏崎の別荘での惨事を引き起こした男だ。しかし、小野寺は、叔父の指示に従った。妻、幸子名義の資産を売却し、北にせっせと送金してきた。それが使命だと思っていたからだ。
が、はたして、その金が祖国のため、人民のために使われたのだろうか。今となっては全く無駄だったと思う。むしろこうして南の韓国に与した自分の判断は正しかったとさえ思える。たとえ脅迫されたという経緯があったとしてもである。
その日の昼、小野寺が約束通り13時に電話すると、石田は妙な場所を待ち合わせに指定してきた。板橋の健康ランドの駐車場である。不審に思ったが、石田が罠にはめるはずもない。目当ての車はすぐに見つかった。
石田一人かと思っていたが、屈強な男三人が雁首を揃えて待っていた。一瞬嵌められたかと思った。三人のうち二人はどう見ても素人には見えなかったからだ。とっさに身を翻そうとする小野寺に、禿げの大男が大きな声を発した。
「小野寺さんよ。ワシ等は晴美さんを助けたいだけだ。あんたをどうこうしようなんて、これっぽっちも考えていない。」
振り返るってみると、禿げの大男のゲジゲジ眉は真っ白だった。相好を崩した顔は、最初に出迎えた時の険しい印象とはうって変わって人の良い老爺のものだ。小野寺はゆっくりと車に入っていった。
榊原と名乗った男のことは知っていた。幸子の家の電話を盗聴していたからだ。一人の女性を巡る不思議な人間関係がそこに出現した。幸子に対する苦い思い、榊原に対する嫉妬、石田に対する後ろめたさ。
榊原は、学生時代から幸子と晴美を良く知っているらしく、石田同様、晴美を救い出したいという意欲に燃えている。しかし、幸子のことに触れるたびに妙に視線が揺れる。小野寺とまともに目を合わそうとしない。苦い思いを噛み殺した。
榊原は元刑事だと言った。元と言うのは、いろいろ事情があってと口を濁していたが、禿の親父が口を挟んだ。
「あんたは新聞を読んでいないのか。同僚二人を撃ち殺して逃げている刑事がいるだろう。あれがこいつだ。」
榊原は顔を真っ赤にして親父を怒鳴った。
「親父、いい加減にしろよ。そんなこと話してどうする。」
榊原は小野寺に向直って、言い訳した。
「小野寺さん、確かにワシは警察に追われている。だけど聞いてくれ。あれは嵌められたんだ。二人を撃った奴は他にいる。そいつがワシの拳銃を持ち出した。」
小野寺が遮った。
「榊原さん、その話も詳しく話してくれませんか。と言うより、これまでのことを全部聞かせて下さい。」
親父のだみ声が響いた。
「そうだ、お互いに知っていることを話すとしよう。」
狭い空間に男四人が車座に移動し、額を寄せ合った。
執拗な質問を繰り返す榊原とその親父はさすがに刑事だけのことはある。うんざりさせられたが、自分が小野寺であることと、ダブルスパイだということだけは認め、組織の実態については口をつぐんで秘密を守ることにした。
晴美に関することは全て話した。そして、今、置かれている状況、組織との接触の方法、用意できる武器、要するに晴美を救い出すための話だけに絞った。石田はしつこく死んだ妹のことを尋ねてきたが、今はそれどころではないと突っぱねた。
しかし、いずれ話すと約束せざるを得なかった。それがあの少女の最後を見送った人間の最低限の責務だろう。小野寺の態度は三人にとっては不満のようだったが、それはしかたのないことなのだ。小野寺はあくまでも反日で動いてきた人間だし、日本人が大嫌いなのだから。
話し合いの内容は、今に至る両者の状況を付き合せ、突破口を見出すことだ。そして曙光が見え始めたのは、話し始めて7時間ほどたった頃だ。みなそのアイディアに飛び付いた。そして作戦が練られたのだ。
小野寺が電話を掛けたのは一晩あけた翌日の昼過ぎである。相手は、叔父が電話するよう指示していた本部の幹部だ。彼はすぐに出た。駒込の叔父から連絡がいっているのだ。名前を言うと、すぐにどすの利いた声を響かせた。
「随分と用心しているじゃねえか、小野寺。お前が掛けているのは公衆電話だな。」
「ああ、逆探知でもされたら大変だからな。」
「馬鹿言え、警察じゃあるまいし、そんな芸当が出来るか。そうそう、今回の俺のコードネームはお前にあやかってモンスターってことにしよう。このコードネームは俺にこそ相応しい。これから俺をそう呼ぶんだ、いいな。ところで、用件はわかっているな。」
「さあ、何のことかさっぱり分からん、モンスター殿。これでいいか。」
「ああ、それでいい。」
「ところで、用件というのはどういうことだ?」
「前があの葛飾のマンションで殺した部下が、直前に大変な情報を俺に伝えてきた。すぐに精鋭部隊を送ったが、到着したときにはお前は逃走したあとだった。あそこでお前を捕らえていれば、こんな面倒なことにはならなかったはずだ。慙愧の極みだ。」
「岡山が何かしら情報を漏らしたってわけだ。」
最近、岡山の動きがおかしかった。おそらくUSBメモリー解読の秘密を、小野寺が知っていると思い始めていたのだ。ダブルスパイの小野寺にとって、それは命を守るための保険のような物だったが、晴海のためにはそれを交換条件にするしかないと覚悟を決めた。その秘密は今も肌身離さず持っている。
「分かった、いいだろう。それと晴美と交換ということにしよう」
「よし!そうこなくっちゃいけねえ。とにかく娘は大切に扱っている。安心しろ。」
小野寺が吠えた。
「俺を甘く見るな。お前等は慎吾君を殺しただろう。俺はブツを死体と交換するつもりはない。晴海が生きてるという証拠をみせろ。」
「さっきも言ったが、娘は大切に扱っている。それにあれは事故だった。あの青年は、次の工作船が着いたら北に送るつもりだった。しかし奴は逃げようとした。そして慌てた見張りが思わず刺したということだ。殺すつもりはなかったんだ。」
「ブツは間違いなく渡す。だが、それは晴美が生きているってことを確認してからだ。三日後に電話する。テープでも何でもいい。晴海の声を聞かせろ。そしたら交換場所を指示する。」
「交換場所を指示するだと、ふざけるな。おい、娘を預かっているのはこっちだぞ。いいか、良く聞け。交換場所に娘を連れてゆく。望遠鏡でも何でも用意して娘の生存は確認しろ。もし、死体だったら近付かなければいい。」
