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第三章 二人の公爵令嬢

第九話 大胆な公爵令嬢

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 夕焼けの色が宵闇に飲まれるとともに、空一面を分厚い雲が覆い始めた。
 窓辺に置かれたガラス容器の中では、黄緑色の若葉がぷかぷかと水に浮かびながら、雲に隠された月を求めるみたいに空に向かってか細い蔓を伸ばしている。
 やがて、力尽きて水面に落ちた蔓の先が、ぴちゃん、と小さく水を跳ね上げた。

「モディーニ・ラ・レイヴェスと申します」

 緩やかに曲線を描く赤い髪をさらりと揺らし、頭を垂れてそう告げたのは、まだどこかあどけなさを残した少女の声だった。
 華奢な身体を、いかにも貴族の令嬢といった豪奢なドレスで包んでいる。

「顔を上げなさい」

 この部屋――グラディアトリアの皇帝執務室、その主である皇帝ルドヴィークが、執務机の向こうに座ったままそう告げた。
 とたん、その少女――モディーニはぱっと顔を上げ、彼に向かってにこりと微笑む。
 淡い灰色をした大きな瞳が印象的な、愛らしい顔立ちの少女である。
 年は、二月ほど前に十六歳になったばかりだという。
 ルドヴィークはそんな少女に向かい、穏やかな口調で問うた。

「レイヴェスといえば、公爵家であったか。確かご当主は、皇帝陛下の補佐を務めていらっしゃったな」
「はい、以前は父が、今は兄が務めさせていただいております」

 レイヴェス公爵家は、パトラーシュの皇帝家に次ぐ大貴族の一つである。
 歴史を遡れば、グラディアトリアの貴族とも何度か婚姻関係を結んだこともある。
 モディーニは、そのレイヴェス公爵家の前当主の娘であった。
 そして彼女こそが、昨日帰国しようとするルドヴィークの馬車に、パトラーシュ皇帝フランディースが忍ばせていた女性だ。
 さらに彼女はつい先ほど、カーティスとユリウスとともに馬車に乗って、このグラディアトリアまでやってきてしまった。
 にこにこしているモディーニの後ろには、そのカーティスとユリウスが疲れ切った顔をして立っている。
 それを眺めたルドヴィークは、執務机の傍らに立つソフィリアと顔を見合わせ、小さく一つため息をついた。

「フランディース様から、ルドヴィーク様宛の書簡を預かって参りました」

 一方、モディーニはにこやかにそう告げると、一通の封書を取り出した。
 ソフィリアがそれを受け取り、封を切ってルドヴィークに渡す。
 ルドヴィークは折り畳まれた書簡を開きつつ、モディーニにソファに座るよう勧めた。
 それを機に、お役御免とばかりにカーティスとユリウスが退室しようとする。
 ところが……

「まあ待て、二人とも。――ソフィ、お茶を頼めるか」
「かしこまりました、陛下」

 ルドヴィークに引き止められ、カーティスは一瞬天を仰ぎ、ユリウスはあからさまに嫌な顔をした。
 どうやらこの二人、パトラーシュの年若い公爵令嬢に、道中随分と振り回されたらしい。
 そもそもカーティスもユリウスも、モディーニをグラディアトリアに連れ帰る気はなかった。それなのに、パトラーシュ皇帝が無理を通したのだ。
 げんなりした様子の二人に苦笑を浮かべつつ、ソフィリアはあらかじめ用意していたポットに茶葉を入れた。
 それは彼女自ら厳選して、この皇帝執務室に常備しているお気に入りの茶葉だ。
 そんな中、ふと視線を感じて顔を上げれば、じっとこちらを見つめているモディーニと目が合った。

「どうかなさいました?」

 ソフィリアが柔らかな声でそう問うと、モディーニは彼女の手もとに視線を落としたまま口を開く。

「ルドヴィーク様の補佐官をなさっているのは、ロートリアス公爵家のご息女だとうかがっておりました」
「ええ、確かに。私はロートリアス家の娘ですが」

 するとモディーニは、今度はソフィリアとポットを交互に眺め、不思議そうに首を傾げて続けた。

「大貴族のご令嬢ですのに、どうしてご自分でお茶を淹れたりなさるのですか?」
「あら……」

 少女の率直な問いに、ソフィリアはくすりと笑う。
 やがて、ポットの中で茶葉が解れ、無味無臭のお湯を茜色の芳しい逸品へと変化させた。
 ソフィリアはそれを用意してあったカップへと注ぎつつ、モディーニに問い返す。

「公爵家の娘がお茶を淹れるのはおかしいですか?」
「私は……軽々しく出しゃばって、使用人の仕事を取ってはならないと教えられてきました」
「ええ、そうですね。私の母も、よくそのように申しておりました」
「お母様のお教えを、守らないんですか……?」

 貴族の家では親の言葉は絶対で、逆らうことなどありえない。母親の言い付けを違えるソフィリアの行動が信じられないというように、モディーニは目を丸くして彼女を見つめている。
 ソフィリアは、柔らかい笑みを浮かべて答えた。

