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第九話

王妃様に最も愛されている男1

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 ヴィンセント王国の空は、この日は朝から一面、鈍色の雲に覆われていた。
 雲に最も近いのは、王都の高台に立つヴィンセント城。
 その最上階に位置する国王執務室には、パラパラと書類を捲る音ばかりが響いていた。
 壁に掛かった時計が午後のお茶の時間を指すのも構わず、難しい顔をして書類を睨んでいるのは、記念すべき百代目のヴィンセント国王となって二年が経つ黒髪の青年、ウルである。
 その目の前に、ふいにコトリと音を立ててカップが置かれた。
 とたん、ウルは心底驚いたと言いたげに顔を上げる。
 
「お前が率先して俺に茶を淹れるなんて……雨でも降るんじゃないか? ケット」
「恐れながら、陛下――雨ならば、すでに降っております」

 日常的に、国王執務室で勝手にお茶を淹れて寛げるくらい面の皮の厚い守衛、ケット。
 その肩に、あらゆる可愛さを魔界に置いてきたような猫悪魔ドンロを張り付かせ、相変わらず絵面が強すぎる。
 ともあれ、そんな守衛の言葉にゆるりと窓に顔を向けたウルは、本当だ、と無感動に呟いた。
 どうりで、彼が書類を捲る手を止めてもパラパラと音が聞こえるはずである。
 いつの間にか降り出した雨の粒が、国王執務室の窓を叩いていた。

「全然気づかなかったな。いつから降っていたんだ……」

 そう呟きつつ、ウルの視線はすぐに書類に戻ってしまった。
 そのとたんである。

「――嘆かわしいっ!!」
「うわっ!?」

 ドンッ!! といきなり、ケットがグローブのように巨大な拳を執務机に叩きつけたのだ。
 歴代のヴィンセント国王が大事に大事に使ってきた、年代物の執務机の天板がメキョッと悲鳴を上げ、ケット自身が淹れたお茶が盛大に溢れる。
 ウルがせっかく築いた処理済みの書類の山は雪崩を起こし、未処理の書類と混ざっちゃったりなんかもした。

「ケットぉ! 何をするっ!!」

 ウルがそう抗議の声を上げるのは当然のことだろう。
 しかし、返ってきたのは不敬も恐れぬ鬼畜面。ついでに、ぬあー、という可愛さ皆無な猫悪魔の鳴き声。
 ケットは満身創痍の執務机の上に両手を突いて身を乗り出すと、その凶悪な顔面でもってウルに迫った。

「陛下は――とんだ腑抜けでいらっしゃる」
「は?」
「甲斐性なしの意地っ張りの唐変木でございます」
「いや、スラスラと悪口を並べたてるんじゃない」

 ウルはうんざりとした顔をしながらも、またもや書類に視線を戻す。
 雨が降ろうが、鬼畜面の守衛が机を壊そうが紅茶を溢そうが、書類をしっちゃかめっちゃかにされようが罵詈雑言吐きつけられようが、仕事を進める方が大事だったからだ。
 先代国王である父の名を持つ猫悪魔が、父とそっくりの目でじっと見つめてこようとも、ウルは書類から視線を外さない。
 ところが、ケットが次の言葉を口にしたとたん、今の今まで睨んでいた書類の内容が彼の頭から吹っ飛んでしまった。


「妃殿下が――マイリ様が、このまま城に戻ってこなくてもいいんですか!?」


 第百代ヴィンセント国王妃マイリは、二月ほど前に五歳の誕生日を迎えていた。
 そんな彼女の母アシェラが無事赤子を出産したとの知らせが届き、ウルと一緒にフェルデン公爵家に飛んで行ったのは、つい七日前の早朝のことである。
 ウルは多忙のため、その日の午後には城に戻ったが……

「あれから七日! 妃殿下がフェルデン公爵家から戻らないまま、七日が経ってしまったのでございますよ!?」
「おい、落ち着け……」
「時間にして百六十八時間! 一万八十分! 六十万四千八百秒――私は妃殿下に、かわゆいと言っていただけていないっ!!」
「いや、本当に落ち着け!?」
「だったら陛下が妃殿下の代わりに言ってくださるのですか? 私を! かわゆいと!?」
「そんな、心にもないことが言えるかっ!!」

 マイリ不足による禁断症状からか両目を血走らせて喚くケットに、ウルは口の端を引き攣らせる。
 それでも、こほんと一つ咳払いをして何とか気を取り直すと、ケットの壮絶な顔面を書類で阻んだ。
 そうして往生際悪く、もう一度初めから読み直そうとする。

「生まれたばかりの弟に夢中なんだろうよ。騒がずとも、気が済んだら帰ってく……」
「あまーい!!」

 ところが、突如真横から伸びてきた手に、ウルはついに書類を奪われてしまった。
 ケットのグローブのようなそれとは違い、随分とたおやかな手である。

「――おい、ソマリ! 書類を返せ……っというか、なぜお前までここにいるんだ!?」

 ヴィンセント王家の傍系ワニスファー公爵家の庶子として生まれ、かつて父の謀略の元、ウルを誘惑せしめんと素っ裸で国王夫妻のベッドに忍び込んだソマリだが、今や王妃専属お針子の地位を不動のものにしている。
 異世界ニホンなる国から転生してきたと主張する彼女は、不遇な人生は若き国王陛下に見初められることで報われると信じていた。
 それをウルに冷たく一蹴されて詰んだものの、捨てる神あれば拾う神あり。
 マイリのためにこの世界にはまたとない服を作るべく転生した、マイリに選ばれた特別な存在なのだと断言されて、ソマリは今世での存在意義を見出したのだった。
 よって、マイリのために服を作り、それを着た彼女を拝むことでしか、ソマリの承認欲求は満たされない。
 ウルから奪った書類を握りしめて、ケットの鬼畜面さえ可愛く見えるくらい壮絶な表情でもって彼女は叫んだ。

