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第二章 死に損ないと血に飢えた獣
18話 どうしてアヴィスを殺したの?
しおりを挟む魔王城のある小高い丘からずっと西に下った場所には、草原が広がっていた。
遮るものがない中、吹き荒れる風にマントの裾を遊ばせて悠然と立っているのは魔界の王ギュスターヴ。
その少し後ろには、彼の側近ノエルが静かに佇む。
彼らの赤と青は、先ほどアヴィスを見守っていたのと同じ瞳とは思えないほど冷ややかに一点を見つめていた。
草原に膝を突いた、一匹の天使を――
「まんまと忍び込めたと思ったら、実は誘き寄せられただけだったと気づいた今の気分はどうだ?」
「……」
ノエルと同じ金色の髪と青い瞳をした、けれども彼よりも幾らか若そうな見目をしたその天使は、燃えるような目でギュスターヴを睨み上げる。
土一つ付けずに涼しい顔をしている魔王に対し、天使の真っ白い衣装は所々裂けて血が滲んでおり、後者が一方的に蹂躙されたであろうことは容易に想像できた。
天使の象徴とも言える背中の翼も、見るも無惨な有様である。
それでも少しも屈する様子のない相手に、ギュスターヴは淡々とした声で続けた。
「天界が何を考えていようと構わんが、これだけは言っておく。アヴィスは、貴様にも、神にもやらん。あれは、私のものだからな」
「……思い上がりも甚だしい。魔王のあなたでは人間の魂には触れられない。あなたがどうあがこうとも、最終的にはあの子は天界のものになるのです」
天使の言うことは、正しい。
魂に触れられるのは神かその僕である天使だけであり、ギュスターヴがいかに力のある存在であろうともこればかりは叶わない。
実際アヴィスに血肉を与えた時も、肉体を練り上げたのは彼だが、そこに魂を入れたのは堕ちたとはいえ天使として生まれたノエルだったのだ。
それでも……
「アヴィスの魂は、天界ではなくこの魔界に来た。神の許ではなく、この私の手の中に、だ」
ギュスターヴは赤い目を天使から頭上へ――地界のそのまた上にある天界、さらにはそれを牛耳る魔王とは対極の存在に向けて続ける。
「解せんのは、待てば天界のものになるはずのアヴィスを、どうして早々に連れていく必要があったのか、だ。わざわざ天使に人殺しをさせてまでな」
「……っ、神は、人を殺めたりなさいません! アヴィスを殺したのは私の独断です! 神の指示ではありませんっ!!」
ここで初めて、天使が声を荒げた。
対して、視線を彼に戻したギュスターヴは無言のまま右手で空を一薙ぎ。
「……っ、ぐ!」
目に見えない刃が天使の左翼を切り裂き、ぶわりと羽根が宙を舞った。
ボタボタ、と天使から溢れた赤が草の上に降り注ぐ。
魔界の植物とは相容れない清浄が、まるで毒を撒いたみたいに瞬く間に草原を枯らした。
それを無感動な目で一瞥してから、魔王はわずかな憂いを浮かべて言う。
「アヴィスがな、泣いたのだ……」
それは、目の前に広がる惨状とは不釣り合いの、ひどく静かな声だった。
天使が狼狽えるほどに、悲しげにも聞こえた。
「な、なに……」
「自分が、天使に……貴様に殺されたのだと知って、どうして、と泣いたのだ」
「し、仕方がなかったのです。あの子をあのまま、地界に置いておくわけには……」
「――黙れ」
言い訳のようなものを始めた天使の言葉を魔王が遮る。
打って変わって、凄まじい怒りを内包した激しい声だ。
魔王の怒気に呼応するみたいに、ビリビリと魔界の空気が震えた。
珍しく苛立ちを隠そうともしないその様子に、彼の側近さえも驚いた顔をしている。
ギュスターヴはつかつかと天使に近づくと、その胸ぐらを掴み上げて続けた。
「貴様らの都合など知ったことか。どんな理由があろうと、貴様がアヴィスを殺したという事実は変わらん。まあ、それがなければ、そもそもアレは私の子にはなっていなかったのだがな」
「あ、あなたの……子?」
「なぜ、アヴィスを殺した? なぜ、天使の貴様が魔界に入り込んでまであの魂を天界に持ち帰ろうとする? ――言え」
「……っ、それが! 彼女にとって最善だからです!!」
そんな天使の答えが気に入らなかったのか、ギュスターヴの目に酷薄さが増す。
彼は胸ぐらを掴んだままの手で、満身創痍の天使を高く吊り上げた。
その見事な悪役っぷりを静かに見守っていたノエルが、ここで初めて口を開く。
