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第2章 受難編

そんな14話 「悪夢」

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「へッ、なんだなんだぁ? お前はぁ…」

 その男は乱暴に私を捕まえると、顔をしかめた。

 誰だと顔を見てみれば、鋭い切れ長の目、パーツの揃った端正な顔立ち。
 だが、身体は傷だらけで、顔は逆円錐のような骨格をしている。

 なんだか刺さりそうなアゴだな…。

 "捕まってしまった"という事実より、現実逃避をしたかのように、明後日の感想を抱いた。

「ずいぶん気配をうかがってたみてぇだが…。
 どこから入り込んだんだ?」

 男が質問してくる。

「………」

 返答に詰まり、言葉が出ない。

 入り込んだわけじゃない、と言ってみるか?
 私は地下倉庫の住人です、って?
 いや、初めて上にあがったという意味では、入り込んだといえなくもないか。
 とにかく食べ物が、欲しい。

「たべもの…」

 思わず口をついて出た言葉を、男は聞き逃さなかった。

「なんだ坊主、食い物が欲しいのか。ちょっと待ってろ」

 男は、私を憐れむ目で一瞥いちべつし、その場を離れていく。

 良かった、何もされなかった。

 まず心に浮かんだのは安堵感だった。
 地下に逃げるべきだろうか。
 いや、それより隠れないと。

 だが、近くから漂ってくる濃厚な料理の香りに、私はくぎ付けになっていた。

 少しすると、男が戻ってきた。
 両手には、いくつかの料理を手掴みで持ってきてくれている。

「あ…、あ、あ…」

 思わず声が漏れた。

 りょ、料理だ。
 硬いパンでも、くず野菜でもない。
 香ばしい香りと、重厚な質感、もうずっと見ていなかったような気のする、油。
 これは…に、に…。

「坊主は痩せすぎだからな。
 肉を食え、肉を」

 男がニカッと笑うと、手に持った骨付き肉を渡してきた。
 無心で受け取る。
 目の前に料理があるという感動が、全身を包んでいる。

 一体いつぶりの料理だろうか。
 味を想像して、よだれがあふれてくる。
 早く食べたい。

 少しはしたない私の様子を見た男は「ヘッ」と優し気に笑うと、私の両手いっぱいに肉料理を持たせてくれた。
 すぐにでも飛びつきたかったが、ここで食べていれば、いつ誰に見つかるともしれない。

「あり、がとう、ございます」

 お礼だけを言って、すぐさま地下に戻った。
 走り出した私の背後から「おい、そっちは出口じゃ…」という声が聞こえた気がした。

 * * *

 部屋に戻った私は、一人パーティーを開いた。
 井戸水を用意し、もらった食べ物を倉庫の床に並べた。
 彼のチョイスは全て肉料理だった。

 立食パーティーを思い出すように、ひとつ摘まんでは床に戻し、続いて骨付き肉も一口かじる。
 臭い井戸水で喉を潤せば、涙がこぼれた。

 これは何の涙なんだろう、嬉しい? 悲しい?

 気が付けば私は、嗚咽おえつを漏らしながら夢中で肉料理を食べていた。

 たっぷりと時間をかけて食べ終わり、チキンの骨は地面に穴を掘って隠す。
 床に井戸水をぶちまけ、布切れをつけたまま、全身にも水をかける。

 臭い、冷たい。
 だが、これでいい。

 証拠を隠した私は、冷えて震える身体を抱いた。
 諦念と絶望にまみれていた私はもういない。
 人の尊厳を取り戻した気がしていた。

 * * *

 まどろみの中で眠りにつこうかという時、外から階段を降りてくる音が聞こえた。
 強く踏みしめる足音、リズムにも覚えがない。
 その音の数から複数人である事が、うかがい知れた。

 ──知らない足音だ…。

 誰だろう。
 身体を起こし、座して待つ。

 足音が近づく。
 食糧庫やワインセラーに向かっているわけではない。
 確実にこちらに向かってきている。

 何、誰だよ。

 勢いよく扉が開かれ、人影が三人並んだ。
 身体が硬直する。

 ──お、お嬢様…!?

