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第十六章
破滅
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(一)
石井は意識を失っていた。数分なのか数秒なのか分からない。朦朧とした意識の中に男達の争う声が入り込んできた。覚醒するに従い体中がずきずきと痛み、呻き声を上げそうになったが、漸く堪え男達の声に耳を澄ませた。
「おい、重雄、何処に行こうってんだ。俺達はここでこの階の秘密を守るんだ。それが役目だ。持ち場を放棄しようってえのか。」
「いや、ちょっと……。」
「いや、ちょっとじゃねえよ、この馬鹿野郎。」
別のもう一人が怒鳴った。石井は薄目を開け、様子を窺った。茶髪の後姿が見える。仁王立ちしている。その前に坊主頭が重雄と呼ばれた男の襟首をつかんで、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
石井はすっと立ち上がった。仁王立ちした男の陰で、三人は気付かない。さっきのお返しとばかり、石井は茶髪の股間を後ろから思い切り蹴り上げた。茶髪は突然の激痛に悶絶した。はっとして坊主頭が重雄の襟首から手をはなし、石井に突進してくる。石井は引き下がらず前に出た。
拳が飛んでくる。当たっても構わない。そのくらいの気構えがなければこの技の効き目はない。拳が頬を打った。距離が狭められた分、ダメージは半減している。石井はそのまま頭から突っ込んだ。強烈な頭突きで坊主頭が後ろに吹っ飛んだ。
重雄の姿がない。屋上だ、エレベーターのボタンを押した。反応がない。いくらボタンを押しても一階からそれは動こうとしない。ロックされている。石井は廊下を走った。ドアがいくつもあるが全て鍵がかかっている。
廊下のはずれに非常階段があった。耳を澄ますと足音がする。重雄も屋上を目指しているのだ。石井も階段を駆け上がった。途中で小林刑事に電話を入れた。小林はすぐ出た。
「満は今屋上にいます。私も階段で向かっているところです。ところでそっちは随分騒々しいですね。」
「ああ、我々も満を追ってビルの地下に入ったところだが、信者達の抵抗にあっている。結構、強面がそろっている。」
「そんなことより、ヘリの用意は出来ているのですか。はあはあ。」
「ああ、大丈夫。すでにこっちに向かっている。」
「とにかく、早く屋上に来て下さい。はあはあ。」
(二)
地鳴りが止んだ。時折空をオレンジ色に染めていた発光がなりをひそめ、雲ひとつない秋空が広がっている。嵐の前の静けさか。杉田はいよいよかと身構えた。その刹那ぐらぐらっと揺れた。強い揺れで、ヘリの四つロータが大きく傾きギーギーと音をたてた。
戦慄が走った。満の手紙に書かれていた通り強烈な縦揺れだった。この後にくる巨大地震まで殆ど間がないと言う。満は間に合うのだろうか。手すりにしがみつき脚を踏ん張って耐えた。一分ほどで揺れはとまった。慌ててラジオをつけると、アナウンサーが今の地震について話している。
「いやー、凄い地震でしたね。モニターが飛んで床にはガラス片が散乱しています。恐らく震度6以上と思われますが、被害の状況など、これからお伝えしようと思います。」
杉田は苛苛しながら待った。次にもっと大きなのが来る。それが地面を1メートルも持ち上げるという巨大地震なのだ。血走った目で階段のドアを見つめた。そのドアが開いた。満と片桐が走ってくる。杉田は歓喜の声を上げた。
「間に合った、良かった、良かった。早く、早く。」
片桐がヘリのドアを開け、満を前の座席に座らせ、自分も操縦席についた。満が後ろを振り返って声を張り上げた。
「パパ、会いたかったよ。いったい何処に行っていたの。本当に長い出張だったね。」
その表情は何の屈託もなく無邪気な子供のそれで、まして声が子供の頃に戻っている。杉田は背筋に悪寒を感じながら、へどもどして答えた。
「ああ、ああ、長い出張だった。」
その時、片桐がエンジンをかけながら叫んだ。
「満さんの話では、邪魔が入って時間をとられたそうです。巨大地震まであと5分です。11時26分が運命の瞬間だそうです。」