「今の私は、ロートリアス家の娘である前にグラディアトリアの一文官です。そして、この城で働く侍女達は、私の使用人ではなく同僚なのです。もちろん、侍女達が淹れてくれるお茶はとても美味しいので時々はお願いすることもございますが、できるだけ彼女達の手を煩わせたくないとも思います」

 モディーニは、ソフィリアの言葉にじっと耳を傾けている。
 そんな彼女の前に紅茶を満たしたカップを差し出しつつ、ソフィリアは続けた。

「それに私自身、単純にお茶を淹れるのが好きなのです。――どうぞ」

 ソフィリアが置いた紅茶のカップを、モディーニはじっと見下ろした。
 しかし、すぐに顔を上げてソフィリアと目が合うと、小さく口を開いた。

「……いただきます」

 モディーニは一言そう断ってから、カップを手に取った。
 両手を合わせる仕草こそないが、昨日のシオンと同じように自然と告げられたその言葉に、ソフィリアは好感を覚える。
 そんなソフィリアが見守る中、一口紅茶を含んだモディーニは、とたんに両目を大きく瞬かせた。

「何か、果物のような風味がします。あの、これは……?」
「オレンジのピールを乾燥させたものを茶葉にブレンドしております。お口に合いませんでしたか?」
「いいえ……とてもおいしいです」
「それはようございました」

 お世辞ではなく本当に口に合ったのだろう。
 モディーニはこくこくと続けてそれを飲んだ。ほんのりと赤味を増した頬が愛らしい。
 ソフィリアが頃合いをみてお代わりを勧めると、彼女は素直に空になったカップを差し出してきた。

「実は私、オレンジは嫌いなんです。でも、お茶に淹れるとこんなに美味しいんですね」
「まあ……気に入っていただけたようで光栄ですわ」

 モディーニの率直な言葉にソフィリアはまた苦笑する。
 モディーニは典型的な箱入り娘で、ずけずけとした物言いは少しばかり高慢な印象を周囲に与えるかもしれない。カーティスやユリウスにとって、おそらく彼女のそんなところが扱いにくかったのだろう。
 ソフィリアとしては、まるで世間知らずだった過去の自分を見ているようで、どこか懐かしくさえ感じられた。
 ただし、同じ公爵令嬢といっても、モディーニはかつてのソフィリアよりもずっと大胆だった。
 フランディースからの手紙に目を通し終わったらしいルドヴィークが、席を立って移動してくる。
 彼はモディーニの向かいのソファに腰を下ろし、ソフィリアが差し出したカップを受け取った。
 そんな正面の相手に向かい、少女は突然度肝を抜くような言葉を発したのである。


「ルドヴィーク様、私と結婚してくださいませ」
「――ぶっ……」


 十も年下の少女からの突然の求婚に、紅茶を一口含んでいたルドヴィークは見事にむせた。
 慌ててカップをソーサーに戻して咳き込むその背を、すかさずソフィリアがさする。
 それをじっと見つめながら、モディーニは重ねて言った。

「私を、ルドヴィーク様の妻にしてくださいませ」
「「……」」

 咳が治まったルドヴィークとソフィリアが無言で顔を見合わせる。
 ソファの脇に立つカーティスとユリウスは、盛大に顔を引きつらせていた。
 皇帝執務室の中が、一瞬しんと静まり返る。
 窓辺に置かれたガラス容器の中で、ぴちゃん、と小さく水が跳ねるような音がした。

「――こほん」

 やがて、ルドヴィークが大きく一つ咳払いをする。
 そして、正面に座ったモディーニに向き直った。

「フランディースに何を言われてきたかは知らないが、結婚などと、そう軽々しく口にするものではないぞ」

 年長者らしく、優しく諭すようにそう告げる。
 ところが対するモディーニは、向いの席から身を乗り出さんばかりにして言い返した。

「フランディース様は関係ありません! 私が、ルドヴィーク様に嫁ぎたいのです!」

 ルドヴィークとの結婚を望む声は、グラディアトリアの中にも外にも多々あれど、ここまで直球で伝えてくる相手はなかなかいない。
 ルドヴィークはたじたじとなり、その側に立つソフィリアもただただ目を丸くする。
 モディーニは畳み掛けるように続けた。

「二度と祖国に戻らぬつもりでグラディアトリアに参りました。ルドヴィーク様に拒まれれば、私はもう生きてはゆけません」

 思い詰めたような少女の言葉に、ルドヴィークとソフィリア、そしてカーティスとユリウスもひたすら困惑する。
 そんな大人達の視線を集めたモディーニは、さらに言い募った。

「帰る場所のない私を少しでも哀れと思ってくださるなら、どうか……」
「ま、待て待て――ちょっと待ってくれ!」

 ルドヴィークは、ここでようやく彼女の言葉を制す。
 彼は金色の前髪をかきあげながら、傍に立つソフィリアをちらりと見上げた。

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