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第一話 飼い主と飼い猫

飼い主と飼い猫7

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 ちゃぷん、と縁に打ち付けられて湯が跳ねる。
 散々ララを貪ってようやく衝動が落ち着くと、レオは浴槽に湯を張って浸かった。
 その膝に抱きかかえられたくたくたの身体には、肌を強く吸った際にできる鬱血が幾つも見受けられる。
 さらに、濡れた焦茶色の髪が貼り付く細い首の後ろには、くっきりと歯形が付いていた。
 その犯人であるレオは、己の浅ましさをまざまざと突きつけられつつ口を開く。

「……さっきの男」
「え?」
「噴水の前でお前に声をかけた男。あれは確か、候爵家の当主だ」
「侯爵、さま……」

 ララはレオの裸の胸に頭をもたれさせ、顎を仰け反らせて彼を見上げた。

「あんなにお若いのに、ですか?」
「先代が早くに亡くなって、まだ王立学校在籍中だった息子が家を継いだんだ」

 当時、レオも王立学校の生徒だったらしく、先ほどの紳士は一つ年上だという。
 しかし、ララとしてはもう若き侯爵のことなどどうでもよかった。
 見ず知らずのララにあんなに親切にしてくれるなんて、随分と優しい方なのだなとは思うが、それだけだ。
 それなのに……

「あのまま……あの男の手を取っていた方が、お前は幸せだったかもな」
「……え?」

 レオは、ララがあまり見慣れない表情を浮かべて続けた。

「あの馬車に乗せてもらって、侯爵様のお屋敷に行けばよかったんじゃないか? そうしたら、俺のような男に腰が抜けるまで犯されることもなかったのにな」

 彼はそう自嘲しつつ、先ほど散々蹂躙したララの秘所に指先を沈み込ませた。
 とたん、湯とは違う粘り気のあるものが絡み付く。
 そのまま、先ほど自分がたっぷりと注ぎ込んだものを掻き出すように指を動かすと、浴槽に張った湯がちゃぷちゃぷと波立った。
 一方ララはというと、そんな愛撫に反応もできないほど動揺していた。

「ご、ご主人様……?」

 あの紳士のもとへ行けばよかったのに――と、レオはそう言ったのだ。
 その言葉を理解したとたん、みるみるララの顔から血の気が引いていく。
 そして、温かい湯に浸かっているというのにガタガタと全身を震わせ始めた。

「ララ?」

 当然その震えは湯の中で密着しているレオにも伝わる。
 彼が訝しげに名を呼ぶと、ララは自分の身体を両腕でぎゅっと抱き締めた。
 そして、わっと声を上げて泣き出したのである。

「いやです! いやですっ!! あの方のところにも、どこにも、誰のところにも行きたくないっ!! ご主人様のところでないと、いやっ……!!」

 どんなに強く激しく責め立てられ、息も絶え絶えに喘がされても、ララは辛いなどと思ったことはない。
 先ほどレオを受け入れた部分は、何度も擦られてひりひりと痛んだが、彼女にとっては大した問題ではなかった。

 レオと引き離されることほど、彼に突き放されることほど恐ろしいことは、ララは他になかった。

「ララ……」

 そして、ララがこんなに激しく取り乱す姿を初めて目の当たりにしたレオは、とたんに己の大人げなさを恥じる。

「ごめん、ララ……悪かった。俺が、悪かった」

 レオはララの中から指を引き抜くと、縮こまって震える彼女を強く強く抱き締めた。
 
「あの人なんか知らない! あの人のところなんか、行きたくないっ!!」
「すまない。お前の口からそれを聞きたくて、わざと意地悪を言った」
「ご主人様……レオさま! レオさま……!! どこにも行きたくない!! わたし、どこにも行きたくないっ……!!」
「ああ、どこにもやらない。お前を、どこにも、誰にも、絶対にやらないから」

 その後、ララの涙はなかなか止まらなかった。
 レオの方も、湯から上がってベッドに入ろうとも、ずっと彼女を抱き締めて離さなかった。
 ベッドの中で、彼はララの耳からエメラルドのピアスを外してやる。
 そうして彼女が眠るまで、何度も何度も、小さな穴の空いた耳たぶにキスをした。








 ぬあー……


 ふいに、ロウの不機嫌な声がしたような気がして、ララの意識は浮上する。

「……」

 身体はだるくて、頭が少し痛かった。
 前者は散々レオに抱かれたせいで、後者はその後大泣きしたせいだろう。
 ララはベッドに仰向けに横たわったまま、見慣れた白い天井をしばしぼんやり眺めていたが、ふと気配を感じて顔を横に向ける。

「ロウ、ルナ……」

 枕のすぐ側に、三毛猫ロウと白猫ルナが仲良く並んで座っていた。
 どうやら朝を迎えて久しい時間らしく、ベッドの脇の丸窓の景色が動いているところを見ると、すでに船は港を出てしまったようだ。
 姿の見えないレオは、さっさと身支度を整えて操舵室で船長と打ち合わせしているか、甲板に出て航路の先を眺めているのだろう。
 自分も早く支度をせねば、とララはベッドに手をついて身体を起こそうとしたが、ふとロウとルナが揃って一点を見つめていることに気づく。
 そうして、その視線を辿って――ぎょっとした。

