シンクロニシティ

安藤 菊次郎

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第九章 共同戦線

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 榊原がキャリアである高嶋と親しくなったのは剣道を通してである。榊原は警視庁に入って初めて竹刀を握ったのだが、数年で上位有段者と互角に渡り合うようになり鼻高々だった。そんな榊原を不快に思う輩がいたとしてもおかしくはない。
 そんな折、高嶋と剣道場で初めて立ち会った。高嶋は6段、榊原は3段。あちこちで試合稽古の竹刀の音が止み、衆目が二人に集まった。高嶋の堂々とした構えには一分の隙もない。面金(めんがね)の間から鋭い眼光が榊原の目を射抜くように向けられていた。
 初心者の高慢な鼻柱をくじく役割を担っていたことは確かだった。榊原の打ち込みは日本拳法で培った足さばきを基本としているため、剣道とは多少異なる。それが意表を突くらしいことは分かっていた。

 榊原の最初の一撃は見事にかわされた。その動きの敏捷なことに驚かされたが、高嶋の繰り出す小手を返しざまに面を打つと、高嶋は「ほう」という声を発し、手ごたえのある相手を得た喜びに、満足そうに何度もうなずいた。この技は上段者の超高速の小手に応じるのは難しい。
 その直後から高嶋の矢継ぎ早の攻撃が始まった。負けじと榊原もやり返す。その激しさに周りが感嘆の声を上げたほどだ。しかし軍配は高嶋に上がった。体当たりを食って榊原は後ろに倒れたのだが、しばらく立ち上がれなかったのだ。高嶋の息は少しも乱れていなかった。「恐れ入谷の鬼子母神」と、喘ぎながら言うと、高嶋が手を差し伸べた。

 それ以来の付き合いだからキャリアとジャコという地位の差など一歩職場を離れればなくなってしまう。ここは、高嶋の指定した新宿のバーである。榊原はちらりとそのすっきりとした横顔に視線を走らせた。高嶋は一重瞼を閉じたまま口を開いた。
「榊原さんは常に意外性を求めている。そんな気がします。つまり、モンスターの話は作り話ということですか?」
 そう言って高嶋は水割りのグラスを傾けた。榊原はその指摘が自分をうまく言い当てていると思ったが、とりあえずそれには答えず、話を続けた。
「何故、モンスターの話がおかしいかと言うと、暴対法施行で昔からのシノギが難しくなっている。だからヤクザが民事に介入しているのは分かるが、だからって、ヤクザが情報ブローカーっていうのは今一つ頂けない。」
「しかし、奴らはありとあらゆるジャンルに触手を伸ばしている。情報ブローカーが存在してもおかしくはないと思うけど。」
「おかしくはないが、いまひとつピンとこない。ヤクザとパソコン、どうも今一だ。」
「では、モンスターは何故そんな嘘をついたんです。」
「それは分かりません。しかし、当たり障りのない説明ではある。素人にとって納得し易い話しだ。」
「しかし、そのメモリーはモンスターに郵送したと言ってましたよね?」
「ええ、本物は送り返しています。ただ、その青年は知り合いにその内容をメールで送っていたのです。そしてたまたまその知り合いというのが、私の旧来の友人だったというわけです。」
「その友人というのは?」
「まあ、それはいいじゃないですか。」
「分かりました。では、そのメモリーを公安の暗号解読チームに渡して調べてもらいます。」
「有難うございます。」
「ところで、話はかわりますが、榊原さんも、総務部長に思いきったことをおっしゃったみたいですね。」
ちらりと高嶋の横顔を一瞥した。いよいよ今日の呼び出しの核心に触れてきた。高嶋は小川総務部長から指示を受けて、榊原を呼び出したのだ。
「榊原さん、あなたとはごく親しくさせて頂いています。だから小川総務部長は僕に頼んだのだと思います。それに駒田のことは僕もよく知っています。大学の後輩です。ですから報復人事なんてことは絶対させません。」
「その話はやめてもらえませんか。ワシはお世話になった方を脅した。申し訳なく思っています。つい、かっとなって思いもしない言葉が衝いて出た。それだけのことなんです。他意はありません。」
「分かります、私だって駒田なんて男が自分の上司になると知ったら、全てを蹴飛ばしたくなりますよ。あいつは、エリート意識と権力意識に凝り固まっている。あんな奴がこの国の警察官僚のトップになろうとしているんだから厭になってしまう。」
「でも高嶋さんは、あいつの上司になるわけじゃないですか。」
「いや、もともと育ちが違う。私は母一人子一人の母子家庭で、あまり家庭環境は自慢できるものではない。だが、あいつはエリートの家系だし、強いコネクションを持っている。いずれ僕も早晩追いぬかされ、いつかは、あいつに尻尾を振るしかないのかもしれません。」
「つまり家柄やコネクションの方が実力より勝るというわけか。」
「ええ、その通りです。」
「つまり、最終的には駒田の報復人事を押さえるのは難しいと?」
「いいや、出来るとおもいます、少なくとも後輩は後輩ですから、何とか説得しますよ。ところで、榊原さん、榊原さんが小川総務部長を脅したネタは5年前に起こった上村組の事件でしょう。」
榊原は肩をすくめて答えた。
「何故そうお思いに?」
「捜査本部に入る前、榊原さんはある事件を追っていた。」
「だから?」
高嶋はそしらぬ素振りで続けた。
「あの事件の裏にはキャリアの問題が深く関わっていることは確かです。仲間を売ることになるかもしれませんが、それもしかたありません。応援しますよ。」
 榊原は一瞬虚を突かれ、ぽかんと口を開けて高嶋を見つめた。高嶋はキャリアの一員である。その高嶋が仲間を裏切ってもいいと言っているのだ。
「こいつは驚きだ。高嶋課長もキャリアじゃないですか。本気とは思えませんが。」
高嶋はにやりと笑みを浮かべると口を開いた。
「榊原さん、あの上村組の事件の直前に池袋署の磯田副所長が脳溢血で亡くなったのはご存知ですか。」
「ええ、香典を包んだ覚えがある。」
「そして、その死を脳溢血ではなく自殺じゃないかと言う者がいる。実は私はその磯田さんには大変世話になった。だからその噂を捨てては置けないのです。」
「しかし、それは単なる噂なんでしょう。」
「ええ、噂です。ですが、どうも気になることがあります。それは磯田さんの死の直後に坂本警部補が警部に昇進し、本庁に戻された。これをどう思います。」
「つまり、坂本はキャリアに関する不祥事の秘密を握っているということですか。そして、その秘密は磯田副所長の自殺に関係があると?」
高嶋は、ゆっくりと首を縦に振った。榊原が確認するような口調で聞いた。
「そして、高嶋課長はその不祥事を明るみに出しても良いと思っているんですね。」
「ええ、かまいません。ところであの事件について、榊原さんはどうなんです?ある程度、掴んでいるんですか。」
「ええ、或る程度は……。では、これだけはお話しておきましょう。その不祥事に関するDVDが存在します。何が映っているのかは分からない。恐らく、その中に、当時の池袋署の平山署長か或いは磯田副所長に関する何かが映っているのかもしれない。」
「それは知らなかった。しかし、上村組の事件は誰もが臭いものに蓋をしようとしている。それだけ明るみにだされては困る事件だということです。その事件にどっぷりと首を突っ込めば、まさに足をすくわれる恐れがある。ですから、ことは隠密裏に運びましょう。協力は惜しみません。」
榊原が頷いた。高嶋は口元を引き締め、手を差し伸べて言った。
「共同戦線成立ですね。」
榊原はその手を強く握り締めた。高嶋なら信頼に足る人物であることは確かだ。しかし、そのDVDを得るための秘策については話さなかったが、いずれ協力を頼まなければならない。
 榊原は高嶋と連れ立って店を出た。バーのマダムがエレベータまで送ってくれた。高嶋と出来ているのではないかといつも思うのだが、確信まで至っていない。香水の香り誘われ視線を向けると、流し目が榊原を通りすぎ高島に注がれている。高嶋はそれを無視してエレベータの中に消えた。



