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第二章
母と娘達
しおりを挟むコンラート家の執事コルドは、グラディアトリアの皇太后陛下の存在を主人に伝える前に、店主に声をかけていたようだ。
普通は個室の客のプライバシーは守るべきだが、ルータスはいつも店を贔屓にしてくれる隣国の王族であり身分がはっきりしている。
先方にも彼が挨拶に伺う旨を告げて、許しが出たのだろう。
店主はすぐに三人を目的の個室まで案内してくれた。
「まあまあ、ルータス様。奇遇ですわね」
「お会いできて光栄です。皇太后陛下」
彼らを迎えたのは、それはそれは麗しい貴婦人であった。
――皇太后陛下
ルータスの口にした言葉を漢字変換し、郁子はまたしても頭の奥がクラリとした。
変換が間違いでなければ、それは皇帝の母親が持つ称号ではなかろうか。
王兄殿下に保護された郁子は、その他二人の王兄殿下とも関わることになり、三日前には国王陛下夫妻とお茶をした。
そして、今日はまた別の国の先帝陛下を訪ねるところで、ただでさえ馴染みのなさすぎるセレブリティな状況にあっぷあっぷしているというのに、ひょいと入った料理屋で居合わせたのが、今度は皇太后陛下だなんて。
しかし、そこで郁子ははっとあることに思い至った。
先日膨らんだ腹を撫でさせてもらったコンラート王妃アマリアスは、確か現グラディアトリア皇帝の同腹の姉のはず。
ということは、今目の前で女神のように神々しい微笑みを浮かべている女性は、アマリアスの実の母親だ。
なるほど、艶やかな金髪も青い瞳も、「イクコお義姉様」と慕わしげに呼んだ王妃によく似ている。
そう思いながら、ふと彼女の向かいの席に視線を移した郁子は、今度はぎょっと目を見開いた。
「――っ、え? お、王妃様!?」
そこには、なんと郁子が今し方思い浮かべていた人物――コンラート王妃アマリアスと瓜二つの存在があったのだ。
ぽかんとした郁子の視線の先に気づき、ルータスが「ああ」と相変わらずのんきな調子で、相手方を紹介した。
「彼女は、ミリアニス。アマリアスの双子の妹だから、そっくりなんだよ」
「……あ、なるほど双子の……」
「そして、こちらのお方がアマリアスの母上で、グラディアトリアの皇太后陛下エリザベス様だ」
ルータスがそう言って郁子を側に引き寄せると、彼女を見た貴婦人達はぱっと顔を輝かせた。
「まあまあ。黒髪の素敵なお嬢さん、はじめまして」
「本当だ、真っ直ぐな黒髪、綺麗。異国の方?」
郁子は好奇心溢れる四つのサファイアに見つめられてたじたじとなりながら、何とか「はじめまして」とだけ言葉を返す。
「彼女はイクコ。スミレと同じように、向こうの世界から飛ばされてきたんだよ」
ルータスがそう告げると、二人の女性はとたんにその瞳に労るような色を乗せた。
「それは、大変な目に遭いましたね。お怪我はなくて?」
そっと伸びてきた皇太后陛下のたおやかな手が、郁子の手をとって握りしめた。
思わぬ柔らかな温もりと、真っ直ぐに注がれる慈愛に満ちた眼差しに、心の奥がちくりと痛む。
それは、郁子がたった三歳の幼さで失ってしまった母の温もりを思い起こさせる無償の優しさ。
皇太后エリザベスは、ふるりと震えた郁子の手をそっと引いて、自分の隣の席へと彼女を誘った。
「きっと熱い思いをしたのでしょう。お可哀想に……」
同じく、向かいでルータスに席を勧めたミリアニスも、気遣わしげに郁子を労る言葉をかけた。
会ったばかりの相手だが、その言葉が社交辞令か本心からの心配かくらい、判断できる。
郁子は、胸がじんと熱くなった。
我が身に起こった出来事はいまだ理解できないままだが、出会った人々の優しさに素直に感謝を表せるくらいには、彼女も落ち着いてきていた。
郁子は、優しく包み込んでくれるエリザベスの手をそっと握り返す。
