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第5章
第二八話
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兄と父が去り、姉と恋人が眠る場に、跡永賀はモモを置いて佇んでいた。
「ぷるる?」
何をするでもなく、自分を見下ろしているだけの主人に、モモはどうしていいか困っているようだった。
――――『そんなことしたら辛いぞ』
兄が言いたかったことは、そういうことだったのだ。
何も失わないはずだった。すべて取り戻せるはずだった。
それなのに。
また失う。
この手から離れていく。
「お別れ、なんだ」
しゃがみ、モモと目線を合わせる。このまま何も言わずに消えるのは嫌だった。せめて、告げてから消えよう。知らないまま絆を失くす苦しみは、ここで学んだことだ。
「もうお前とはいられなくなる」
「ぷる……」
言葉を理解したのか、それとも顔から察したのか、モモは涙を浮かべた。
「俺だって別れたくはない。けど、そう決まっていたんだ。始めから……」
皮肉な話だ。あれだけ願った〝終わり〟――帰還なのに、今はもっと、もっと続けばいいと望んでいる。
どうしていつも、失う時になってはじめて、その重要性に気づくのだろう。
〝あって当たり前〟が、どれだけ尊いか。
家族や恋人に始まり、ここでもまた……
「ごめんな」
撫でるなり抱きしめるなりしようと手を伸ばす。
しかし、それが届くことはなかった。
突然の激痛に、跡永賀は倒れる。
朦朧とする視界で振り返る。
「はぁはぁ……やったぞザマァみろ」
アーサーキング。やつれた体や荒れた髪で、以前とは別人のようであったが、間違いない。
「お前のせいだ。お前に会ってから、全部おかしくなったんだ」
たしか、あれからずっと部屋に引きこもっていたはずだが、どういうわけか出てくる気になったらしい。おそらくは、ルーチェやトウカに復讐できないから、弱い自分を狙って逆恨みか八つ当たりをやろうという算段だろう。後腐れや報復のない、ラストチャンスである最終日の、残された少ない時間を狙って。
「うまくいってたんだ。好き放題やって、楽しい気分で毎日……」
跡永賀の居場所を調べるために興信所でも使ったのか、アーサーキングに装備という装備はない。かつての跡永賀同様、棒きれを持っているだけだ。
「それなのに変な女に絡まれて騎士団を追い出されて、残党に混じってあの街に行けばわけわかんねえやつにやられるしよ」
「なにを言って……」
「うるせえ!」
アーサーキングは叩く。容赦なく棒で何度も叩かれた跡永賀は痛みにうめいた。
「お前らみたいな雑魚は、黙ってやられてればいいんだよ。みっともなく噛み付いてきやがって! 死ね! 死んじまえ!」
跡永賀は腕で頭をかばい、体を丸めるが、それでどうにかなるものではない。ステータスは依然として初期のままで、武装は皆無。ジリ貧だ。
「ぷるるう!」
怒りに震えたモモがアーサーキングに体をぶつけるが、「邪魔すんな!」と振り払われる。
「雑魚が束になったってなぁ、何にもならないんだよ!」
バシッと音を立て、アーサーキングはモモを強か叩く。それでおとなしくなったのを見て、再び跡永賀に矛先を向ける。
「ぷるるー!」
どうすることもできない。その情けなさからか悔しさからか、モモはどこへ向けるともなく叫んだ。
叫び、叫んだ。
叫び続けた。
「はっ。ザマあねえな。助けたモンスターも役立たずで、テメエ自身も何もできないときてる。惨めだろ? 惨めだよなぁ。そのまま惨めったらしく死ねゴミクズ!」
ピントの合っていない視界。その隅にある山が動いたように映った。向こうで何かあったのだろうか、と一瞬思ったが、『だから何だ』とすぐに考えるのをやめる。
いよいよ、意識が遠のいてきた。
そろそろヤバい。
手元の〈心つなぐ鍵〉に目をやる。正午までもう少しだが、時間はあるといえばある。ここで自分がやられたら、次に襲われるのはモモだ。こいつは自分から離れようとはしないから、逃げるだろうという期待は持てない。
ここで自分がどうにかしなければ。
「テメエらはなぁ! 踏まれてるのがお似合いなんだよ!」
踏んできた足を跡永賀は掴む。
「……あるんだぞ」
「あ?」
「踏みつけられる奴にも、心はあるんだぞ!」