 上村組の事件は、榊原が石神井の捜査本部に詰める前まで、必死で追いかけていた事件である。OLの失踪とホステスの自殺に絡むもので、被疑者として組長の弟正敏が浮かび上がったが、いずれの事件でも正敏を挙げるには至らなかった。失踪したOLも自殺したホステスも正敏の元愛人である。
 ことの起こりは、顔に青痣を作ったOLが池袋署に保護を求め駆け込んだことから始まった。OLは一月ほど前に組長の弟、上村正敏と知り合って彼のマンションで暮らし始めた。フリーのジャーナリストという触込みで、最初はヤクザなどとは想像もしなかった。しかし、知らず知らずのうちに覚せい剤中毒になっているのに気付き逃げ出したのだ。
 この時、OLの対応に当たったのが池袋署のマル暴だった坂本警部補で、彼はただちに正敏を引っ張った。しかし薬物反応が出たのはOLだけで、正敏からは何の反応も出なかった。そして、彼はこう言い張ったのである。
「俺は、もしシャブを飲んだり打ったことがバレれば、たとえ組長の弟であってもそれなりの落とし前をつけなきゃなんねえ。そんな俺が、シャブを自分の女にジュースに入れて飲ませていたって? 馬鹿もやすみやすみ言えってえの。女がシャブをバッグにしのばせるしのばせているのを見つけて張り倒しただけだ。」
 二人の言い分は平行線のまま幕引きとなり、OLは群馬の実家に引き取られた。しかし、一月ほど後、OLは、前橋駅で友人と夜11時に別れて岐路に付いたのだが、家には辿り着かなかった。自宅近くの住民が深夜、女性の悲鳴を聞いている。

 榊原がビデオの存在にたどり付いたのは、もう一つの上村に絡む事件の継続捜査においてである。この事件は自殺として闇から闇に葬られたのだが、今一歩というところまで真相に肉薄した刑事がいたのである。
 それは坂本警部補の部下だった石井巡査部長である。事件から4年後、彼は奥多摩の山奥の駐在所勤務となっていた。榊原が休暇をとって、彼を訪ねたのは一昨年、新緑が目に沁みる季節だった。

