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第一章 異世界のような現実

第十二話 帰る場所

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「ねえ、セイラ」


火曜日のブレイクタイム。マグカップに注いだコーヒーを待つ時間に、声をかけてきたセイラにアヤは質問した。


「バートと同棲してる?」

「うん、してる。あいつがあたしんちに転がり込んできたから、別れるときは追い出すけど」

「まだ喧嘩してるの?」

「あたしが喜ぶと思ったらしくて、クソ不味い手料理出されたから、買ってきた方がマシだって言ったら仲直りどころじゃなくなった」

「……そう」

「なに、誰かと同棲でもするの?」

「え、ううん。だって、会社が用意してくれたマンションだし」

「あー。セキュリティ完備のレディースマンションね。まだあそこ住んでたんだ」

「まだって、いいところだよ?」

「男呼べないから無理。っていうか、アヤ。原因はそれよ」

「え、なに?」

「男作ってそんなマンションとさよならするために、今晩、あたしと飲みに行こう」

「…………」


コーヒーが出来たと合図する機械音が、手を強く握りしめてきたセイラの行動を停止させる。アヤは自分の両手がセイラに握りしめられていることに気づいて、言葉を探すように視線を泳がせた。


「それって、セイラが……」

「あんな男ばっかり相手にしてるからあたしの視野が狭くなってるの。いいわね、アヤ。終わったら速攻迎えに行くから、あ。服は気にしなくていいわ、あたしに任せて」

「…ちょ、待っ…どうしよう。いってしまった…」


脱兎のごとく走り去っていったセイラの後姿を呆然と見つめる。
再度、出来上がったと合図するマグカップを手に取って、いったいどうしたものかとアヤは困ったように口をつけた。


「おまたせ、アヤ。さあ行こう」


むしろ待たせたのはこちらだというのに、セイラは変に高いテンションで腕を組んでくる。


「ねえ、やっぱりバートと仲直りした方がいいんじゃ」

「バート、誰それ。あたしは今フリーなの。バートなんて知らないわ。はい、これ着て、あたしも着替えるから」

「ここで!?」

「何を驚いているのよ。会社のロッカールームにパーティー用のドレス仕込んでないのってアヤくらいなんだから。あたしからしてみれば、そっちのが驚きよ」

「でも、私。行くなんて一言も……な、なに?」

「一度でいいから、アヤの顔。メイクしたかったのよね」


バフっと粉をはたかれて思考が止まる。
一体どこに連れていかれようとしているのかはわからないが、彼氏が三人いる身としては是が非でも断りたい。まだ付き合い始めたばかりで、こういうことはさすがによくないと、アヤは嬉々としてメイクを施してくるセイラに断る決意をにじませる。


「ごめんね」


先にセイラが謝ってきて、嫌な予感がした。


「アヤがこういうの苦手だって知ってるんだけど。でもバートのいる家にも帰りたくないし、少し遊んで気がまぎれたら仲直りする勇気も出るかと思って。男探しって言うのは、まあ置いといたとしても。今日は付き合ってほしい」

「………」

「アヤ、お願い」


潤んだ瞳に勝てるわけもなく、アヤは見事予感的中通りに、男女入り乱れるバーに足を踏み入れていた。窓のない薄暗い店内には妖しい色の間接照明が頭上から降り注ぎ、舐めまわすように好みを探す視線が随所に溢れて、露出度の高いスタッフがお酒を配り歩いている。壁際の半個室になったスペースで、濃厚なキスをしているカップルを見てしまった以上、ここが普通の店ではないことはすぐに察した。


「……はぁ」


「ちょっとお酒とってくるから、ここで待ってて」とセイラが人ごみに消えて三十分。待てど暮らせど彼女は帰ってこない。ずんずん響く重低音の音楽に、身体を密着させて踊っている人たち。バーカウンターが視界に入って、ついでにそこにいる赤いボブの女性が声をかけてきた男性と楽しそうに喋っているのを見つけて、アヤはセイラがもうしばらく戻ってこないことを悟った。