力任せに掴んだ足を引っ張ると、アーサーキングは尻餅を着いた。そして跡永賀は立ち上がり、それを見下ろす。
それだけだった。
「知るかよ」
腹を棒で突かれ、跡永賀はうめく。その間にアーサーキングは立ち上がり、棒を振りかぶる。
「もいっかい踏みつけられろや」
しかしそれが振り下ろされることはなかった。
「な……に?」
アーサーキングの横っ腹に何かが当たり、男はそのまま岩の壁に埋まったのだ。
身動き一つない。おそらく、即死である。
跡永賀は目の前のものに手をやる。横――はるか地平線の向こうから伸びた丸太のような物体。色は紫であるが、この形と……
ぷに。
質感は……
「お前じゃないよな」
驚いてすっかり泣き止んだモモを見る。
「うおっ」
太いゼリーが跡永賀の頭に乗る。すると言葉が――思念が入ってきた。
――――我ははるか彼方に住まうもの。
「彼方って……山しか見えないけど」
――――それが我だ。
標高何百メートルだよ。跡永賀は唖然とする。スケールが違いすぎる。
――――我はヒトが呼ぶところの帝王級に位置する。
「帝王級って……プルルンの?」
――――ヒトは我らをそう呼ぶようだな。
「それがどうして俺なんかを」
――――女王候補が助けを呼んだのでな。
「……ってことは」
擦り寄ってきたモモを、痛み痺れる腕で抱き上げる。こいつは女王級だったのか。珍しい種類だとは思っていたが、まさか。
――――我らは幼少の女王候補をいくらか野に放つ。そして約束の地に辿り着いたものを女王とする。我はその地を護る責を担っている。
「こいつがその女王で、その命令でってことなのか?」
――――いや。
「だったらなんで」
――――我の気まぐれ――興味の所作だ。ヒトのために助けを乞うものは初めてだったゆえな。ヒトと我らは敵対関係にあるのが常だ。
「そうだな」
――――しかしそれが、我と戦った者の子だったとは……いやはや。
「母さんを知って……というか俺を知っているのか?」
――――何の対策もないヒトの思考や記憶を読むことなど、我には造作もない。もっとも、お前の母はそれでも立ち向かってきたがな。それにしても、山と化した我を見抜いた上で退かず剣を向けるとは。ヒトとは計りがたい生き物よ。
そういえばそんなことを言っていたな。
――――『擬態するモンスターがいてさー』
「ちなみにその時どっちが勝ったんだ?」
――――教えぬ。知りたければここまで来るがいい。そうしたら教えてやってもよい。
「無茶を言うな」
――――そうだな。実力も時間も、お前には足りない。
「ああ……」跡永賀はモモを撫でる。「こいつが女王になるのも見届けられない」
――――また来ればよい。
「またって……あるかわからないだろ、そんなの」
――――では諦めるのか。
「それは……嫌だな」
――――では願え、求めよ。さすれば、開かれる道もあろう。
「そうか……そうだな」
――――また会おう。未熟なるヒトの子よ。
帝王級の腕――とでも呼べばいいのだろうか――が離れていく。それが地平線の向こうへ戻っていくのを、跡永賀は黙って見送った。
「モモ、助けてくれてありがとう」
「ぷるる」
傷からくる痛みを無視し、どうにか笑顔を浮かべる。
「これだけじゃない。お前はたくさん、俺の心を救ってくれた」
ただ共にいるだけで、人は救われる。それだけのこと。しかしなんと尊いことか。
絆。
それすなわち宝。
「ぷるる」
モモも合わせるように、精一杯の笑みを見せる。お互い、傷だらけのみっともない姿だ。それでもどこか誇らしい。不思議な感覚だ。
〈心つなぐ鍵〉に刻まれた残りの時はもう尽きる。
「いつか――いつになるかわからない、けど、絶対に帰ってくる。お前のいる、この世界に」
強く、強く腕の中の命を抱いた。離さないように、忘れないように。力と心を込めて。
「ぷるる」
その声を耳に残し、跡永賀は旅立った。
そしてすべてのプレイヤーが帰還する。
瞬き一つで、また闇の世界。
そこに立つ女性もまた以前の通り。
『これにて〈テスタメント〉オープンβテストを終了します。お疲れ様でした』
相変わらずの無表情で、その女性は頭を垂れた。
「あの……ああ、まずはアンケートですか……?」
『いえ。すでに必要な情報は収集しております』
「あ、そうですか。というか、俺が聞きたいこと、本当はわかるんですよね」
