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第一章 皇妃候補から外れた公爵令嬢

第二話 皇帝補佐官

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 午後の休憩を私室で過ごしたソフィリアは、スミレを伴って仕事場に戻ってきた。
 とはいえ、この日に処理すべき仕事はもうほとんど終わっていたため、のんびりとしたものだ。
 スミレにはソファで寛ぐように勧めてから、自分は留守にしている上司の執務机に置かれた書類を整理する。
 そんな中、トントンと扉をノックする音が響いた。
 やってきたのは、いまだ衰えを見せぬ絶世の美貌を携えた、白銀の髪と紫の瞳の先帝陛下――現レイスウェイク大公爵ヴィオラント。どうやら、妻であるスミレを迎えに来たようだ。
 十年前に玉座から退いて以降、頑なに国政と距離を置いてきたヴィオラントだが、スミレと結婚したのを機に徐々に態度を軟化させ、現在では相談役としてグラディアトリアを影で支えている。
 今日は、現役の財務大臣でありかつての部下でもあったソフィリアの父と会っていたらしい。
 
「ルドヴィークはまだ戻らないのか?」

 ヴィオラントは、部屋に入るなりソフィリアにそう尋ねた。
 というのも、ここはソフィリアの仕事場であると同時に、ルドヴィークの仕事場――つまり、皇帝執務室なのである。
 スミレを我がものにしようとした八年前では考えられないことだが、ソフィリアの現在の役職は文官で、肩書きとしては皇帝補佐官を名乗っている。
 役割的には秘書に近く、皇帝ルドヴィークの日々の予定を管理するのも彼女の仕事だ。
 主君であるルドヴィークは四日前から外遊に出かけており、予定では今日の正午にはグラディアトリアに戻っているはずだった。
 ところが、もうそろそろ日が傾く時間になったというのに、いまだ彼の帰城の知らせはない。
 とはいえ、一月前にその予定を立てた本人であるソフィリアも、今回の外遊先を聞いた時点で計画通りにはいかないだろうと覚悟はしていた。
 
「はい、大公閣下。何と申しましても、この度の訪問先はパトラーシュですから……」
「そうだったな……また、フランディースに余計な足止めでも食らっているのか」

 隣国パトラーシュの皇帝フランディースは、ヴィオラントにとっては幼馴染。
 ルドヴィークのことも幼い頃からよく知る彼は、たいへんな女好きとして名を馳せていた。
 困るのは、弟分のように思っているルドヴィークがいまだ独身であることを嘆き、ことあるごとに妙齢の女性を宛てがおうとすることだ。
 当のフランディースには政治的な打算も下心もなく、純粋な親切心のつもりなのだから質が悪い。
 
「もう間もなく日暮れでございます。おそらく、本日中のお戻りは難しいかと」
「まったく、フランディースにも困ったものだな」

 ソフィリアは苦笑し、ヴィオラントもやれやれとため息をついた。
 今でこそ和やかに会話を交わせているソフィリアとヴィオラントだが、こんな風に親しく接することができるまでは随分と時間を有した。
 なにしろ、八年前にソフィリアが事件を起こした際、彼女に対して一番腹を立てていたのは、このヴィオラントであったのだから。


 あの時のソフィリアの行いは、公にはならなかった。
 その理由は、ことを荒立て世間の好奇の目がスミレに集まることをヴィオラントが嫌ったからと、財務大臣という立場にあったソフィリアの父ロートリアス公爵をルドヴィークが慮ったためだった。
 もっとも、娘の行いを知った時、ロートリアス公爵はその責任を取って役職を辞するつもりだった。
 しかし、彼がしたためた辞表をルドヴィークが受け取らなかったのだ。
 それどころか、ルドヴィークは母后陛下譲りの青い瞳に変わらぬ信頼を宿し、ロートリアス公爵をまっすぐに見据えてこう告げたのだという。

