14 / 56
第2章 受難編
そんな14話 「悪夢」
しおりを挟む
「へッ、なんだなんだぁ? お前はぁ…」
その男は乱暴に私を捕まえると、顔をしかめた。
誰だと顔を見てみれば、鋭い切れ長の目、パーツの揃った端正な顔立ち。
だが、身体は傷だらけで、顔は逆円錐のような骨格をしている。
なんだか刺さりそうなアゴだな…。
"捕まってしまった"という事実より、現実逃避をしたかのように、明後日の感想を抱いた。
「ずいぶん気配をうかがってたみてぇだが…。
どこから入り込んだんだ?」
男が質問してくる。
「………」
返答に詰まり、言葉が出ない。
入り込んだわけじゃない、と言ってみるか?
私は地下倉庫の住人です、って?
いや、初めて上にあがったという意味では、入り込んだといえなくもないか。
とにかく食べ物が、欲しい。
「たべもの…」
思わず口をついて出た言葉を、男は聞き逃さなかった。
「なんだ坊主、食い物が欲しいのか。ちょっと待ってろ」
男は、私を憐れむ目で一瞥し、その場を離れていく。
良かった、何もされなかった。
まず心に浮かんだのは安堵感だった。
地下に逃げるべきだろうか。
いや、それより隠れないと。
だが、近くから漂ってくる濃厚な料理の香りに、私はくぎ付けになっていた。
少しすると、男が戻ってきた。
両手には、いくつかの料理を手掴みで持ってきてくれている。
「あ…、あ、あ…」
思わず声が漏れた。
りょ、料理だ。
硬いパンでも、くず野菜でもない。
香ばしい香りと、重厚な質感、もうずっと見ていなかったような気のする、油。
これは…に、に…。
「坊主は痩せすぎだからな。
肉を食え、肉を」
男がニカッと笑うと、手に持った骨付き肉を渡してきた。
無心で受け取る。
目の前に料理があるという感動が、全身を包んでいる。
一体いつぶりの料理だろうか。
味を想像して、よだれがあふれてくる。
早く食べたい。
少しはしたない私の様子を見た男は「ヘッ」と優し気に笑うと、私の両手いっぱいに肉料理を持たせてくれた。
すぐにでも飛びつきたかったが、ここで食べていれば、いつ誰に見つかるともしれない。
「あり、がとう、ございます」
お礼だけを言って、すぐさま地下に戻った。
走り出した私の背後から「おい、そっちは出口じゃ…」という声が聞こえた気がした。
* * *
部屋に戻った私は、一人パーティーを開いた。
井戸水を用意し、もらった食べ物を倉庫の床に並べた。
彼のチョイスは全て肉料理だった。
立食パーティーを思い出すように、ひとつ摘まんでは床に戻し、続いて骨付き肉も一口かじる。
臭い井戸水で喉を潤せば、涙がこぼれた。
これは何の涙なんだろう、嬉しい? 悲しい?
気が付けば私は、嗚咽を漏らしながら夢中で肉料理を食べていた。
たっぷりと時間をかけて食べ終わり、チキンの骨は地面に穴を掘って隠す。
床に井戸水をぶちまけ、布切れをつけたまま、全身にも水をかける。
臭い、冷たい。
だが、これでいい。
証拠を隠した私は、冷えて震える身体を抱いた。
諦念と絶望にまみれていた私はもういない。
人の尊厳を取り戻した気がしていた。
* * *
まどろみの中で眠りにつこうかという時、外から階段を降りてくる音が聞こえた。
強く踏みしめる足音、リズムにも覚えがない。
その音の数から複数人である事が、うかがい知れた。
──知らない足音だ…。
誰だろう。
身体を起こし、座して待つ。
足音が近づく。
食糧庫やワインセラーに向かっているわけではない。
確実にこちらに向かってきている。
何、誰だよ。
勢いよく扉が開かれ、人影が三人並んだ。
身体が硬直する。
──お、お嬢様…!?
ここに閉じ込められた日を思い出し、身体が震える。
三人の中心人物であるお嬢様は、憤懣やるかたない表情をし、折檻棒のようなものを構えていた。
「…ぎ、ぎぎぎ」
ここまで聞こえてくる歯ぎしり。
「…みすぼらしい姿ですわね…。
なのに…」
あっ、これはまずい。
これから何をされるかを感じ取った私は、身体を縮こまらせた。
「許せませんわぁっ!!」
案の定、にぶい衝撃が身体を襲う。
「うっ…」
衝撃と共にやってくる、じんわりとした痛みに、呻き声を漏らす。
悲鳴はあげない、こういう時に悲鳴をあげると、それが相手を増長させるらしい。
だから、耐えていれば比較的早く終わるはずだ。
でも、痛い! 痛い…!