「今まで、私のマイリ様が七日も陛下の側を離れたことがありましたか! ありませんよね!?」
「お、おう……」
「前代未聞の異常事態でございます! それなのに、いったいいつまで手をこまねいているおつもりですか! この、すっとこどっこい!!」
「すっとこ、なんだって!?」

 とにかく、ケットもソマリも、おそらく猫悪魔ドンロも、マイリに会えないというだけで相当おかしくなってしまっている。
 
「たかが七日だろう。大袈裟なんだよ、お前達は……」

 鬼気迫る彼らの表情にたじたじとしながら、ウルはため息まじりに呟くも……

「「大袈裟なものですかっ!!」」

 ダンッ!! と同時に二人分の拳を叩き込まれた執務机が、今度こそバキッと音を立てた。
 ああ……と切ない声を上げるウルに、目を三角にしたケットとソマリが口々に言う。

「目の下にそんなにクマをお作りになって! どうせ、ろくに眠れてもいらっしゃらないんでしょうが!!」
「執務机に張り付いてばかりで、ろくに食事もなさらない! そんな陛下を、妃殿下がよしとなさると思うのですか!?」

 さらに、ぬあーっ! と猫悪魔にまで責めるみたいに鳴かれて、ウルは目を丸くした。
 そしてわずかな逡巡の後、おそるおそる問うのである。

「お前達、まさか……まさかとは思うが……俺のことを心配しているのか?」
「「……不本意ながら」」

 本当に、心底不本意そうな顔をしてケットとソマリが頷いた。
 ウルは、雨が降ると言いかけ、すでに降っていたことを思い出して口を噤む。

「……」
 
 彼はしばし呆然とした。
 この、国王を国王とも思わぬ不敬の権化達が心配せずにはいられないほど、自分は参っているように見えるのだろうか、と。

「……たかが、七日だぞ?」

 されど七日だ、と返してきたのは、ケットだったかソマリだったか、それとも今は亡き父の声か。
 マイリがいないと、仕事は手につかず、夜も眠れず、飯も喉を通らない、なんて冗談めかして言ったことがあった。
 まさか、本当にその通りになるだなんて――ウルは思ってもいなかったのだ。
 けれどもここで、はたと気づく。
 マイリがいないと困ると言ったウルに、

 ――まったくウルは、しょうがないやつめ! 安心せい! わらわはけして、ウルを一人にはせぬ!!

 また、マイリを持って帰ってしまおうかと言ったヴォルフ皇帝レベッカに、

 ――すまんな、レベッカ。ウルは寂しがり屋さんなのでな。わらわがそばにいてやらんとならんのじゃ。

 マイリはぷくぷくのほっぺをムニムニとウルのそれに擦り寄せて、そう言ったではないか。

「そうだ、そうだった……なぜ、俺は七日も気づかなかったんだ。いかに弟が可愛かろうとも、そんな理由だけでマイリが俺を一人にするはずがない」

 マイリは実に愛情深く、家族はもちろん、目の前の鬼畜面の守衛や言動の怪しいお針子、可愛さの欠片もない猫悪魔を含めて多くの者を愛しているが、ウルはその中で最も愛されている自信があった。
 そんなウルから、七日も離れてしまっているのだ。

「マイリは、帰らないんじゃない――きっと、何か帰れない理由があるんだ」

 ウルはそう、確信を持って呟いた。

「ですが、フェルデン公爵閣下もロッツ様も、普段と変わらず城に出勤なさっておられます。何か、フェルデン公爵家で問題が起こっているようには見えませんが……」
「ああ、俺も午前中の会議で同席したが、二人に変わった様子は見られなかった」

 ケットとウルがそう言い交わす中、そういえば、と書類を執務机に戻したソマリが口を開く。

「確か昨日だったと思うんですが……ロッツ様が、赤子の乳の飲みがよくないようなことを、侍女頭に相談していた気がします」
「赤子……あの、赤子か……」

 七日前の早朝に産声を上げた、小さな小さな義理の弟を思い出し、ウルは一瞬遠い目をする。
 祖父譲りの黒い髪と、姉マイリと同じ菫色をした赤子は、シトラと名付けられた。
 マイリと同じく、それはもう文句なしの愛らしい見た目をしていたが、中身は自称魔王。しかも、脳内に直接語りかけてくる声はおっさん、一人称は〝わし〟ときた。
 とにかく普通の赤子ではないあの弟が、マイリに無理難題を押し付けている可能性もなきにしもあらず。

「マイリが困っている姿なんぞ、まったくもって想像できないが……」

 ウルは苦笑いを浮かべてそう呟くと、ようやく椅子から立ち上がる。
 そうして、雨に濡れた窓を一瞥して言った。

「ケット、供をしろ。――フェルデン公爵家に行く」
「御意にございます」



 ところがである。



 この後、フェルデン公爵家に到着したウル達は思いも寄らないことを知らされる。
 なんと今まさに、フェルデン公爵家に賊が入っているというのだ。
 しかも、マイリと弟のシトラ、そして――


「――は? 大司祭!? コリン・ウォーレーも一緒に人質になっているだと!?」

 


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