「そなたの手腕は、私も兄もこの国の長として誇るべきものである。今後もグラディアトリアのために尽くすことが、娘の犯した罪の償いとなるだろう」

 当時十八歳の皇帝のその言葉に、壮年の公爵が男泣きさせられたのは言うまでもない。
 その後、騎士団に放免されたソフィリアを私邸まで連れ帰る道中、ロートリアス公爵は馬車の中でそのことを語って聞かせた。
 父の目尻に残る涙を見たソフィリアは、その時、己の愚かしさをはっきりと自覚したのだった。
 こうして、皇帝家からもレイスウェイク大公爵家からも実質お咎めなしになったソフィリアだが、父からは一月の謹慎が言い渡された。
 大人しくそれに従った彼女は、自室にこもって手紙を書き始める。
 自分が強引に浚って馬車に乗せた、クリスティーナ人形のような少女への謝罪の手紙であった。
 その時はまだ名前さえ知らなかったため、宛名としたのは彼女が身を寄せているレイスウェイク大公爵。
 ところが手紙は、封も開かれぬまま戻ってくることになる。
 ソフィリアの行為に激怒していたヴィオラントが、受け取りを拒否したのだ。
 これにはさすがに愕然としたものの、ソフィリアはそれから何度も手紙を送り続けた。
 そして、一方的な手紙を一月ほど書き続けた頃、ついにそれは送り返されてこなくなった。
 ちょうど少女の名前を知り、宛名を〝スミレ〟に変えた時だった。
 きっと相手はソフィリアを許せず、手紙を送り返すことさえ煩わしくて捨てているのだろう。
 返事もこないのに手紙を送り続けるなんて、相手にとっては迷惑極まりないことだ。
 加害者の謝罪など、所詮は自己満足に過ぎない。
 家族からは何度もそう窘められ、ソフィリア自身もまさしくその通りだと思った。
 けれども、これで最後にしようと決めて、スミレを宛名にした五通目を送った――その次の日のことである。
 可愛らしい黄色いクマの絵の付いた封筒に入って、ソフィリア宛に手紙が届く。
 初めて、スミレからの返事がきたのだ。
 そこにはほんの幼い子供みたいなたどたどしい字でもって、スミレが実は異国の出身で文字の読み書きがまだ不自由であること、それから、ソフィリアの仕打ちに彼女が怒っていないということが記されていた。
 さらには、ソフィリアさえかまわなければ、自分の文字の読み書きの練習のために、今後も手紙のやりとりを続けてもらいたいと書かれていたのである。
 もちろん、それを読んだソフィリアは飛び上がって喜んだ。
 後々知ったことだが、自室にこもって返事のこない手紙を書き続けているソフィリアの様子を父から伝え聞いて心配した母后陛下が、こっそりスミレの名前を言付けてくれたらしい。
 そして、ヴィオラントではなくスミレに宛てられた手紙をちゃんと本人に渡してくれたのは、蔦執事セバスチャンであったという。
 ソフィリアは、すぐにまた筆を執った。
 今度はできるだけ読みやすく、文字に癖が出ないよう心掛け、一文字一文字殊更丁寧に。
 こうして、ソフィリアとスミレの文通が始まった。

 ソフィリアがスミレと直接会うことを許されたのは、あの事件からようやく一年が経とうという頃だ。
 それまでの間に、スミレはシュタイアー公爵家の養女となってヴィオラントに嫁ぎ、無事男児を出産していた。
 その日は出産後初めてレイスウェイク大公爵夫妻が揃って登城し、赤子をお披露目するということで、先帝陛下の待望の御子に一目会いたいとかつての忠臣達が大勢詰めかけた。
 ソフィリアの父であるロートリアス公爵もその一人である。
 現役の大臣ということで、他の面々に先駆けて母后陛下の宮での面会を許された父に連れられ、ソフィリアも実に一年ぶりに事件の発端となった廊下を渡った。
 一年前までは頻繁にくぐっていた母后陛下の私室の扉を、それまでで最も大きな緊張とともにくぐる。
 そして――
 
「ソフィ、久しぶり」
「スミレ……」

 何度も手紙を交わしながら思い浮かべた少女の微笑みに、ソフィリアは迎えられたのである。
 初めて会ったあの時の愛らしい姿のまま、人形のようだった少女は〝母〟になってそこにいた。
 こちらにおいでなさい、と手招きする母后陛下の優しい声に励まされ、ソフィリアはゆっくりとスミレの側へと近寄る。
 スミレが産んだ赤子は、彼女の傍らに寄り添うヴィオラントの腕に抱かれていた。
 ソフィリアは赤子の愛らしさに堪らず顔を綻ばせつつ、抱かせていただいてもよろしいですか? と、恐る恐るその父親に声をかける。
 実のところ、ヴィオラントはこの時、まだ完全にソフィリアを許していたわけではなかった。
 しかし王城に向かう馬車の中で、ソフィリアは大事な友達だから、もう彼女に怒った顔を見せないでほしい、とスミレに懇願されていたそうだ。
 そのため逡巡するのも束の間、ヴィオラントは気持ちに折り合いを付けるみたいに小さくため息を吐いてから、ソフィリアに向かって頷いた。
 そうして、我が子を差し出そうとしたのだが……

「わわっ、ソフィ!?」
「スミレ、会いたかった……!!」

 ヴィオラントの許しを得た瞬間、ソフィリアが抱き締めたのは、赤子ではなくスミレの方だった。
 スミレ本人はもちろん、父ロートリアス公爵も、母后陛下も、そして同席していた皇帝ルドヴィークも呆気にとられる。無表情が常なヴィオラントでさえ、稀色の瞳を見開いて驚きを露にしていたものだ。
 しかし当のソフィリアは、周囲の戸惑いなど気にしている余裕などなかった。

「スミレ、あの時は本当にごめんなさい。出産、おめでとう。それから……それから……」

 手紙で散々やりとりをしてきたものの、ソフィリアにはスミレと直接会って伝えたい言葉がたくさんあった。
 それなのに、いざその時がきたら、感動で胸が詰まって何から話していいのか分からなくなってしまったのだ。