ロータが唸りを上げ始めた。杉田が叫んだ。
「よし、飛びたて。」
ヘリは何度乗っても気持ちの落ち着かない乗り物だった。しかし、と杉田は思う。満の声が昔のそれに戻っている。かつて妻と満を名古屋の実家に残して東京に2年ほど単身赴任していた。そこで会社をクビになったのだが、確か満が声変わりする前だ。顔もその頃のように幼い印象を受ける。
突然、窓ガラスに人の顔がへばりついた。驚いて見ると重雄だ。何か叫んでいる。片桐が窓を開けて怒鳴りつける。轟音で何も聞こえない。片桐が胸から拳銃を取り出すのが見えた。青い煙が上がった。顔を血にそめた重雄が後ろに飛んだように見えた。いや、ヘリが飛び立ったのだ。
ヘリはホバリングしながら方向を変えた。その時、石井はようやく屋上にたどり着き、ヘリコプターのなかに五十嵐がいるのを認めた。石井は全力疾走でヘリに向かって駆けた。途中で若い男の死体が転がっていたが気にもしなかった。浮き上がる寸前、石井は着陸用のパイプに取り付いた。思いのほか太い、十分に握れない。
片手が離れた。もう終りかと思った。ふと見ると、ヘリは屋上のフェンスの上を通り過ぎようとしている。石井はそのフェンスを思い切り蹴って、パイプに両手両脚を巻きつけた。徐々に前方に移動し、交差するパイプに手を伸ばし、体を起した。
ヘリは思ったより大きい。ドアの取っ手をつかもうとするのだが、とても届かない。いろいろやってみたが体を支えるのがやっとのことだ。ふと眼下の光景を見て、尻の穴がむずむずして下半身が縮みあがった。石井は思い出した。高所恐怖症だったのだ。それに加え、刺すような冷気が体の体温を奪って行く。ヘリは高みへ高みへと上昇していった。
キャビンの中では、満が秒読みを始めていた。
「39、38、36、35、・・・」
杉田と片桐は息をひそめてその瞬間を待っていた。11時26分まで、あと
「30、29、28・・・・・・・」
この数年、彼等を恐怖のどん底へと陥れた最悪のシナリオが今現実になろうとしていた。じっと眼下を見詰めた。ビルと言うビルが倒壊し、ついで襲う大津波、生き残るのは僅かな人々だけだ。そしてその僅かな人々に自分が選ばれているのだ。恐怖と恍惚、戦慄と歓喜、奇妙に交錯する感情をもてあましていた。満の声も興奮してきている。
「7,6,5,4,3,2,1、ゼロ」
杉田と片桐は息を殺し、何事も見逃すまいと眼下を凝視した。その瞬間、満が歓喜に満ちた叫び声をあげた。あのしわがれ声だ。
「やったぞ、やったー。あれを見ろ。ビルというビルが崩れてゆく。街が波打っているのが分かるだろう。どうだ、俺の言ったとおりだ。そうだろう。わっはっはっは」
二人は必死で目を凝らした。しかし何も起きてはいない。遠くにみえる新宿の高層ビル群も、眼下の街並みも何ごともなく、静かに佇んでいる。
杉田と片桐が呆然として顔を見合わせた。
しかし、二人には見えなくても、満には見えていた。何度も何度も夢に現れた未曾有の大破壊、満の復讐心を満たしてくれたあの日本沈没の序曲が始まっだ。満のしわがれた叫び声が響く。
「大竹清美、思い知ったか。俺はお前に救いの手を差し伸べた。しかし、お前はこの俺を警察に売った。バイタめ。お前の体はいまごろずたずたになって瓦礫の中に埋まってしまっただろう。ざま見ろ。渋谷で俺を馬鹿にした女達もしかりだ。」
満の吼える声は続く。杉田の顔が歪んだ。途方に暮れているような、泣き出しそうなその目は現実を見ようとはしていない。現実はあまりにも残酷すぎる。杉田は目を両手で覆い、大きな唸り声をあげた。片桐が左手で満の頬を打った。
「何も起こってはいない。大災害なんて起こってなんかいない。」
しわがれた声が轟く。
「お前には見えないのか。眼下で繰り広げられている地獄絵図が見えないのか?ほら五度目の大振動だ。見ろ、見ろ、あの東京都庁が崩れる、倒壊し始めた。」
満は歓喜の声を張り上げる。片桐はあんぐりと口を開けて満を見詰めた。
「こいつ、狂ってやがる。11時26分ってのは、自分が壊れる時間だってことか。」
そう呟くのがせいぜいだった。がくっと肩を落とした。こんな現実が待ち受けていようとは思いもしなかった。「なんてこった、なんてこった。」とつぶやき、次の瞬間、片桐は狂ったように笑い出した。
