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第五章 魔王の子とドラゴン族の姫
55話 フラグ回収
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時刻は間もなく午後十時を迎える。
魔王の寝室では、部屋の主であるギュスターヴとアヴィスが、ベッドに仲良く体を並べていた。
美貌の魔王とあどけなさを残す少女がベッドイン──これだけ聞くと、官能的なシーンが思い浮かぶだろうが……
「ギュスターヴ、不貞はいけないことだと思うのです」
「同感だな。お父さんもそう思う」
あいにく、彼らの間に色欲など一切存在しない。
散々渋った末、ようやくベッドに横になったアヴィスの背中を一定のリズムでトントンしながら、彼女の言葉にギュスターヴが頷く。
今宵はLED照明の一斉メンテナンスで魔界が真っ暗になると忠告されていたため、アヴィスを出歩かせないよう寝かしつけるのに必死なのだ。
「魔女の方は、ちゃんとクラーラに謝りましたよ。でも一番罪深いのは、クラーラとお母様を裏切ったドラゴン族の長です」
「そうだな。ちょん切るか?」
アヴィスは首の話だと思ったが、ギュスターヴの視線は下の方に向いている。
この日の夕暮れ時、一つ新しいスレが立った。
タイトルは、『旦那の股間が爆発した』
スレ主は、ワンオペシングルファーザー魔王を温かく迎え入れてくれた、あのボスママだ。
なお、888くんは3ゲットしていた。
「結局、クラーラのお母様はママ友グループに入ったのですか?」
「入ったな。さっそく魔女に慰謝料の請求をしている」
「まあ、逞しくていらっしゃいますね。仲裁しなくていいのです?」
「必要ない。魔女は言い値で払うだろうからな」
ふわわ、とアヴィスが大きくあくびをする。
この日は結局一日中町を歩き回った上、さまざまなハプニングに巻き込まれて疲れているのだろう。
ギュウスターヴはそんな彼女を、可愛くてたまらないと言いたげな顔をして見守っている。
アヴィスは瞼を重そうにしながら、憂いを帯びた声で続けた。
「クラーラのお母様は、族長の妻の矜持から気丈に振る舞っていらっしゃるのでしょうね……でも、きっと傷ついていると思うのです……」
「そうだな」
「影で……一人で、泣いていらっしゃるかも、しれません……ははの、ように……」
「……アヴィス?」
すとん、とアヴィスが眠りに落ちた。
彼女が残した意味深な言葉を、ギュスターヴは頭の中で転がす。
どうやら、ローゼオ侯爵家にも何やら問題があったようだが……
「どうでもいいか。アヴィスは、今はもう私の子だ」
ギュスターヴはそう呟き、アヴィスの伏せられた瞼にそっと口付けを落とす。
午後十時を回り、魔王も就寝の時刻となった。
*******
目が覚めますと、辺りは真っ暗闇でした。
けれども、それもわずかの間のこと。
闇には次第に目が慣れてくるものですが……
「なんだか、異様に夜目が利いているみたい」
今宵はいつになく、くっきりはっきり周囲の物が見えるような気がします。
なにしろ、隣でぐっすり眠るギュスターヴの、長いまつ毛の一本一本まで判別できるほどなのです。
時計の針もはっきりと確認することができました。
時刻は、ちょうど午前二時。
四時間も眠ったので、私の目はもうすっかり覚めてしまっております。
となると、いつまでもベッドにいるわけには参りません。
「ギュスターヴ、ちょっとお散歩してきますね」
今宵は月代わりのLED照明が一斉メンテナンスに入るため、真っ暗になるから出歩くな、とか何とか言われましたが……夜目が利くのですから、まったく問題ないですよね。
ギュスターヴは一度眠るとちょっとやそっとじゃ起きませんので、返事を待たずにベッドを抜け出します。
そうして、私は世界が一変していることに気づきました。
「すごく、音が聞こえる……」
魔王をはじめとする魔族の血肉でできた体なので、耳も人間の時のそれより敏いのですが……
「こんなに聞こえるの、初めて……」
草葉の陰で鳴く虫の声。
誰かのくしゃみ。
罵声。
独り言。
寝言。
嬌声。
普段は、この魔王の寝室まで届かないあらゆる音が、私の耳を賑やかしておりました。
「ふふっ、夜なのにうるさい」