「あんたが、榊原先生か。その先生が俺に何の用だ。」
挑むようなその目は濁っており、昨夜の深酒の名残だ。
「上村正敏を、いま少しのところまで追い詰めたのに、残念だったな。」
石井の死んだような瞳に一瞬輝きが戻ったかに見えたが、すぐに暗く沈んだ。新証言に辿り着いたのもつかぬま、その証人が消されてしまったのだ。ぽつりと漏らした。
「俺も甘かった。まさか病院に忍び込んで、自分の情婦を殺すなんて。彼女はシャブを断って更正しようとしていた。正敏って奴は本当に唾棄すべき男だ。」
と言って、目を潤ませた。石井はこの情婦から正敏が女を攻落するのに常にシャブを使用していたという証言を引き出していたのだ。
 しかし、いよいよ正敏を引っ張ろうとした矢先、女は病室で首を吊り死んでいたのである。自殺、他殺の線で捜査陣は揉めたが、これは榊原が想像だが、坂本の巧みな誘導に引きずられるかたちで自殺の線で落ち付いてしまった。
「坂本さんは本庁に戻されて警部に出世した。それに引き換え、君は何故ここにいるんだ。優秀な刑事だった男が。」
石井はじろりと榊原を睨み、言ったものだ。
「坂本先輩をとやかく言う人がいるのは知っている。しかし、坂本さんは、坂本さんなりの考えがあってやっているんだろう。俺はそこまでやる気がなかっただけだ。」
「そこまで、とは?」
ぷいと横を向いて呟くように言った。
「とにかく、話すことはない。帰ってくれ。」

 その日、榊原は民宿に宿をとった。出張費など出るはずもなく、もちろん自腹である。適当に嘘をついて休暇を取った。そして、翌日、翌々日も行ってみたが頑として口を開こうとしない。休暇の最終日の夕刻、ジャックダニエル二本を手に携え、にこにことして「明日は帰ろうと思うんだが、一人で飲むのも寂しくてな」と駐在所に入って行くと、
「あんたも、俺に似て頑固な人だな。」
と言って、裏の宿舎を指差した。先に行って寛いでいてくれと言う。榊原は内心小躍りして喜んだものだ。

 石井はなかなか真相を語ろうとはしなかったが、酔いが回ってくると、徐々に心の鬱積を吐き出すかのように語り出した。話はこうだ。池袋署の平山署長、磯田副署長が、ある時点から、何かに怯え始めた。上村組の追及にストップがかかったのはその直後だという。
 さらに、坂本警部補は大学の先輩である磯田副署長から相談を受け、上村組と交渉していたというのだ。その当時、坂本がちらりと「DVD」と言ったのを石井は覚えていた。何が映っているのかは想像もつかないと言う。

 また、酔った石井の口から漏れた言葉で、長年の疑問が氷解した。石井はこう言ったのである。
「あの週刊誌の記事覚えています?実はあれは俺が週刊誌に漏らしたんです。」
その週刊誌の記事とは、OL失踪と、上村が女を攻落するのに常にシャブを使用していたと言う新たな証言者の自殺には、上村組のある人物が関わっているという内容だった。
 この人物は、池袋署の平山署長の弱みを握り、それをネタに捜査に揺さぶりをかけたというのだから、どう考えても内部の人間にしか知り得ない内容を多く含んでいたのである。その告発者が目の前にいる石井だったのだ。
 しかし、ここで一つの大きな疑問が生じる。新たな証言者の居場所を誰が上村に流したかという疑問である。内部から情報が漏れたのは確かなのだが、榊原はそれが坂本警部補だと思っていた。しかし、石井はこれを一笑にふしたのだ。「それはありえない」のだそうだ。では誰が?

 石井も坂本警部補が事件後豹変したことは認めている。警察組織の中でも決して上に媚を売らず、ヤクザに対して毅然と接する姿は警官の見本ともいうべき男だった。その男があの事件に関わってから変わってしまったと。
 石井巡査部長の坂本警部補に対する人物評が甘すぎるとしか思えないが、少なくとも石井は馬鹿ではない。鋭い嗅覚を持っているのは確かだ。だとすると、新たな証言者の居所の情報を漏らしたのは磯田副所長ではないかと問うてみた。すると、こう答えた。
「榊原さん、平山署長、磯田副所長が何かに怯えはじめ、坂本さんが村上と交渉を始めたのは、新たな証言者が殺された後だ。それに、俺は坂本さんを今でも信じている。彼は不正を心から憎んでいる。俺の言えることはこれだけだ。」
榊原をじっと睨みすえ、そして視線をそらすと続けた。
「しかし、以前から感じていたんだが、上村組には強い力、例えば、政治家とか、警察権力とか、裏に付いていそうな気がするんだ。」
 この言葉には少し驚いて、意外な思いをしたことを今でも思い出す。石井はそれから数ヶ月後警視庁を去った。
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