「あなたの! 何が! そこまで!」
ひたすら折檻され続ける私が感じている痛み。
それが次第に、どこか遠い世界の事のように感じるようになってきた。
脳が痛みを拒否しているのかな。
それなら楽でいいんだけど。
「このっ! 薄汚い雌豚!
雌豚が! 雌豚が!」
お嬢様が何をわめいているのかわからない。
一言発する毎に折檻され、段々と身体が熱を持ってくる。
それにしても、この人は雌豚しか言えないのだろうか。
もっとバリエーションに富んだ罵倒を自慢してきた、とんでもない人物がいた気がする。
確か、私の血縁者だったと思うんだけど…誰だっけ。
「あああああ!!」
お嬢様が金切り声をあげた。
理由はわからないけど、相当に怒っている。
お嬢様は折檻棒を手放し、胸元に隠していたナイフを取り出してきた。
思わず私も目を見開く。
それは、ダメじゃないかな。
刃物は命を簡単に奪えるんだ。
命を簡単に奪える力は、制御して振るわなきゃダメなんだ。
そう教えてくれたのは…誰だっけ。
取り巻きの二人が必死に止めている。
もっと早く止めて欲しかったなぁ。
「くそっ!!」
吐き捨てられた淑女にあるまじきセリフと共に、お嬢様たちは去っていく。
* * *
「はぁ…はぁ…」
嵐が去った。
私の身体が、私の意識下に戻った時、身体中に痛みが走り、息が苦しくなる。
「うぐっ! い、痛いぃ…」
その場にうずくまり、身体を押さえる。
耐えきれない痛みをごまかすように、その場に転がった…。
しばらくして落ち着いてきた私は、命の危険を感じていた。
お嬢様の握ったナイフの輝きを思い出し、背筋が凍る。
そろそろまずいかもしれない…。
またお嬢様がヒステリーを起こせば、何をされるかわかったものではない。
今回は刃物だったが、魔法を使われれば、治らない傷をつけられる可能性もある。
よしんば生き残ったとして、その傷がきっかけで、何らかの病気にかかってしまうかもしれない。
逃げたい…。
ここを逃げ出し、命を守る。
そう考えただけで、なんだか、大それた事をしてしまうような気分になる。
あらためて考えると、この倉庫生活は決して悪くない。
退屈ではあるが、最低限の食事と安全性が保障されている。
一日に一度会うメイドさんは優しいし、ワインセラーの管理人さんにも、ただ見なかった事にされていただけだ。
お嬢様は、私の命まで奪うつもりはないのだと思っていた。
恐らくメイドさんにボロ布を用意させたのは、お嬢様だ。
考えてみれば、一介のメイドが主人の命令に逆らって、そうそう勝手を出来るものではない。
その証拠にお嬢様は、私の着ているボロ布に対して、何も言ってこなかったではないか。
そう考えると、お嬢様には、そこまで残酷になりきれない育ちの良さが伺えた。
…いや、もしかしたら、今日はたまたま頭に血がのぼっていただけかもしれないが…。
それでも、やろうと思えば奴隷に落としたり、見世物にする事も出来たはずだ。
そこまで考えたところで、不思議な事にお嬢様への憎しみは薄まり、この環境を甘んじて受け入れる気になった。
今日の事は偶然だ、と。
…しかし。
今日、命の危険を感じたのは事実。
まだ命を奪われるわけにはいかない。
それに、ナイフで私を傷つければ、お嬢様の経歴にも傷がつく。
──お嬢様…。
今日のお嬢様は、淑女にあるまじき振舞いが目立ち、今までにない危険性を感じた。
次は取り返しのつかない事になるかもしれない。
──でも、逃げる事は難しいんだよなぁ…。
逃げるという選択肢に対して、思案しつつ、おもむろに立ち上がり、倉庫の隅へ向かう。
──まず館内部がわからない。
パーティー会場が近かった事から、恐らく出口も付近にあると思う。
窓でも見つかれば、そこから飛び出すのもいいだろう──。
倉庫の隅に向かってゆっくりと歩き、とあるツボの前に膝まづく。
──上手く館から脱出できたとしても、地理がわからない。
お嬢様が"どこかのお嬢様"である事は知っているが、家柄までは知らない──。
ツボのフタを開ける。
むわっとした臭いが漂う。
──倉庫の中に何か使えるものがないか、探してみるのもいいかもしれない。
とにかく早く逃げ出さないと、お嬢様に、お嬢様が──ウッ…!