「駄目だ、モンスター。お前等のやり方は心得ている。本部が動けばどれだけの人数を集められるか知っている。場所はこっちが指定する。」
「娘がどうなってもいいのか、おい、どうなんだ。おい、返事をしろ、返事を。」
小野寺は何も答えない。しびれを切らしたのはモンスターの方だ。
「ちっ、食えねえ野郎だ。分かった、お前の心配の種を取り除いてやる。こうしようじゃねえか。取引は昼間、街中の喫茶店だ。そうだ渋谷がいい。俺達だってそんな所で暴れたり、まして発砲したりはしない。」
「そんな所にのこのこ出かけるほど、俺は甘ちゃんじゃない。いいか、娘が生きているという証拠だ。よく聞け、娘の声で自分が無事だというメッセージだ。その声を録音しておけ。三日後にまた電話する。それを聞けば、そちらの指示に従ってもいい。」
「分かったよ。ブツさえ手に入れば、こっちは何もいらない。お前の命も、娘の命もだ。ただし、ブツが偽物だったら、ただじゃあ置かねえ、分かっているな。」
「ノートパソコンでも用意しておけ。そうすればその場で確認できる。そうそう、その道のプロも同席させたらいい。」
「よし、分かった。三日後だな。娘の生存の証拠は声を録音すればいいんだな。」
「ああ、声を聞けば信用しよう。」
「だが、俺達には時間がない。三日後の朝10時に電話をくれ。そして取引は、その日の午後3時。」
「分かったよ、モンスター。10時に電話する。」
小野寺にとって思いのほか有利な取引である。よほどブツが欲しいということだろう。ブツのことは三人にしつこく聞かれたが、話さなかった。三人はヤクに関することだと勘違いしたようだ。そう思わせておけばよいのである。
ウエムラレディースクレジットは豊島区役所近くの雑居ビル5Fにあった。飯島はそこの専務だが、その実態は北朝鮮スパイだ。小野寺は飯島の顔と名前は知っていたが、その所在や日常については知らなかった。
榊原が飯島の名前を出し、二人の刑事殺しに触れた時、小野寺はある男を思い出した。20年前、和代を襲った男達の中にもその男はいた。叔父からも何度かその名を聞いた。北で訓練をうけた本物のスパイだ。彼が動く時は、本部が動く。
その男が、榊原警部補を陥れるのに大きな役割を担ったことは間違いない。ということは今回も動く可能性が強いということだ。まして和代との因縁も深い。互いが知っている男が同一人物だと気付くのに多少の時間を要したが、分かってしまえば対策は立てやすい。
今回の事件でも、飯島が中心的な役割を担うとすれば、彼を見張ることにより、何かが見えてくるはずである。そのためには時間が必要だった。だからこそ晴美の肉声を求めた。その間、飯島の動きを探る。これが皆が飛び付いたアイディアである。
飯島は東陽町駅前のマンションから車で事務所に向かった。三人の男は二台の車を用意していた。シボレーで何度も振り切られたという坂本警部の話を思い出したからだ。しかし、一日目、飯島は自宅と事務所の往復で車を使っただけだ。
二日目の午後三時、飯島は事務所を出て、向かいの通りの喫茶店に出かけた。そこで太った男から小さな金属製の物を受け取った。親父は車を置き、飯島を追って喫茶店に入ったのだが、それが小型テープレコーダのようだったと後に語っている。榊原と石田は飯島に接触したその男の後を追った。
小野寺は川口のビジネスホテルの一室に閉じこもっていた。どこに行ってもスパイの目が光っている。相当数の人員が動員されて写真片手に蠢いている。奴等も必死だ。しかし、この三日の間で、榊原達が状況を一変することだってあり得る。それを待つしかない。
ウイスキーを流し込み、まどろんだ。あの光景が網膜に浮かび上がってくる。砂浜を散歩する少女がいた。朝6時を回った頃だ。松林の中に建つ建物の中から、男達が少女を眺めていた。突然、飯島が言った。
「おい、お前等、あの女をここに連れてこい。」
お前等と呼ばれたのは3人の少年だ。15、6歳で北朝鮮から日本語研修に派遣されていた。語学の天才ということで、三人とも英語、ドイツ語、フランス語を自在に操った。小野寺はこの少年達の日本語の発音を徹底的に矯正するのが仕事だった。
飯島は三人を国際的なスパイに育てるといきまいていた。そう言う飯島も英語を流暢に話すところをみると、自分の果たせなかった夢を三人に賭けていると当時は思っていた。飯島は、空いている時間を空手や武器の使用法など、スパイの実践技術を徹底的に叩き込んでいた。
そんな飯島の言葉は命令に等しかった。三人は顔を見合わせ、頷き合った。そして躊躇することなく建物を出て、松林に潜みながら少女に近づいていった。小野寺は呆然と三人の少年達の後姿をみていた。
少女は男達に何度も陵辱された。少年たちの欲望は果てしなかった。小野寺は目をつぶるしかなかった。日本人はもっとひどい事をしてきたのだ。それこそ何万倍もの規模で。小野寺は手を出さなかったが、べそをかく少女を労わった。そして、こう言い聞かせた。
「君と同じ不幸は、かつて朝鮮の地で毎日のように繰り返された。多くの女子供が犠牲になったんだ。君は一ヶ月後、我が祖国に送られることになっている。そこで、自分の親達が成したことの罪滅ぼしをするんだ。」
少女は地下室に押し込められていた。警察が何度も訪ねて来たし、付近の捜索さえ行われたが、地下室があることは誰も気付かなかった。別荘で過ごす、会社社長とその弟、その弟の友人二人、そして社長付きの運転手が小野寺の役回りだった。
その役割を自然に演じることが出来るほど3人のスパイの卵は、日本語が巧みだった。流行語も上手に喋った。相当の訓練を積んで送り込まれていたのだ。みな利発そのもので、すばしこかった。その中でも社長の弟を演じた少年は語学も格闘技も群を抜いており、飯島のお気に入りだった。
彼は三人のリーダー格で、明るく振舞っているが、その目には冷酷な光りを宿していた。和代に対して惨い扱いをしており、憎んでいるようにさえ見えた。小野寺は彼を何度か、無抵抗の女に手荒なことをするなと、たしなめた。
しかし、少年の心には日本人に対する深い憎悪が宿っていた。口でたしなめても、少年は隙をみつけては和代をいたぶっていたのだ。少女は精神的に参っていた。少年は和代が同じ年頃だからこそ、憎悪を膨れさせたのかもしれない。