何だか楽しい気分になった私は、意気揚々と魔王の寝室を飛び出します。
すると、扉の前に置かれていた猫ちぐらから、もそもそとヒヨコが這い出してきました。
「こんばんは、ヒヨコ。ちょっと出かけてきますね」
「……っ!?」
ヒヨコも今宵は出歩かないようギュスターヴに言いつけられていたため、私の宣言に驚いたようです。
さっさと歩いて行こうとするのを、慌てて追いかけてきた彼に後ろから抱き留められてしまいました。
ヒヨコはさらに、何かに気づいて驚いた様子で、私の頭をしきりに撫で始めます。
「……っ? ……っ!?」
「ヒヨコ、何ですか? くすぐったいです」
ヒヨコはひとしきり首を傾げますと、廊下の窓の前まで私を連れていきました。
彼に促されて、闇が透けて鏡のようになったそれを覗き込んだ私も、驚きます。
「まあ! これは……」
頭の上に、髪と同じ銀色の毛に覆われた三角の耳が立っていました。
「犬耳……いえ、狼の耳かしら?」
どうりで、よく聞こえるはずです。
考えられる要因としては、この体に人狼族の長ルーの血肉も入っていることでしょうか。
「でも、今になって突然現れたのだから、子狼に噛まれた影響かしら?」
もしくは、それらの相互作用によるものでしょうか。
とにかく……
「今夜の私、すごいのですよ、ヒヨコ。真っ暗なのに昼間みたいに見えますし、すごくよく音が聞こえるんです」
「……っ! ……っ!!」
ヒヨコはギュスターヴの寝室に戻るべきだと訴えているようですが、こんな面白いことになっているのに、寝ている場合ではありません。
私は手袋に包まれたヒヨコの両手を握り締めると、満面の笑みを浮かべて言いました。
「大丈夫ですよ。今宵は、私があなたの手を引いてあげますから。ね?」
「……っ」
こうして、私を引き止めるのを諦めたヒヨコを連れ、真っ暗闇の魔王城探検ツアーが始まりました。
ノエルもドリーも部屋にこもっているようですし、魔王城にはもともと守衛もおりませんので、私とヒヨコを見咎める者はありません。
その代わりと言っては何ですが、普段はあまり視界に入らない、低級な魔物が見受けられます。
人狼族の影響を受けているのなら、私もルーのように強くなっているかも。
そう考えて、闇に紛れてにじり寄ってきたスライムをモンコツ──骸骨門番の大腿骨で殴りつけてやりましたが……
「……戦闘力はゴミのままなんて、あんまりです」
殴っても殴っても復活してくるスライムは、ある程度目が慣れてきたヒヨコが蹴散らしてくれました。
そんな中……
「──何かしら、このにおい」
ふいに異臭を感じて、私は眉を顰めます。
くさい、というのではありません。
ただ、この世界にとって〝異物〟だという印象が強く、無視するのは憚られるにおいなのです。
そしてそれが、何の変哲もない壁の向こうからするのですから、これはもう怪しい。怪しすぎます。
この壁を開く鍵は、もしかして生体認証とかいうやつではありませんでしょうか。
そして、この城の主はギュスターヴなのですから、必要なのはおそらく彼の生体でしょう。
「でも、私の九割はあの人の血肉だといいますから……いけるのでは?」
結論から申し上げますと、いけました。
壁は、
『そうかなー? どうかなー? ちょーっと違うような気もするけどなー?』
という感じで悩んでおりましたが……
「細かいことはお気になさらず。さっさと開けてくださいな」
私がバンバンと叩いて急かしますと『ま、いっか』となったようです。
ふいに、壁に扉が浮かび上がってきたかと思ったら、勝手に取手が回りました。
音もなく開いた扉の向こうには、地下へと続く階段が伸びています。
私は意気揚々と足を踏み出そうとしましたが……
「……っ!!」
ヒヨコが、今までにないほど強い力で腕を掴んで引き止めてきました。
彼がそうせざるを得ないのも、わかります。
なにしろ、階段の先はそれこそ墨で塗り潰したように真っ黒で、軽い気持ちで足を踏み入れていい雰囲気ではないのですから。
それでも、件の異臭は間違いなく階段の先から漂ってきます。
私は、それの正体を見届けないわけにはいきませんでした。
「大丈夫ですよ、ヒヨコ。手を繋いでいきましょうね」
とは言いつつ……階段を下り始めてすぐ、私は後悔を覚えました。