身体の熱を感じ、思考が中断されると、ツボに食べた物が入り込む。
「ゲホッ、ゲホッ」
ツンとした酸っぱい臭いが、口や鼻いっぱいに広がり、息苦しさを助長させる。
あーあ、せっかく、いいものを食べたのになぁ…。
そのまま気を失うようにして、私の意識は閉じていった。
* * *
…明晰夢という夢がある。
これは夢である、と自覚している夢の事だ。
その夢の中では、何でも思い通りになる。
空を飛びたいと思えば空を飛び、贅沢がしたいと思えば贅沢ができる。
しかし、私の目の前に広がっている空間は、どちらも叶えられそうになかった。
真っ白い空間。
右も左も。上も下も。全部真っ白だ。
なんだろ"この夢"。
少し戸惑っていると、私の周りに五人の男性が現れた。
全員、顔がぼやけていて、よくわからない。
しかし、彼らは仲間だと直感する。
彼らの向いている方に、目を凝らすと、膝まずくお嬢様と取り巻き2人が現れた。
一目見て、私が優勢である事がわかった。
あのお嬢様達が、私にひざまずいている。
思わず口角が上がった。
「これはいいや、お返しができる」
私がそう言うと、お嬢様は泣きそうな顔で謝ってきた。
謝罪の言葉は耳に届く前に遠くなり、はっきりとは聞き取れない。
だが、雰囲気から「許して」と言っているようではある。
答えはもちろん決まっている。
「やだよ、許さない」
その言葉を皮切りに、男性の一人が大きな握り拳で、お嬢様の頬を殴った。
鈍い音がして、無様に転げまわるお嬢様。
これは痛いだろう。
「あはは、いい気味だ。
君たち、こんな気分だったんだね」
もっといじめてやろう。
そう思っただけで、男達がお嬢様に乱暴を働く。
「やった、これで私は自由だ」
取り巻き二人が泣きながら、私に謝っているようだ。
助けてちょうだい、と懇願している雰囲気だ。
でも。
「ダメだよ、君たちも許さない」
お嬢様に群がっていた男のうち二人が離れ、一人ずつ取り巻きに暴行を始める。
片方はゴリラのような太い腕で、片方はすらっとしたしなやかな腕で。
私は笑顔だった。
終始笑顔で、それをながめ続けた。
そのうち、お嬢様達は何も言わなくなった。
ただ絶望を知ったような、うつろな目で私を見てくる。
その姿が、何だか自分の姿のようで、哀れに思えてきた。
「そろそろ…許してあげようかな?」
軽く口に出してみるが、男達の暴行は止まらない。
「もう、いいよ」
止まらない。
「やめてよ」
止まらない。
「やめろよ! もういいってば!」
止まらない。
やがて眼を覆いたくなるような惨状になった頃、男達は止まった。
「なんで、言う事きかないんだよ…」
思わず、ひざから、くずれ落ちる。
頬には、冷たい雫が流れていた。
お嬢様達は、もう何も言わない。
男達はその場に立ち尽くしている。
明晰夢なのに…。
肩を落としていると、遠くから新たな男が近づいてきた。
男…いや、男というにはあまりに幼い男の子。
彼は、他の男達と違って、見覚えのある顔をしていた。
その子は無表情のまま私に近づき…。
私の頬をはたいた。
「えっ?」
『ダメだよ』
なぜ、私が叩かれたの。
こんな小さな男の子に。
事態の飲み込めない私に、男の子ははっきりと言った。
『キミが道を踏み外したなら、僕が救う』
一瞬、男達の顔がはっきりと見えた──。
その男は乱暴に私を捕まえると、顔をしかめた。
誰だと顔を見てみれば、鋭い切れ長の目、パーツの揃った端正な顔立ち。
だが、身体は傷だらけで、顔は逆円錐のような骨格をしている。
なんだか刺さりそうなアゴだな…。
"捕まってしまった"という事実より、現実逃避をしたかのように、明後日の感想を抱いた。
「ずいぶん気配をうかがってたみてぇだが…。
どこから入り込んだんだ?」
男が質問してくる。
「………」
返答に詰まり、言葉が出ない。
入り込んだわけじゃない、と言ってみるか?