帝王級とはいえ、モンスターが心を読めるのだ、彼女が――彼女たちができない理屈はない。振り返れば、キャラクタークリエイトの時だってそうであった。
『把握は可能です。しかし、だからこそ把握ができないのです』
「は、はぁ」
『ヒトという存在は、思ったことすべてが真実ではありません。矛盾や背反が常にあり、その混沌の中から、その時々の事情で選択する存在がヒトなのです』
「理性と本能……理想と現実みたいなものですかね」
言うなれば、おもちゃ箱なのだろう。たしかに中のおもちゃはすべて知っているが、当人が何で遊ぶかは直前になるまでわからないという。
『その例えは的を射ています』
「あ、どうも」
『そのため、口を通して出てきたものを決定された選択として、真実とするのです』
「そう、ですか。じゃあ……また、このゲーム出来ますか? もちろん、製品として販売するって言うなら、お金は出しますし、またテストするって言うなら、喜んで参加します。もうこの時点で、予約します」
『未定です』
「未定……じゃあ、やるかもしれないんですね」
跡永賀は前向きに受け取ることにした。今までだったら、こんな判断はしなかっただろう。たとえ少しの希望でも、諦めずにすくい取る。きっと昔の自分ではできなかったことだ。
『言葉の解釈はお任せします。我々は存廃の判断を保留している。それだけです』
ただ、と話は続き、
『現時点で、〈テスタメント〉への積極的な支持は、あなたを含めて三九七八四人より頂いています。これは、通常のゲームソフト……あらゆるアプリケーションと比較しても、異常な人気です。この結果を無下にする選択は、通常はありえないでしょう』
「じゃ、じゃあ」
『未定は未定です』
「でも解釈は――期待するのは自由なんですよね」
『仰る通りです』
跡永賀は意図せず、ぐっと拳を握った。達成感とは違う。手を伸ばした先に、光が差したという感じだ。
『以上でよろしいでしょうか』
「あ、じゃあ最後に」
まだまだ色々なことを聞こうと思っていたが、どうしたことか、頭から抜け落ちてしまった。それほどの興味ではなかったということか。欲というのは本当に直前で姿を消す。
なので、
言いたいこと、伝えたいことはただ一つ。
「このゲーム、面白かったです」
『ありがとうございます』
彼女の貴重な微笑みを最後に、少年は帰還した。
「ぷるる?」
何をするでもなく、自分を見下ろしているだけの主人に、モモはどうしていいか困っているようだった。
――――『そんなことしたら辛いぞ』
兄が言いたかったことは、そういうことだったのだ。
何も失わないはずだった。すべて取り戻せるはずだった。
それなのに。
また失う。
この手から離れていく。
「お別れ、なんだ」
しゃがみ、モモと目線を合わせる。このまま何も言わずに消えるのは嫌だった。せめて、告げてから消えよう。知らないまま絆を失くす苦しみは、ここで学んだことだ。
「もうお前とはいられなくなる」
「ぷる……」
言葉を理解したのか、それとも顔から察したのか、モモは涙を浮かべた。
「俺だって別れたくはない。けど、そう決まっていたんだ。始めから……」
皮肉な話だ。あれだけ願った〝終わり〟――帰還なのに、今はもっと、もっと続けばいいと望んでいる。
どうしていつも、失う時になってはじめて、その重要性に気づくのだろう。
〝あって当たり前〟が、どれだけ尊いか。
家族や恋人に始まり、ここでもまた……
「ごめんな」
撫でるなり抱きしめるなりしようと手を伸ばす。
しかし、それが届くことはなかった。
突然の激痛に、跡永賀は倒れる。
朦朧とする視界で振り返る。
「はぁはぁ……やったぞザマァみろ」
アーサーキング。やつれた体や荒れた髪で、以前とは別人のようであったが、間違いない。
「お前のせいだ。お前に会ってから、全部おかしくなったんだ」
たしか、あれからずっと部屋に引きこもっていたはずだが、どういうわけか出てくる気になったらしい。おそらくは、ルーチェやトウカに復讐できないから、弱い自分を狙って逆恨みか八つ当たりをやろうという算段だろう。後腐れや報復のない、ラストチャンスである最終日の、残された少ない時間を狙って。
「うまくいってたんだ。好き放題やって、楽しい気分で毎日……」
跡永賀の居場所を調べるために興信所でも使ったのか、アーサーキングに装備という装備はない。かつての跡永賀同様、棒きれを持っているだけだ。