 ここに閉じ込められた日を思い出し、身体が震える。
 三人の中心人物であるお嬢様は、憤懣ふんまんやるかたない表情をし、折檻棒せっかんぼうのようなものを構えていた。

「…ぎ、ぎぎぎ」

 ここまで聞こえてくる歯ぎしり。

「…みすぼらしい姿ですわね…。
 なのに…」

 あっ、これはまずい。
 これから何をされるかを感じ取った私は、身体を縮こまらせた。

「許せませんわぁっ!!」

 案の定、にぶい衝撃が身体を襲う。

「うっ…」

 衝撃と共にやってくる、じんわりとした痛みに、呻き声を漏らす。
 悲鳴はあげない、こういう時に悲鳴をあげると、それが相手を増長させるらしい。
 だから、耐えていれば比較的早く終わるはずだ。

 でも、痛い! 痛い…!

「あなたの! 何が! そこまで!」

 ひたすら折檻され続ける私が感じている痛み。
 それが次第に、どこか遠い世界の事のように感じるようになってきた。
 脳が痛みを拒否しているのかな。
 それなら楽でいいんだけど。

「このっ! 薄汚い雌豚!
 雌豚が! 雌豚が!」

 お嬢様が何をわめいているのかわからない。
 一言発する毎に折檻され、段々と身体が熱を持ってくる。

 それにしても、この人は雌豚しか言えないのだろうか。
 もっとバリエーションに富んだ罵倒を自慢してきた、とんでもない人物がいた気がする。
 確か、私の血縁者だったと思うんだけど…誰だっけ。

「あああああ!!」

 お嬢様が金切り声をあげた。
 理由はわからないけど、相当に怒っている。

 お嬢様は折檻棒を手放し、胸元に隠していたナイフを取り出してきた。
 思わず私も目を見開く。

 それは、ダメじゃないかな。
 刃物は命を簡単に奪えるんだ。
 命を簡単に奪える力は、制御して振るわなきゃダメなんだ。

 そう教えてくれたのは…誰だっけ。

 取り巻きの二人が必死に止めている。
 もっと早く止めて欲しかったなぁ。

「くそっ!!」

 吐き捨てられた淑女にあるまじきセリフと共に、お嬢様たちは去っていく。

 * * *

「はぁ…はぁ…」

 嵐が去った。
 私の身体が、私の意識下に戻った時、身体中に痛みが走り、息が苦しくなる。

「うぐっ! い、痛いぃ…」

 その場にうずくまり、身体を押さえる。
 耐えきれない痛みをごまかすように、その場に転がった…。

 しばらくして落ち着いてきた私は、命の危険を感じていた。
 お嬢様の握ったナイフの輝きを思い出し、背筋が凍る。

 そろそろまずいかもしれない…。

 またお嬢様がヒステリーを起こせば、何をされるかわかったものではない。
 今回は刃物だったが、魔法を使われれば、治らない傷をつけられる可能性もある。
 よしんば生き残ったとして、その傷がきっかけで、何らかの病気にかかってしまうかもしれない。

 逃げたい…。

 ここを逃げ出し、命を守る。
 そう考えただけで、なんだか、大それた事をしてしまうような気分になる。

 あらためて考えると、この倉庫生活は決して悪くない。
 退屈ではあるが、最低限の食事と安全性が保障されている。

 一日に一度会うメイドさんは優しいし、ワインセラーの管理人さんにも、ただ見なかった事にされていただけだ。
 お嬢様は、私の命まで奪うつもりはないのだと思っていた。

 恐らくメイドさんにボロ布を用意させたのは、お嬢様だ。
 考えてみれば、一介のメイドが主人の命令に逆らって、そうそう勝手を出来るものではない。
 その証拠にお嬢様は、私の着ているボロ布に対して、何も言ってこなかったではないか。