「さっさと吐いた方が身のためですよ、カリガ。魔王様は今、アヴィスにドはまりしていらっしゃいますからね。これ以上ご機嫌を損ねれば……あなた、楽には死ねませんよ?」
「私が私の子を可愛がるのは当然のことだろう」
「そうですね。まったく……付き合いの長い私でさえ、寝起きの魔王様には細心の注意が必要だというのに、あの子ときたら……」
「私の眠りを邪魔して生きていられたのは、アレが初めてだな。いやしかし、我が子に起こされて一日が始まるというのもなかなかにいいものだ。お父さん冥利に尽きる」
ノエルによって、アヴィスを殺した天使の名がカリガであることが判明した。
けれども、そのカリガは元同僚が忠告したにもかかわらず、やはり屈する様子はない。
それどころか、自分の胸ぐらを掴んだギュスターヴの手首を逆に両手で掴み返して叫んだ。
「なにが――何が、〝私の子〟だ! 何が、〝お父さん〟だ!!」
残った片翼がバサバサと宙を掻き、切り裂かれた傷口から溢れた血がまた足下の草を枯らす。
カリガは凄まじい形相でギュスターヴを睨みつけて続けた。
「あの子のアカウントに、あんなひどい名前を付けさせて! その上、あんな……あんな、むごたらしい写真をアイコンにさせているくせにっ……!!」
「いや、待て。貴様、もしかして会員制交流場のことを言っているのか? だとしたら誤解だ。我々とて、さすがにあれはいかがなものかと散々止めたんだぞ?」
「まったく、聞く耳持ちませんでしたけどねぇ。これが、ジェネレーションギャップというものでしょうか」
正論を述べたというのにうるさがられて、早々にブロックされてしまった魔王と側近は、揃って悩ましげなため息を吐く。
しかし、そもそも話を聞く気などない天使は、わなわなと震えながらさらに言い募る。
「今朝なんて、あんな純真な子を寝所に連れ込んで……何という破廉恥な! 恥を知りなさいっ!!」
「なぜ、私の寝所での出来事を知っている? 貴様、もしやストーカーか?」
「実はですね、魔王様。私、あの子の投稿を別アカから観察しているんですけれど……今朝、アヴィスが魔王様の寝顔を勝手に撮って投稿したんですよ。すごい数のイイネがついて、えげつない速さで拡散されています」
「ストーカーは貴様か。……しかし、しまったな。ネットリテラシー教育を怠っていた」
ちなみに、イイネとリツイートの数は今もまだ猛然と増え続けていた。
それを、フォロワーのフォロワー経由で目撃したらしいカリガは、怒りで全身をブルブル震わせながら叫ぶ。
「自分の寝顔をわざわざあの子のアカウントに投稿させるとか! 何です、あれ!? リア充自慢です!? ぼっちの私に喧嘩売ってます!?」
「おい、天使。急に私怨が入ってきたぞ」
嫌な顔をしたギュスターヴは、とたんにべしゃっとカリガを地面に投げ捨てた。
それから、半身だけ背後を振り返って言う。
「もう、いい。ノエル、こいつの処遇は貴様に一任する」
「はあ、私ですか?」
「なんだ、元同僚を痛めつけるのは気が引けるか?」
「まさか――むしろ、ワックワクしちゃいますね」
すっかり魔界に染まった元同僚の真っ黒い笑みに、ここまで威勢の良かったカリガも息を呑む。
ギュスターヴはそれを冷たく一瞥すると、ブーツの底で二度三度地面を叩いた。
するとどうだろう。
天使の血を浴びて枯れた草達がみるみるうちに元気になり、あっという間に元の草原へと戻ってしまったのである。
それを見届けることもなく、ギュスターヴはあっさりとカリガに背を向け、控えていたノエルに命じた。
「なぜアヴィスを殺したのか、なぜあれに執着しているのか――拷問して吐かせろ」
「御意」
そうして、彼らがすれ違おうとした、その時である。
「……っ」
突然ギュスターヴが立ち止まったかと思ったら、どこか遠くを見るような目をした。
その横顔がいつになく険しいことに気づいて、ノエルも眉を顰める。
「魔王様、いかがなさいましたか?」
「……アヴィスを迎えにいってくる」
「アヴィスを? まだ、五時ではありませんよ?」
その問いに、言葉とは裏腹に凪いだ声で答えた。
「――どこかで、あれの血が流れた」
えっ、とノエルが聞き返した時にはもう、どこにもギュスターヴの姿はなかった。
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