私は地下倉庫の住人です、って?
いや、初めて上にあがったという意味では、入り込んだといえなくもないか。
とにかく食べ物が、欲しい。
「たべもの…」
思わず口をついて出た言葉を、男は聞き逃さなかった。
「なんだ坊主、食い物が欲しいのか。ちょっと待ってろ」
男は、私を憐れむ目で一瞥し、その場を離れていく。
良かった、何もされなかった。
まず心に浮かんだのは安堵感だった。
地下に逃げるべきだろうか。
いや、それより隠れないと。
だが、近くから漂ってくる濃厚な料理の香りに、私はくぎ付けになっていた。
少しすると、男が戻ってきた。
両手には、いくつかの料理を手掴みで持ってきてくれている。
「あ…、あ、あ…」
思わず声が漏れた。
りょ、料理だ。
硬いパンでも、くず野菜でもない。
香ばしい香りと、重厚な質感、もうずっと見ていなかったような気のする、油。
これは…に、に…。
「坊主は痩せすぎだからな。
肉を食え、肉を」
男がニカッと笑うと、手に持った骨付き肉を渡してきた。
無心で受け取る。
目の前に料理があるという感動が、全身を包んでいる。
一体いつぶりの料理だろうか。
味を想像して、よだれがあふれてくる。
早く食べたい。
少しはしたない私の様子を見た男は「ヘッ」と優し気に笑うと、私の両手いっぱいに肉料理を持たせてくれた。
すぐにでも飛びつきたかったが、ここで食べていれば、いつ誰に見つかるともしれない。
「あり、がとう、ございます」
お礼だけを言って、すぐさま地下に戻った。
走り出した私の背後から「おい、そっちは出口じゃ…」という声が聞こえた気がした。
* * *
部屋に戻った私は、一人パーティーを開いた。
井戸水を用意し、もらった食べ物を倉庫の床に並べた。
彼のチョイスは全て肉料理だった。
立食パーティーを思い出すように、ひとつ摘まんでは床に戻し、続いて骨付き肉も一口かじる。
臭い井戸水で喉を潤せば、涙がこぼれた。
これは何の涙なんだろう、嬉しい? 悲しい?
気が付けば私は、嗚咽を漏らしながら夢中で肉料理を食べていた。
たっぷりと時間をかけて食べ終わり、チキンの骨は地面に穴を掘って隠す。
床に井戸水をぶちまけ、布切れをつけたまま、全身にも水をかける。
臭い、冷たい。
だが、これでいい。
証拠を隠した私は、冷えて震える身体を抱いた。
諦念と絶望にまみれていた私はもういない。
人の尊厳を取り戻した気がしていた。
* * *
まどろみの中で眠りにつこうかという時、外から階段を降りてくる音が聞こえた。
強く踏みしめる足音、リズムにも覚えがない。
その音の数から複数人である事が、うかがい知れた。
──知らない足音だ…。
誰だろう。
身体を起こし、座して待つ。
足音が近づく。
食糧庫やワインセラーに向かっているわけではない。
確実にこちらに向かってきている。
何、誰だよ。
勢いよく扉が開かれ、人影が三人並んだ。
身体が硬直する。
──お、お嬢様…!?
ここに閉じ込められた日を思い出し、身体が震える。
三人の中心人物であるお嬢様は、憤懣やるかたない表情をし、折檻棒のようなものを構えていた。
「…ぎ、ぎぎぎ」
ここまで聞こえてくる歯ぎしり。
「…みすぼらしい姿ですわね…。
なのに…」
あっ、これはまずい。
これから何をされるかを感じ取った私は、身体を縮こまらせた。
「許せませんわぁっ!!」
案の定、にぶい衝撃が身体を襲う。
「うっ…」
衝撃と共にやってくる、じんわりとした痛みに、呻き声を漏らす。
悲鳴はあげない、こういう時に悲鳴をあげると、それが相手を増長させるらしい。
だから、耐えていれば比較的早く終わるはずだ。
でも、痛い! 痛い…!
「あなたの! 何が! そこまで!」
ひたすら折檻され続ける私が感じている痛み。
それが次第に、どこか遠い世界の事のように感じるようになってきた。
脳が痛みを拒否しているのかな。
それなら楽でいいんだけど。
「このっ! 薄汚い雌豚!