「ソフィ、私も会いたかったよ」

 そんなソフィリアの背に、華奢な両腕が回った。
 スミレが彼女を抱き締め返し、宥めるように優しく背中を撫でてくれる。
 おかげで落ち着きを取り戻したソフィリアは、ようやく一番伝えたかった言葉を告げることができた。

「これからも、よろしくお願いします。スミレ」
「うん、よろしくね。ソフィ」

 ソフィリアとスミレが、お互いの温もりを直に感じつつ微笑み合う。
 そんな少女達の微笑ましいやりとりを、周囲の大人達は温かい眼差しで見守っていた。
 しかし、唯一彼女達と同年代だったルドヴィークは、不思議なものを見るような目で二人を眺め、母后陛下譲りの青い瞳をぱちくりさせる。

「二人とも……いつの間に、そんなに親しくなったんだ……?」

 その声色に、わずかながら羨望が混ざっていたことを、大人達はまた感じ取っていた。
 温かい眼差しは、若き皇帝陛下にも向けられる。
 ソフィリアの胸元から顔を上げたスミレも、笑みを浮かべてルドヴィークを手招きした。 

「ルド、おいで」

 ヴィオラントと結婚したことでルドヴィークの義理の姉という立場になったスミレは、相手が皇帝であろうとお構いなしに弟扱いし、周囲の大人達も誰もそれを咎めない。
 ルドヴィークが戸惑いながらも素直に側にやってくると、スミレは彼とソフィリアの右手をそれぞれ取って、自分の目の前で握り合わそうとした。
 突然のことに驚いた二人は、お互い慌てて手を引っ込めようとする。
 すると、スミレはキッと眦を吊り上げて彼らを睨んだ。

「こぉら、ルド! おねえちゃまのお友達にちゃんとご挨拶なさいっ!」
「お、おねえちゃまって……」

 年下の義姉に頭が上がらないルドヴィークはたじたじとし、引っ込めようとした手から力を抜く。

「ソフィもだよ! うちの弟くんとも仲良くしてあげてってば!」
「そ、そんな恐れ多い……」

 ぷうっと膨らんだスミレの頬に目を奪われつつ、恐縮はするもののソフィリアも抵抗をやめた。
 そうして、ルドヴィークの右手とソフィリアの右手が、スミレの強引な導きによってやんわりと触れ合う。
 スミレは知っていたのだ。
 ヴィオラントほどではないにしろ、ルドヴィークが一年前のソフィリアのあの所業を、まだ完全に許せていないということを。
 けれども、それも無理からぬこと。
 先帝ヴィオラントが平定したグラディアトリアを受け継ぎ、より平和で安定した国にするため日々尽力していたルドヴィークにとって、かつての傲慢な貴族そのものともいえるソフィリアの行いは許し難いものだったに違いない。
 彼はソフィリアの父を許し、ロートリアス公爵家を咎めなかった。
 しかし、ソフィリア個人に対しては、いまだ静かな怒りを抱えていたのだ。
 それを見抜いていたスミレは、自分とソフィリアが完璧な和解を果たしたこの機会に、ルドヴィークの中にわだかまっているものも取り除いてしまおうと考えた。
 ソフィリアがきっと、大国を背負うルドヴィークを支える存在になると確信していた、と先見の明に長けた彼女は後に語る。

「久しぶりだな、ソフィリア嬢……元気そうでなによりだ」
「ご無沙汰いたしておりました、陛下。あの時は……本当に申し訳ございませんでした」

 こうしてスミレに仲を取り持ってもらい、ソフィリアは実に一年振りにルドヴィークとも向かい合った。
 ぎこちなく握り合った互いの右手が、緊張でこわばっていたのを今でもはっきりと覚えている。
 とはいえこの時のソフィリアは、まさか数年後、自分がルドヴィークのすぐ側で働いているなんて想像もしていなかった。


 
「ルドは、きっと今日中に帰ってくると思うなー」
「――え?」

 皇帝執務室の窓から空を見上げていたスミレが、ふいに呟いた。
 いつの間にか過去に意識を飛ばしていたソフィリアははっと我に返り、窓際に立つ親友の漆黒の髪に覆われた後頭部を凝視する。
 すると視線を感じたのか、くるりと振り返ったスミレが、ソフィリアが愛して止まないドール・クリスティーナそっくりの顔に笑みを浮かべて言い切った。


「だって、今日はソフィの誕生日だもん。――ルドは帰ってくるよ」


 太陽が西の山際に隠れる頃、レイスウェイク大公爵夫妻はルドヴィークの帰りを待たずに帰路に着いた。
 そんな二人を王城の玄関まで見送りつつ、ソフィリアは先ほどまでスミレが熱心に眺めていた空を見上げ、一つため息をつく。
 彼女の視線の先では黒い雲が空を覆い、ポツリ、ポツリ、と冷たい雫が滴り始めていた。

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