「……帰ってもいいかな」


服は会社のロッカールームに置いてきたから、今日は彼らの住むマンションではなく自分のマンションに帰るつもりでいる。彼らと約束しているわけでもなければ、彼らの家に帰る必要もない。
昨日は浮かれて当然のように帰ってしまったが。よくよく考えれば、あそこは自分の家ではない。それでも「おかえり」と迎え入れてくれた笑顔を思えば、帰る場所をそこに変えたくもなる。


「引っ越すべきなのかなぁ」


気持ちだけで決めていいのであれば、完全に彼らのマンションに移住したい。
それでも躊躇するのは変についた知識のせい。ヘタに一緒に暮らして、うまくいかなかったときに宿無しになる恐怖をどうしても拭いきれない。
現にセイラは彼氏と喧嘩しただけで、帰る場所を失っている。


「ていうか、連絡先も知らないんだった」


職場と家を知っていて、セックスもしてる。
連絡先を知らないことに改めて気付いたのは今日のこと。セイラの勧誘を断り切れそうにないことを伝えようと思ったものの、連絡手段がないことに愕然とした。


「アヤ、楽しんでる?」

「セイラはイイ感じだったね」

「あ、見てた。彼、エドガーっていうの。ねえ、今からあっちで飲もうって誘われてるんだけど、どう?」

「私は遠慮しておく。あまりこういうところ、得意じゃないし」

「え、もう帰るの?」

「明日も仕事だから」

「真面目ね。そういうところがアヤっぽいけど、今夜はありがとう」

「……うん。また明日ね」


「行く場所がなかったらうちに来たらいい」そう言えればよかったのに、言えないのはきっと、自分の心が迷っているせい。三人の住むマンションに引っ越せば、もっと言えないことが増えていくのだろうか。
それもわからない。
それでも今夜は、こういう場所に行ってましたという後ろめたさを見せなくていい場所に帰れることに、どこかホッとしている自分がいる。


「私って……最低」


自己嫌悪に陥りながら眠る夜は最悪な気分がした。
それから、水、木と過ぎて金曜日。生理になったこともあって、自宅と職場の往復だけで過ごしていた。なんとなく、彼らには顔を合わせづらくて会わないように過ごしていたが、同じ会社。
ついに三日目にして、彼らの網に引っかかった。


「懐かしい光景だな」

「…ッ…ランディ。それに…スヲン、ロイも……」


トワイライトに滲む窓を背景にした会議室。全員が会議を終えて帰った後、最後の片づけをしていたその部屋に、ロイとスヲンとランディが顔を見せる。


「アヤ、その顔はどういう意味かな?」

「どう……っ、て」

「浮気でもしてきた?」


スヲンの質問に黙るというのはよくない。目線もそらしてはいけなかったのに、反射的に泳いだ目は元に戻せなくて足先ばかりを見つめたがる。


「アヤ」


ロイの声に予想以上に肩を震わせてしまった。ビクッと身体が硬直して、カタカタと指まで震えている。


「ご…っ…ごめんなさい」


空気に耐え切れなくなって、アヤは地面につくほど頭を下げた。


「謝るってことは、つまり浮気したって意味でいい?」

「違う……そうじゃなくて、あの…ッ…ごめんなさい」

「アヤ、はっきり言わないとわからない」


スヲンとランディの声の低さに顔をあげられない。言葉がうまく出てこなくて、何をどう伝えたらいいのかもわからなかった。


「アヤ」


ロイの声だけが優しい。


「顔をあげて、こっちを見て」

「…ッ…ぁ」

「うん。ちゃんと話を聞くから、おいで」


両手を広げて微笑まれた顔に涙腺がゆるむ。泣くのは卑怯だ。それでも勝手に溢れてしまったものは、もうどうしようもない。
椅子に座るロイに促されるまま、会議室の椅子の一つに腰かけて、キャスターを引き寄せられてロイと対面する。ロイの足の間にそろえた両ひざが埋まって、その上に乗せた両手にロイの手が優しく重なった。涙を押さえて、深呼吸する。


