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第二話 たゆたう猫
たゆたう猫2
しおりを挟むちゃぷん、ちゃぷん、と波が船体を叩く小さな音が聞こえる。
しきりに視線をうろうろさせていたララは、ここでようやく意を決して口を開いた。
「あ、あの……」
「あん?」
「私、そろそろお暇を……」
「ああ!?」
おずおずと声をかけたララに、目の前の男は眉を顰めて向き直り、バンッ、といきなり机を叩いた。
「ばーか! なーに、遠慮してんだ! どんどんおかわりしろ、おかわり!!」
「いえ、もう……」
「ローズヒップはお気に召さなかったか? ならレモンバームはどうだ? こっちなら酸っぱくないぞ?」
「あ、あのぅ……」
「よしよし、ハチミツを垂らしてやろうな。ああ、そうそう、こっちとこっちをブレンドしてもウマいんだぞ?」
「えっと、ええっと……」
話をまったく聞こうとしない男を前に、途方に暮れたララは両手で包んだカップへと小さくため息を落とした。
カップの中身は鮮やかな赤い色をしたお茶。
ぐるりと辺りを見回せば、部屋の中は緑で埋め尽くされていた。
横付けされた大きな船からレオの船の甲板へ降り立った男は、戸惑う船員達に向かって、雌猫を出せ、と宣った。
さらには、呆気に取られる彼らを押退け、ずかずかと居住区へ乱入したのである。
その頃レオの私室では、ララが火照った身体を冷まそうとお茶を淹れているところだった。
船室は基本的に、就寝の時以外は鍵がかかっていない。
それをいいことに、男はノックもなしにララのいる部屋の扉を蹴り開けた。
そして、びっくりしすぎて硬直したララとルナを有無を言わさず担ぎ上げ、自分の船へと連れ帰ってしまったのだ。
「……」
ララはもう一度、自分が拉致されてきた部屋の中を見回した。
壁際に組まれた棚の上には様々な種類のハーブの鉢が並んでいて、さながら小さなハーブ園のよう。
ララのカップに入っている赤いお茶も、ここで栽培されたローズヒップを抽出したハーブティーだ。
次いでララは、向かいの席で優雅にカップを傾けている男を見た。
後ろで一つにまとめたプラチナブロンドの髪とブルーの瞳は、ララの主人と全く同じ取り合わせだ。
それだけではない。
レオよりいくらか荒削りだが、顔立ちも彼と非常によく似ていた。
それもそのはず。
「エイド様、そろそろご主人様が帰っていらっしゃいます……」
「レオのことなんか、ほっとけ」
男の名前はエイド。
彼は、レオの二番目の兄だった。
エイドは空になったティーカップを音を立ててソーサーに戻すと、椅子の背もたれに身体を預けて胸の前で両腕を組んだ。
さらには眉間に深々と皺をこしらえ、苦々しい様子で口を開く。
「せっかく港に着いたってのに、ララを船に閉じ込めたままったぁどういう了見だ。お前、もっとレオにわがまま言ってやってもいいんだぞ?」
ララは、エイドのことが好きである。
エイドだけではなく、レオの家族親類友達、全員好きだ。
レオにとって大切なものは、ララにとっても大切なものなのだから。
中でもエイドは、よく言えば豪快、悪く言えば粗暴だが、ララにはすこぶる優しい。
そんな彼の現在の肩書きは……
「――お頭、あのっ……」
「あん?」
突然ノックの音とともに、エイドの従卒らしき男が扉から顔だけ出した。
ひどく慌てた様子の彼は、黒衣に身を包んだエイドとは対照的に、襟元の詰まった白い上着を着込んでいる。
「なんだ、敵襲か? 俺の船に喧嘩を売るったあ、いい度胸だ! ――どこのどいつだ!?」
エイドがわくわくした顔をしてそう問うと、従卒は主人の向かいにちょこんと座ったララに目を丸くしつつ、歯切れの悪い様子で答えた。
「い、いえ、あの……お、弟君でいらっしゃいます」
「レオか! よし、大砲で迎え撃て!」
エイドの言葉に、今度はララがぎょっとする番だ。
彼女は慌ててカップを置いて立ち上がり、エイドの方に身を乗り出して叫んだ。
「ご、ご主人様を撃っちゃだめですっ!!」
――バンッ!