満の恨み節、杉田のうめき声、片桐の高笑い。その空間は狂気が支配していた。猿轡を噛まされた五十嵐は、狂気の嵐のなか、ただ目を見張るばかりだ。
暫くして片桐の高笑いが止んだ。操縦桿を握りながら後ろを振り返った。後部座席と格納スペースにぎっしりと積み込まれたありったけの食料と水。誰にも頼めず教祖と二人で運んだ。満の指示が性急過ぎて、十分に用意は出来なかったのだ。
これのために重雄を殺した。息子同様散々殴りはしたが、どこか捨ててきた息子の面影を求めていた。しかし重雄が自分達に加わろうとした時、無性に腹が立ったのだ。四人がようやく三月食いつなぐ程度の食料だったからだ。
ぎっしりと詰め込まれた食料、そこにどう紛れ込んだのか赤い靴下が一足垂れ下がっている。それが舌のように見え、まるで自分の浅ましさをあざ笑っているかのようだ。ぐったりとするような虚無、冷や汗が滲み出てきそうな羞恥、死んでしまいたかった。
突如、片桐の心にふつふつと怒りが沸き起こった。そして教祖を睨みつけながら叫んだ。
「おい、教祖さまよ、どうする警視庁のヘリが追ってくる。逃げ切れない。おい、どうするつもりだ。えっ、どうなんだ、教祖さまよ。」
教祖は頭を抱え、下をむいたまま顔をあげようとはしない。教祖の口からもう呻き声は聞こえない。絶望を吐き出し終えたのか。片桐は、頭を抱え込み、がたがたと体を震わせている教祖を憎憎しげに睨みすえた。片桐がまたも吼えた。
「こんな男のために、俺は人生を棒に振ったのか。こんなクズみたいな男のために。」
惨めさを怒りに変えて叫んだ。
「女房も子供も捨てた。こんな男のために。」
叫んでさらに惨めさが増した。理不尽な思いが拳を動かし、その拳は唾を飛ばして喚き続ける満を殴りつけた。満はそれでも狂ったように喚き続ける。狂気は伝染する。片桐が怒りを爆発させた。
「教祖様よ、どう始末をつけるつもりだ。えっ、どう責任をとるつもりなんだ。俺がけりをつけてやろうか。この胸の拳銃で。えっ、どうなんだ。その取澄ました顔に風穴をあけてやろうか。」
杉田がひょいと顔を上げた。その目は血走り、狂気と憤怒に満ちている。そして満に向かって突然叫んだ。
「貴様のせいだ。貴様が全ての元凶だー。」
いきなり後ろから満の首を絞めて強引に揺すった。満が喚きながら必死で抵抗する。杉田は右手で満の顔面を殴り始める。
「貴様が、貴様が、俺を破滅へと導いた。思い知れ、思い知れ、殺してやる。殺してやるんだ。いつかこうしようと思っていた。お前は俺の可愛い息子の体を乗っ取った。お前は俺から息子を奪ったんだ。何がペテロだ。貴様がペテロでないことなど最初から分かっていた。」
杉田はぐったりとした満を脇に押しやり、身を乗り出して前のロックを解除しドアを開けた。強烈な風がキャビンを吹き抜ける。両手で満の体を抱き起こし突風に晒した。
「何故、何故、お前は俺の前に現れた。お前のためにこんな現実に向き合うはめになった。殺しても飽き足らない。」
ぐったりとしていた満が目を開き、にやりと笑った。あのしわがれた声が響く。
「お前が、俺を呼んだ。あの日、会社をクビになった日、お前は絶望の淵で泣き喚いた。何とかしてくれってな。魂を売ってもいいって。だから俺が来てやった。俺を忘れたのか。あの世で一緒だった俺を。だからいい夢を見させてやった。お前は何もかも手に入れた。もう思い残すことはないだろう。」
一瞬、杉田の顔に怯えの色が走った。しかし怒りの方が優った。
「訳の分からないことを言いやがって、貴様など殺してやる。」
杉田は満のジャケットの襟首をつかみ、キャビンから落そうとする。満が振り返り叫ぶ。
「そうか、俺を殺すのか。それもいいだろう。あの世で待ってる。お前も早く来い。はっはっはっはっは」
「黙れ、黙れ、黙れー」
次の瞬間、満をキャビンから突き落とした。満の体が遠ざかる。すぐさま後方のドアを開けると、身を乗り出して落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん!」
杉田の視線の先、その足下に、うごめく人の姿があった。