そして、テーブルを挟んで向かい合ったミリアニスには「大丈夫です」と答えつつ、その時ふと彼女の装いに感じた既視感に、あっと思わず声を上げた。
目の前のミリアニスを包むドレスは、バストのすぐ下に切り返しがあってウエストが締まっていないタイプ――マタニティ仕様だったのだ。
細身の身体に対しぽっこりと盛り上がった腹が、彼女もまた妊婦であることを郁子に知らしめた。
「あの……アマリアスさんも出産を控えていらっしゃるご様子でしたが、もしかして妹さんも?」
「ええ、二人揃って臨月なのよ。アマリアスにお会いになったの?」
皇太后エリザベスは郁子の質問に嬉しそうに答えたが、「孫の誕生は待ち遠しいですけど、身重の娘達が心配でなかなか落ち着きませんわ」と続けて苦笑した。
特に、長女アマリアスは隣国の王妃として嫁いだ身であり、そう頻繁に彼女の様子をうかがうこともできない皇太后の心配は、母親にあまり縁のない郁子でもいくらか理解できた。
「それに、上の娘達はもう少しの辛抱ですけれど、その後に一番小ちゃな娘の出産が控えてますわ」
ところが、そう続けられた貴婦人の言葉に、郁子ははてと首を傾げた。
「一番小さいって……アマリアスさんとミリアニスさんの下にも、まだお嬢さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ、ええ。この子が一番心配ですのよ」
郁子の問いにそう答え、皇太后陛下はほうとため息をつく。
それを眺めていたルータスが、向かいの席からそっと補足してくれた。
「スミレのことだよ、イクコ。皇太后様が一番心配している、小ちゃな娘っていうのは」
「えっ……?」
菫は、郁子と同じく不可解な状況に巻き込まれた日本人のはずで、少なくともこの麗しき貴婦人の娘ではない。
さらに、グラディアトリアの皇家の親子関係は複雑らしく、菫の夫となったレイスウェイク大公爵はコンラート王妃の兄だが、腹違いだと聞いていた。
つまり、エリザベスはアマリアスの母親ではあるが、ヴィオラントの母親ではない。
だから、彼女は菫の姑という立場でもないはずだ。
そんな郁子の考えていることが顔に出ていたのか、いつになく気の利くルータスがさらに説明してくれた。
「スミレの実の両親は健在だが、ずっと遠くで仕事をしていてそう頻繁に会えないんだ。彼女にはこちらの世界で養子縁組をした親もいるんだが、皇太后陛下のことも母親のように慕っている」
「そうなんだ……」
ルータスの話によると、まだ十六歳の少女の方もいろいろと家庭に問題を抱えていたらしい。
今は和解したというが、幼い頃は両親に甘えることもできずに随分と寂しい想いをして育ったのだと。
少し自分の境遇と重なって、郁子はますます菫という同郷者への想いを強めるとともに、母親という存在への絶望を新たにする。
幼い自分を置いて出て行ったきりの母の顔を、今はもう思い出すこともできない。
一瞬、心がひどくささくれ立ちそうになった郁子だが、それを取り繕って誤魔化せるくらいには大人だった。
それなのに、何かを敏感に感じ取ったのか、エリザベスは握ったままだった郁子の手を、今度は労るように両手で包み込んだ。
その温かさに、郁子はふいに泣きたくなった。
なぜなら、本当は郁子は母が恨めしいのではない。
――恋しいのだ。
本当は、会いたかった。
言葉など何もいらないから、ただその温もりを感じていたかった。
けれど、母はもう遠い。
生きているとは思うが、もう郁子の側には戻ってきてくれないのだ。
エリザベスが「イクコさん」と呼んでくれる優しい声が、母だったらどれほど幸せだったろうか。
そんな想いを必死で飲み込みながら、郁子は優しい青い瞳の国母に、泣きそうな顔で何とか笑みを返した。
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