「それなのに変な女に絡まれて騎士団を追い出されて、残党に混じってあの街に行けばわけわかんねえやつにやられるしよ」
「なにを言って……」
「うるせえ!」
アーサーキングは叩く。容赦なく棒で何度も叩かれた跡永賀は痛みにうめいた。
「お前らみたいな雑魚は、黙ってやられてればいいんだよ。みっともなく噛み付いてきやがって! 死ね! 死んじまえ!」
跡永賀は腕で頭をかばい、体を丸めるが、それでどうにかなるものではない。ステータスは依然として初期のままで、武装は皆無。ジリ貧だ。
「ぷるるう!」
怒りに震えたモモがアーサーキングに体をぶつけるが、「邪魔すんな!」と振り払われる。
「雑魚が束になったってなぁ、何にもならないんだよ!」
バシッと音を立て、アーサーキングはモモを強か叩く。それでおとなしくなったのを見て、再び跡永賀に矛先を向ける。
「ぷるるー!」
どうすることもできない。その情けなさからか悔しさからか、モモはどこへ向けるともなく叫んだ。
叫び、叫んだ。
叫び続けた。
「はっ。ザマあねえな。助けたモンスターも役立たずで、テメエ自身も何もできないときてる。惨めだろ? 惨めだよなぁ。そのまま惨めったらしく死ねゴミクズ!」
ピントの合っていない視界。その隅にある山が動いたように映った。向こうで何かあったのだろうか、と一瞬思ったが、『だから何だ』とすぐに考えるのをやめる。
いよいよ、意識が遠のいてきた。
そろそろヤバい。
手元の〈心つなぐ鍵〉に目をやる。正午までもう少しだが、時間はあるといえばある。ここで自分がやられたら、次に襲われるのはモモだ。こいつは自分から離れようとはしないから、逃げるだろうという期待は持てない。
ここで自分がどうにかしなければ。
「テメエらはなぁ! 踏まれてるのがお似合いなんだよ!」
踏んできた足を跡永賀は掴む。
「……あるんだぞ」
「あ?」
「踏みつけられる奴にも、心はあるんだぞ!」
力任せに掴んだ足を引っ張ると、アーサーキングは尻餅を着いた。そして跡永賀は立ち上がり、それを見下ろす。
それだけだった。
「知るかよ」
腹を棒で突かれ、跡永賀はうめく。その間にアーサーキングは立ち上がり、棒を振りかぶる。
「もいっかい踏みつけられろや」
しかしそれが振り下ろされることはなかった。
「な……に?」
アーサーキングの横っ腹に何かが当たり、男はそのまま岩の壁に埋まったのだ。
身動き一つない。おそらく、即死である。
跡永賀は目の前のものに手をやる。横――はるか地平線の向こうから伸びた丸太のような物体。色は紫であるが、この形と……
ぷに。
質感は……
「お前じゃないよな」
驚いてすっかり泣き止んだモモを見る。
「うおっ」
太いゼリーが跡永賀の頭に乗る。すると言葉が――思念が入ってきた。
――――我ははるか彼方に住まうもの。
「彼方って……山しか見えないけど」
――――それが我だ。
標高何百メートルだよ。跡永賀は唖然とする。スケールが違いすぎる。
――――我はヒトが呼ぶところの帝王級に位置する。
「帝王級って……プルルンの?」
――――ヒトは我らをそう呼ぶようだな。
「それがどうして俺なんかを」
――――女王候補が助けを呼んだのでな。
「……ってことは」
擦り寄ってきたモモを、痛み痺れる腕で抱き上げる。こいつは女王級だったのか。珍しい種類だとは思っていたが、まさか。
――――我らは幼少の女王候補をいくらか野に放つ。そして約束の地に辿り着いたものを女王とする。我はその地を護る責を担っている。
「こいつがその女王で、その命令でってことなのか?」
――――いや。
「だったらなんで」
――――我の気まぐれ――興味の所作だ。ヒトのために助けを乞うものは初めてだったゆえな。ヒトと我らは敵対関係にあるのが常だ。
「そうだな」
――――しかしそれが、我と戦った者の子だったとは……いやはや。
「母さんを知って……というか俺を知っているのか?」
――――何の対策もないヒトの思考や記憶を読むことなど、我には造作もない。もっとも、お前の母はそれでも立ち向かってきたがな。それにしても、山と化した我を見抜いた上で退かず剣を向けるとは。ヒトとは計りがたい生き物よ。
そういえばそんなことを言っていたな。
――――『擬態するモンスターがいてさー』
「ちなみにその時どっちが勝ったんだ?」
――――教えぬ。知りたければここまで来るがいい。そうしたら教えてやってもよい。
