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第一章
郁子
しおりを挟むだいたい自分は、この世に生まれ落ちた時から男運が悪かったんだ――と、城田郁子は思う。
まず、あの男を父親に持ったのが運の尽き。
見目がそこそこよくて、そこそこ仕事の腕もあった父は、面構えだけは優しげだったが、いかんせん女癖が非常に悪かった。
郁子が母の腹にいる時から浮気は数え切れず、いい加減我慢の限界にきた母が家を出て行ったのは、郁子が三つになった年。しかしその母も、結局は男を作って娘を置いてけぼりにしたのだから、碌でもないのは父だけではなかったのかもしれない。
そうして、とにかく郁子を男手一つで育てることにしたらしい父だったが、晴れて独身になった彼の女遊びに歯止めをかけるものはなく、家には取っ替え引っ替えいろんな女が上がり込んだ。
懲りずに離婚と再婚を繰り返し、思春期の郁子の心を見事に荒ませた父。
しかし、その最期は実に呆気なかった。
今から一年前――五度目の再婚をしたすぐ後だった。
仕事中に脳梗塞で倒れ、父はそのまま帰らぬ人となった。
郁子は、年の変わらない若い継母と財産で争うのが嫌だったので、さっさと相続を放棄した。
すでに父の家からは出て一人暮らしをしていたし、大学を卒業してすぐ就職した職場にも慣れ、収入はそれほど多くはないものの生活は安定していたのだ。
どうせ、愛人やら隠し子やらが、これからわんさか現れるに決まっているんだ。
そんな連中と関わる煩わしさから解放されるなら、はした金など全部くれてやる。
母とも別れたきり、一度も連絡を取ってはいない。取りたいとも思わない。
郁子はそうして天涯孤独の身となったが、しかし男運の悪さはまだまだ彼女に付きまとった。
思い返せば、これまで恋人と呼んだ連中も、それぞれ碌でもないのばかりだった。
父と同じように、平気な顔をして浮気ばかりする男。
愛しているの言葉を、軽々しくばらまく男。
「あーあ……」
思い返せば思い返すほど、ため息しか出てこない。
自宅マンションまで辿り着き、乗ってきた自転車を置き場に並べた郁子は、大きく息を吐いた。
自然と右手がポケットから取り出したのは、一年ぶりに買った煙草の箱だった。
せっかく禁煙に成功したと思っていたのに、この一週間はいろんなことがあり過ぎて、ついつい手が伸びてしまったのだ。
郁子は敗北感に苛まれながら、箱から一本を取り出した。
細長いそれは、スッとするメンソール系の女性に人気の銘柄だ。
しかし、ここ何年か見慣れていたのは、もっとニコチン臭い飾り気のないやつだった。
郁子は一週間前、恋人と別れた。
同時に、五年勤めた会社も辞めたのだ。
「私って、男見る目がないんだー……」
恋人は、同じ会社の上司だった。三十歳の若さで部長になった、いわゆるエリートだ。
ソフトな顔立ちで優しげな物腰が人気の彼とは、郁子が入社してすぐ付き合い始めた。
彼が結婚していたらしいとは知っていたが、すでに離婚が成立したと本人の口から聞き、それを鵜呑みにしてしまった郁子が馬鹿だった。
実際は、彼は別居をしていただけで、しかもいつの間にか奥さんとはよりを戻していて、この度目出度く彼女の妊娠が発覚した。
それをまた本人の口から聞かされた郁子は、さすがに騙されたと腹立たしかったが、しかしこうなっては自分が大人しく身を引くしかないと思った。
ところが、せっかく郁子が潔く彼との関係を清算し、ただの上司と部下に戻るつもりで心の整理を付けたというのに、相手の口からはとんでもない言葉が飛び出したのだ。
「君のことを愛している。生まれてくる子供の為に妻とは離婚はできないが、これからもずっと君とは付き合っていきたい」
開いた口が塞がらないとはこういうことかと、その時郁子は思い知った。
堂々と妻子を裏切ろうと宣言した男の姿に愕然とし、わずかに残っていた彼への未練も吹き飛んだ。
かわりにふつふつとせり上がってきたのは、激しい怒りと苛立ちだった。
父もこうやって母を裏切り、そうして死ぬまで女を弄んだんだ。
「――ふざけるなっ!!」
そう叫び、躊躇なく繰り出された郁子の右ストレートが男の頬に炸裂し、彼の上の歯を三本頂いた。
その勢いのままデスクに戻った彼女は辞表をしたため、直属の上司である彼の胸にそれを叩き付けると、荷物をまとめて会社を出た。
大人としては、無責任な行動だっただろう。
けれど、それ以上その男と同じ空気を吸うのさえ、我慢ならなかった。
郁子は残っていた有給休暇を消化して、すぐに会社をやめた。
悲しいかな、引き継ぎもほとんど必要なかった。
その後、携帯に一度だけ彼から電話がかかってきたが、留守電に入っていたのは恨み言だった。
愛情の冷めた心に残ったのは虚しさだけで、郁子の恋の終わりはいつもそんな虚しさに支配される。
ひとつだけ気に懸かることと言えば、今年新卒で入った営業の渡辺郁哉のことだった。
郁子と名前に同じ文字が入っていたことがきっかけで意気投合し、随分と懐いてきた彼を後輩としてとても可愛く思っていた。
会社を辞めたことを心配して電話をかけてきてくれたのも彼だけで、週末には一度飲みに行く約束もした。
とにかく、郁子はいつまでもくよくよしていないで、次の仕事を探さなければならない。
堅実に生きてきたので貯金はそれなりにあるが、頼れる家族もいない自分の今後は不安である。
今日は気分転換のつもりでに美容院に行ってきた。
ストレートパーマをかけたような真っ直ぐな髪は、くせ毛の友達に羨ましがられるほど。
昔カラーリングをした時、薬が合わずに地肌がひどく荒れたことがあったので、それ以来染めもせずに黒髪のままだ。
長く伸ばしていたそれを肩の少し下辺りで切り揃えてもらった。
リクルートスーツに釣り合う、地味な頭になったことだろう。
――心機一転、頑張ろう
そう思うのだが、やはり不況のこのご時世、特別な資格も技能もない女の中途採用は厳しい。
今もまた、昨日面接した会社の人事担当から、不採用の連絡がきたところだった。
「あーもう……いっそ全然知らない国にでも、旅立っちゃおうかな」
誰にだって、自棄になってしまいたい時もある。
ずっと頑張ってきたんだから、泣き言の一つや二つ言ってもいいじゃないか。
そう自分を心の中で弁護しながら、郁子は煙草を口にくわえてライターで火をつけようとした。
その瞬間
――ドオオオオンッ……!!
突然襲いかかった衝撃に、郁子は悲鳴をあげる間もなく吹き飛ばされた。
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