同時に、エイドの従卒が顔を出していたドアが大きく蹴り開けられた。
全開になったその向こうに立っていたのは……
「――ご主人様!」
抜き身の剣を片手に提げたレオだったのだ。
レオは部屋の中にララの姿を確認すると、その向かいでふんぞり返っている次兄に視線を移して不穏に両目を細めた。
そんな明らかに怒りを滾らせている弟に、エイドは椅子に腰掛けたまま偉そうに問う。
「おう、レオ。久々に会ったお兄様に挨拶はなしか?」
「その前に、一発殴らせろよ」
「相変わらず気の短けぇ男だな、お前は。とりあえず、剣をしまえ。海軍に剣を向けるやつがあるか」
「海賊の真似事をしておいて、何が海軍だ。ララを返せ、バカ兄貴」
部下に〝お頭〟と呼ばせていたり、風体も実に海賊っぽいが、エイドの肩書きはれっきとした海軍の将校である。
しかも、この巡洋艦の艦長であり大佐の地位にあった。
レオはそんな次兄を鋭く睨み据えたまま、唸るように言う。
「だいたい、軍艦には女を乗せてはいけないはずだ。艦長が率先して規律を破るとは、海軍も堕ちたものだな」
レオの言う通り、彼らの国の軍は男性で占められており、基本的に女人禁制。
それは、エイドが率いる海軍遠洋警備隊とて例外ではない。
つまり、ララが今この部屋でお茶をご馳走になっているのは、結構問題なことなのだ。
しかし、相変わらずエイドに悪びれた様子はない。
彼はにやりと笑って片手を伸ばし、向かいの席で腰を浮かせていたララの顎の下をくすぐった。
「ララは〝猫〟だろうが。姿形は人間の娘でも、てめぇは〝猫〟として市場で買ったんだよなぁ、レオ?」
そう告げたエイドの目は、レオに負けず劣らず鋭い。
ただし彼は、先日〝野良猫〟と蔑んだマード卿の孫娘のようにララを貶しているわけではない。
ギリギリ違法ではないとはいえ、人身売買に加担した形のレオを皮肉っているのだ。
五年前のあの日、オスの三毛猫だけではなく人間の少女まで競り落としてきた弟に、エイドは誰よりも憤った。
金さえあれば他人の人生すら好きにできると勘違いしている富裕層の傲慢が、彼は昔から大嫌いなのだ。
そんな金持ちどもにゴマを擦るのは真っ平だと言って家業を嫌い、長兄やレオのように父親と同じ道を選ぶことはなかった。
士官学校を主席で卒業したエイドは、その後五年間の沿岸警備の任務中に数々の功績を上げる。
今年の始めには、彼の最年少での大佐昇格が国内外でおおいに話題になったものだ。
そんなエイドの世間一般にはあまり知られていない趣味――それがハーブの栽培だった。
普段の彼の豪快さからは想像もつかないような、繊細で上品な趣味である。
ララが先ほどからご馳走になっているお茶用のハーブも、もちろんエイドが手ずから育てたものだ。
しかしながら、先にも述べた通り軍部は女人禁制。無骨な男の部下達では到底ハーブの繊細な味わいなど分かるまい。
つまり、海軍の船にはエイドと一緒に優雅にハーブティーを楽しむ相手がいないわけだ。
そのため、非常につまらない船上生活を送っていた彼の目に、見覚えのある船が飛び込んできたのが、つい先ほどのこと。
嬉々として乗り込んだ弟の船で可愛らしい猫属性の少女が留守番させられていると知れば、お茶の席に招待するに決まっている。
「この船に〝メス猫〟を乗せてはいけないという規定はない。てなわけで、ララはセーフな」
「……」
胸を張ってそう宣った次兄に、レオはついに無言のまま切り掛かった。
テーブル越しにララの顎を掴んでいたエイドの腕を、彼の剣が下から掬い上げる。
と、寸での所で腕を引っ込めて刃を逃れたエイドは、自らも傍らに立てかけていた愛剣を引っ掴むと、鞘に入ったままのそれで弟の剣を受け止めた。
――ガッ!!