 そう考えると、お嬢様には、そこまで残酷になりきれない育ちの良さが伺えた。

 …いや、もしかしたら、今日はたまたま頭に血がのぼっていただけかもしれないが…。
 それでも、やろうと思えば奴隷に落としたり、見世物にする事も出来たはずだ。

 そこまで考えたところで、不思議な事にお嬢様への憎しみは薄まり、この環境を甘んじて受け入れる気になった。
 今日の事は偶然だ、と。

 …しかし。

 今日、命の危険を感じたのは事実。
 まだ命を奪われるわけにはいかない。
 それに、ナイフで私を傷つければ、お嬢様の経歴にも傷がつく。

 ──お嬢様…。

 今日のお嬢様は、淑女にあるまじき振舞いが目立ち、今までにない危険性を感じた。
 次は取り返しのつかない事になるかもしれない。

 ──でも、逃げる事は難しいんだよなぁ…。
 
 逃げるという選択肢に対して、思案しつつ、おもむろに立ち上がり、倉庫の隅へ向かう。

 ──まず館内部がわからない。
 パーティー会場が近かった事から、恐らく出口も付近にあると思う。
 窓でも見つかれば、そこから飛び出すのもいいだろう──。

 倉庫の隅に向かってゆっくりと歩き、とあるツボの前に膝まづく。

 ──上手く館から脱出できたとしても、地理がわからない。
 お嬢様が"どこかのお嬢様"である事は知っているが、家柄までは知らない──。

 ツボのフタを開ける。
 むわっとした臭いが漂う。

 ──倉庫の中に何か使えるものがないか、探してみるのもいいかもしれない。
 とにかく早く逃げ出さないと、お嬢様に、お嬢様が──ウッ…!

 身体の熱を感じ、思考が中断されると、ツボに食べた物が入り込む。

「ゲホッ、ゲホッ」

 ツンとした酸っぱい臭いが、口や鼻いっぱいに広がり、息苦しさを助長させる。

 あーあ、せっかく、いいものを食べたのになぁ…。

 そのまま気を失うようにして、私の意識は閉じていった。

 * * *

 …明晰夢めいせきむという夢がある。
 これは夢である、と自覚している夢の事だ。

 その夢の中では、何でも思い通りになる。
 空を飛びたいと思えば空を飛び、贅沢がしたいと思えば贅沢ができる。

 しかし、私の目の前に広がっている空間は、どちらも叶えられそうになかった。

 真っ白い空間。
 右も左も。上も下も。全部真っ白だ。
 なんだろ"この夢"。

 少し戸惑っていると、私の周りに五人の男性が現れた。
 全員、顔がぼやけていて、よくわからない。
 しかし、彼らは仲間だと直感する。

 彼らの向いている方に、目を凝らすと、膝まずくお嬢様と取り巻き2人が現れた。
 一目見て、私が優勢である事がわかった。

 あのお嬢様達が、私にひざまずいている。
 思わず口角が上がった。

「これはいいや、お返しができる」

 私がそう言うと、お嬢様は泣きそうな顔で謝ってきた。
 謝罪の言葉は耳に届く前に遠くなり、はっきりとは聞き取れない。
 だが、雰囲気から「許して」と言っているようではある。

 答えはもちろん決まっている。

「やだよ、許さない」

 その言葉を皮切りに、男性の一人が大きな握り拳で、お嬢様の頬を殴った。
 鈍い音がして、無様に転げまわるお嬢様。
 これは痛いだろう。

「あはは、いい気味だ。
 君たち、こんな気分だったんだね」

 もっといじめてやろう。
 そう思っただけで、男達がお嬢様に乱暴を働く。

「やった、これで私は自由だ」

 取り巻き二人が泣きながら、私に謝っているようだ。
 助けてちょうだい、と懇願こんがんしている雰囲気だ。

 でも。

「ダメだよ、君たちも許さない」

 お嬢様に群がっていた男のうち二人が離れ、一人ずつ取り巻きに暴行を始める。
 片方はゴリラのような太い腕で、片方はすらっとしたしなやかな腕で。

 私は笑顔だった。
 終始笑顔で、それをながめ続けた。

 そのうち、お嬢様達は何も言わなくなった。
 ただ絶望を知ったような、うつろな目で私を見てくる。

 その姿が、何だか自分の姿のようで、哀れに思えてきた。

「そろそろ…許してあげようかな?」

 軽く口に出してみるが、男達の暴行は止まらない。

「もう、いいよ」

 止まらない。

「やめてよ」

 止まらない。

「やめろよ! もういいってば!」

 止まらない。

 やがて眼を覆いたくなるような惨状になった頃、男達は止まった。

「なんで、言う事きかないんだよ…」

 思わず、ひざから、くずれ落ちる。
 頬には、冷たい雫が流れていた。

 お嬢様達は、もう何も言わない。
 男達はその場に立ち尽くしている。

 明晰夢なのに…。

 肩を落としていると、遠くから新たな男が近づいてきた。
 男…いや、男というにはあまりに幼い男の子。
 彼は、他の男達と違って、見覚えのある顔をしていた。

 その子は無表情のまま私に近づき…。

 私の頬をはたいた。

「えっ?」

『ダメだよ』

 なぜ、私が叩かれたの。
 こんな小さな男の子に。

 事態の飲み込めない私に、男の子ははっきりと言った。

『キミが道を踏み外したなら、僕が救う』

 一瞬、男達の顔がはっきりと見えた──。
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