「何でこんな処に? いったい誰だ貴様は?」
杉田の怒鳴り声は風圧でかき消された。
石井は意識を失っていた。数分なのか数秒なのか分からない。朦朧とした意識の中に男達の争う声が入り込んできた。覚醒するに従い体中がずきずきと痛み、呻き声を上げそうになったが、漸く堪え男達の声に耳を澄ませた。
「おい、重雄、何処に行こうってんだ。俺達はここでこの階の秘密を守るんだ。それが役目だ。持ち場を放棄しようってえのか。」
「いや、ちょっと……。」
「いや、ちょっとじゃねえよ、この馬鹿野郎。」
別のもう一人が怒鳴った。石井は薄目を開け、様子を窺った。茶髪の後姿が見える。仁王立ちしている。その前に坊主頭が重雄と呼ばれた男の襟首をつかんで、今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
石井はすっと立ち上がった。仁王立ちした男の陰で、三人は気付かない。さっきのお返しとばかり、石井は茶髪の股間を後ろから思い切り蹴り上げた。茶髪は突然の激痛に悶絶した。はっとして坊主頭が重雄の襟首から手をはなし、石井に突進してくる。石井は引き下がらず前に出た。
拳が飛んでくる。当たっても構わない。そのくらいの気構えがなければこの技の効き目はない。拳が頬を打った。距離が狭められた分、ダメージは半減している。石井はそのまま頭から突っ込んだ。強烈な頭突きで坊主頭が後ろに吹っ飛んだ。
重雄の姿がない。屋上だ、エレベーターのボタンを押した。反応がない。いくらボタンを押しても一階からそれは動こうとしない。ロックされている。石井は廊下を走った。ドアがいくつもあるが全て鍵がかかっている。
廊下のはずれに非常階段があった。耳を澄ますと足音がする。重雄も屋上を目指しているのだ。石井も階段を駆け上がった。途中で小林刑事に電話を入れた。小林はすぐ出た。
「満は今屋上にいます。私も階段で向かっているところです。ところでそっちは随分騒々しいですね。」
「ああ、我々も満を追ってビルの地下に入ったところだが、信者達の抵抗にあっている。結構、強面がそろっている。」
「そんなことより、ヘリの用意は出来ているのですか。はあはあ。」
「ああ、大丈夫。すでにこっちに向かっている。」
「とにかく、早く屋上に来て下さい。はあはあ。」
(二)
地鳴りが止んだ。時折空をオレンジ色に染めていた発光がなりをひそめ、雲ひとつない秋空が広がっている。嵐の前の静けさか。杉田はいよいよかと身構えた。その刹那ぐらぐらっと揺れた。強い揺れで、ヘリの四つロータが大きく傾きギーギーと音をたてた。
戦慄が走った。満の手紙に書かれていた通り強烈な縦揺れだった。この後にくる巨大地震まで殆ど間がないと言う。満は間に合うのだろうか。手すりにしがみつき脚を踏ん張って耐えた。一分ほどで揺れはとまった。慌ててラジオをつけると、アナウンサーが今の地震について話している。
「いやー、凄い地震でしたね。モニターが飛んで床にはガラス片が散乱しています。恐らく震度6以上と思われますが、被害の状況など、これからお伝えしようと思います。」
杉田は苛苛しながら待った。次にもっと大きなのが来る。それが地面を1メートルも持ち上げるという巨大地震なのだ。血走った目で階段のドアを見つめた。そのドアが開いた。満と片桐が走ってくる。杉田は歓喜の声を上げた。
「間に合った、良かった、良かった。早く、早く。」
片桐がヘリのドアを開け、満を前の座席に座らせ、自分も操縦席についた。満が後ろを振り返って声を張り上げた。
「パパ、会いたかったよ。いったい何処に行っていたの。本当に長い出張だったね。」
その表情は何の屈託もなく無邪気な子供のそれで、まして声が子供の頃に戻っている。杉田は背筋に悪寒を感じながら、へどもどして答えた。
「ああ、ああ、長い出張だった。」
その時、片桐がエンジンをかけながら叫んだ。
「満さんの話では、邪魔が入って時間をとられたそうです。巨大地震まであと5分です。11時26分が運命の瞬間だそうです。」
ロータが唸りを上げ始めた。杉田が叫んだ。
「よし、飛びたて。」
