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第一章
濃厚な朝
しおりを挟む自分の唇を塞いだ柔らかな感触。
それを感じた瞬間、郁子はびくりとしてとっさに身を引こうとしたが、素早く肩に回った手がそれを許さなかった。
ばちりと見開いた視線の先には、緩く瞼を伏せた端整な男の顔。
驚くほど長い睫毛も、その髪と同じ赤味がかった金色なのを今さらながら確認しつつ、一時あたふたとした郁子の心もすぐに落ち着いた。
まだ、出会って三日。
異世界云々はともかくとして、明らかに人種の違う相手。
不可解な状況に置かれた自分は、おそらくまだいろいろと混乱したままなのだと郁子は思う。
それでも、両腕を持ち上げてルータスの背に回しながら、彼に対して抱き始めた想いが決して一時の気の迷いではないと確信していた。
「……んっ……」
郁子が瞳を閉じると同時に唇を緩めると、そっと舌が差し入れられた。
性急さの感じられないところがルータスらしいと思いながらも、彼が決して落ち着き払っているわけではないことは、その舌の熱さが郁子に教えてくれる。
しばし、柔らかな仕草で郁子の口内を堪能すると、唇を離したルータスは彼女懐深く抱き竦め、ふっとため息をついてからつぶやいた。
「別に……アーヴェル兄上に言われたからじゃないよ」
「う、うん……」
「据え膳食わぬは男の恥とか、思ってるわけでもない」
「……わかったってば」
何を言い出すのかと思えば。
いい雰囲気どころか、もうすっかりその気になっていた郁子を拍子抜けさせるような言葉に、彼女は少し恨みがましくルータスを睨んだ。
もうこのままソファの上で抱かれてもいいとさえ、思っていたのに……。
しかし、彼女の不満まみれの視線を気にすることもなく、ルータスは至極真面目な顔で続ける。
「郁子は、いいのか?」
「……え?」
ルータスのその言葉に、郁子は少しばかり驚いた。
“靴がなくて歩けないなら抱き上げてやればいい”
“可愛いなと思ったからキスしてみた”
これまではそんな単純明解な思考回路が行動に直結していた彼が、今は自分の想いのままに動くことを逡巡している。
まあ確かに「抱きたいと思ったから抱いてみた」なんて、後で淡々とのたまわれても困るが……。
「嫌なら嫌と、イクコもはっきり言わなきゃいけない」
そう続けられて、郁子は曖昧な返事をして面倒なことになった今朝の出来事を思い出し、慌てて口を開いた。
「い、嫌じゃない――!」
もう、ルータスに変な誤解を与えたくないし、無意味なすれ違いで寂しい想いもしたくない。
そんな郁子の答えに、ルータスは彼女の瞳を覗き込んで「本当に?」と重ねて問う。
絡み合う視線に自分の頬が赤くなるのを感じながら、郁子はもう一度はっきりと返事をした。
「私、嫌じゃないよ、ルータス」
「そうか」
それに、ようやくほっとしたように表情を緩めたルータスは、もう一度ぎゅっと郁子を抱き締めたかと思ったら、そのまま彼女を抱き上げてソファから立ち上がった。
そして、その足が向かう先が寝室であることに気づき、郁子は今さらながら緊張に身体を強張らせる。
それは、彼女を抱き上げていたルータスにも伝わったはずなのに、彼は何も言わなかった。
敢えて無視したのか、あるいは持ち前の鈍感さを発揮して気づかなかったのか、どちらなのかは郁子には分からない。
けれど、本当にいいのかとはもう問われたくない――多少強引にでも、寝室に連れ去ってほしかった。
そんな想いを汲んだのかどうかも、やはり淡々としたままのルータスの表情からは読めない。
しかし、彼は何も言わずに郁子を抱えたまま寝室に入り、後ろ手に扉を閉めると――
この夜は、確かに鍵をかけた。
四日目の朝。
郁子は、ようやく子牛に起されずに済んだ。
その代わり、また別のペロペロによって起されることになった。
「……んっ? ……む、んっ……!?」
「おはよう、イクコ」
この朝、頬ではなく、唇とその中を舐め回して郁子を起してくれたのは、朝に弱いはずのルータスだった。
起き抜けの濃厚なキスにあわや窒息しそうになった郁子は、彼の腕の中でもがもがともがく。
のしかかる引き締まった身体は、細身ながら意外に筋肉質だった。
「――っ、ぷはっ! ルータス、苦しいからっ!」
「じゃあ、息継ぎして」
「~~~っ……!!」
息も絶え絶えに抗議する郁子に、平然とそう返したルータスは、尚も覆いかぶさって唇を塞いできた。
驚くほど情熱的で、執拗なキス。
昨日までの朝のような寝惚けた男は、いったいどこへ行ってしまったのだ。
しかし、郁子もいつまでもどぎまぎしてばかりはいられない。
昇り始めた朝日が窓から天蓋の中に差し込んで、白いルータスの素肌が神々しいほどに眩い。
もちろん、郁子自身も上掛けの下は素っ裸のままである。
昨夜は生まれたままの姿で抱き合った仲とはいえ、慎ましき大和撫子としては、いつまでも殿方の前に素肌を晒しているわけにはいかない。
とにかく、下着を……せめてガウンだけでも羽織りたいともがく。
それなのに、のしかかった男の身体はびくともせず、唇もすっかり塞がれて抗議の言葉もままならない。
しかも、起き抜けに与えられた情熱的なキスに、郁子自身もついつい流されてしまいそうになる。
(こっ、このままじゃ、イカン!)