「……っ! お、おはよう……ございます――アベル様」
「――おはよう」

 猫達の視線の先にいたのは、思いがけない相手――レオの従兄で秘書を務めるアベルだったのだ。
 レオの信頼も厚い彼がこの部屋に顔を出すことは珍しくはない。
 しかし、二人きりになることはあまりなかったので、ララは少し戸惑った。
 だが、次のアベルの言葉で、何のために彼がここにいたのかが判明する。

「起きたのなら、さっさと足を出せ」

 そう言ったアベルの手には、大きな救急箱が下げられていた。
 長い航海に出る船には大体医師が乗船しているものだが、レオの船ではアベルがそれを兼任している。
 彼は医師の資格を持っているのだ。
 大方、昨日のララの靴擦れの傷を治療するよう、レオに頼まれたのだろう。
 アベルはララの返事も聞かぬまま、椅子を引き摺ってきてベッドの前に据えると、座り込んだままだった彼女の足首を強引に掴んだ。
 実を言うと、ララは昨夜浴室を出てからの記憶が曖昧なのだが、レオがしてくれたのだろうか、一通り身支度が整っていた。
 チュニックの下には踝までのズボンが履かされており、アベルに見られても恥ずかしくない姿ではある。
 ベロンと大きく捲れていた皮を医療用のはさみで取り除くと、アベルは剥き出しになった傷口にちょんちょんと消毒液を塗った。
 ララの存在をよく思っていない彼としては、レオの頼みとはいえ彼女の世話を焼かねばならないのは不本意だろう。
 しかし、そこはさすが、大人である。
 私情を持ち出して、手当をいい加減にしたり、わざと痛い思いをさせるような意地悪は決してしない。
 ララは、アベルのそういうところが好きだった。

「アベル様、ありがとうございます。それと……申し訳ありませんでした」

 きっと昨夜は、マード子爵邸に同行していた彼にも少なからず迷惑をかけてしまっただろう。
 そう思ったララは、黙々と手当てをするアベルにも謝った。
 アベルはその時は何も答えなかったが、消毒を済ませた傷口にガーゼを貼り終えると、眉間に皺を寄せたまま深々とため息を吐く。
 そして、眼鏡をそっと中指で押し上げると、その奥から厳しい視線でララを突き刺した。

「航海の予定は、天候の予想や荷の鮮度、取り引き先の都合など、いろいろな事情を考慮した上で綿密に練られている。航行許可が必要な海域もあり、前もって日時を指定して申請を出している場合だってあるんだ。もしも昨夜お前が船に戻らなくても、朝が来れば碇を上げなければならなかった」
「は、はい……」
「そんな時、レオがお前を放っていけるようなら、私も苦労しない。だがな、船を先に行かせてでも、あいつはお前を見つけるまでこの街に残っただろう」
「……」
「レオの船に、レオを置いていかせるような真似はするな」

 アベルの言葉に、ララはぎゅっと唇を噛んだ。
 自分の軽はずみな行動はレオに大きな迷惑をかけてしまうのだ、と改めて思い知った。
 ララをきつく叱ることはないレオだが、アベルの口を借りて彼女を戒めたのかもしれない。

 ごめんなさい……

 小さくそう呟いたララに、アベルはもう一度だけ小さくため息を吐くと、手当が終わった彼女の足から手を離す。
 そうして、きっぱりと告げた。


「私がお前に期待するのは、レオの人生を邪魔しないこと――それだけだ」



「ぬあー……」
 
 ふいに、ララが起きぬけに聞いたのと同じ、ロウの不機嫌な声が響く。
 ララの側に寄り添って、ロウは終始アベルを睨みつけていた。
 でっぷりとした姿で愛嬌のある彼だが、目が据わるとなかなか雰囲気が鋭くなる。
 ロウは、アベルがララに意地悪をしやしまいかと、ボディガードよろしく見張っているのだろうか。

「ふん……相変わらず、生意気な面をしていやがる」

 当然、自分にまったく懐かないロウのことを、アベルの方とてよくは思っていない。
 彼はガーゼや消毒液を救急箱に片付けると、目付きの悪い三毛猫を睨み返して立ち上がる。
 そして、用は済んだとばかりに部屋を出て行こうとしたのだが……

「あっ、あの! アベル様!」
「あ?」

 何やら思い出したらしいララがそれを呼び止めた。

「あの……針と糸をお借りできませんか?」
「針と糸? お前が? 何に使うんだ?」
「えっと、昨日のワンピース………その、ボタンがとれてしまって……」
「……レオか」

 昨夜ララが身に着けていたマダム・ルーの新作ワンピースは、その末の息子の手によって背中のボタンが二つばかり弾け飛んでしまっていた。
 レオと付き合いの長いアベルは、どういう状況でそうなったのかは尋ねるまでもないらしい。