小野寺は見ていられず、とうとう拳で少年を殴り付けた。その時である。突然、飯島が駆け寄り、拳銃で小野寺の顔面を殴りつけたのである。小野寺はどっと後ろに倒れ、しばらく気を失っていた。そして意識を取り戻した時、目の前には飯島が仁王立ちになり、小野寺の眉間に拳銃を向けていた。二人はにらみ合った。飯島が口を開いた。
「舐めた真似をしやがって、貴様は何様のつもりだ。革命に私情は禁物だ。目的達成には手段を選ばぬ冷酷さが必要なんだ。こいつ等にはそれがある。」
そう言うと、それまでの小野寺の傍若無人を罵り、それが日本在住の期間が長く、朝鮮人のあるべき姿を失った結果だと糾弾した。そして飯島がこう叫んだのだ。
「やっちまえ、その小娘を殺せ。それが、祖国に対する忠誠の証だ。小野寺にはそれが欠けている。お前等の根性と決意を小野寺に見せてやれ。」
あの少年が即座に反応した。和代は事態の急変に恐れおののき小野寺にすがるような視線を向けた。驚愕に目を見開く二人の瞳と瞳が一瞬結ばれた。その刹那、二人の視線を遮るように少年が和代に馬乗りになった。
「止めろー、止めるんだ」
二人の少年が抵抗する和代の手と足を押さえた。
「和代ー、和代ー」
小野寺が和代の名前を叫んだ時、飯島が何か口走りながら銃を振り下ろした。側頭部に衝撃が走り、昏倒した。
意識を取り戻すと、和代も飯島も誰もいなくなっていた。和代の遺体を捨てに行ったのだと気づいた。その時、すがるような視線を向ける和代を思い出し、悔恨と絶望が心を鋭くえぐった。和代の名を何度も叫んだ。涙が血と混じり、頬を伝う。何が真実なのか分からなくなった。朝鮮民族万歳、革命万歳。少年達の行為は正に小野寺が少年時代から思い描いてきたことだった。朝鮮民族の敵を殺せ。しかし、頬を濡らす涙はそんな思いを押し流すようにあふれ出た。
小野寺はぶるぶると震えていた。死の恐怖がそうさせるのだ。飯島という男の冷酷さを知り尽くしているからだ。その男と渡り合わなければならない。
ふと、懐かしい声が聞こえた。耳を澄ませた。あの弱弱しい声が微かに聞こえてきた。
「小野寺さんも、、、、して。」
少女はそう言うと、小野寺の手をとり自分の小さな胸に導いた。それは少女が殺される前の日の出来事だった。小野寺はゆっくりと、小さな肩を抱き寄せ、唇を重ねた。和代の閉じた瞼が震えている。小野寺は時を越え少女を抱きしめた。そして呟くように言った。
「ごめんよ、和代。俺はあの時、君を助けたかった。でも何も出来なかった。」
日本人には珍しい薄茶色の瞳は優しい光りを帯びて小野寺を見詰める。
「和代、俺は、きっと晴美を救い出す。必ずだ。たとえ、死んでも構わない。」
そう思った時、ふとあることに気付いて、頬がゆるんだ。そうだった
のか。恐怖と苦渋の思いが徐々に恍惚へと変容し、そして、後頭部から体の芯をゆっくりと下りてゆく。また呟いた。
「もしそうなったら、俺は和代と同じ世界に行けるってことだ。今度こそ、君のそばにいて、君を守ってあげられる。こんどこそ。」
酔いが眠りを誘う。唯一、心の平安を取り戻せる時、小野寺はそれを待っていた。
その翌日の昼過ぎのことである。たまたま犬山は高田馬場で所用を終え、駅の改札に入ろうとしていた。その時、入れ違いに出て行こうとする男の顔を見るともなく見た。男は犬山に何の注意も払わなかったが、犬山は思わず振り返って男の後姿を凝視した。
男は尾久駅前のマンションにいた男達のうちの一人に良く似ていた。犬山は踵を返すと男の後を追った。男はつけられているとも知らずに軽やかに歩いて行く。犬山は気付かれぬよう二三人の背中に隠れるようにしながらそ知らぬ振りで後に続く。
男は駅前のパチンコ屋に入っていった。犬山はパチンコ屋の入り口を通り過ぎ立ち止まると、ポケットから煙草を取り出し火をつける。吸い終わると、ゆっくりと歩いて店の入り口に立った。自動ドアが開き、ジャラジャラという喧騒の中に一歩足を踏み入れた。
男はすぐ右の一番手前に座って玉を弾いている。犬山は三列後方に席をとり、男の台からはみ出た右足を見詰めた。犬山は懐具合を考え、1000円で止めにして外に出て待つことにした。出そうもない台で、男に付き合っていたら直ぐに万札が消えたであろう。
30分ほどで男は出てきた。そうとうにすったのだろう、不機嫌そうな顔でそれと分かる。その顔を真正面から見てあのマンションにいた男だと確信した。男はタクシーを止め乗り込んだ。犬山は慌てて通りを渡りタクシーを捜したが見当たらない。
幸い30メートル先の信号で止まった。後ろを見ると一台のタクシーが角を曲がり通りに現れた。犬山は大きく手を振りタクシーの到着を待った。信号が青に変わり男の乗った車が滑り出す。少し遅れて犬山もタクシーに乗り込み、運転手に言った。
「警察の者だ。3台前にタクシーがいるだろう。アレを追ってくれ。」
この運転手は、ぶすっとしたたまスタートさせる。犬山はちらりと運転手を見やり、拍子抜けして前かがみになった姿勢を戻した。もう少し驚いてくれてもよさそうなのだが、何の興味も示さない。しかたなく前方を走るタクシーを睨みつける。
犬山は警視庁捜査二課の刑事である。贈収賄や企業がらみの犯罪を主に担当してきた。そうした事件には、相手を追い詰めてゆくための地味な作業があるだけで、この一月の間に味わったような身の危険を感じるような緊迫感はない。それが犬山を興奮させていた。
男の乗ったタクシーは交差点で左折した。しばらく行って再び左折し、新目白通を直進する。タクシーの運転手が間延びした声で聞いた。
「あんた本当に刑事さん?」
「当たり前だ。嘘を言ってもしかたがないだろう。」
「いや、最近多いんですよ。どうも探偵らしいんですけど、刑事って言えばこっちが必死で協力したり、無理をしてくれるって思っているんです。つい調子に乗って事故起こしちゃったこともありますから。」
犬山は胸から警察手帳を出して前に突き出した。運転手は振り向くいてそれに手を添えて目の前にもってこようとしている。動転して犬山が叫んだ。
「おい、おい、前を見ろ、前を向いて運転しろ。」
運転手は漸く納得したらしく、
「奴は何をしたんです。おっと山手通を右折しましたぜ。」
などといって右折車線に入ろうとして、横から割り込もうとした車をクラクションを鳴らして蹴散らした。信号が変わり、ようやく右折すると既に男の乗ったタクシーは何台もの車が間に入っているが、見失うほどではない。
「ちょっと追い越しをかけてみましょうか。」
「いや、大丈夫だろう。そうだ、連絡をしておかなければいかん。」
この手柄を高嶋方面本部長に知らせておかなければならない。高嶋の携帯に電話をいれた。
ちらちらと運転手がバックミラーで様子を窺う。高嶋が出た。犬山は運転手に聞こえるように大声で言った。
「犬山です。例の、尾久の男達の一人を追跡中です。もしかしたら奴らのアジトが分かるかもしれません。」
「本当か、そいつはよくやった。くれぐれも注意しろ。拳銃は持っているのか。」
「いえ、拳銃は携帯していません。大丈夫です。アジトさえ確かめられれば応援を頼みますから。」
運転手が叫んだ。
「旦那、奴が要町の交差点で降りますぜ。」
「奴がタクシーを降りました。こちらもタクシーをすてて追跡します。また連絡します。」
「分かった。成果を期待してるぞ。榊原警部補の無実を証明できるかもしれん。私は待機して、連絡を待つ。」
千円札を握らせ、タクシーを降りると全速力で駆け出した。男が路地に消えたからだ。路地まで駆けつけ見ると、男が携帯を耳に当てながら左に折れるところだ。犬山はゆっくりと曲がり角まで近付いた。塀の横から顔を覗かせると、男は倉庫のような建物の敷地に入ってゆく。しばらく息を殺して待った。十秒数えて建物前まで移動した。
コンクリート三階建ての建物がそこにあった。二階三階の窓は全て閉ざされている。左手にアルミニウムのドアが半開きになっている。そこから男は中に入ったに違いない。しかし、これ以上近づくのは危険だ。応援を頼むことにした。
その時、いきなり太い腕が首に巻き付き、こめかみに冷たい金属が当てられた。拳銃だった。振り解こうとするがなまじっかの力ではない。男の強い息がうなじにかかる。相手も必死である。押し殺したような声が響いた。
「薄汚い犬が。俺達を甘く見やがって。生きて帰れると思うなよ。」
犬山は一瞬にして力が抜けた。坂本警部、瀬川巡査部長の顔が思い浮かんだ。後悔の念が渦巻き、あの場所であの男と出会ってしまった運命を呪った。がくがくと膝が鳴った。体の震えが止まらない。男の言う通り、生きては帰れないと悟った。
そのままの姿勢で階段をあがっていった。男が回した腕をほどき、拳銃を向けたまま、鉄製の扉を開く。男は何が可笑しいのか鼻で笑っている。
「さあ、中に入るんだ。」
ドアノブを握ったまま銃口を振った。犬山は頭が朦朧としていた。おずおずとドアの内側へと入っていった。涙が止めどなく流れた。死にたくなかった。まだ子供は小さいし、女房を愛していた。
かくかくと歩を進めた。鉄の扉が後ろで閉まった。薄暗い部屋に一人の男が立っていた。涙でよく見えない。涙を絞りその男に焦点を当てた。その男が誰であるか分かった時、犬山のこの現実が理解できなかった。さらに確かめようと手の甲で涙を拭った。
男は後ろ手に持っていた拳銃を一瞬のうちに構えた。次の瞬間、その銃口から犬山の額に一直線に弾が走った。死の瞬間、犬山の脳裏に疑問が渦巻いた。
「高嶋方面本部長が奴等の仲間?何故?」
疑問は疑問のまま虚空に留まった。犬山の額から飛び散ったどろどろとの液体がその疑問を空(くう)に放出したのだが、今、それはコンクリートの床を赤黒く染めて行く。
石田の説明を聞いて、親父が叫ぶ。榊原が考え込んでいたが、吐き出すように言葉を発した。
「うるせえんだよ、親父。ちょっと黙っててくれよ。頭を整理してんだから。」
石田が口を開いた。
「恐らく、あの男は小野寺だ。幸子の旦那の小野寺に違いない。きっとそうだ。あの男は晴美と呼び捨てにした。ごく自然にだ。晴海は父親が自分を嫌っていたと言ったが、違う。俺も最初に会った時、晴美に見出したのは、和代の面影だ。目元がそっくりだった。薄茶色の瞳もよく似ていた。小野寺は、それに耐えられなかったんだ。」
親父が口を開いた。
「そうかもしれん。小野寺は、20年前、和代さんを助けようとしたが、それが出来なかったと言ったんだろう。小野寺の心にあるのは、人間としての良心の疼きだ。」
「ええ、和代が電話するとしたら、晴美を愛している人で、助けだせる可能性のある人だ。和代は小野寺の良心に訴えたんだ。」
それまで黙っていた榊原が叫んだ。
「分かったぞ、てっことは、小野寺がモンスターなんだ。小野寺だからこそ晴美の恋人、慎吾君の携帯の番号だって知っていたんだ。」
榊原は和代が石田に電話してきたという事実を既に認めているようだ。霊的な話を常に避けてきた榊原にしては珍しい。石田は、微笑みながら言った。
「そうだ、その通りだ。榊原、お前の疑問が漸く解けたようだな。いくら探偵でも慎吾君の携帯番号を調べるなんて出来っこない。」
「そうだ、小野寺は、一度、慎吾君の危機を救っている。アパートの部屋に戻るなと警告しているんだからな。それに拉致した組織のことも知っている。そうでなければ、助ける算段なんてあるわけない。しかし、小野寺はその組織とどういう関係なんだろう。」
二人のやり取りを聞いていた親父が重々しく頷きながら口を開いた。
「小野寺は、晴美さんや慎吾君を拉致した男達と同じ世界の人間だ。闇の世界で生きてきたんだ。恐らく、その組織の人間だろう。だから慎吾君は拉致された。慎吾君が裏切り者であるモンスターの声を知っていたからだ。」
二人が親父の顔を見た。榊原がうめくように言った。
「そうか、慎吾君はモンスターの正体を割り出すために拉致されたのか。しかし、裏切り者を探すという目的のためだけで誘拐という犯罪を引き起こすなんて考えられんが。」
親父が蔑むような視線を榊原に向けて言う。
「スパイの世界とはそういうものだ。だからこそ、小野寺は相手の怖さを知っていた。知っているからこそ、死を覚悟せざるを得ない。お前は刑事畑しか知らない。ワシは公安も知っている。スパイの世界は冷酷だ。つまらぬ利害の不一致が死をもたらす。」
榊原がすっとんきょな声をあげた。
「スパイだって、なんてこと言い出すんだ、親父。ヤクザの世界だよ。スパイなんかじゃない。北朝鮮ルートのヤクがらみの事件だ。」
「いや、これは公安事件だ。確かにヤクザやヤクが絡んでるのも事実だ。しかし、もっと冷酷な感じがするし、組織だっている。簡単に考えるのは危ない。小野寺は、恐らくその世界を知っているんだ。最初からそんな匂いがしていた。石田君、覚悟を決めよう。」