そう思った郁子は、唯一自由になる腕を上掛けの中から抜き出し、朝日に晒された素肌に少しばかり躊躇しながらも、とにかく利き手を振り上げた。
そして
――バチンッ!
「……痛い、イクコ」
頬に見事な手形をこしらえて文句を垂れる男を見上げながら、今回は謝らないぞっと、郁子は鼻息を荒くした。
その前日の夜、隣国グラディアトリアから使者が戻っていた。
使者はもちろん、ルータスの執事コルドがレイスウェイク大公爵に宛てた手紙の返事を持ち帰った。
朝の身支度を済ませたルータスと郁子は並んでソファに座り、手紙を取り出して広げた。
やはり、手紙に書かれている文字は日本語とは似ても似つかぬもので、郁子にはまったく読む事ができなかったが、それでも整然とした紙面の様子から、差出人たるレイスウェイク大公爵の几帳面さが伺える。
「ルータス、お友達はなんて?」
「いつでも来たらいいって。それから、イクコのことも歓迎するって書いている」
「そう……」
コルドは郁子についても知らせていたらしく、レイスウェイク大公爵の手紙には彼女を労う言葉も綴られていた。
それから、手紙を読み終えたルータスは封筒に指を突っ込み、あるものを取り出して郁子の前に差し出した。
「イクコ、これは君にだって」
「え?」
「スミレからだ」
郁子が手渡されたのは、女の子が好みそうなファンシーな封筒だった。
表に描かれていたのは、蜂蜜が大好きな赤いベストを着たクマさんで、郁子も馴染みが深いキャラクター。
中から取り出したお揃いの便せんには、丁寧だけれどどこか丸っと可愛らしい字で綴られた、日本語の手紙。
ルータスの言った通り、それはレイスウェイク大公爵の妻となった女子高生スミレから、郁子に宛てて書かれた手紙だった。
「スミレは何て?」
「早く……会いたいって」
『はじめまして、いくこさん。
いろいろ信じられないことや
戸惑うことも多いと思います。
会ってたくさんお話しましょう。
早く会いたいです。
待っています。
野咲菫』
「スミレちゃんは、“菫”と書くのね。紫色の可愛い花の名前だ」
「うん、スミレは瞳が紫色なんだ」
「へえ……」
ルータスやコルドが使っていた羽根ペンとは明らかに違う、ラメ入りのカラフルなペンで書かれた可愛らしい手紙。
郁子が学生の頃も、そういう可愛いペンを集めた記憶がある。
懐かしい想いと、自分を労るような内容の十も年下の少女からの手紙に、郁子の心はほんわりと温かくなった。
「私も……会いたい」
郁子が勝手に比べられたと思い込み、何でもできて愛されていると一方的に嫉妬した相手――スミレ。
けれど、ルータスによってそんな負の感情を払拭された今は、何だかとても恋しい相手のように思えた。
郁子は便せんを丁寧に畳んで封筒にしまうと、それを大事そうに胸に抱き締めて、傍らのルータスを見上げてもう一度言った。
「私も、菫ちゃんに会いたい」
幼馴染みだというレイスウェイク大公爵からの手紙を封筒に戻したルータスは、郁子の瞳の中にいきいきとした光を見つけ、眩しげに目を細めて頷いた。
「うん、会いに行こう。一緒に」
「うん、一緒に」
ちなみに、件の菫からの手紙については余談がある。
実は、便せんの一番下の方に、薄い水色のペンでこっそり書き足されたような一文があった。
郁子はそれに気づいていたが、手紙を読んで聞かせろとねだったルータスには、あえて教えなかった。
何故なら、それが次のような文章だったからだ。
『追伸:ルータスは天然でズレてるけど、悪気はないのでいろいろ大目に見てあげてください!』
一回りも年下の女の子に心配されているルータスがおかしく、郁子はそれを読んだ時には思わず噴き出してしまった。
だが、そんな郁子に不思議そうに首を傾げた彼を見て思う。
――でも、意外に頼もしいところもあるんだよ
菫に会ったらそう伝えようと、郁子は心に決めた。
その翌日。
郁子が不可解な状況に陥り、ルータスと出会って五日目。
「いってらっしゃいませ、ルータス様、イクコ様。道中、どうぞお気を付けて」
メイド長サラをはじめとする使用人達に見送られ、郁子はルータスとともにグラディアトリアへ出発した。
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