廊下の闇の中では昼間のように見えていたため灯りは必要ありませんでしたが、地下の闇にはなかなか目が慣れてくれないのです。
足下など、階段どころか自分の足さえ見えません。
私は踏み外さないよう慎重に、一歩一歩確実に階段を下りていきました。
「あっ、ヒヨコ。あそこに、光がありますよ」
濃密な黒の中で心細そうに揺れていたのは、一本の蝋燭でした。
炎は麦の粒ほどの小ささでしたが、蝋燭自体は長く、朝がくるまでは灯っていそうです。
ここに続く扉を開けられるのはギュスターヴだけのようですから、蝋燭を灯したのも彼でしょう。
では、一体何のためにこんなところに、と思いかけたところで、私ははっと息を呑みました。
ヒヨコも体を強張らせ、双剣の柄に手をかけます。
蝋燭の向こうで、何かが蠢く気配がしたのです。
「誰か、いるのですか?」
おそるおそる問いかけますと、相手も息を呑んだようでした。
私の心の動揺を映したみたいに、蝋燭の炎がゆらゆらと大きく揺れ始めます。
その揺れは、何者かが口を開いたことでさらに激しくなりました。
「その声……まさか……アヴィス……?」
私の名前を紡いだ男の声に、聞き覚えはありません。
ですが、炎が大きくなったことで浮かび上がったその顔には、見覚えがありました。
「あ、あなた、は……」
一月半前、グリュン王国の城内大広間にて執り行われていた、国王陛下の即位二十周年を祝うパーティー。
その最中、第一王子エミールに毒入りのワインを手渡した、あの給仕の顔です。
そして、その給仕の正体は……
「天使──私を殺した、天使だわ──!」
私の激情に煽られるように、炎が凄まじい勢いで燃え上がります。
それによって照らし出された神の御使いは、左の翼をズタズタに引き裂かれたおりました。
「ア、アヴィス……アヴィス……」
ヒヨコが双剣を抜き放ち、私を背中に庇います。
天使は床に這いつくばったまま、呆然とこちらを見つめていました。
しかし、ふいに何かに気づいた様子で勢いよく起き上がります。
彼は私を指差し、こう叫んだのでした。
「──なんで、ケモ耳ぃ!?」
『第五章 魔王の子とドラゴン族の姫』おわり
魔王の寝室では、部屋の主であるギュスターヴとアヴィスが、ベッドに仲良く体を並べていた。
美貌の魔王とあどけなさを残す少女がベッドイン──これだけ聞くと、官能的なシーンが思い浮かぶだろうが……
「ギュスターヴ、不貞はいけないことだと思うのです」
「同感だな。お父さんもそう思う」
あいにく、彼らの間に色欲など一切存在しない。
散々渋った末、ようやくベッドに横になったアヴィスの背中を一定のリズムでトントンしながら、彼女の言葉にギュスターヴが頷く。
今宵はLED照明の一斉メンテナンスで魔界が真っ暗になると忠告されていたため、アヴィスを出歩かせないよう寝かしつけるのに必死なのだ。
「魔女の方は、ちゃんとクラーラに謝りましたよ。でも一番罪深いのは、クラーラとお母様を裏切ったドラゴン族の長です」
「そうだな。ちょん切るか?」
アヴィスは首の話だと思ったが、ギュスターヴの視線は下の方に向いている。
この日の夕暮れ時、一つ新しいスレが立った。
タイトルは、『旦那の股間が爆発した』
スレ主は、ワンオペシングルファーザー魔王を温かく迎え入れてくれた、あのボスママだ。
なお、888くんは3ゲットしていた。
「結局、クラーラのお母様はママ友グループに入ったのですか?」
「入ったな。さっそく魔女に慰謝料の請求をしている」
「まあ、逞しくていらっしゃいますね。仲裁しなくていいのです?」
「必要ない。魔女は言い値で払うだろうからな」
ふわわ、とアヴィスが大きくあくびをする。
この日は結局一日中町を歩き回った上、さまざまなハプニングに巻き込まれて疲れているのだろう。
ギュウスターヴはそんな彼女を、可愛くてたまらないと言いたげな顔をして見守っている。
アヴィスは瞼を重そうにしながら、憂いを帯びた声で続けた。
「クラーラのお母様は、族長の妻の矜持から気丈に振る舞っていらっしゃるのでしょうね……でも、きっと傷ついていると思うのです……」
「そうだな」
「影で……一人で、泣いていらっしゃるかも、しれません……ははの、ように……」
「……アヴィス?」
すとん、とアヴィスが眠りに落ちた。
彼女が残した意味深な言葉を、ギュスターヴは頭の中で転がす。