「ええ、はなからそのつもりです。」
「よし、やろう。ワシも燃えてきた。死に場所が見つかった。おい、成人。弱虫、成人。お前はどうなんだ。」
「馬鹿にするな、俺だって警官だ。その覚悟なくして警官になったりはしない。」
「よし、明日の13時。小野寺から電話がかかってくるのを待とう。」
石田が、ふと思い付いて榊原に聞いた。
「しかし、モンスターと慎吾君のやり取りを知っているのは限られている。その組織に情報を漏らしたのは誰なんだろう。」
「そう、知っているのはごく限られている。まず、死んだ二人、瀬川と坂本。だが、彼等から情報が漏れたとは考えられない。そして、高嶋本面部長と、その指示で例のCDの中身を調べた公安課長、そして製薬会社を調べている捜査二課長。この三人だ。公安課長は、警察庁のキャリア、捜査二課長は警視庁の生え抜きだ。」
親父が口を挟んだ。
「馬鹿か、お前は。その三人とは限らんだろう。課長だって自分で捜査するわけじゃない。部下を動かす。その三人以外にも何人かに伝わったはずだ。お前が顔の確認を怠った警部にもだ。」
榊原はぷーっと膨れて、何か反論しようとしたが、大きく息を吐いて押し黙った。
しばらくして、突然、榊原は、携帯を指でなぞると耳に当てた。相手はすぐに出たようだ。
「もしもし、犬山か。その後どうなんだ。」
「連絡をお待ちしてました。例の件、高嶋方面本部長に相談して、秘密裏に金庫の指紋を採取しました。そのなかに、ゴム手袋のものと思われる指紋がありました。私も高嶋方面部長も、それがその警部のものだろうと。」
「敵もさるもの、と言うわけだ。」
「ええ、それより、高嶋方面部長に連絡なさったらいかがですか。きっと力になって下さると思います。高嶋方面部長も、連絡がないのを不思議がっていました。」
「ああ、分かっている。いずれそうするつもりだ。」
榊原も何度か電話したいという誘惑にかられた。しかし、父親の言葉に真実があるような気がしたのだ。父親はこう言った。
「お前とそのキャリアが親しいことばれているなら、そのキャリアの電話は盗聴されている。それはそのキャリアも納得ずくだ。キャリアってのは上の命令に逆らうことはない。いいか、頼るのは最後の最後だ。盗聴されてもかまわんというせっぱ詰まった時だ。」
ここはホテルの一室である。小野寺は着信履歴に残された番号を見ながら、もう一台の携帯でその番号を一つ一つ押してゆく。その番号から何度も掛かってきている。それに出れば、凡その位置がばれる。だからもう一台携帯を用意した。真夜中だというのに相手はすぐに出た。
「おい、巌だな。おい、そうだろう、返事をしろ。」
「ああ、そうだ。」
「何処にいる。と言っても答えるつもりはないってことは分かっている。しかし、とんでもないことをしてくれたもんだ。お前が二重スパイに成り下がっていたとは、想像だにしなかった。見下げ果てたやつだ。金かそれとも女か。」
「どっちでもない。それより、叔父さん、早く用件を言ってくれ。」
「本部が動き出した。それは分かっているな。これから携帯の番号を教える。そこに電話すれば本部の幹部が出る。」
ホテルのメモ帳に番号を書きなぐって電話を切った。
この叔父の影響でこの非合法の世界に入った。石田と幸子の仲を裂いたのはこの叔父だ。幸子の高校時代の恋人、杉村マコトと偶然飲み屋で知り合い、二人を再会させ、密かに写真を撮った。どうしても石田の存在がじゃまだったのだ。
そして、幸子の父親が素封家であることに目をつけ、叔父が財産分与の分け前に預かろうと、組織に相談を持ちかけた。当時はまだ本部が機能していなかったから、まさしくあの男が陰で動いたのだ。
あの男は遺産を幸子一人が相続するよう、福岡にいた幸子の父親と義兄を自動車事故に見せかけて殺した。叔父は、まさかそこまでやるとは思ってもみなかったようだ。その知らせがもたらされた時、叔父はがたがたと震えていた。それが今ではいっぱしのスパイ気取りだ。まったくお笑い種だった。
あの男はどんなに冷酷なことでも平然とやってのける。あの時のことを思い出すだけで怒りと屈辱で体が震えてくる。あの柏崎の別荘での惨事を引き起こした男だ。しかし、小野寺は、叔父の指示に従った。妻、幸子名義の資産を売却し、北にせっせと送金してきた。それが使命だと思っていたからだ。
が、はたして、その金が祖国のため、人民のために使われたのだろうか。今となっては全く無駄だったと思う。むしろこうして南の韓国に与した自分の判断は正しかったとさえ思える。たとえ脅迫されたという経緯があったとしてもである。
その日の昼、小野寺が約束通り13時に電話すると、石田は妙な場所を待ち合わせに指定してきた。板橋の健康ランドの駐車場である。不審に思ったが、石田が罠にはめるはずもない。目当ての車はすぐに見つかった。
石田一人かと思っていたが、屈強な男三人が雁首を揃えて待っていた。一瞬嵌められたかと思った。三人のうち二人はどう見ても素人には見えなかったからだ。とっさに身を翻そうとする小野寺に、禿げの大男が大きな声を発した。
「小野寺さんよ。ワシ等は晴美さんを助けたいだけだ。あんたをどうこうしようなんて、これっぽっちも考えていない。」
振り返るってみると、禿げの大男のゲジゲジ眉は真っ白だった。相好を崩した顔は、最初に出迎えた時の険しい印象とはうって変わって人の良い老爺のものだ。小野寺はゆっくりと車に入っていった。
榊原と名乗った男のことは知っていた。幸子の家の電話を盗聴していたからだ。一人の女性を巡る不思議な人間関係がそこに出現した。幸子に対する苦い思い、榊原に対する嫉妬、石田に対する後ろめたさ。
榊原は、学生時代から幸子と晴美を良く知っているらしく、石田同様、晴美を救い出したいという意欲に燃えている。しかし、幸子のことに触れるたびに妙に視線が揺れる。小野寺とまともに目を合わそうとしない。苦い思いを噛み殺した。
榊原は元刑事だと言った。元と言うのは、いろいろ事情があってと口を濁していたが、禿の親父が口を挟んだ。
「あんたは新聞を読んでいないのか。同僚二人を撃ち殺して逃げている刑事がいるだろう。あれがこいつだ。」
榊原は顔を真っ赤にして親父を怒鳴った。