ヘリは何度乗っても気持ちの落ち着かない乗り物だった。しかし、と杉田は思う。満の声が昔のそれに戻っている。かつて妻と満を名古屋の実家に残して東京に2年ほど単身赴任していた。そこで会社をクビになったのだが、確か満が声変わりする前だ。顔もその頃のように幼い印象を受ける。
突然、窓ガラスに人の顔がへばりついた。驚いて見ると重雄だ。何か叫んでいる。片桐が窓を開けて怒鳴りつける。轟音で何も聞こえない。片桐が胸から拳銃を取り出すのが見えた。青い煙が上がった。顔を血にそめた重雄が後ろに飛んだように見えた。いや、ヘリが飛び立ったのだ。
ヘリはホバリングしながら方向を変えた。その時、石井はようやく屋上にたどり着き、ヘリコプターのなかに五十嵐がいるのを認めた。石井は全力疾走でヘリに向かって駆けた。途中で若い男の死体が転がっていたが気にもしなかった。浮き上がる寸前、石井は着陸用のパイプに取り付いた。思いのほか太い、十分に握れない。
片手が離れた。もう終りかと思った。ふと見ると、ヘリは屋上のフェンスの上を通り過ぎようとしている。石井はそのフェンスを思い切り蹴って、パイプに両手両脚を巻きつけた。徐々に前方に移動し、交差するパイプに手を伸ばし、体を起した。
ヘリは思ったより大きい。ドアの取っ手をつかもうとするのだが、とても届かない。いろいろやってみたが体を支えるのがやっとのことだ。ふと眼下の光景を見て、尻の穴がむずむずして下半身が縮みあがった。石井は思い出した。高所恐怖症だったのだ。それに加え、刺すような冷気が体の体温を奪って行く。ヘリは高みへ高みへと上昇していった。
キャビンの中では、満が秒読みを始めていた。
「39、38、36、35、・・・」
杉田と片桐は息をひそめてその瞬間を待っていた。11時26分まで、あと
「30、29、28・・・・・・・」
この数年、彼等を恐怖のどん底へと陥れた最悪のシナリオが今現実になろうとしていた。じっと眼下を見詰めた。ビルと言うビルが倒壊し、ついで襲う大津波、生き残るのは僅かな人々だけだ。そしてその僅かな人々に自分が選ばれているのだ。恐怖と恍惚、戦慄と歓喜、奇妙に交錯する感情をもてあましていた。満の声も興奮してきている。
「7,6,5,4,3,2,1、ゼロ」
杉田と片桐は息を殺し、何事も見逃すまいと眼下を凝視した。その瞬間、満が歓喜に満ちた叫び声をあげた。あのしわがれ声だ。
「やったぞ、やったー。あれを見ろ。ビルというビルが崩れてゆく。街が波打っているのが分かるだろう。どうだ、俺の言ったとおりだ。そうだろう。わっはっはっは」
二人は必死で目を凝らした。しかし何も起きてはいない。遠くにみえる新宿の高層ビル群も、眼下の街並みも何ごともなく、静かに佇んでいる。
杉田と片桐が呆然として顔を見合わせた。
しかし、二人には見えなくても、満には見えていた。何度も何度も夢に現れた未曾有の大破壊、満の復讐心を満たしてくれたあの日本沈没の序曲が始まっだ。満のしわがれた叫び声が響く。
「大竹清美、思い知ったか。俺はお前に救いの手を差し伸べた。しかし、お前はこの俺を警察に売った。バイタめ。お前の体はいまごろずたずたになって瓦礫の中に埋まってしまっただろう。ざま見ろ。渋谷で俺を馬鹿にした女達もしかりだ。」
満の吼える声は続く。杉田の顔が歪んだ。途方に暮れているような、泣き出しそうなその目は現実を見ようとはしていない。現実はあまりにも残酷すぎる。杉田は目を両手で覆い、大きな唸り声をあげた。片桐が左手で満の頬を打った。
「何も起こってはいない。大災害なんて起こってなんかいない。」
しわがれた声が轟く。
「お前には見えないのか。眼下で繰り広げられている地獄絵図が見えないのか?ほら五度目の大振動だ。見ろ、見ろ、あの東京都庁が崩れる、倒壊し始めた。」
満は歓喜の声を張り上げる。片桐はあんぐりと口を開けて満を見詰めた。
「こいつ、狂ってやがる。11時26分ってのは、自分が壊れる時間だってことか。」
そう呟くのがせいぜいだった。がくっと肩を落とした。こんな現実が待ち受けていようとは思いもしなかった。「なんてこった、なんてこった。」とつぶやき、次の瞬間、片桐は狂ったように笑い出した。
満の恨み節、杉田のうめき声、片桐の高笑い。その空間は狂気が支配していた。猿轡を噛まされた五十嵐は、狂気の嵐のなか、ただ目を見張るばかりだ。