雌豚が! 雌豚が!」
お嬢様が何をわめいているのかわからない。
一言発する毎に折檻され、段々と身体が熱を持ってくる。
それにしても、この人は雌豚しか言えないのだろうか。
もっとバリエーションに富んだ罵倒を自慢してきた、とんでもない人物がいた気がする。
確か、私の血縁者だったと思うんだけど…誰だっけ。
「あああああ!!」
お嬢様が金切り声をあげた。
理由はわからないけど、相当に怒っている。
お嬢様は折檻棒を手放し、胸元に隠していたナイフを取り出してきた。
思わず私も目を見開く。
それは、ダメじゃないかな。
刃物は命を簡単に奪えるんだ。
命を簡単に奪える力は、制御して振るわなきゃダメなんだ。
そう教えてくれたのは…誰だっけ。
取り巻きの二人が必死に止めている。
もっと早く止めて欲しかったなぁ。
「くそっ!!」
吐き捨てられた淑女にあるまじきセリフと共に、お嬢様たちは去っていく。
* * *
「はぁ…はぁ…」
嵐が去った。
私の身体が、私の意識下に戻った時、身体中に痛みが走り、息が苦しくなる。
「うぐっ! い、痛いぃ…」
その場にうずくまり、身体を押さえる。
耐えきれない痛みをごまかすように、その場に転がった…。
しばらくして落ち着いてきた私は、命の危険を感じていた。
お嬢様の握ったナイフの輝きを思い出し、背筋が凍る。
そろそろまずいかもしれない…。
またお嬢様がヒステリーを起こせば、何をされるかわかったものではない。
今回は刃物だったが、魔法を使われれば、治らない傷をつけられる可能性もある。
よしんば生き残ったとして、その傷がきっかけで、何らかの病気にかかってしまうかもしれない。
逃げたい…。
ここを逃げ出し、命を守る。
そう考えただけで、なんだか、大それた事をしてしまうような気分になる。
あらためて考えると、この倉庫生活は決して悪くない。
退屈ではあるが、最低限の食事と安全性が保障されている。
一日に一度会うメイドさんは優しいし、ワインセラーの管理人さんにも、ただ見なかった事にされていただけだ。
お嬢様は、私の命まで奪うつもりはないのだと思っていた。
恐らくメイドさんにボロ布を用意させたのは、お嬢様だ。
考えてみれば、一介のメイドが主人の命令に逆らって、そうそう勝手を出来るものではない。
その証拠にお嬢様は、私の着ているボロ布に対して、何も言ってこなかったではないか。
そう考えると、お嬢様には、そこまで残酷になりきれない育ちの良さが伺えた。
…いや、もしかしたら、今日はたまたま頭に血がのぼっていただけかもしれないが…。
それでも、やろうと思えば奴隷に落としたり、見世物にする事も出来たはずだ。
そこまで考えたところで、不思議な事にお嬢様への憎しみは薄まり、この環境を甘んじて受け入れる気になった。
今日の事は偶然だ、と。
…しかし。
今日、命の危険を感じたのは事実。
まだ命を奪われるわけにはいかない。
それに、ナイフで私を傷つければ、お嬢様の経歴にも傷がつく。
──お嬢様…。
今日のお嬢様は、淑女にあるまじき振舞いが目立ち、今までにない危険性を感じた。
次は取り返しのつかない事になるかもしれない。
──でも、逃げる事は難しいんだよなぁ…。
逃げるという選択肢に対して、思案しつつ、おもむろに立ち上がり、倉庫の隅へ向かう。
──まず館内部がわからない。
パーティー会場が近かった事から、恐らく出口も付近にあると思う。
窓でも見つかれば、そこから飛び出すのもいいだろう──。
倉庫の隅に向かってゆっくりと歩き、とあるツボの前に膝まづく。
──上手く館から脱出できたとしても、地理がわからない。
お嬢様が"どこかのお嬢様"である事は知っているが、家柄までは知らない──。
ツボのフタを開ける。
むわっとした臭いが漂う。
──倉庫の中に何か使えるものがないか、探してみるのもいいかもしれない。
とにかく早く逃げ出さないと、お嬢様に、お嬢様が──ウッ…!