「親父、いい加減にしろよ。そんなこと話してどうする。」
榊原は小野寺に向直って、言い訳した。
「小野寺さん、確かにワシは警察に追われている。だけど聞いてくれ。あれは嵌められたんだ。二人を撃った奴は他にいる。そいつがワシの拳銃を持ち出した。」
小野寺が遮った。
「榊原さん、その話も詳しく話してくれませんか。と言うより、これまでのことを全部聞かせて下さい。」
親父のだみ声が響いた。
「そうだ、お互いに知っていることを話すとしよう。」
狭い空間に男四人が車座に移動し、額を寄せ合った。
執拗な質問を繰り返す榊原とその親父はさすがに刑事だけのことはある。うんざりさせられたが、自分が小野寺であることと、ダブルスパイだということだけは認め、組織の実態については口をつぐんで秘密を守ることにした。
晴美に関することは全て話した。そして、今、置かれている状況、組織との接触の方法、用意できる武器、要するに晴美を救い出すための話だけに絞った。石田はしつこく死んだ妹のことを尋ねてきたが、今はそれどころではないと突っぱねた。
しかし、いずれ話すと約束せざるを得なかった。それがあの少女の最後を見送った人間の最低限の責務だろう。小野寺の態度は三人にとっては不満のようだったが、それはしかたのないことなのだ。小野寺はあくまでも反日で動いてきた人間だし、日本人が大嫌いなのだから。
話し合いの内容は、今に至る両者の状況を付き合せ、突破口を見出すことだ。そして曙光が見え始めたのは、話し始めて7時間ほどたった頃だ。みなそのアイディアに飛び付いた。そして作戦が練られたのだ。
小野寺が電話を掛けたのは一晩あけた翌日の昼過ぎである。相手は、叔父が電話するよう指示していた本部の幹部だ。彼はすぐに出た。駒込の叔父から連絡がいっているのだ。名前を言うと、すぐにどすの利いた声を響かせた。
「随分と用心しているじゃねえか、小野寺。お前が掛けているのは公衆電話だな。」
「ああ、逆探知でもされたら大変だからな。」
「馬鹿言え、警察じゃあるまいし、そんな芸当が出来るか。そうそう、今回の俺のコードネームはお前にあやかってモンスターってことにしよう。このコードネームは俺にこそ相応しい。これから俺をそう呼ぶんだ、いいな。ところで、用件はわかっているな。」
「さあ、何のことかさっぱり分からん、モンスター殿。これでいいか。」
「ああ、それでいい。」
「ところで、用件というのはどういうことだ?」
「前があの葛飾のマンションで殺した部下が、直前に大変な情報を俺に伝えてきた。すぐに精鋭部隊を送ったが、到着したときにはお前は逃走したあとだった。あそこでお前を捕らえていれば、こんな面倒なことにはならなかったはずだ。慙愧の極みだ。」
「岡山が何かしら情報を漏らしたってわけだ。」
最近、岡山の動きがおかしかった。おそらくUSBメモリー解読の秘密を、小野寺が知っていると思い始めていたのだ。ダブルスパイの小野寺にとって、それは命を守るための保険のような物だったが、晴海のためにはそれを交換条件にするしかないと覚悟を決めた。その秘密は今も肌身離さず持っている。
「分かった、いいだろう。それと晴美と交換ということにしよう」
「よし!そうこなくっちゃいけねえ。とにかく娘は大切に扱っている。安心しろ。」
小野寺が吠えた。
「俺を甘く見るな。お前等は慎吾君を殺しただろう。俺はブツを死体と交換するつもりはない。晴海が生きてるという証拠をみせろ。」
「さっきも言ったが、娘は大切に扱っている。それにあれは事故だった。あの青年は、次の工作船が着いたら北に送るつもりだった。しかし奴は逃げようとした。そして慌てた見張りが思わず刺したということだ。殺すつもりはなかったんだ。」
「ブツは間違いなく渡す。だが、それは晴美が生きているってことを確認してからだ。三日後に電話する。テープでも何でもいい。晴海の声を聞かせろ。そしたら交換場所を指示する。」
「交換場所を指示するだと、ふざけるな。おい、娘を預かっているのはこっちだぞ。いいか、良く聞け。交換場所に娘を連れてゆく。望遠鏡でも何でも用意して娘の生存は確認しろ。もし、死体だったら近付かなければいい。」
「駄目だ、モンスター。お前等のやり方は心得ている。本部が動けばどれだけの人数を集められるか知っている。場所はこっちが指定する。」
「娘がどうなってもいいのか、おい、どうなんだ。おい、返事をしろ、返事を。」
小野寺は何も答えない。しびれを切らしたのはモンスターの方だ。
「ちっ、食えねえ野郎だ。分かった、お前の心配の種を取り除いてやる。こうしようじゃねえか。取引は昼間、街中の喫茶店だ。そうだ渋谷がいい。俺達だってそんな所で暴れたり、まして発砲したりはしない。」
「そんな所にのこのこ出かけるほど、俺は甘ちゃんじゃない。いいか、娘が生きているという証拠だ。よく聞け、娘の声で自分が無事だというメッセージだ。その声を録音しておけ。三日後にまた電話する。それを聞けば、そちらの指示に従ってもいい。」
「分かったよ。ブツさえ手に入れば、こっちは何もいらない。お前の命も、娘の命もだ。ただし、ブツが偽物だったら、ただじゃあ置かねえ、分かっているな。」
「ノートパソコンでも用意しておけ。そうすればその場で確認できる。そうそう、その道のプロも同席させたらいい。」
「よし、分かった。三日後だな。娘の生存の証拠は声を録音すればいいんだな。」
「ああ、声を聞けば信用しよう。」
「だが、俺達には時間がない。三日後の朝10時に電話をくれ。そして取引は、その日の午後3時。」
「分かったよ、モンスター。10時に電話する。」
小野寺にとって思いのほか有利な取引である。よほどブツが欲しいということだろう。ブツのことは三人にしつこく聞かれたが、話さなかった。三人はヤクに関することだと勘違いしたようだ。そう思わせておけばよいのである。
ウエムラレディースクレジットは豊島区役所近くの雑居ビル5Fにあった。飯島はそこの専務だが、その実態は北朝鮮スパイだ。小野寺は飯島の顔と名前は知っていたが、その所在や日常については知らなかった。
榊原が飯島の名前を出し、二人の刑事殺しに触れた時、小野寺はある男を思い出した。20年前、和代を襲った男達の中にもその男はいた。叔父からも何度かその名を聞いた。北で訓練をうけた本物のスパイだ。彼が動く時は、本部が動く。