暫くして片桐の高笑いが止んだ。操縦桿を握りながら後ろを振り返った。後部座席と格納スペースにぎっしりと積み込まれたありったけの食料と水。誰にも頼めず教祖と二人で運んだ。満の指示が性急過ぎて、十分に用意は出来なかったのだ。
これのために重雄を殺した。息子同様散々殴りはしたが、どこか捨ててきた息子の面影を求めていた。しかし重雄が自分達に加わろうとした時、無性に腹が立ったのだ。四人がようやく三月食いつなぐ程度の食料だったからだ。
ぎっしりと詰め込まれた食料、そこにどう紛れ込んだのか赤い靴下が一足垂れ下がっている。それが舌のように見え、まるで自分の浅ましさをあざ笑っているかのようだ。ぐったりとするような虚無、冷や汗が滲み出てきそうな羞恥、死んでしまいたかった。
突如、片桐の心にふつふつと怒りが沸き起こった。そして教祖を睨みつけながら叫んだ。
「おい、教祖さまよ、どうする警視庁のヘリが追ってくる。逃げ切れない。おい、どうするつもりだ。えっ、どうなんだ、教祖さまよ。」
教祖は頭を抱え、下をむいたまま顔をあげようとはしない。教祖の口からもう呻き声は聞こえない。絶望を吐き出し終えたのか。片桐は、頭を抱え込み、がたがたと体を震わせている教祖を憎憎しげに睨みすえた。片桐がまたも吼えた。
「こんな男のために、俺は人生を棒に振ったのか。こんなクズみたいな男のために。」
惨めさを怒りに変えて叫んだ。
「女房も子供も捨てた。こんな男のために。」
叫んでさらに惨めさが増した。理不尽な思いが拳を動かし、その拳は唾を飛ばして喚き続ける満を殴りつけた。満はそれでも狂ったように喚き続ける。狂気は伝染する。片桐が怒りを爆発させた。
「教祖様よ、どう始末をつけるつもりだ。えっ、どう責任をとるつもりなんだ。俺がけりをつけてやろうか。この胸の拳銃で。えっ、どうなんだ。その取澄ました顔に風穴をあけてやろうか。」
杉田がひょいと顔を上げた。その目は血走り、狂気と憤怒に満ちている。そして満に向かって突然叫んだ。
「貴様のせいだ。貴様が全ての元凶だー。」
いきなり後ろから満の首を絞めて強引に揺すった。満が喚きながら必死で抵抗する。杉田は右手で満の顔面を殴り始める。
「貴様が、貴様が、俺を破滅へと導いた。思い知れ、思い知れ、殺してやる。殺してやるんだ。いつかこうしようと思っていた。お前は俺の可愛い息子の体を乗っ取った。お前は俺から息子を奪ったんだ。何がペテロだ。貴様がペテロでないことなど最初から分かっていた。」
杉田はぐったりとした満を脇に押しやり、身を乗り出して前のロックを解除しドアを開けた。強烈な風がキャビンを吹き抜ける。両手で満の体を抱き起こし突風に晒した。
「何故、何故、お前は俺の前に現れた。お前のためにこんな現実に向き合うはめになった。殺しても飽き足らない。」
ぐったりとしていた満が目を開き、にやりと笑った。あのしわがれた声が響く。
「お前が、俺を呼んだ。あの日、会社をクビになった日、お前は絶望の淵で泣き喚いた。何とかしてくれってな。魂を売ってもいいって。だから俺が来てやった。俺を忘れたのか。あの世で一緒だった俺を。だからいい夢を見させてやった。お前は何もかも手に入れた。もう思い残すことはないだろう。」
一瞬、杉田の顔に怯えの色が走った。しかし怒りの方が優った。
「訳の分からないことを言いやがって、貴様など殺してやる。」
杉田は満のジャケットの襟首をつかみ、キャビンから落そうとする。満が振り返り叫ぶ。
「そうか、俺を殺すのか。それもいいだろう。あの世で待ってる。お前も早く来い。はっはっはっはっは」
「黙れ、黙れ、黙れー」
次の瞬間、満をキャビンから突き落とした。満の体が遠ざかる。すぐさま後方のドアを開けると、身を乗り出して落下してゆく満に向かって叫んだ。
「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん!」
杉田の視線の先、その足下に、うごめく人の姿があった。
「何でこんな処に? いったい誰だ貴様は?」
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