身体の熱を感じ、思考が中断されると、ツボに食べた物が入り込む。
「ゲホッ、ゲホッ」
ツンとした酸っぱい臭いが、口や鼻いっぱいに広がり、息苦しさを助長させる。
あーあ、せっかく、いいものを食べたのになぁ…。
そのまま気を失うようにして、私の意識は閉じていった。
* * *
…明晰夢という夢がある。
これは夢である、と自覚している夢の事だ。
その夢の中では、何でも思い通りになる。
空を飛びたいと思えば空を飛び、贅沢がしたいと思えば贅沢ができる。
しかし、私の目の前に広がっている空間は、どちらも叶えられそうになかった。
真っ白い空間。
右も左も。上も下も。全部真っ白だ。
なんだろ"この夢"。
少し戸惑っていると、私の周りに五人の男性が現れた。
全員、顔がぼやけていて、よくわからない。
しかし、彼らは仲間だと直感する。
彼らの向いている方に、目を凝らすと、膝まずくお嬢様と取り巻き2人が現れた。
一目見て、私が優勢である事がわかった。
あのお嬢様達が、私にひざまずいている。
思わず口角が上がった。
「これはいいや、お返しができる」
私がそう言うと、お嬢様は泣きそうな顔で謝ってきた。
謝罪の言葉は耳に届く前に遠くなり、はっきりとは聞き取れない。
だが、雰囲気から「許して」と言っているようではある。
答えはもちろん決まっている。
「やだよ、許さない」
その言葉を皮切りに、男性の一人が大きな握り拳で、お嬢様の頬を殴った。
鈍い音がして、無様に転げまわるお嬢様。
これは痛いだろう。
「あはは、いい気味だ。
君たち、こんな気分だったんだね」
もっといじめてやろう。
そう思っただけで、男達がお嬢様に乱暴を働く。
「やった、これで私は自由だ」
取り巻き二人が泣きながら、私に謝っているようだ。
助けてちょうだい、と懇願している雰囲気だ。
でも。
「ダメだよ、君たちも許さない」
お嬢様に群がっていた男のうち二人が離れ、一人ずつ取り巻きに暴行を始める。
片方はゴリラのような太い腕で、片方はすらっとしたしなやかな腕で。
私は笑顔だった。
終始笑顔で、それをながめ続けた。
そのうち、お嬢様達は何も言わなくなった。
ただ絶望を知ったような、うつろな目で私を見てくる。
その姿が、何だか自分の姿のようで、哀れに思えてきた。
「そろそろ…許してあげようかな?」
軽く口に出してみるが、男達の暴行は止まらない。
「もう、いいよ」
止まらない。
「やめてよ」
止まらない。
「やめろよ! もういいってば!」
止まらない。
やがて眼を覆いたくなるような惨状になった頃、男達は止まった。
「なんで、言う事きかないんだよ…」
思わず、ひざから、くずれ落ちる。
頬には、冷たい雫が流れていた。
お嬢様達は、もう何も言わない。
男達はその場に立ち尽くしている。
明晰夢なのに…。
肩を落としていると、遠くから新たな男が近づいてきた。
男…いや、男というにはあまりに幼い男の子。
彼は、他の男達と違って、見覚えのある顔をしていた。
その子は無表情のまま私に近づき…。
私の頬をはたいた。
「えっ?」
『ダメだよ』
なぜ、私が叩かれたの。
こんな小さな男の子に。
事態の飲み込めない私に、男の子ははっきりと言った。
『キミが道を踏み外したなら、僕が救う』
一瞬、男達の顔がはっきりと見えた──。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
悪役令嬢はお断りです
あみにあ
恋愛
あの日、初めて王子を見た瞬間、私は全てを思い出した。
この世界が前世で大好きだった小説と類似している事実を————。
その小説は王子と侍女との切ない恋物語。
そして私はというと……小説に登場する悪役令嬢だった。
侍女に執拗な虐めを繰り返し、最後は断罪されてしまう哀れな令嬢。
このまま進めば断罪コースは確定。
寒い牢屋で孤独に過ごすなんて、そんなの嫌だ。
何とかしないと。
でもせっかく大好きだった小説のストーリー……王子から離れ見られないのは悲しい。
そう思い飛び出した言葉が、王子の護衛騎士へ志願することだった。
剣も持ったことのない温室育ちの令嬢が
女の騎士がいないこの世界で、初の女騎士になるべく奮闘していきます。
そんな小説の世界に転生した令嬢の恋物語。
●表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_)
●毎日21時更新(サクサク進みます)
●全四部構成:133話完結+おまけ(2021年4月2日 21時完結)
(第一章16話完結/第二章44話完結/第三章78話完結/第四章133話で完結)。
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる