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第一章『脱出篇』
第六話『親と子』 破
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舗装の荒れた山道で、航の身体は土瀝青の断片に枕していた。
生い茂る木々が陽光を遮り、その疎らな隙間を埋めるように鳥の囀り声が降り注いでいる。
そこへ、丁度風が吹き込むように、遠くから機関音が近付いて来た。
自らの傍らに停止する自動車に、航は気付かない。
気を失った彼は、下車して近寄る人影に構わず夢を見続けている。
それは大切な欠片が零れ落ち、飴細工の様に砕け散ろうとしている、昔日の記憶……。
⦿⦿⦿
今や本人もよく覚えていない事実であるが、岬守航は元々廣坂航という名前だった。
物心付く前、幼稚園児の時に両親が離婚したのだ。
理由は、両親の過去にあった。
航の両親は幼馴染であったが、中学時代に母親の岬守湊が受けていたいじめを切掛に、父親の廣坂任が心の拠所となる形で距離を縮めて、二十代で結婚した。
だが、実はこれが父親によるマッチポンプであったと判明し、夫婦関係は愛情の前提を失って破綻した。
当時、幼馴染に思いを寄せていた父親は、中学へ進級して疎遠になったことに危機感を覚え、知り合いを通じて強引なやり方でアプローチをしたのだった。
母親は当時、自殺を考える程に追い詰められており、父親はそれを知らずに軽く考えてしまい、後に夫婦だけでなく息子にも禍根を残す言葉を言い放ってしまった。
『別に、よくある話だろ? 好きな子にちょっかい掛けるなんてさ。昔は色々あっても、今が円満ならそれでいいじゃないか。もう済んだ事だろう』
こうして夫に愛想を尽かした母は息子を引き取って離婚し、子の名前は岬守航となった。
⦿
航が両親離婚の理由を知ったのは、小学校高学年の時のことだった。
彼はずっと母親が自分に愛情を抱いていないと感じていた。
実際、円満だった頃の両親は「任」と「湊」から「航」という名前を付けたくらいに思い入れを注いでいたのだから、反動で元夫の存在がちらつく息子への愛情が冷めてしまうのは仕方の無い話であった。
「お母さんは、あの時見舞いに来てくれなかったよね」
母親の刺々しい言葉から口論になった際に投げ掛けた積年の不満が切掛だった。
岬守航となって間もない頃、麗真魅琴からの返り討ちによって入院した六歳の頃、母親は全く病室に訪れなかった。
航の中で、それがずっと心に引っかかっていたのだ。
「あの時は貴方が先に手を出したって聞いたわ。どうして偉そうに私を責めるの?」
「それは……ちゃんと仲直りしたよ」
「関係無いでしょ。可愛い女の子だからって悪戯しようとした、傷付けてやろうと思ったのよ貴方は。そういうところがあの人にそっくり」
「何を……言っているの? もう四年も前のことだよ、済んだことだよ」
この言葉が母親の逆鱗に触れた。
「だったらお見舞いの話だって済んだことでしょうが! 言い訳まであの人と同じね! じゃあ十年以上前のいじめは尚のこと水に流せって? 親子揃って、加害者の癖に!!」
「お、お母さん?」
「いじめの加害者なんかに子供を渡す訳には行かないと思って引き受けたけど、もう無理だわ! 何から何まであの人とそっくりなんだもの! 顔も、名前も! 子供を愛するのが親なら、私は貴方の親になんかなれない! 貴方なんか私の子じゃない!!」
母親の発狂は一時の錯乱ではなかった。
彼女はその後、航にこう告げた。
「もう貴方を息子として愛せません。親としての義務は果たします。最低限の養育はしてあげます。一応、高校までは行っても良いでしょう。そこから先の貴方の人生は知りません。大学に行きたければお金は自分で稼ぎなさい。私は貴方の父親の被害者、貴方は加害者の息子、忘れないことね」
この時、彼女は航の母親ではなく、単なる養育者になった。
航は両親を失い、精神的孤児となったのだ。
⦿
中学へ進級した航は、或る日の放課後に魅琴の家へ招かれた。
麗真家は立派な日本家屋で、門を通されると、脇に小さな庭園が見える。
庭園は一寸した川に囲われ、橋が架けられた先には竹が植えられていた。
「何処を見ているの? 早く上がっていらっしゃい」
庭で立ち止まっていると、魅琴が静かに航を手招いた。
「いや、ごめん。でっかい家だなと思って」
「まあ、そうね」
気後れはしたが、実のところ予想は付いていた。
というのも、航は前日に魅琴から信じ難い提案を受けていたからだ。
この二年前、航は母親から親子関係の破綻を宣告された。
それ以降、彼は小遣いを一円たりとも貰わなくなったのだが、それを聞いた魅琴が自分の貰っている小遣いを半分分けると言い出したのだ。
額を訊くと、月に五万円の半分で二万五千円だという。
さらりと聞かされた破格の小遣いに、流石にそれは出来ないと固辞したした航だったが、かといって小遣い無しも厳しいものがある。
そこで、代替案として魅琴から偶の家事手伝いを頼まれたのだ。
小遣いではなく、駄賃という訳だ。
「とりあえず今日は夕食の準備と片付けを手伝って頂戴。どれくらい料理出来るか、確かめるから」
「お、お手柔らかに頼みます」
家に上げられた航は、長い廊下を魅琴に付いて行く。
すると、不意に襖扉が開いた。
その奥から、枯れ木の様に痩せ細った男が這い出てきた。
「御父様、構わず寝ててって言ったでしょう」
「しかし、折角遊びに来てくれた友達に挨拶も無しというのは失礼だろう」
魅琴に父と呼ばれた男は、如何にも身体が弱そうで、苦しそうに咳き込む姿が痛々しかった。
おそらく、娘の言う通りに寝ていた方が良いのだろう。
しかし、男はか細い身体をのそのそと動かし、航に深く頭を下げた。
「初めまして。魅琴の父、魅弦です。いつも娘がお世話になっております。どうか私に構わず、ゆっくりとしていってくださいね」
「こちらこそ初めまして。岬守航と申します」
航も挨拶を返した。
因みに、魅弦の言葉通り、名目上は航が魅琴の家に遊びに来た、ということになっている。
家事を手伝うのは、序でに彼女から頼まれて、という形である。
咳き込む魅弦の身体を魅琴が抱えた。
「御父様、大丈夫?」
「ああ、済まないね」
航は魅琴と共に、魅弦を部屋の布団の上へと導き、静かに寝かせた。
「悪いけれど、食器を片付けている間、父を看ていてくれない? すぐ戻るから」
「あ、ああ」
おそらく魅弦の食べた後であろう食器を運び、魅琴は部屋から出て行った。
十二畳の和室に、航は魅弦と二人切りとなった。
女子の家に上げてもらい、その父親とこの状況。
しかし魅弦は不思議な雰囲気の持ち主で、シチュエーション程には航を緊張させない。
まじまじと魅弦を見ていると、魅琴は基本的な顔立ちこそ母親似だが、愁いを帯びた眼は父親から受け継がれているように思える。
そんな魅弦は一つ溜息を吐いた。
「あの娘には苦労を掛けてばかりだ。私の様な男には過ぎた娘、特別な強い子だが、その分余計な気苦労まで背負い込みがちなところがある……」
庭の鹿威しが物悲しい音を鳴らす。
遠くを見る魅弦の眼に、その悲哀が馴染んで色濃くなっていく様だった。
それは抗い様の無い運命への諦観にも見えた。
「僕も微力ながら娘さんにお力添えしますよ」
初対面となる幼馴染の親に対し、まるで娘の恋人かの様な口振りだが、魅弦は怒ること無くただ弱々しく笑った。
「ありがとう、と言いたいところだが、屹度あの子は怒るなあ……」
魅弦の言葉は、航には少し不可解に思えた。
魅琴は確かにクールで孤高といった印象の少女だが、そこまで他者の助けを拒むとも思えない。
現に、航に家事の手伝いや父親の看病を頼んでいる。
それともその程度の些事ではなく、もっと重要な局面のことを言っているのだろうか。
ふと、航は壁に掛けられている写真に気が付いた。
軍服を着た若い男と少年が映っている。
若者は長身痩躯でどこか魅弦と似ていたが、鋭い眼光を宿した精悍な顔立ちは彼のイメージとかけ離れていた。
「魅弦さんの御爺様ですか?」
写真の方を向いて訊ねる航だが、魅弦は首を振った。
「ああ、そうだよ」
「では一緒に写っているのが、お父さん?」
「いいや、そっちは祖父の知り合いなんだ」
言われてみれば確かに、少年からは魅弦の面影を感じない。
桜色の髪がどことなく異様な少年だった。
「航、あまり他人の家庭の事を詮索しないでもらえるかしら」
戻ってきた魅琴が不機嫌そうに航を咎めた。
「ごめん」
確かに不躾だった。
航も自分の家の事情を一々問われれば良い気分ではない。
「申し訳御座いませんでした」
「いやいや、私は良いから深刻に受け止めないでおくれ。久々に魅琴以外の人とお話し出来て楽しかったよ」
「御父様、余計な一言が多い。無闇矢鱈と家の事情を話さないでくれる?」
それぞれの家にはそれぞれの事情がある。
航の家庭が虐待同然の状態にあるように、麗真家のそれも一言では表せない複雑なものがありそうだ。
抑も、これだけ資産がありそうな家で、家事代行者を雇わず、娘の魅琴が病弱な父親の面倒を看ているのも奇妙な話である。
しかし、航はこれ以上首を突っ込むのを避けた。
それよりも、自分には自分の出来ることをして魅琴達を助けようと思った。
その為に来たのだと自分に言い聞かせ、航は魅琴と夕食の準備に取りかかった。
⦿
この頃、航は二次性徴真っ盛りである。
すぐ隣では、出会った頃よりもよく育った幼馴染がエプロン姿で料理の支度をしている。
目線を下に遣ると、はち切れんばかりに実った果実が布の下に隠れていると分かる。
こんな状況で何も思わない航ではなく、条件反射の様に口内を満たした固唾を飲み込んだ。
(僕が着けているエプロンも普段は魅琴が着ているのかな?)
邪な想像もまた溢れてくる。
心做しか良い匂いがする様な気もする。
「航?」
「ん? ああ、ごめんごめん」
声を掛けられて、航は我に返った。
「集中しなさい、指切るわよ」
「はい……」
咎められ、口で生返事はしても、二人切りで家事をするという状況は航をどぎまぎさせてしまう。
(嗚呼、そうか……)
航は自分に芽生えた感情を、この時はっきりと自覚した。
自分は彼女のことが好きなのだ、と。
初恋にして、生涯の恋であった。
⦿
準備も終わり、食卓に夕食が並んだ。
航と魅琴、そして魅弦が食卓に着く。
「……多くない?」
「別に、これくらい普通でしょう」
航は山盛りのご飯とおかずに驚いた。
「要らないなら貰うわよ」
「それだけ盛っといてまだ食うのか……」
魅琴の食事量に戸惑う航だったが、誰かと食卓を囲う機会が出来たのは救いだった。
家族団欒は、最早自分と縁の無いものだと思っていたのだから。
「取り敢えず、物覚えも良いし料理の筋は悪くないようね。初日にしては普通に助かったわ」
「まあ簡単なものは家でも作ってるしね。もっと褒めてくれても良いんだよ?」
「そうなの? その割には危なっかしい所もあったけれど。貴方、家庭科の授業真面目に受けていなかったでしょう」
「あ、駄目出しはするのね」
「まあ良いじゃないか、助かったんだろう?」
「刃物や火を扱う以上、言う事は言わせていただきます」
「うーん、確かに目的を考えると孰れは一人で作れるようにならないといけないね。じゃないと魅琴の負担は減らないし」
「あら、良い心掛けね。じゃあこれからレパートリーをガンガン増やしてもらおうかしら。レシピは色々あるし、スパルタで行くから覚悟しておきなさい」
「うへぇ……」
「航君が孰れ独り立ちした時に大きな財産となるだろうね」
「御父様、また余計な一言」
魅琴の料理は抜群だった。
特に、筍は素材が良いのか味も食感も普段食べている物とは比較にならなかった。
「これ、美味しいね」
「家で採れた筍だよ、航君。この時期に収穫しておかないと、後で困るからね」
「ああ、庭園に植えられていた……」
「当然、来年からは航にも手伝ってもらうわ」
そんなにも長く、自分はこの場に入れてもらえるのか――航は魅琴や魅弦の存在に温もりを感じた。
血は繋がっていないが、自分の家よりも家族を感じる一時だった。
しかし、それも然程長くは続かなかった。
生い茂る木々が陽光を遮り、その疎らな隙間を埋めるように鳥の囀り声が降り注いでいる。
そこへ、丁度風が吹き込むように、遠くから機関音が近付いて来た。
自らの傍らに停止する自動車に、航は気付かない。
気を失った彼は、下車して近寄る人影に構わず夢を見続けている。
それは大切な欠片が零れ落ち、飴細工の様に砕け散ろうとしている、昔日の記憶……。
⦿⦿⦿
今や本人もよく覚えていない事実であるが、岬守航は元々廣坂航という名前だった。
物心付く前、幼稚園児の時に両親が離婚したのだ。
理由は、両親の過去にあった。
航の両親は幼馴染であったが、中学時代に母親の岬守湊が受けていたいじめを切掛に、父親の廣坂任が心の拠所となる形で距離を縮めて、二十代で結婚した。
だが、実はこれが父親によるマッチポンプであったと判明し、夫婦関係は愛情の前提を失って破綻した。
当時、幼馴染に思いを寄せていた父親は、中学へ進級して疎遠になったことに危機感を覚え、知り合いを通じて強引なやり方でアプローチをしたのだった。
母親は当時、自殺を考える程に追い詰められており、父親はそれを知らずに軽く考えてしまい、後に夫婦だけでなく息子にも禍根を残す言葉を言い放ってしまった。
『別に、よくある話だろ? 好きな子にちょっかい掛けるなんてさ。昔は色々あっても、今が円満ならそれでいいじゃないか。もう済んだ事だろう』
こうして夫に愛想を尽かした母は息子を引き取って離婚し、子の名前は岬守航となった。
⦿
航が両親離婚の理由を知ったのは、小学校高学年の時のことだった。
彼はずっと母親が自分に愛情を抱いていないと感じていた。
実際、円満だった頃の両親は「任」と「湊」から「航」という名前を付けたくらいに思い入れを注いでいたのだから、反動で元夫の存在がちらつく息子への愛情が冷めてしまうのは仕方の無い話であった。
「お母さんは、あの時見舞いに来てくれなかったよね」
母親の刺々しい言葉から口論になった際に投げ掛けた積年の不満が切掛だった。
岬守航となって間もない頃、麗真魅琴からの返り討ちによって入院した六歳の頃、母親は全く病室に訪れなかった。
航の中で、それがずっと心に引っかかっていたのだ。
「あの時は貴方が先に手を出したって聞いたわ。どうして偉そうに私を責めるの?」
「それは……ちゃんと仲直りしたよ」
「関係無いでしょ。可愛い女の子だからって悪戯しようとした、傷付けてやろうと思ったのよ貴方は。そういうところがあの人にそっくり」
「何を……言っているの? もう四年も前のことだよ、済んだことだよ」
この言葉が母親の逆鱗に触れた。
「だったらお見舞いの話だって済んだことでしょうが! 言い訳まであの人と同じね! じゃあ十年以上前のいじめは尚のこと水に流せって? 親子揃って、加害者の癖に!!」
「お、お母さん?」
「いじめの加害者なんかに子供を渡す訳には行かないと思って引き受けたけど、もう無理だわ! 何から何まであの人とそっくりなんだもの! 顔も、名前も! 子供を愛するのが親なら、私は貴方の親になんかなれない! 貴方なんか私の子じゃない!!」
母親の発狂は一時の錯乱ではなかった。
彼女はその後、航にこう告げた。
「もう貴方を息子として愛せません。親としての義務は果たします。最低限の養育はしてあげます。一応、高校までは行っても良いでしょう。そこから先の貴方の人生は知りません。大学に行きたければお金は自分で稼ぎなさい。私は貴方の父親の被害者、貴方は加害者の息子、忘れないことね」
この時、彼女は航の母親ではなく、単なる養育者になった。
航は両親を失い、精神的孤児となったのだ。
⦿
中学へ進級した航は、或る日の放課後に魅琴の家へ招かれた。
麗真家は立派な日本家屋で、門を通されると、脇に小さな庭園が見える。
庭園は一寸した川に囲われ、橋が架けられた先には竹が植えられていた。
「何処を見ているの? 早く上がっていらっしゃい」
庭で立ち止まっていると、魅琴が静かに航を手招いた。
「いや、ごめん。でっかい家だなと思って」
「まあ、そうね」
気後れはしたが、実のところ予想は付いていた。
というのも、航は前日に魅琴から信じ難い提案を受けていたからだ。
この二年前、航は母親から親子関係の破綻を宣告された。
それ以降、彼は小遣いを一円たりとも貰わなくなったのだが、それを聞いた魅琴が自分の貰っている小遣いを半分分けると言い出したのだ。
額を訊くと、月に五万円の半分で二万五千円だという。
さらりと聞かされた破格の小遣いに、流石にそれは出来ないと固辞したした航だったが、かといって小遣い無しも厳しいものがある。
そこで、代替案として魅琴から偶の家事手伝いを頼まれたのだ。
小遣いではなく、駄賃という訳だ。
「とりあえず今日は夕食の準備と片付けを手伝って頂戴。どれくらい料理出来るか、確かめるから」
「お、お手柔らかに頼みます」
家に上げられた航は、長い廊下を魅琴に付いて行く。
すると、不意に襖扉が開いた。
その奥から、枯れ木の様に痩せ細った男が這い出てきた。
「御父様、構わず寝ててって言ったでしょう」
「しかし、折角遊びに来てくれた友達に挨拶も無しというのは失礼だろう」
魅琴に父と呼ばれた男は、如何にも身体が弱そうで、苦しそうに咳き込む姿が痛々しかった。
おそらく、娘の言う通りに寝ていた方が良いのだろう。
しかし、男はか細い身体をのそのそと動かし、航に深く頭を下げた。
「初めまして。魅琴の父、魅弦です。いつも娘がお世話になっております。どうか私に構わず、ゆっくりとしていってくださいね」
「こちらこそ初めまして。岬守航と申します」
航も挨拶を返した。
因みに、魅弦の言葉通り、名目上は航が魅琴の家に遊びに来た、ということになっている。
家事を手伝うのは、序でに彼女から頼まれて、という形である。
咳き込む魅弦の身体を魅琴が抱えた。
「御父様、大丈夫?」
「ああ、済まないね」
航は魅琴と共に、魅弦を部屋の布団の上へと導き、静かに寝かせた。
「悪いけれど、食器を片付けている間、父を看ていてくれない? すぐ戻るから」
「あ、ああ」
おそらく魅弦の食べた後であろう食器を運び、魅琴は部屋から出て行った。
十二畳の和室に、航は魅弦と二人切りとなった。
女子の家に上げてもらい、その父親とこの状況。
しかし魅弦は不思議な雰囲気の持ち主で、シチュエーション程には航を緊張させない。
まじまじと魅弦を見ていると、魅琴は基本的な顔立ちこそ母親似だが、愁いを帯びた眼は父親から受け継がれているように思える。
そんな魅弦は一つ溜息を吐いた。
「あの娘には苦労を掛けてばかりだ。私の様な男には過ぎた娘、特別な強い子だが、その分余計な気苦労まで背負い込みがちなところがある……」
庭の鹿威しが物悲しい音を鳴らす。
遠くを見る魅弦の眼に、その悲哀が馴染んで色濃くなっていく様だった。
それは抗い様の無い運命への諦観にも見えた。
「僕も微力ながら娘さんにお力添えしますよ」
初対面となる幼馴染の親に対し、まるで娘の恋人かの様な口振りだが、魅弦は怒ること無くただ弱々しく笑った。
「ありがとう、と言いたいところだが、屹度あの子は怒るなあ……」
魅弦の言葉は、航には少し不可解に思えた。
魅琴は確かにクールで孤高といった印象の少女だが、そこまで他者の助けを拒むとも思えない。
現に、航に家事の手伝いや父親の看病を頼んでいる。
それともその程度の些事ではなく、もっと重要な局面のことを言っているのだろうか。
ふと、航は壁に掛けられている写真に気が付いた。
軍服を着た若い男と少年が映っている。
若者は長身痩躯でどこか魅弦と似ていたが、鋭い眼光を宿した精悍な顔立ちは彼のイメージとかけ離れていた。
「魅弦さんの御爺様ですか?」
写真の方を向いて訊ねる航だが、魅弦は首を振った。
「ああ、そうだよ」
「では一緒に写っているのが、お父さん?」
「いいや、そっちは祖父の知り合いなんだ」
言われてみれば確かに、少年からは魅弦の面影を感じない。
桜色の髪がどことなく異様な少年だった。
「航、あまり他人の家庭の事を詮索しないでもらえるかしら」
戻ってきた魅琴が不機嫌そうに航を咎めた。
「ごめん」
確かに不躾だった。
航も自分の家の事情を一々問われれば良い気分ではない。
「申し訳御座いませんでした」
「いやいや、私は良いから深刻に受け止めないでおくれ。久々に魅琴以外の人とお話し出来て楽しかったよ」
「御父様、余計な一言が多い。無闇矢鱈と家の事情を話さないでくれる?」
それぞれの家にはそれぞれの事情がある。
航の家庭が虐待同然の状態にあるように、麗真家のそれも一言では表せない複雑なものがありそうだ。
抑も、これだけ資産がありそうな家で、家事代行者を雇わず、娘の魅琴が病弱な父親の面倒を看ているのも奇妙な話である。
しかし、航はこれ以上首を突っ込むのを避けた。
それよりも、自分には自分の出来ることをして魅琴達を助けようと思った。
その為に来たのだと自分に言い聞かせ、航は魅琴と夕食の準備に取りかかった。
⦿
この頃、航は二次性徴真っ盛りである。
すぐ隣では、出会った頃よりもよく育った幼馴染がエプロン姿で料理の支度をしている。
目線を下に遣ると、はち切れんばかりに実った果実が布の下に隠れていると分かる。
こんな状況で何も思わない航ではなく、条件反射の様に口内を満たした固唾を飲み込んだ。
(僕が着けているエプロンも普段は魅琴が着ているのかな?)
邪な想像もまた溢れてくる。
心做しか良い匂いがする様な気もする。
「航?」
「ん? ああ、ごめんごめん」
声を掛けられて、航は我に返った。
「集中しなさい、指切るわよ」
「はい……」
咎められ、口で生返事はしても、二人切りで家事をするという状況は航をどぎまぎさせてしまう。
(嗚呼、そうか……)
航は自分に芽生えた感情を、この時はっきりと自覚した。
自分は彼女のことが好きなのだ、と。
初恋にして、生涯の恋であった。
⦿
準備も終わり、食卓に夕食が並んだ。
航と魅琴、そして魅弦が食卓に着く。
「……多くない?」
「別に、これくらい普通でしょう」
航は山盛りのご飯とおかずに驚いた。
「要らないなら貰うわよ」
「それだけ盛っといてまだ食うのか……」
魅琴の食事量に戸惑う航だったが、誰かと食卓を囲う機会が出来たのは救いだった。
家族団欒は、最早自分と縁の無いものだと思っていたのだから。
「取り敢えず、物覚えも良いし料理の筋は悪くないようね。初日にしては普通に助かったわ」
「まあ簡単なものは家でも作ってるしね。もっと褒めてくれても良いんだよ?」
「そうなの? その割には危なっかしい所もあったけれど。貴方、家庭科の授業真面目に受けていなかったでしょう」
「あ、駄目出しはするのね」
「まあ良いじゃないか、助かったんだろう?」
「刃物や火を扱う以上、言う事は言わせていただきます」
「うーん、確かに目的を考えると孰れは一人で作れるようにならないといけないね。じゃないと魅琴の負担は減らないし」
「あら、良い心掛けね。じゃあこれからレパートリーをガンガン増やしてもらおうかしら。レシピは色々あるし、スパルタで行くから覚悟しておきなさい」
「うへぇ……」
「航君が孰れ独り立ちした時に大きな財産となるだろうね」
「御父様、また余計な一言」
魅琴の料理は抜群だった。
特に、筍は素材が良いのか味も食感も普段食べている物とは比較にならなかった。
「これ、美味しいね」
「家で採れた筍だよ、航君。この時期に収穫しておかないと、後で困るからね」
「ああ、庭園に植えられていた……」
「当然、来年からは航にも手伝ってもらうわ」
そんなにも長く、自分はこの場に入れてもらえるのか――航は魅琴や魅弦の存在に温もりを感じた。
血は繋がっていないが、自分の家よりも家族を感じる一時だった。
しかし、それも然程長くは続かなかった。
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