どうやら、ローゼオ侯爵家にも何やら問題があったようだが……
「どうでもいいか。アヴィスは、今はもう私の子だ」
ギュスターヴはそう呟き、アヴィスの伏せられた瞼にそっと口付けを落とす。
午後十時を回り、魔王も就寝の時刻となった。
*******
目が覚めますと、辺りは真っ暗闇でした。
けれども、それもわずかの間のこと。
闇には次第に目が慣れてくるものですが……
「なんだか、異様に夜目が利いているみたい」
今宵はいつになく、くっきりはっきり周囲の物が見えるような気がします。
なにしろ、隣でぐっすり眠るギュスターヴの、長いまつ毛の一本一本まで判別できるほどなのです。
時計の針もはっきりと確認することができました。
時刻は、ちょうど午前二時。
四時間も眠ったので、私の目はもうすっかり覚めてしまっております。
となると、いつまでもベッドにいるわけには参りません。
「ギュスターヴ、ちょっとお散歩してきますね」
今宵は月代わりのLED照明が一斉メンテナンスに入るため、真っ暗になるから出歩くな、とか何とか言われましたが……夜目が利くのですから、まったく問題ないですよね。
ギュスターヴは一度眠るとちょっとやそっとじゃ起きませんので、返事を待たずにベッドを抜け出します。
そうして、私は世界が一変していることに気づきました。
「すごく、音が聞こえる……」
魔王をはじめとする魔族の血肉でできた体なので、耳も人間の時のそれより敏いのですが……
「こんなに聞こえるの、初めて……」
草葉の陰で鳴く虫の声。
誰かのくしゃみ。
罵声。
独り言。
寝言。
嬌声。
普段は、この魔王の寝室まで届かないあらゆる音が、私の耳を賑やかしておりました。
「ふふっ、夜なのにうるさい」
何だか楽しい気分になった私は、意気揚々と魔王の寝室を飛び出します。
すると、扉の前に置かれていた猫ちぐらから、もそもそとヒヨコが這い出してきました。
「こんばんは、ヒヨコ。ちょっと出かけてきますね」
「……っ!?」
ヒヨコも今宵は出歩かないようギュスターヴに言いつけられていたため、私の宣言に驚いたようです。
さっさと歩いて行こうとするのを、慌てて追いかけてきた彼に後ろから抱き留められてしまいました。
ヒヨコはさらに、何かに気づいて驚いた様子で、私の頭をしきりに撫で始めます。
「……っ? ……っ!?」
「ヒヨコ、何ですか? くすぐったいです」
ヒヨコはひとしきり首を傾げますと、廊下の窓の前まで私を連れていきました。
彼に促されて、闇が透けて鏡のようになったそれを覗き込んだ私も、驚きます。
「まあ! これは……」
頭の上に、髪と同じ銀色の毛に覆われた三角の耳が立っていました。
「犬耳……いえ、狼の耳かしら?」
どうりで、よく聞こえるはずです。
考えられる要因としては、この体に人狼族の長ルーの血肉も入っていることでしょうか。
「でも、今になって突然現れたのだから、子狼に噛まれた影響かしら?」
もしくは、それらの相互作用によるものでしょうか。
とにかく……
「今夜の私、すごいのですよ、ヒヨコ。真っ暗なのに昼間みたいに見えますし、すごくよく音が聞こえるんです」
「……っ! ……っ!!」
ヒヨコはギュスターヴの寝室に戻るべきだと訴えているようですが、こんな面白いことになっているのに、寝ている場合ではありません。
私は手袋に包まれたヒヨコの両手を握り締めると、満面の笑みを浮かべて言いました。
「大丈夫ですよ。今宵は、私があなたの手を引いてあげますから。ね?」
「……っ」
こうして、私を引き止めるのを諦めたヒヨコを連れ、真っ暗闇の魔王城探検ツアーが始まりました。
ノエルもドリーも部屋にこもっているようですし、魔王城にはもともと守衛もおりませんので、私とヒヨコを見咎める者はありません。
その代わりと言っては何ですが、普段はあまり視界に入らない、低級な魔物が見受けられます。
人狼族の影響を受けているのなら、私もルーのように強くなっているかも。
そう考えて、闇に紛れてにじり寄ってきたスライムをモンコツ──骸骨門番の大腿骨で殴りつけてやりましたが……
「……戦闘力はゴミのままなんて、あんまりです」
殴っても殴っても復活してくるスライムは、ある程度目が慣れてきたヒヨコが蹴散らしてくれました。
そんな中……