「……まったく」

 彼はララまで申し訳なくなるほどの盛大なため息を吐くと、後で届けてやると言い置いて背中を向けるのだった。
 それから、一時間ほど経っただろうか。
 船はすでに沖に出て、順調な航海を確認したレオがようやく私室に戻ってきた。
 そうしてリビングに足を踏み入れた瞬間、彼は珍しい光景を目の当たりにしてぽかんと口を開ける。

「……何をしているんだ、お前達」

 レオの視線の先では、ソファに並んで座ったララとアベルが、ちくちくちくと縫い物をしていた。

「俺の部屋はいつから手芸教室になった?」

 それぞれの手元を覗き込めば、ララの縫い目は少しばかり拙く、対してアベルの仕事の早くて美しいことと言ったら。
 アベルは実は裁縫も得意で、それは服飾デザイナーのマダム・ルーにパタンナーとして働かないかと本気でスカウトされるほどの腕前である。
 聞くところによると、料理の腕も相当らしい。
 そんな女子力の高いレオの秘書は、しかし眼鏡の奥からギンッと彼を睨みつけて強烈に不機嫌な声で言った。
 
「お前の狼藉のせいで余計な仕事をさせられているのが、見て分からんか」
「まあ……ララは、な。でも、どうしてアベルまで手伝っているんだ?」

 ララは確かに昨夜のワンピースを繕っていた。
 ボタンを引き千切って強引に衣服を剥ぎ取った彼女を、強く激しく責め立てたあのまぐわいを思い出すと、レオはまた昂奮しそうになる。
 だが、最凶に機嫌の悪そうな従兄の手前、何とか不埒な記憶を宥めすかした。
 アベルは簡単な繕いをララに任せ、自分はひしゃげたボタンホールや引き攣れた縫い目など、少し技術のいる部分を繕っている。
 つまり、アベルとララは二人でせっせと一つのワンピースを直しているところだったのだ。

「この不器用娘に針を持たせて一人にしてみろ。すぐに指が穴だらけになる。それをまた塞げと命じられる面倒を思えば、最初から穴が開かないように見張っているほうがいくらか効率的だ」

 アベルはそう吐き捨てるように告げた。
 かと思ったら、戻ってきたレオを嬉しそうに見上げるララに対し……

「針を持っている時に余所見をするな、馬鹿者!」
「はっ、はいっ!」

 鋭い叱責に、ララはこくこくと慌てて頷くと、さっさと針と糸を置いてレオの腕の中へ飛む。

「ご主人様、おはようございます」
「ん、ララ、おはよう。昨日は、すまなかったな」

 ソファに残された縫い物とアベルを見て、ララに選ばれた優越感にご満悦なレオはなかなか安い。
 ララを抱き上げて満面の笑みを浮かべる彼に、アベルは呆れた顔をして言った。

「そもそも、ボタンを引きちぎって服を剥ぎ取るなんぞ、ケダモノのような真似をするな。どれだけがっついているんだ。セックスを覚えたての若造でもあるまいし」
「いやいや、アベル兄さんに比べれば、俺などまだまだ若造でして」

 レオがにやにやしながら答えると、眉間の皺を深めたアベルが茶化すなと吠える。
 アベルはソファの上で長い脚を組み替えると、レオの腕に抱かれたララに向かってしっしっと手を振った。

「もういい。ララにやらせていたら日が暮れる。あとは私がやっておくから、お前はレオの面倒でも見ていろ」

 口ではなんだかんだ言いながらも、結局アベルはお人好しで面倒見がいい。
 それを知っているからこそ、レオは寝起きのララでも彼に預けられたのだろう。
 ただし、ロウはやはりアベルが気に入らないらしく、不機嫌な様子でしっぽをびしびしと床に打ち付けている。
 レオはそんな三毛猫に苦笑しながら、手当てが済んだララの両足に踵のない柔らかな靴を履かせて、そっと床に下ろしてやった。

「ララ、コーヒー淹れてくれ」
「はい、アベル様の分も?」
「ああ。あいつはミルクたっぷり、砂糖はスプーン三杯な」
「はい」

 レオを見上げてさらりと揺れた髪の隙間から、ララの小さな両の耳たぶがのぞいた。
 そこに開いた穴には、かつて形を覚え込ませるように差し込んだ純金のファーストピアスが再びはまっている。
 それは、レオが初めてララの身体に穿った楔。
 いつかララが自らそれを引き抜いて、彼の腕の中から飛び立ってしまう時が来るのだろうか。
 そんなことを考えると、レオはいつも凶暴でどす黒い感情に支配されそうになる。
 だが――

「ご主人様」

 ララは何も知らないような顔をして、慕わしげに彼を呼んだ。
 その首もとで、首輪にあしらったエメラルドが光る。
 すると、レオはまだララは自分のものだと思えるのだった。


 次に港に寄るのは二日後。

「なーん」

 航海の安全を守るのはオスの三毛猫。
 ロウはアベルを睨むのに飽きると、ルナの顔を舐めて愛を囁き、二匹仲良く並んで外を眺め始める。

 丸窓の向こうに見える穏やかな海面は、さざ波に飾られていた。


 
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