その男が、榊原警部補を陥れるのに大きな役割を担ったことは間違いない。ということは今回も動く可能性が強いということだ。まして和代との因縁も深い。互いが知っている男が同一人物だと気付くのに多少の時間を要したが、分かってしまえば対策は立てやすい。
今回の事件でも、飯島が中心的な役割を担うとすれば、彼を見張ることにより、何かが見えてくるはずである。そのためには時間が必要だった。だからこそ晴美の肉声を求めた。その間、飯島の動きを探る。これが皆が飛び付いたアイディアである。
飯島は東陽町駅前のマンションから車で事務所に向かった。三人の男は二台の車を用意していた。シボレーで何度も振り切られたという坂本警部の話を思い出したからだ。しかし、一日目、飯島は自宅と事務所の往復で車を使っただけだ。
二日目の午後三時、飯島は事務所を出て、向かいの通りの喫茶店に出かけた。そこで太った男から小さな金属製の物を受け取った。親父は車を置き、飯島を追って喫茶店に入ったのだが、それが小型テープレコーダのようだったと後に語っている。榊原と石田は飯島に接触したその男の後を追った。
小野寺は川口のビジネスホテルの一室に閉じこもっていた。どこに行ってもスパイの目が光っている。相当数の人員が動員されて写真片手に蠢いている。奴等も必死だ。しかし、この三日の間で、榊原達が状況を一変することだってあり得る。それを待つしかない。
ウイスキーを流し込み、まどろんだ。あの光景が網膜に浮かび上がってくる。砂浜を散歩する少女がいた。朝6時を回った頃だ。松林の中に建つ建物の中から、男達が少女を眺めていた。突然、飯島が言った。
「おい、お前等、あの女をここに連れてこい。」
お前等と呼ばれたのは3人の少年だ。15、6歳で北朝鮮から日本語研修に派遣されていた。語学の天才ということで、三人とも英語、ドイツ語、フランス語を自在に操った。小野寺はこの少年達の日本語の発音を徹底的に矯正するのが仕事だった。
飯島は三人を国際的なスパイに育てるといきまいていた。そう言う飯島も英語を流暢に話すところをみると、自分の果たせなかった夢を三人に賭けていると当時は思っていた。飯島は、空いている時間を空手や武器の使用法など、スパイの実践技術を徹底的に叩き込んでいた。
そんな飯島の言葉は命令に等しかった。三人は顔を見合わせ、頷き合った。そして躊躇することなく建物を出て、松林に潜みながら少女に近づいていった。小野寺は呆然と三人の少年達の後姿をみていた。
少女は男達に何度も陵辱された。少年たちの欲望は果てしなかった。小野寺は目をつぶるしかなかった。日本人はもっとひどい事をしてきたのだ。それこそ何万倍もの規模で。小野寺は手を出さなかったが、べそをかく少女を労わった。そして、こう言い聞かせた。
「君と同じ不幸は、かつて朝鮮の地で毎日のように繰り返された。多くの女子供が犠牲になったんだ。君は一ヶ月後、我が祖国に送られることになっている。そこで、自分の親達が成したことの罪滅ぼしをするんだ。」
少女は地下室に押し込められていた。警察が何度も訪ねて来たし、付近の捜索さえ行われたが、地下室があることは誰も気付かなかった。別荘で過ごす、会社社長とその弟、その弟の友人二人、そして社長付きの運転手が小野寺の役回りだった。
その役割を自然に演じることが出来るほど3人のスパイの卵は、日本語が巧みだった。流行語も上手に喋った。相当の訓練を積んで送り込まれていたのだ。みな利発そのもので、すばしこかった。その中でも社長の弟を演じた少年は語学も格闘技も群を抜いており、飯島のお気に入りだった。
彼は三人のリーダー格で、明るく振舞っているが、その目には冷酷な光りを宿していた。和代に対して惨い扱いをしており、憎んでいるようにさえ見えた。小野寺は彼を何度か、無抵抗の女に手荒なことをするなと、たしなめた。
しかし、少年の心には日本人に対する深い憎悪が宿っていた。口でたしなめても、少年は隙をみつけては和代をいたぶっていたのだ。少女は精神的に参っていた。少年は和代が同じ年頃だからこそ、憎悪を膨れさせたのかもしれない。
小野寺は見ていられず、とうとう拳で少年を殴り付けた。その時である。突然、飯島が駆け寄り、拳銃で小野寺の顔面を殴りつけたのである。小野寺はどっと後ろに倒れ、しばらく気を失っていた。そして意識を取り戻した時、目の前には飯島が仁王立ちになり、小野寺の眉間に拳銃を向けていた。二人はにらみ合った。飯島が口を開いた。
「舐めた真似をしやがって、貴様は何様のつもりだ。革命に私情は禁物だ。目的達成には手段を選ばぬ冷酷さが必要なんだ。こいつ等にはそれがある。」
そう言うと、それまでの小野寺の傍若無人を罵り、それが日本在住の期間が長く、朝鮮人のあるべき姿を失った結果だと糾弾した。そして飯島がこう叫んだのだ。
「やっちまえ、その小娘を殺せ。それが、祖国に対する忠誠の証だ。小野寺にはそれが欠けている。お前等の根性と決意を小野寺に見せてやれ。」
あの少年が即座に反応した。和代は事態の急変に恐れおののき小野寺にすがるような視線を向けた。驚愕に目を見開く二人の瞳と瞳が一瞬結ばれた。その刹那、二人の視線を遮るように少年が和代に馬乗りになった。
「止めろー、止めるんだ」
二人の少年が抵抗する和代の手と足を押さえた。
「和代ー、和代ー」
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そう思った時、ふとあることに気付いて、頬がゆるんだ。そうだった
のか。恐怖と苦渋の思いが徐々に恍惚へと変容し、そして、後頭部から体の芯をゆっくりと下りてゆく。また呟いた。
「もしそうなったら、俺は和代と同じ世界に行けるってことだ。今度こそ、君のそばにいて、君を守ってあげられる。こんどこそ。」
酔いが眠りを誘う。唯一、心の平安を取り戻せる時、小野寺はそれを待っていた。
その翌日の昼過ぎのことである。たまたま犬山は高田馬場で所用を終え、駅の改札に入ろうとしていた。その時、入れ違いに出て行こうとする男の顔を見るともなく見た。男は犬山に何の注意も払わなかったが、犬山は思わず振り返って男の後姿を凝視した。
男は尾久駅前のマンションにいた男達のうちの一人に良く似ていた。犬山は踵を返すと男の後を追った。男はつけられているとも知らずに軽やかに歩いて行く。犬山は気付かれぬよう二三人の背中に隠れるようにしながらそ知らぬ振りで後に続く。
男は駅前のパチンコ屋に入っていった。犬山はパチンコ屋の入り口を通り過ぎ立ち止まると、ポケットから煙草を取り出し火をつける。吸い終わると、ゆっくりと歩いて店の入り口に立った。自動ドアが開き、ジャラジャラという喧騒の中に一歩足を踏み入れた。
男はすぐ右の一番手前に座って玉を弾いている。犬山は三列後方に席をとり、男の台からはみ出た右足を見詰めた。犬山は懐具合を考え、1000円で止めにして外に出て待つことにした。出そうもない台で、男に付き合っていたら直ぐに万札が消えたであろう。
30分ほどで男は出てきた。そうとうにすったのだろう、不機嫌そうな顔でそれと分かる。その顔を真正面から見てあのマンションにいた男だと確信した。男はタクシーを止め乗り込んだ。犬山は慌てて通りを渡りタクシーを捜したが見当たらない。
幸い30メートル先の信号で止まった。後ろを見ると一台のタクシーが角を曲がり通りに現れた。犬山は大きく手を振りタクシーの到着を待った。信号が青に変わり男の乗った車が滑り出す。少し遅れて犬山もタクシーに乗り込み、運転手に言った。
「警察の者だ。3台前にタクシーがいるだろう。アレを追ってくれ。」
この運転手は、ぶすっとしたたまスタートさせる。犬山はちらりと運転手を見やり、拍子抜けして前かがみになった姿勢を戻した。もう少し驚いてくれてもよさそうなのだが、何の興味も示さない。しかたなく前方を走るタクシーを睨みつける。
犬山は警視庁捜査二課の刑事である。贈収賄や企業がらみの犯罪を主に担当してきた。そうした事件には、相手を追い詰めてゆくための地味な作業があるだけで、この一月の間に味わったような身の危険を感じるような緊迫感はない。それが犬山を興奮させていた。
男の乗ったタクシーは交差点で左折した。しばらく行って再び左折し、新目白通を直進する。タクシーの運転手が間延びした声で聞いた。
「あんた本当に刑事さん?」
「当たり前だ。嘘を言ってもしかたがないだろう。」
「いや、最近多いんですよ。どうも探偵らしいんですけど、刑事って言えばこっちが必死で協力したり、無理をしてくれるって思っているんです。つい調子に乗って事故起こしちゃったこともありますから。」
犬山は胸から警察手帳を出して前に突き出した。運転手は振り向くいてそれに手を添えて目の前にもってこようとしている。動転して犬山が叫んだ。
「おい、おい、前を見ろ、前を向いて運転しろ。」
運転手は漸く納得したらしく、
「奴は何をしたんです。おっと山手通を右折しましたぜ。」
などといって右折車線に入ろうとして、横から割り込もうとした車をクラクションを鳴らして蹴散らした。信号が変わり、ようやく右折すると既に男の乗ったタクシーは何台もの車が間に入っているが、見失うほどではない。
「ちょっと追い越しをかけてみましょうか。」
「いや、大丈夫だろう。そうだ、連絡をしておかなければいかん。」
この手柄を高嶋方面本部長に知らせておかなければならない。高嶋の携帯に電話をいれた。
ちらちらと運転手がバックミラーで様子を窺う。高嶋が出た。犬山は運転手に聞こえるように大声で言った。
「犬山です。例の、尾久の男達の一人を追跡中です。もしかしたら奴らのアジトが分かるかもしれません。」
「本当か、そいつはよくやった。くれぐれも注意しろ。拳銃は持っているのか。」
「いえ、拳銃は携帯していません。大丈夫です。アジトさえ確かめられれば応援を頼みますから。」
運転手が叫んだ。
「旦那、奴が要町の交差点で降りますぜ。」
「奴がタクシーを降りました。こちらもタクシーをすてて追跡します。また連絡します。」
「分かった。成果を期待してるぞ。榊原警部補の無実を証明できるかもしれん。私は待機して、連絡を待つ。」
千円札を握らせ、タクシーを降りると全速力で駆け出した。男が路地に消えたからだ。路地まで駆けつけ見ると、男が携帯を耳に当てながら左に折れるところだ。犬山はゆっくりと曲がり角まで近付いた。塀の横から顔を覗かせると、男は倉庫のような建物の敷地に入ってゆく。しばらく息を殺して待った。十秒数えて建物前まで移動した。
コンクリート三階建ての建物がそこにあった。二階三階の窓は全て閉ざされている。左手にアルミニウムのドアが半開きになっている。そこから男は中に入ったに違いない。しかし、これ以上近づくのは危険だ。応援を頼むことにした。
その時、いきなり太い腕が首に巻き付き、こめかみに冷たい金属が当てられた。拳銃だった。振り解こうとするがなまじっかの力ではない。男の強い息がうなじにかかる。相手も必死である。押し殺したような声が響いた。
「薄汚い犬が。俺達を甘く見やがって。生きて帰れると思うなよ。」
犬山は一瞬にして力が抜けた。坂本警部、瀬川巡査部長の顔が思い浮かんだ。後悔の念が渦巻き、あの場所であの男と出会ってしまった運命を呪った。がくがくと膝が鳴った。体の震えが止まらない。男の言う通り、生きては帰れないと悟った。
そのままの姿勢で階段をあがっていった。男が回した腕をほどき、拳銃を向けたまま、鉄製の扉を開く。男は何が可笑しいのか鼻で笑っている。
「さあ、中に入るんだ。」
ドアノブを握ったまま銃口を振った。犬山は頭が朦朧としていた。おずおずとドアの内側へと入っていった。涙が止めどなく流れた。死にたくなかった。まだ子供は小さいし、女房を愛していた。
かくかくと歩を進めた。鉄の扉が後ろで閉まった。薄暗い部屋に一人の男が立っていた。涙でよく見えない。涙を絞りその男に焦点を当てた。その男が誰であるか分かった時、犬山のこの現実が理解できなかった。さらに確かめようと手の甲で涙を拭った。
男は後ろ手に持っていた拳銃を一瞬のうちに構えた。次の瞬間、その銃口から犬山の額に一直線に弾が走った。死の瞬間、犬山の脳裏に疑問が渦巻いた。
「高嶋方面本部長が奴等の仲間?何故?」
疑問は疑問のまま虚空に留まった。犬山の額から飛び散ったどろどろとの液体がその疑問を空(くう)に放出したのだが、今、それはコンクリートの床を赤黒く染めて行く。
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