「──何かしら、このにおい」
ふいに異臭を感じて、私は眉を顰めます。
くさい、というのではありません。
ただ、この世界にとって〝異物〟だという印象が強く、無視するのは憚られるにおいなのです。
そしてそれが、何の変哲もない壁の向こうからするのですから、これはもう怪しい。怪しすぎます。
この壁を開く鍵は、もしかして生体認証とかいうやつではありませんでしょうか。
そして、この城の主はギュスターヴなのですから、必要なのはおそらく彼の生体でしょう。
「でも、私の九割はあの人の血肉だといいますから……いけるのでは?」
結論から申し上げますと、いけました。
壁は、
『そうかなー? どうかなー? ちょーっと違うような気もするけどなー?』
という感じで悩んでおりましたが……
「細かいことはお気になさらず。さっさと開けてくださいな」
私がバンバンと叩いて急かしますと『ま、いっか』となったようです。
ふいに、壁に扉が浮かび上がってきたかと思ったら、勝手に取手が回りました。
音もなく開いた扉の向こうには、地下へと続く階段が伸びています。
私は意気揚々と足を踏み出そうとしましたが……
「……っ!!」
ヒヨコが、今までにないほど強い力で腕を掴んで引き止めてきました。
彼がそうせざるを得ないのも、わかります。
なにしろ、階段の先はそれこそ墨で塗り潰したように真っ黒で、軽い気持ちで足を踏み入れていい雰囲気ではないのですから。
それでも、件の異臭は間違いなく階段の先から漂ってきます。
私は、それの正体を見届けないわけにはいきませんでした。
「大丈夫ですよ、ヒヨコ。手を繋いでいきましょうね」
とは言いつつ……階段を下り始めてすぐ、私は後悔を覚えました。
廊下の闇の中では昼間のように見えていたため灯りは必要ありませんでしたが、地下の闇にはなかなか目が慣れてくれないのです。
足下など、階段どころか自分の足さえ見えません。
私は踏み外さないよう慎重に、一歩一歩確実に階段を下りていきました。
「あっ、ヒヨコ。あそこに、光がありますよ」
濃密な黒の中で心細そうに揺れていたのは、一本の蝋燭でした。
炎は麦の粒ほどの小ささでしたが、蝋燭自体は長く、朝がくるまでは灯っていそうです。
ここに続く扉を開けられるのはギュスターヴだけのようですから、蝋燭を灯したのも彼でしょう。
では、一体何のためにこんなところに、と思いかけたところで、私ははっと息を呑みました。
ヒヨコも体を強張らせ、双剣の柄に手をかけます。
蝋燭の向こうで、何かが蠢く気配がしたのです。
「誰か、いるのですか?」
おそるおそる問いかけますと、相手も息を呑んだようでした。
私の心の動揺を映したみたいに、蝋燭の炎がゆらゆらと大きく揺れ始めます。
その揺れは、何者かが口を開いたことでさらに激しくなりました。
「その声……まさか……アヴィス……?」
私の名前を紡いだ男の声に、聞き覚えはありません。
ですが、炎が大きくなったことで浮かび上がったその顔には、見覚えがありました。
「あ、あなた、は……」
一月半前、グリュン王国の城内大広間にて執り行われていた、国王陛下の即位二十周年を祝うパーティー。
その最中、第一王子エミールに毒入りのワインを手渡した、あの給仕の顔です。
そして、その給仕の正体は……
「天使──私を殺した、天使だわ──!」
私の激情に煽られるように、炎が凄まじい勢いで燃え上がります。
それによって照らし出された神の御使いは、左の翼をズタズタに引き裂かれたおりました。
「ア、アヴィス……アヴィス……」
ヒヨコが双剣を抜き放ち、私を背中に庇います。
天使は床に這いつくばったまま、呆然とこちらを見つめていました。
しかし、ふいに何かに気づいた様子で勢いよく起き上がります。
彼は私を指差し、こう叫んだのでした。
「──なんで、ケモ耳ぃ!?」
『第五章 魔王の子とドラゴン族の姫』おわり
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読んでいただきありがとうございます!
アヴィスに振り回されている魔界人たちですが、好きと言っていただけてうれしいです!
おっしゃるとおり、完結しきっておりませんので続きは書く気でおります。
強くなって帰ってくるヒヨコにも期待していただけると幸いです!