「無茶を言うな」
――――そうだな。実力も時間も、お前には足りない。
「ああ……」跡永賀はモモを撫でる。「こいつが女王になるのも見届けられない」
――――また来ればよい。
「またって……あるかわからないだろ、そんなの」
――――では諦めるのか。
「それは……嫌だな」
――――では願え、求めよ。さすれば、開かれる道もあろう。
「そうか……そうだな」
――――また会おう。未熟なるヒトの子よ。
帝王級の腕――とでも呼べばいいのだろうか――が離れていく。それが地平線の向こうへ戻っていくのを、跡永賀は黙って見送った。
「モモ、助けてくれてありがとう」
「ぷるる」
傷からくる痛みを無視し、どうにか笑顔を浮かべる。
「これだけじゃない。お前はたくさん、俺の心を救ってくれた」
ただ共にいるだけで、人は救われる。それだけのこと。しかしなんと尊いことか。
絆。
それすなわち宝。
「ぷるる」
モモも合わせるように、精一杯の笑みを見せる。お互い、傷だらけのみっともない姿だ。それでもどこか誇らしい。不思議な感覚だ。
〈心つなぐ鍵〉に刻まれた残りの時はもう尽きる。
「いつか――いつになるかわからない、けど、絶対に帰ってくる。お前のいる、この世界に」
強く、強く腕の中の命を抱いた。離さないように、忘れないように。力と心を込めて。
「ぷるる」
その声を耳に残し、跡永賀は旅立った。
そしてすべてのプレイヤーが帰還する。
瞬き一つで、また闇の世界。
そこに立つ女性もまた以前の通り。
『これにて〈テスタメント〉オープンβテストを終了します。お疲れ様でした』
相変わらずの無表情で、その女性は頭を垂れた。
「あの……ああ、まずはアンケートですか……?」
『いえ。すでに必要な情報は収集しております』
「あ、そうですか。というか、俺が聞きたいこと、本当はわかるんですよね」
帝王級とはいえ、モンスターが心を読めるのだ、彼女が――彼女たちができない理屈はない。振り返れば、キャラクタークリエイトの時だってそうであった。
『把握は可能です。しかし、だからこそ把握ができないのです』
「は、はぁ」
『ヒトという存在は、思ったことすべてが真実ではありません。矛盾や背反が常にあり、その混沌の中から、その時々の事情で選択する存在がヒトなのです』
「理性と本能……理想と現実みたいなものですかね」
言うなれば、おもちゃ箱なのだろう。たしかに中のおもちゃはすべて知っているが、当人が何で遊ぶかは直前になるまでわからないという。
『その例えは的を射ています』
「あ、どうも」
『そのため、口を通して出てきたものを決定された選択として、真実とするのです』
「そう、ですか。じゃあ……また、このゲーム出来ますか? もちろん、製品として販売するって言うなら、お金は出しますし、またテストするって言うなら、喜んで参加します。もうこの時点で、予約します」
『未定です』
「未定……じゃあ、やるかもしれないんですね」
跡永賀は前向きに受け取ることにした。今までだったら、こんな判断はしなかっただろう。たとえ少しの希望でも、諦めずにすくい取る。きっと昔の自分ではできなかったことだ。
『言葉の解釈はお任せします。我々は存廃の判断を保留している。それだけです』
ただ、と話は続き、
『現時点で、〈テスタメント〉への積極的な支持は、あなたを含めて三九七八四人より頂いています。これは、通常のゲームソフト……あらゆるアプリケーションと比較しても、異常な人気です。この結果を無下にする選択は、通常はありえないでしょう』
「じゃ、じゃあ」
『未定は未定です』
「でも解釈は――期待するのは自由なんですよね」
『仰る通りです』
跡永賀は意図せず、ぐっと拳を握った。達成感とは違う。手を伸ばした先に、光が差したという感じだ。
『以上でよろしいでしょうか』
「あ、じゃあ最後に」
まだまだ色々なことを聞こうと思っていたが、どうしたことか、頭から抜け落ちてしまった。それほどの興味ではなかったということか。欲というのは本当に直前で姿を消す。
なので、
言いたいこと、伝えたいことはただ一つ。
「このゲーム、面白かったです」
『ありがとうございます』
彼女の貴重な微笑みを最後に、少年は帰還した。
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