「セイラが、彼氏のバートと喧嘩して……」

「うん。それで?」


そこからは、時系列通りに説明した。
断れずにいかがわしい店に行ったこと、連絡しようと思ったけど後ろめたくて連絡出来なかったこと、それが尾を引いてマンションに足を運べなかったこと。そうしている内に、会うのが怖くなったこと。全部自分で種をまいて、芽吹かせて、咲かせた。


「……それに、生理になってしまって」


一緒にお風呂に入ったり、眠ったりするのも気を使う。食欲もわかないし、気分も塞ぐから、家に帰って横になって眠ってしまうのが一番気楽だった。


「そっか。アヤの話は、それでおしまい?」


至近距離で見つめてくるロイの目に、うなずくアヤの顔が映る。
そして次の瞬間、アヤの唇はロイの手に塞がれて、その首筋を強く噛みつかれ、それから強く抱きしめられた。
恐怖と痛みと安堵が全部いっぺんに押し寄せてきて混乱が涙を浮かべていく。


「あー、まじで腹立つ。どれだけ心配して、どれだけ不安だったか。ボクの気持ち全部ぶつけても足りないくらい腹が立つよ」

「…~~~ぅっ…ロイ、ごめんなさい…」

「お願いだから、アヤ。あまり目が届かないところに行かないで」


あまりに強く抱きしめてくる腕が温かくて安心する。首筋はじんじん痛いのに、それさえも嬉しくてぼろぼろ涙が止まらない。


「あーあー。ロイが全部言っちまった」

「そうだな。それに結構強く噛んでたから、そっちの方が心配になってきた」

「同感」


スヲンとランディもゆっくりと近付いてくる。


「ロイ、アヤがつぶれる。てか、独り占めすんな」

「ランディ、ごめんなさい」

「わかったから、もう泣くな」

「スヲンもごめんなさい」

「はいはい。お仕置きはとりあえず置いておいて、先に手当てをしよう。首、みせて」


離れないロイの腕の中から、アヤはランディに頭を固定され、スヲンにその首をみせる。すんすんと小さな嗚咽は止まらなかったが、彼らは困ったような息を吐いて、その箇所に唇を押し当てた。


「待って、キスマークならボクもつけたい」

「お前は十分な痕付けただろうが」

「ちょっと、ランディ。引っ張らないで、首、首締まってるから」

「さあ、アヤ。帰ろう」


ランディに連行されるように引きはがされたロイの後に、差し出されたスヲンの手をとって続く。会議室の椅子はそのままにしてしまったが、今日くらいは許されるだろう。
じんじんと痛む首筋に指をそっと這わせてみる。
大きな歯形が指先に触れて、熱をもったように痛くて、それなのに嬉しい。スヲンの手を握りながら、ランディとロイの後ろを歩く。駐車場でランディが運転する車に乗って、帰る場所は、もう一つしかなかった。


「アヤの身体から出るもので汚いとかないんだから、そういうの気にしな…ッ…痛ぁ…ちょっと、スヲン。なんで叩くの」

「少し黙ってろ。アヤ、必要なものはそこにあるから、ゆっくり入っておいで」

「何かあったらすぐ呼べ」


スヲンに頭を撫でられて「うん」と素直に首を縦に振ると、代わりにランディの手がぽんぽんと頭を撫でて去っていく。ロイはまだ何か言いたそうだったが、二人に連れられてリビングへと引っ込んでいった。
洗面兼脱衣所にひとり。鏡と向き合ってみて、随分ひどい顔をしているなと思う。
貧血で青白いし、泣いて目は赤いし、髪はボロボロ。首筋に少し血がついているけど、ロイの歯型はスヲンとランディがつけたキスマークで止血されているらしい。


「……おかえり」


自分で自分にいうと、また少し泣けてくる。
シャツとスカート、ストッキングを脱いでアヤは数日ぶりの巨大風呂を堪能した。
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