金属同士が激しくぶつかり合う音が響く。
柄を握る手にビリビリと伝わる衝撃に、エイドはにやりと口の端を吊り上げた。
「いーい太刀筋だなぁ、レオ。お前、とっとと商人なんかやめて俺の部下になれよ」
「寝言は寝て言え」
ところがそんなやりとりの後、兄弟揃って実にあっさりと剣を引いた。
元々レオだって、本気で次兄と切り合うつもりなどなかったのだ。
運悪く居合わせてしまったエイドの従卒だけが、目を白黒させて扉の脇で立ち竦んでいる。
エイドは苦笑すると、行ってよし、と片手を振って彼を追い払った。
一方、レオは剣を鞘に収めて腰に下げ直すと、テーブルを回ってララへと近づく。
「ご主人様っ……!」
そして、それこそ怯えた子猫のように飛びついてきた彼女を両腕で受け止めた。
「ただいま、ララ」
「おかえりなさいませ。あの……お部屋で待っていなくて、ごめんなさい……」
一刻も早くララを抱きたくて、大急ぎでマダム・メイの屋敷を出てきたレオは、戻った船に彼女の姿がなくてぶち切れた。
もちろん、ララを勝手に連れ去った次兄に対して、だ。
青い顔をして慌てて走り寄ってきた船員の話を聞かずとも、ででんと横付けされている巡洋艦を見れば大体は想像が付く。
紙幣を金庫にしまいに行くアベルに、ほどほどにしろよと忠告されつつ、残されていた板を踏みしめて軍艦へと乗り込んだ。
レオは眉を八の字にして見上げてくるララに苦笑すると、あやすように頭を撫でてやる。
「俺の方こそ、鍵を開けっ放しで出て行って悪かった。まさか、人さらいが出る港だとは思わなかったんでな」
そんなレオの皮肉に、エイドはテーブルに頬杖をついてにやにやとした笑みを返した。
と、その時だった。
「シャーッ!!」
「ギャッ……」
突然、鋭い威嚇の声に続いて短い悲鳴が上がった。
どちらも、人間ではなく猫の声だ。
「ルナ? ……ロウ!?」
驚いたララは、テーブルの下にいる猫達をまじまじと見る。
ララと一緒に拉致された新妻を求めて、ロウも巡洋艦に渡ってきたのだ。
先ほどレオが扉を蹴り開けたのに乗じていの一番に飛び込んできて、無事ルナと再会を果たしている。
しばしの間、彼らはお互いを労るように鼻をすんすんと鳴らし合っていたのだが、ロウは何やらまたルナの機嫌を損ねてしまったらしい。
ピンク色の鼻の頭に、鋭い爪の洗礼を受けていた。
「――あっ、ルナ!?」
さらには興奮したルナが、うっかり者のエイドの従卒が開けっ放しにしていた扉をくぐり、外へと飛び出して行ってしまったではないか。
「ララ、行っていいぞ。外にアベルがいるだろうから、一緒に先に船に戻っていろ」
「は、はい……」
レオにそう命じられたララは、エイドに向かって小さく会釈すると、慌ててルナを追いかけた。
「おう、ロウ。どうしたどうした? いきなりふられたか?」
部屋には、笑いをこらえ切れない様子のエイドとレオ、そして鼻の頭に血を滲ませて呆然としているロウが残された。
「お前、マダム・メイの所でシャムの匂いを付けてきたんだろう。ルナに浮気を疑われたか?」
レオはそう苦笑しつつ、ピクリともしないロウを床から持ち上げる。
すると、エイドはとたんに片眉を上げや。
「あん? マダム・メイ? 財産目当てで結婚した耄碌じじいを腹上死させたっていう、あの毒婦かよ」
「そういう悪意に満ちたゴシップを鵜呑みにしていて、よく大佐などと名乗れたものだな」
「お、言ってくれるじゃねえか」
「海軍の情報網は随分とお粗末と見える」
弟の小気味いい返しにエイドは楽しげな笑い声を上げる。
しかし、それも一瞬だった。
「――それでは、そのお粗末な情報網から、今をときめく大商人殿に一つご忠告さし上げよう」
「……」
エイドの顔からいけ好かない笑みが消え去ったのを見て、レオは目を細める。
そうして、彼の向かい――先ほどまでララが座っていた席に腰を下ろした。
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見た目はでっぷりのおじさん猫なロウですが、飼い主に似て愛は重そうです。
のんびり更新ではございますが、また続きにもお付き合いいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします!